第4回 「どこでもない場所」を探しに(S)

2017年04月30日から2017年06月11日まで、千代田区の、アーツ千代田 333メインギャラリー」で、「佐藤直樹個展『秘境の東京、そこで生えている』」が開催されました。板に木炭で植物を描いた作品はおよそ100メートルに及び、展示の方法も類を見ないものでした。そして、今も佐藤さんはこの続きをたんたんと描き続けています。展覧会を一区切りとしたわけではなく、展覧会から何かが始まってしまったということです。本連載は、佐藤さんの展覧会を起点に、文化人類学者の中村寛さんに疑問を投げかけていただき、「絵を描くこと」や「絵を見ること」「人はどうして芸術的なものを欲してしまうのか」など、世界についての様々な疑問について、語っていただく場といたします。

最後の質問にお答えするところから始めたいと思います。

まずデザインの仕事に対して「長らくたずさわってきた」という認識が自分にはありません。「そうは言ってもこれはおまえがデザインしたんじゃないのか」と成果物を突きつけられれば言い逃れできないでしょうし、自分が責任を負ったデザインを最初に世に送り出してから30年くらい経過しているわけですから、個別具体的なことであれば、何もないということはもちろんありません。しかし、それを「デザイン」とか「仕事」とかで括って何か言うことがあるかという話になりますと、なかなか言葉が見つからない、というのが正直なところなのです。

他の方のことはわかりませんが、自分の場合の「デザインの仕事」はあくまで便宜的に発生したものです。つまり「シノギ」です。「シノギ」もなかなかどうしてたいへんなものですから、それはそれで矜持を持たなければ続けられるものではありません。しかし、それをしている最中にそうなのであっても、振り返ってみれば「便宜的に発生したにしては長かったのではないか」といった感想になってしまいます。

デザインと呼ばれているものはある、それはいいもわるいもなくある。自分はデザインが嫌いだ、いっそなくなってしまえばいい、と思ってもなくなるものではない。逆に、デザインが好きで好きでたまらず、素晴らしい大好きなデザインだけに囲まれて生きたい、と思ってもそうでないものともつきあっていかなければならない。自分はその狭間から仕事をスタートさせることになったと感じるのです。

もう少し具体的に書きます。他で書いたことと重複しますが、わたしはへき地教育に興味を持ち、北海道教育大学に通っていました。そして、そこからドロップアウトし、モラトリアム期を延長して、信州大学で教育社会学や言語社会学の勉強を続けます。その後、美学校の菊畑茂久馬絵画教場の門を叩くわけです。飛躍しているように思われるでしょうが、美術は美術で興味を持ち続けており、独学の限界を感じていた時期でもありました。

途中、肉体労働を含むいくつもの仕事を転々としているのですが、要するに、ずっとふらふらしていたのです。そんな時に「美学校に通いながらできる仕事」の募集の貼り紙を目にして飛び込んだのが、まだ黎明期と言っていい時期の、パーソナルコンピュータ関連の編集で人手が必要になっていた翔泳社でした。その翔泳社で求められたのが「デザイン」だった。

他力本願もいいところなのです。反発の対象でしかなかった母親が童画家だったことや、思春期に影響を受けた義兄がデザイナーだったことなど、因果関係の説明として書いておくべきことはあるかもしれません。しかし、気持ちとしては、ずっとそうした「関係性の呪縛」から逃れようとしてきました。

前振りが長くなってしまいましたが、結論から言うと、デザインの仕事と絵を描くことはあまり関係していないように思うのです。10〜15年前くらいからでしょうか、自分で描いたイラストレーションをデザインの仕事に使うようなことを試してみたこともありましたし、デザインの仕事の延長線上で浮上してきた「セントラルイースト東京」(CET/2003-2010)のようなイベントに関わる際には「デザイン」と「アート」の要素を交差させる課題に直面し、その橋渡しのような役割を探っていた時期もありました。しかし、そこに、自らの問題として「絵を描くこと」の居場所を見出すことはありませんでした。

決定的だったのは2011年の東日本大震災直前の出来事でした。その時の、突然やってきたような感覚を忘れることはないと思います。わたしは荻窪を歩いていました。荻窪は、中学生の一時期、崩壊しかかっていた家庭で過ごした場所です。そして、二度とやってくることのない思春期の記憶を呼び覚ます力が、その地形と風景にはありました。気がついた時には40年近くの時を超えて残るいくつかの建物を描いていました。荻窪にあるカフェギャラリー「6次元」のナカムラクニオさんから、ここで何かやらないかというお声がけをいただいたのですが、何かと言われても何をやればいいやらと、周辺を無意味にぶらつき始めたところで、その感覚はやってきました。

描く行為にはどこか子供っぽさがあります。発達心理学の知見を借りずともそれは明らかなことではないでしょうか。一方、デザインは成人としての判断を潜らせなければ世に送り出すことができません。「絵を描くこと」と「デザインすること」を両立させている人というのは、まったくいないわけではないでしょうが、本質のレベルで考えた場合には極めて稀な存在だということになると思います。荻窪の建物を描いている時に何が起こっていたかと言えば、一時的に大人であることから降りていたのだと思います。つまり社会人であることから。そうして、何の見通しもなく、しばらくその行為に没頭していたのです。

震災が起きたのは、荻窪の建物の絵が増え、展示の準備に入っている時期でした。そこに因果関係はないと思っています。しかし、その後、建物から植物へと対象が移っても、人を描こうという気持ちになることはありません。そのうち登場するのでしょうか。いずれにしても、自分で主題を見つけて描いている感じはなく、「描かされている」感覚がずっと続いています。デザイナーを続けてきた自分が、常にどこかで「思春期に影響を受けた義兄」を意識していたとすると、今は「反発の対象でしかなかった母親」と対話しようとしているのかもしれないと思うことがあります。

わたしにとっての「非言語的な視覚表現」の原初には、母親の手の動きがあったのではないか。そんなことを今になって思ったりもしています。子どもを放置しつつ、筆を取っていたその手の動き。今のわたしが描いている絵にしても、確かに「視覚表現」ではあるのですが、最終的にと言ったら変ですけれど、目の見えない人に向けて描こうとしているところがあります。実際、今描いているものは、視覚を失いつつある友人に見てもらうことになっています。

一方、わたしにとって詩のイメージは、おかしな言い方になりますが、「非言語的な言語表現」のようなものかもしれません。それは、字も読めず、耳も聞こえない、そのような人にも届くべきものです。宮沢賢治の詩を、わたしは目で追い、耳で捉えることができます。しかし、それはあくまでも媒介されている途中でのことであって、こちらに届いたと思えた時、それはいったいどこに存在しているのでしょう。

「言語活動の外ではなく、その内に生成する臨界」がその場所なのでしょうか。「向こうから、『ことば』と呼んだらいいのか、『おと』のかたまり、その『きれはし』のようなものが降ってくる経験」も、「臨界」と関係している気がしてなりません。

絵も、絵であるかぎりにおいては、「視覚表現」に留まらないものであってほしいのです。そして、その意味で、自分にはまだ、絵らしい絵は描けていないように思います。

音楽は振動でもありますから、より直接的に、こちらを揺さぶってきます。一切の振動を媒介にしない音楽もあるのでしょうか。言語や視覚表現は、音楽から疎外された何かなのではないかと思うことがあります。疎外された身だからこそ、何とかそこに辿り着く迂回路を探しているのではないか、見果てぬ夢を見続けているのではないか、そんなふうに思うことがよくあります。

「農民芸術概論綱要」は、都市人口が世界の半数を超えてしまった今を賢治が生きていたならば、どのように書いたでしょう。

中村さんがかつて励まされた賢治の言葉は、時代的な背景を遥かに超え、届いています。

そして、中村さん自身、呼応して、「詩」を発生させている。

わたしは、その意味で、賢治の言葉を受け止めながら、発生の「かたち」としては「絵」になっているのかもしれません。と言っても、まだ喃語のようなものに過ぎないのですが。

あまりにもとりとめのない返信になってしまいました。4月まるまる使って「部屋で生えている。」という制作と展示を行います。この往復書簡の始まりは、昨年の「秘境の東京、そこで生えている」がきっかけでした。あれから1年が経ち、あの横長の作品はまだ伸び続けているのですけれど、それとは別に、狭い部屋の中だけで完結する絵を描いています。部屋に足を踏み入れた時に、中村さんが何を思うか、聞かせていただけると嬉しいです。

会場となる「路地と人」のことを、昨年個展をされた吉川陽一郎さんが書かれています。とても好きな文章なので、今回はその引用で終わらせていただこうと思います。

今から104年前、1913年(大正2年)の10月16日から22日まで、この『路地と人』のすぐ近く、東京神田三崎町2番地にある画廊『ヴィナス倶楽部』で『生活社主催第一回油絵展覧会』が開催されました。出品作家は、岸田劉生(22歳)、高村光太郎(30歳)、木村荘八(20歳)、岡本帰一(30歳)の同人4人。当時、多くの人は、画廊のなんたるかもよく知らず、芸術のなんたるかもよくわからず、きっと訪れる人も多くはなかったでしょう。高村光太郎はその3年まえの明治43年、日本で最初の画廊『琅玕堂 ろうかんどう』を、これも近くの神田淡路町1丁目1番地に作り、経営不振でたった1年でやめています。百年後のそんな場所に、画廊でもなく、お店でもなく、何ものとも名づけらないようなスペース『路地と人』はあるのです。百年前の出来たての画廊と同じように、相変わらず多くの人は、その何たるかを知らず、訪れる人もちらほらです。でも私は感じます。私の芸術はここにあると。なぜならば、私のつくるものは、どこでもない場所にあるこそふさわしく、誰かが名づけなければ見えてこないようなものだから。そして、そこからきっと誰かが必要とするものが、生まれるにちがいないと確信しています。

佐藤直樹 拝

2018年4月5日

 

Profile

SIGN_02SATO1961年東京都生まれ。北海道教育大学卒業後、信州大学で教育社会学・言語社会学を学ぶ。美学校菊畑茂久馬絵画教場修了。1994年、『WIRED』日本版創刊にあたりアートディレクターに就任。1998年、アジール・デザイン(現アジール)設立。その後、数多くの雑誌、広告、書籍等を手掛ける。2003~2010年「CENTRAL EAST TOKYO」プロデューサーを経て、2010年よりアートセンター「3331 Arts Chiyoda」デザインディレクター。現在は美学校講師、多摩美術大学教授を務める。画集に『秘境の東京、そこで生えている』(東京キララ社)、著書に『レイアウト、基本の「き」』(グラフィック社)、『無くならない――アートとデザインの間』(晶文社)などがある。 web 


文化人類学者/多摩美術大学准教授/人間学工房代表。一橋大学大学院社会学研究科地球社会研究専攻博士課程修了・博士(社会学)取得。専門領域は文化人類学。アメリカおよび日本を当面のフィールドとして、「周縁」における暴力や社会的痛苦とそれに向き合う文化表現、差別と同化のメカニズム、象徴暴力や権力の問題と非暴力コミュニケーションやメディエーションなどの反暴力の試みのあり方、といったテーマに取り組む。その一方で、《人間学工房》を通じて、さまざまなつくり手たちと文化運動を展開する。著書に『残響のハーレム――ストリートに生きるムスリムたちの声』(共和国、2015年)、編著に『芸術の授業――Behind Creativity』(弘文堂、2016年)、訳書に『アップタウン・キッズ――ニューヨーク・ハーレムの公営団地とストリート文化』(大月書店、2010年)がある。『世界』(岩波書店)の2017年10月号から、連載「〈周縁〉の『小さなアメリカ』」がスタートした。 web

第3回 詩と非言語の関係(N)

2017年04月30日から2017年06月11日まで、千代田区の、アーツ千代田 333メインギャラリー」で、「佐藤直樹個展『秘境の東京、そこで生えている』」が開催されました。板に木炭で植物を描いた作品はおよそ100メートルに及び、展示の方法も類を見ないものでした。そして、今も佐藤さんはこの続きをたんたんと描き続けています。展覧会を一区切りとしたわけではなく、展覧会から何かが始まってしまったということです。本連載は、佐藤さんの展覧会を起点に、文化人類学者の中村寛さんに疑問を投げかけていただき、「絵を描くこと」や「絵を見ること」「人はどうして芸術的なものを欲してしまうのか」など、世界についての様々な疑問について、語っていただく場といたします。

お返事ありがとうございました。

とても誠実な応答に、うれしさを感じながら、同時に畏怖も覚えます。笑いをまじえてごまかすことも、知的アクセサリーで武装することも、「アーティスティック」に奇をてらうこともせず、こんなにも正面から応答を試みてくださるのは、おそろしくありがたいことです。

なにを見ているのか、なにを描いているのか――こちらのそんな素朴で粗野な問いかけに佐藤さんは、植物や鉱石の「外観を」、その「表面を撫でるように見ている」のだ、そしてそれ以外の体内に伝わってきているもの――「音、空気感、疲労」――は、感じてはいるけれど、描くことはないのだ、と書いていました。

どこまでも見たものを描いている、けれども、描いたものは「実際に見たものとはずいぶん違ってしまう」。描かずとも「そのようなものとしてある」ものを描くのは、決してやさしい気持ちからではなく、「動物であることから逃げ出したいような」「動物以外の生態に属し」、ひいては「植物でも」なく「物質ですらなくなったらいい」という願いがあるからで、ある種の確認行為のようなものだとも書いています。

こうした箇所を読むときにも、やはり真っ先に思いつくのは、宮沢賢治の「かまえ」です。

もう間もなくシノドスのサイトに公開される文章にも書いたことですが、ニューヨーク・ハーレムでの僕のフィールドワークの手引きとなったのは、宮沢賢治でした。ハーレムでフィールドワークをはじめたとき、僕は20代後半で、お金も体力も智恵もなく、そしてなによりも思考と行動を支える「背骨」もなく、文字通り「徒手空拳」で、なにをどのようにはじめたらよいのかわからない状態でした。そのときに支えになったのが、賢治の遺した言葉でした。

「わたくしという現象」とともに「明滅し/みんなが同時に感ずるもの」。「ただとにかく記録されたこれらのけしきは/記録されたそのとほりのこのけしきで/それが虚無ならば虚無自身がこのとほりで/ある程度までみんなと共通でもありませう/(すべてがわたくしの中のみんなであるやうに/みんなのおのおののなかのすべてですから)」(宮沢賢治「序」『春と修羅』)

《幻想が向ふから迫つてくるときは/もうにんげんの壊れるときだ》(宮沢賢治「小岩井農場 パート九」『春と修羅』)。

こうした言葉群にどれだけ支えられたことか。

疲れ果てたり、空腹で動けなかったり、倦怠や頭痛に悩まされたりしたとき、向こうから、「ことば」と呼んだらいいのか、「おと」のかたまり、その「きれはし」のようなものが降ってくる経験をしました。このように書くと、どことなく神秘体験をひけらかすようで嫌なのですが、そういう類のものではなく、おそらく多かれ少なかれ誰しもに訪れる、常識的な普通のこととして、そういう経験があったのです。たとえば、次のようなメモが残っています。

この世の最期(おわり)がやって来て/さあもうじきおしまいですよと/やさしい声をかけてくる

私はそれでも驚いて/すこし焦りもしたけれど/これで終ると思ったら/今度はわずかに気持ちが晴れた〔中略〕

私は必死にことばをさがし/ひたすら紙に書きつけるけど/この世の最期の表情を見て/ふしぎに焦りも和らいでゆく

最期を想像できぬ人が/勝利に向けて永遠(とわ)を謳い/託されたものを使い尽くして/敗北を見ずに飛び立った〔後略〕

(「世の果てに」2003年頃のメモより、のちに『ことば、おと、そのきれはし――ニューヨーク、ハーレムのスケッチ』〔私家版、2008年〕所収)

あるいは、こんなデッサン。

憎悪に満ちた頭痛/世界が歪んで見える/それが僕の記憶の原風景だ

イルカは 殺されることで/抗議を繰り返し/人間は 主張することで/互いを殺しあった〔後略〕

(「闇への耐性」、同上)

読み返すと稚拙で、詩にはなっていない。このとき、僕は目撃しているあらゆることを身体に刻み、記憶したいと欲していて、そのためにあらゆることを記録したいと願っていたように思います。「限りなく透明に近づいていくところの意識に流れ込んでくることがらを、そのとおりに書き留めたい。一般論や抽象的思考から始めるのではなく、あるいは初めから(訓練されたとおりの)批判的思考をするのではなく、むしろ常識的感覚を持って物事を見るともなく眺め、それをしつづけることで自身に酔うことなくすべてを冷徹に見据えたい。ちっぽけなエゴが消えたあとには、なにが見えるのか。私のなかに浮かぶ宇宙は、皆のなかの宇宙でもあり、同時に私たちは宇宙の中にいる。人文・社会科学とは『常識』に対して、あるいは自らが置かれている『社会』に対して批判的であることだという、教え込まれたディシプリンを信じて疑わない『知識人』たちのノイズを尻目に、自らの方法をつくり出したい」(2003年頃のメモより)。

しかし、当りまえですが、追い付かないのです。眼のまえには、人びとのこれだけ豊かな語りがあり、仕草があり、表情がある。破裂したような笑いがあり、大まじめな怒号があり、悲痛に満ちた叫びがある。それらのいくつもに折り重なった音と律動とがあり、その背後に、さらに複数の人びとが連なっている。その気配やパルスに気づいているのに、ただ茫然と立ち尽くし、それを記録できずにいることへの後ろめたさ、歯がゆさ、無力感があった。

「現実」は統治不可能なばかりか、あまりに圧倒的で、認識と存在とを食い破る。せめてフィールドノーツに記録したいのに、それすらままならない。カメラやテープレコーダーは、土地柄、あまり使用できない。

だからこそ、単なる客観主義による対象の観察を通り抜けて、「わたくしという現象」を射抜くような冷徹な眼で、起きたことだけでなく、起き得ること、起きたかもしれないことを想像/創造し、記録し、風物として描くことのできた賢治に励まされたのだと思います。

けれども、賢治の真骨頂は、この先にあるように思います。それは、『春と修羅』の「序」の後半にさしかかる部分にあらわれます。

けれどもこれら新生代沖積世の

巨大に明るい時間の集積の中で

正しくうつされた筈のこれらのことばが

わづかその一点にも均しい明暗のうちに

  (あるいは修羅の十億年)

すでにはやくもその組立や質を変じ

しかもわたくしも印刷者も

それを変らないとして感ずることは

傾向としてはあり得ます

けだしわれわれがわれわれの感官や

風景や人物を感ずるやうに

そしてたゞ共通に感ずるだけであるやうに

記録や歴史 あるひは地史といふものも

それのいろいろの論料(データ)といつしよに

 (因果の時空的制約のもとに)

われわれが感じてゐるのに過ぎません

何度読み返しても、身体の内側に立ちすくむような感じを覚えます。記録されたことがらも、それを支える認識も、ことがらの存在そのものも、移り変わっていくという「普遍」への気づきが、このようなかたちで表現されたことに、畏怖の念を覚えるのです。これはただごとじゃないぞ、と。

佐藤さんが描く「そこに生えている」草木は、たしかに、「意味や情報としてあるわけではない」。「そのようなものとしてあることをほんとうにわかっているのかな?」という問いかけは、わかっていないのかもしれない、わかっていないのだろう、ということへの気づきによってもたらされ、それをわかるためには、自分の手足と五感をつかって、既成の文法を離れて探究する以外にないのかもしれません。「unexplored」は「秘境」でもあるけれど、いまだ見ぬ、聞こえぬことがら(the unfathomed)への感触でもあるように思うのです。

ことがらへのそのような認識のありようにひっぱられ、そこを通り抜けていく営みとしての描きつづけるという行為――飾り気なく書かれていますが、その営為は、数万年のヒト(あるいは生命)の歴史に連なることを思い、鳥肌が立ちました。そうした歴史を意識しながら佐藤さんが描いているわけでは必ずしもないだろうし、つねに歴史的に連なろうと意図しているわけでもない(そうですよね?)。しかし、とくに意識しているわけではないことによって、かえって大きな歴史の水脈につらなっている気がします。

佐藤さんとの対談のなかで、原田マハさんも言っていますね。「…遥か昔から、〔人類は〕一度もアートを忘れることはなかった。震災があったり戦争があったり飢饉があったり、いろんなことが人類を痛め続けた、けれどもアートはなくならなかった。(中略)4万年も前の洞窟壁画の時代から駆け抜けて来たんだから」と(原田マハ・佐藤直樹「モダンのあとさき――絵画に類するものをめぐる体験について」『秘境の東京、そこで生えている』〔東京キララ社、2017年〕所収)。

長谷川等伯の松林図も、横山大観の生々流転も、「何らかの要請があった」と佐藤さんは書かれています。同時代ののっぴきならない要請のもとではじめられた営み、「科学的」「分析的」な触れ方とはまた違ったかたちでの応答の仕方、という点で先史時代からのヒトの営みにつらなるのだろうと思いました。

以前に話題にあがった宮沢賢治の「農民芸術概論綱要」、佐藤さんに言われてすぐに読み返しました。こんな言葉がありました。

職業芸術家は一度亡びねばならぬ

誰人もみな芸術家たる感受をなせ

個性の優れる方面に於て各々止むなき表現をなせ

然もめいめいそのときどきの芸術家である

創作自ら湧き起り止むなきときは行為は自づと集中される

そのとき恐らく人々はその生活を保証するだらう

創作止めば彼はふたたび土に起つ

ここには多くの解放された天才がある

個性の異る幾億の天才も併び立つべく斯て地面も天となる

(宮沢賢治「農民芸術概論綱要」)

詩作(心象スケッチ)を手ばなさなかった賢治の生とあわせて読むとき、やはり眩暈をおぼえます。

哲学者ジル・ドゥルーズが、「書くことの問題」について触れた文章のなかで、言語活動の外ではなく、その内に生成する臨界について触れ、「臨界はさまざまな非‐言語的な視覚と聴覚から成っているのだが、それらの視覚と聴覚を可能にしてくれるのはただ言語だけなのである。それゆえ、たとえば言葉の上に立ち上る色彩と音響の効果といった、エクリチュールに固有の絵画と音楽があるのだ」と書いていました。そして、ベケットに触れてこう書き加えています。

ベケットは、「背後に隠れているもの」を見るため、あるいは聴くために、言語活動に「孔を開ける」ことについて語っていた。作家の一人ひとりについて、こう言わねばならぬ――彼は見者であり、聴く人、ただし「見まちがい言いまちがった」人であり、色彩画家にして音楽家なのである、と(ジル・ドゥルーズ〔守中高明・谷昌親訳〕『批評と臨床』)

見まちがいをする見者――これは賢治をはじめとする多くの詩人に共通するのではないか、そして詩人だけでなく、ある種の視覚表現者にも共通するのではないか、さらに言えば、農民や靴職人や漁民やホームレスやサラリーマンや、その他いろいろにカテゴライズされる人びとにも等しく共通するのではないか、そんなことを思うのです。

さて、つらつらと書いてしまいましたが、佐藤さんへの質問です。佐藤さんは、詩と非言語的な視覚表現との関係をどのように捉えているのでしょうか。たとえば、佐藤さんも引用されていた宮沢賢治の詩のどのような部分に惹かれ、非言語的な表現とのあいだにどのようなつながりや差異を認めるのでしょうか。佐藤さんが教育社会学や言語社会学を学んだあとにデザイナーのキャリアを出発させているからこそ、訊いてみたい。

いまひとつ訊いてみたいのは、長らくたずさわってきたデザインの仕事と、いまのようにして確認するように絵を描くこととのあいだには、どのような関係を認めることができるのか、ということです。「個展」というものへの違和感、「自己表現」への違和感を口にされている佐藤さんに尋ねてみたいのです。

長くなりました。お返事、楽しみにお待ちしています!

2018年3月15日

中村寛拝

 

Profile

SIGN_02SATO1961年東京都生まれ。北海道教育大学卒業後、信州大学で教育社会学・言語社会学を学ぶ。美学校菊畑茂久馬絵画教場修了。1994年、『WIRED』日本版創刊にあたりアートディレクターに就任。1998年、アジール・デザイン(現アジール)設立。その後、数多くの雑誌、広告、書籍等を手掛ける。2003~2010年「CENTRAL EAST TOKYO」プロデューサーを経て、2010年よりアートセンター「3331 Arts Chiyoda」デザインディレクター。現在は美学校講師、多摩美術大学教授を務める。画集に『秘境の東京、そこで生えている』(東京キララ社)、著書に『レイアウト、基本の「き」』(グラフィック社)、『無くならない――アートとデザインの間』(晶文社)などがある。 web 


文化人類学者/多摩美術大学准教授/人間学工房代表。一橋大学大学院社会学研究科地球社会研究専攻博士課程修了・博士(社会学)取得。専門領域は文化人類学。アメリカおよび日本を当面のフィールドとして、「周縁」における暴力や社会的痛苦とそれに向き合う文化表現、差別と同化のメカニズム、象徴暴力や権力の問題と非暴力コミュニケーションやメディエーションなどの反暴力の試みのあり方、といったテーマに取り組む。その一方で、《人間学工房》を通じて、さまざまなつくり手たちと文化運動を展開する。著書に『残響のハーレム――ストリートに生きるムスリムたちの声』(共和国、2015年)、編著に『芸術の授業――Behind Creativity』(弘文堂、2016年)、訳書に『アップタウン・キッズ――ニューヨーク・ハーレムの公営団地とストリート文化』(大月書店、2010年)がある。『世界』(岩波書店)の2017年10月号から、連載「〈周縁〉の『小さなアメリカ』」がスタートした。 web