2017年04月30日から2017年06月11日まで、千代田区の、「アーツ千代田 333メインギャラリー」で、「佐藤直樹個展『秘境の東京、そこで生えている』」が開催されました。板に木炭で植物を描いた作品はおよそ100メートルに及び、展示の方法も類を見ないものでした。そして、今も佐藤さんはこの続きをたんたんと描き続けています。展覧会を一区切りとしたわけではなく、展覧会から何かが始まってしまったということです。本連載は、佐藤さんの展覧会を起点に、文化人類学者の中村寛さんに疑問を投げかけていただき、「絵を描くこと」や「絵を見ること」「人はどうして芸術的なものを欲してしまうのか」など、世界についての様々な疑問について、語っていただく場といたします。
最後の質問にお答えするところから始めたいと思います。
まずデザインの仕事に対して「長らくたずさわってきた」という認識が自分にはありません。「そうは言ってもこれはおまえがデザインしたんじゃないのか」と成果物を突きつけられれば言い逃れできないでしょうし、自分が責任を負ったデザインを最初に世に送り出してから30年くらい経過しているわけですから、個別具体的なことであれば、何もないということはもちろんありません。しかし、それを「デザイン」とか「仕事」とかで括って何か言うことがあるかという話になりますと、なかなか言葉が見つからない、というのが正直なところなのです。
他の方のことはわかりませんが、自分の場合の「デザインの仕事」はあくまで便宜的に発生したものです。つまり「シノギ」です。「シノギ」もなかなかどうしてたいへんなものですから、それはそれで矜持を持たなければ続けられるものではありません。しかし、それをしている最中にそうなのであっても、振り返ってみれば「便宜的に発生したにしては長かったのではないか」といった感想になってしまいます。
デザインと呼ばれているものはある、それはいいもわるいもなくある。自分はデザインが嫌いだ、いっそなくなってしまえばいい、と思ってもなくなるものではない。逆に、デザインが好きで好きでたまらず、素晴らしい大好きなデザインだけに囲まれて生きたい、と思ってもそうでないものともつきあっていかなければならない。自分はその狭間から仕事をスタートさせることになったと感じるのです。
もう少し具体的に書きます。他で書いたことと重複しますが、わたしはへき地教育に興味を持ち、北海道教育大学に通っていました。そして、そこからドロップアウトし、モラトリアム期を延長して、信州大学で教育社会学や言語社会学の勉強を続けます。その後、美学校の菊畑茂久馬絵画教場の門を叩くわけです。飛躍しているように思われるでしょうが、美術は美術で興味を持ち続けており、独学の限界を感じていた時期でもありました。
途中、肉体労働を含むいくつもの仕事を転々としているのですが、要するに、ずっとふらふらしていたのです。そんな時に「美学校に通いながらできる仕事」の募集の貼り紙を目にして飛び込んだのが、まだ黎明期と言っていい時期の、パーソナルコンピュータ関連の編集で人手が必要になっていた翔泳社でした。その翔泳社で求められたのが「デザイン」だった。
他力本願もいいところなのです。反発の対象でしかなかった母親が童画家だったことや、思春期に影響を受けた義兄がデザイナーだったことなど、因果関係の説明として書いておくべきことはあるかもしれません。しかし、気持ちとしては、ずっとそうした「関係性の呪縛」から逃れようとしてきました。
前振りが長くなってしまいましたが、結論から言うと、デザインの仕事と絵を描くことはあまり関係していないように思うのです。10〜15年前くらいからでしょうか、自分で描いたイラストレーションをデザインの仕事に使うようなことを試してみたこともありましたし、デザインの仕事の延長線上で浮上してきた「セントラルイースト東京」(CET/2003-2010)のようなイベントに関わる際には「デザイン」と「アート」の要素を交差させる課題に直面し、その橋渡しのような役割を探っていた時期もありました。しかし、そこに、自らの問題として「絵を描くこと」の居場所を見出すことはありませんでした。
決定的だったのは2011年の東日本大震災直前の出来事でした。その時の、突然やってきたような感覚を忘れることはないと思います。わたしは荻窪を歩いていました。荻窪は、中学生の一時期、崩壊しかかっていた家庭で過ごした場所です。そして、二度とやってくることのない思春期の記憶を呼び覚ます力が、その地形と風景にはありました。気がついた時には40年近くの時を超えて残るいくつかの建物を描いていました。荻窪にあるカフェギャラリー「6次元」のナカムラクニオさんから、ここで何かやらないかというお声がけをいただいたのですが、何かと言われても何をやればいいやらと、周辺を無意味にぶらつき始めたところで、その感覚はやってきました。
描く行為にはどこか子供っぽさがあります。発達心理学の知見を借りずともそれは明らかなことではないでしょうか。一方、デザインは成人としての判断を潜らせなければ世に送り出すことができません。「絵を描くこと」と「デザインすること」を両立させている人というのは、まったくいないわけではないでしょうが、本質のレベルで考えた場合には極めて稀な存在だということになる
震災が起きたのは、荻窪の建物の絵が増え、展示の準備に入っている時期でした。そこに因果関係はないと思っています。しかし、その後、建物から植物へと対象が移っても、人を描こうという気持ちになることはありません。そのうち登場するのでしょうか。いずれにしても、自分で主題を見つけて描いている感じはなく、「描かされている」感覚がずっと続いています。デザイナーを続けてきた自分が、常にどこかで「思春期に影響を受けた義兄」を意識していたとすると、今は「反発の対象でしかなかった母親」と対話しようとしているのかもしれないと思うことがあります。
わたしにとっての「非言語的な視覚表現」の原初には、母親の手の動きがあったのではないか。そんなことを今になって思ったりもしています。子どもを放置しつつ、筆を取っていたその手の動き。今のわたしが描いている絵にしても、確かに「視覚表現」ではあるのですが、最終的にと言ったら変ですけれど、目の見えない人に向けて描こうとしているところがあります。実際、今描いているものは、視覚を失いつつある友人に見てもらうことになっています。
一方、わたしにとって詩のイメージは、おかしな言い方になりますが、「非言語的な言語表現」のようなものかもしれません。それは、字も読めず、耳も聞こえない、そのような人にも届くべきものです。宮沢賢治の詩を、わたしは目で追い、耳で捉えることができます。しかし、それはあくまでも媒介されている途中でのことであって、こちらに届いたと思えた時、それはいったいどこに存在しているのでしょう。
「言語活動の外ではなく、その内に生成する臨界」がその場所なのでしょうか。「向こうから、『ことば』と呼んだらいいのか、『おと』のかたまり、その『きれはし』のようなものが降ってくる経験」も、「臨界」と関係している気がしてなりません。
絵も、絵であるかぎりにおいては、「視覚表現」に留まらないものであってほしいのです。そして、その意味で、自分にはまだ、絵らしい絵は描けていないように思います。
音楽は振動でもありますから、より直接的に、こちらを揺さぶってきます。一切の振動を媒介にしない音楽もあるのでしょうか。言語や視覚表現は、音楽から疎外された何かなのではないかと思うことがあります。疎外された身だからこそ、何とかそこに辿り着く迂回路を探しているのではないか、見果てぬ夢を見続けているのではないか、そんなふうに思うことがよくあります。
「農民芸術概論綱要」は、都市人口が世界の半数を超えてしまった今を賢治が生きていたならば、どのように書いたでしょう。
中村さんがかつて励まされた賢治の言葉は、時代的な背景を遥かに超え、届いています。
そして、中村さん自身、呼応して、「詩」を発生させている。
わたしは、その意味で、賢治の言葉を受け止めながら、発生の「かたち」としては「絵」になっているのかもしれません。と言っても、まだ喃語のようなものに過ぎないのですが。
あまりにもとりとめのない返信になってしまいました。4月まるまる使って「部屋で生えている。」という制作と展示を行います。この往復書簡の始まりは、昨年の「秘境の東京、そこで生えている」がきっかけでした。あれから1年が経ち、あの横長の作品はまだ伸び続けているのですけれど、それとは別に、狭い部屋の中だけで完結する絵を描いています。部屋に足を踏み入れた時に、中村さんが何を思うか、聞かせていただけると嬉しいです。
会場となる「路地と人」のことを、昨年個展をされた吉川陽一郎さんが書かれています。とても好きな文章なので、今回はその引用で終わらせていただこうと思います。
今から104年前、1913年(大正2年)の10月16日から22日まで、この『路地と人』のすぐ近く、東京神田三崎町2番地にある画廊『ヴィナス倶楽部』で『生活社主催第一回油絵展覧会』が開催されました。出品作家は、岸田劉生(22歳)、高村光太郎(30歳)、木村荘八(20歳)、岡本帰一(30歳)の同人4人。当時、多くの人は、画廊のなんたるかもよく知らず、芸術のなんたるかもよくわからず、きっと訪れる人も多くはなかったでしょう。高村光太郎はその3年まえの明治43年、日本で最初の画廊『琅玕堂 ろうかんどう』を、これも近くの神田淡路町1丁目1番地に作り、経営不振でたった1年でやめています。百年後のそんな場所に、画廊でもなく、お店でもなく、何ものとも名づけらないようなスペース『路地と人』はあるのです。百年前の出来たての画廊と同じように、相変わらず多くの人は、その何たるかを知らず、訪れる人もちらほらです。でも私は感じます。私の芸術はここにあると。なぜならば、私のつくるものは、どこでもない場所にあるこそふさわしく、誰かが名づけなければ見えてこないようなものだから。そして、そこからきっと誰かが必要とするものが、生まれるにちがいないと確信しています。
佐藤直樹 拝
2018年4月5日
Profile
1961年東京都生まれ。北海道教育大学卒業後、信州大学で教育社会学・言語社会学を学ぶ。美学校菊畑茂久馬絵画教場修了。1994年、『WIRED』日本版創刊にあたりアートディレクターに就任。1998年、アジール・デザイン(現アジール)設立。その後、数多くの雑誌、広告、書籍等を手掛ける。2003~2010年「CENTRAL EAST TOKYO」プロデューサーを経て、2010年よりアートセンター「3331 Arts Chiyoda」デザインディレクター。現在は美学校講師、多摩美術大学教授を務める。画集に『秘境の東京、そこで生えている』(東京キララ社)、著書に『レイアウト、基本の「き」』(グラフィック社)、『無くならない――アートとデザインの間』(晶文社)などがある。 web
文化人類学者/多摩美術大学准教授/人間学工房代表。一橋大学大学院社会学研究科地球社会研究専攻博士課程修了・博士(社会学)取得。専門領域は文化人類学。アメリカおよび日本を当面のフィールドとして、「周縁」における暴力や社会的痛苦とそれに向き合う文化表現、差別と同化のメカニズム、象徴暴力や権力の問題と非暴力コミュニケーションやメディエーションなどの反暴力の試みのあり方、といったテーマに取り組む。その一方で、《人間学工房》を通じて、さまざまなつくり手たちと文化運動を展開する。著書に『残響のハーレム――ストリートに生きるムスリムたちの声』(共和国、2015年)、編著に『芸術の授業――Behind Creativity』(弘文堂、2016年)、訳書に『アップタウン・キッズ――ニューヨーク・ハーレムの公営団地とストリート文化』(大月書店、2010年)がある。『世界』(岩波書店)の2017年10月号から、連載「〈周縁〉の『小さなアメリカ』」がスタートした。 web