セクハラ被害を言語化することはむずかしい。ましてや、それが「よきことをなす人」たちの組織内で起きたときの場合は、さらに複雑な事態となる。そもそも、セクハラはなぜおきるのか。「よきことをなす」ことが、なぜときに加害につながるのか。被害を言語化するのにどうして長い時間が必要になるのか。セクハラをめぐる加害・被害対立の二極化を越え、真に当事者をサポートするための考察。
アカデミー賞授賞式
このところ次々と起きる暴力の話題をどうとらえたらいいのだろう。
アカデミー賞受賞式におけるウイル・スミスの司会者への暴力事件はすでに大きな話題になったのでご存じだろう。ネットのニュースでは、最初「平手打ち」「びんた」という表現で書かれていた。映画制作の現場におけるさまざまな配慮は、21世紀になってから飛躍的に変化している。あらゆる差別に反対するという目的のもとで、ジェンダー・人種・障がいなどの多様性を保つようにさまざまな変化がみられる。2020年にポン・ジュノ監督の『パラサイト』が四冠を受賞したことは、そんな姿勢も影響したのではないかと思う。しかし今回の受賞式の場面をネットニュースで見たとき、すぐに私の頭に浮かんだことは、ああ彼は妻にもDVをふるっているな、ということだった。予想が外れることを願うが、あの反射的ともいえる暴力、その後の放送禁止用語を用いての罵詈雑言は、あの場だけではなく、家族でも起きているだろう。長年実施しているDV加害者プログラムの経験からそう思う。ネット上ではすでに多くの人が、あんなことをされても妻は少しもうれしくない、あれは妻への所有感(自分のもの)が前提となっているのではとコメントしている。おれの持ち物(=妻)をけなしやがって!という怒りは、よく言えばパターナリズムだが、実はDVでは珍しくない光景である。
少し前の時代のテレビドラマには、夫婦で入った飲み屋で妻のことをからかわれた夫が大暴れするという場面がよく登場した。それとアカデミー賞授賞式のウイル・スミスと、どこが違うのだろう。あの事件は、人種差別、フェミニズム、パターナリズムなどのの論点を含んでいる。ネット上に拡散した、たった一枚の写真は実に雄弁である。
映画芸術科学アカデミー(AMPAS)が下した判断は、ウイル・スミスに対して10年間アカデミー賞関連の活動から追放するという厳しいものだった。これまでの流れを考えると、映画業界の理念を守るためには順当な判断だっただろう。ひるがえって、日本映画界の現状がガラパゴス化していることを浮き彫りにしたように思う。
震え上がる芸能界・文学界・出版界の男性たち
日本映画界の男性監督による性加害の問題は、次々と実名・匿名で被害者が名乗り出ている。それに続いて、映画の原作者でもある若手女性作家たちの声明が発表された(「映画界の性暴力・加害の撲滅を」 三浦しをんさんら女性作家18人が声明 | 毎日新聞 (mainichi.jp)。
注目すべきは、映画界だけでなく、出版界のセクハラ根絶についても触れている点だ。これは大きな転換だ。文学界の周辺で起きていた(いる)性暴力、さらには編集者と作家の関係についても考えさせられるからだ。声明に対しては、想像通りの定番のリプが付いていた(クソリプなどという言葉は使いたくない)。男性と女性に分けることに意味があるのか、ポリコレが行き過ぎている、あれは一部のバカがやることだ、女性だって承知の上だったのでは、などなど。
性暴力は加害者のほとんどが男性なので、DVのように女性だって夫を殴るじゃないかという定番の反論は難しい。そうなると匿名の批判者の内容も定型化せざるを得ない。そのせいか。最近は、沈黙しながら台風が過ぎ去るのを待つという男性が増えてきた気がする。
ちょっとわくわくするのは、「ああ、映画界だけで止めといて。文学界(文壇)に飛び火させないで・・・」と祈るような気持ちの男性作家たちを想像するときだ(意地悪くてすみません)。
一連の動きを見て震え上がっている男性作家、男性編集者は少なくないのではないか。つい最近まで文壇の常識として平気でやってきたことが、ひょっとしてセクハラとして摘発・告発されたりするのでは・・・出版社に憧れてバイトにやってきた女性への言動が、セクハラとしてネットで告発されたらどうしよう・・・。
こうやって怯えている男性たちが、出版の世界、文学の世界に誕生したと思うだけで、個人的にはとてもうれしい。今後少し下火になることはあっても、一度点いた火は消せないだろう。
若くて美しい女性編集者が原稿を取りにいくと、男性作家から性的な言動を受ける、時には露骨に性的関係を強いられるといった逸話を、知人の女性編集者から何度も聞いたことがある。彼女たちは、「まあ、過去のことだからね」とさらっと流すのだが、それくらい「ふつう」のことだったのかと思う。
性加害は相手を人間扱いしない
さて、前回まで本連載では、あからさまに権力的なふるまいをしなくても、「よきことをなす」という存在は尊敬の念を抱かせることで必ず権力を帯びてしまうことについて述べてきた。
尊敬、憧れの対象とされることは、仰ぎ見られることによって、意図せずとも勾配関係の中に身を置くことになる。この危険性を、仰ぎ見られる(尊敬される)存在はもっと自覚すべきだろう。危険性とは、権力を手にしていることに無自覚だと、相手の服従を同意であり、時には喜んでいると錯覚してしまうことだ。
尊敬されることは心地よい。バカにされたり軽蔑されるのと正反対だ。だから「俺って偉いんだぞ」「僕ってこんなこともできちゃうんだよ」という思いを、さまざまなかたちで尊敬してくれる女性に対して示していく。もしくは尊敬されている(=自分の言うことを聞くに違いない)ことを少しずつ確認しながら、性的支配を遂行する。
何人もの性加害者の語る言葉を聞いた経験から、彼らは「少しずつ」段階を踏んで実行するのだということがわかった。言うなれば、プロセスそのものが性加害なのだ。
何度も話題にのぼっている監督の言動は、このプロセスが驚くほどわかりやすい。このわかりやすさは、おそらくこれまで何度も成功体験を積み重ねることで、方法が「洗練」されてきたからだろう。もしくは見事なチームプレイが行われていたからだろう。
しかし、そこまでしてやり続ける動因は何だろう。よく言われる「女好き」「異様な性欲」という言葉は無意味だ。それは行為者である監督を動物の地位におとしめることになるからだ。彼を人間扱いする必要がある。そのためには「異様」だとするのではなく、作品の中だけでなく、自らそれを実行したことの責任、女性を人間扱いしなかった責任を取るように求めることだろう。
性加害と子ども虐待、そして独裁者
一つ確かなことは、これまでずっと踏みつけられてきた人ほど、尊敬され仰ぎ見られることを渇望し、それが得られたときに深い快感をおぼえることだ。そして、尊敬されることの裏側にある服従への許可を同意として意訳し、権力を行使したくなるのだ。
仰ぎ見られたことのない女性が、初めて全幅の信頼を置かれ身をゆだねられるのが子どもである。子どもを思い通りにいたぶれば、子どもは泣き、怖れ、怯える。自分の行為が相手に影響を与えたことで力を確認することができる。性加害はもっと直接的に相手に侵入することで、力を確認できるのではないか。この「力の感覚」がどれほど心地よいことか。その延長線上に独裁者の満足感がある気がする。
女性から仰ぎ見られることがそのまま性的行為の同意と解釈する男性があまりに多い。それには幼いころから見聞きするカルチャーが影響しているはずだ。先日の日経新聞の一面広告の「たわわ」問題もそうだ。https://natalie.mu/comic/news/472548
あの広告を見て元気になるのは男性の一部だろう。女性読者を想定していないどころか、不快になる人が多いことを知らないのだろうか。
本音では、アイコン化された短いスカートやはち切れそうな胸の絵柄が「性的対象化」だと思っていないだろう、もしくはそれが何か?と思っているのではないか。あれが問題だと言っているのではない。月曜の新聞に「元気にさせるために」として全面広告が打たれたことを問題視しているのだ。
多くの女性たちは、長年男性たちの視線を内面化し、街中や夜道、電車の中で「性的対象化」されることを前提として生きてきたのである。
それこそ生まれてからずっと、「女性のほうもそれが気持ちいい」という男性の言葉を内面化してきたので、痴漢などの性暴力に遭えば、自分に隙があったからだと女性は自分を責めてきた。ときにはそれを逆手にとって、男性に対する支配の道具にしてきたことも事実だ。しかしそこだけを切り取って、男性の被害者性を強調されてしまう傾向はいかがなものかと思う。
その人がやったことと作品の評価
ひとりの女性作家が、文壇の集まりの席上で、高名な作家からお尻を触られたことについてエッセイに書いた。私はたまたまその文を文芸誌で読み、あの作家が、とひどく驚いたことを覚えている。今回彼女は、実名は挙げずにそのことをtwitterで述べている。エッセイの反応が期待に反してまったくなかったこと、つまり無視されたことに驚いたと書かれている。触られたこともショックだったろうが、この構造は、「よきことをなす」人からのセクハラ被害の常道ともいえる。尊敬される人であればあるほど、周囲はそのことを「なかったこと」のように無視するのだ。
特に、加害者と同じジェンダーである男性はみごとなまでに沈黙を保つ。「それは勘違いだよ」「あなたが敏感すぎるんだよ」「それって思い違いじゃないの」といった言葉を事後的に掛ける人もいないわけじゃないが、ひたすら、なかったことのように聞かなかったようにふるまうのだ。
その作家のファンである男性は、「そのことと書いた作品は無関係だ」と反論する。彼自身考えているのは次のようなことだろう。
「お尻を触ったくらいのことで、騒ぐ必要があるのか。あの偉大な作家を貶めようとでもいいたいのだろうか。そんな誰でもするようなことで、あの偉大な作家の権威が汚されることは避けたい」
その人がどんなことをしようと、作品は独立して評価されるべきという意見があることはわかる。しかし多くの読者にとって、作品と作者を切り離すことはできないのではないか。太宰治の作品と、彼が最後に玉川上水で女性と入水自殺したことは切り離せない。少なくとも高校時代の私は、太宰の遺体が引き上げられる光景の写真を食い入るように見ながら彼の作品を読みふけったのである。
三島由紀夫の割腹自殺と彼の作品は切り離せないからこそ様々な三島由紀夫論が出て、作品の解釈が豊かになるのではないか。石川啄木の作品には娼婦との関係を書いたものが多いが、時代がそうであったとはいえ、お金で女性を買う行為の延長線上にあの血の出るような短歌が生み出されたのだと私は思う。
とすると、あの大作家が、若手女性作家と同席した際、ごくごく自然にお尻に触っていたこと、それもたった一度ではないことと、彼の作品はつながっていると思う。
誤解を防ぐために言うが、性加害者の書いたものはすべて否定するという暴論とは無縁である。作家像が多様性を増せば、それだけ作品の読み方も豊かになるはずだということをお伝えしたい。
個人的経験から思うこと
個人的な経験だが、大勢の前で怒鳴られたことがこれまでで3回ある。回数をおぼえているのは、私自身が他人から怒鳴られた経験がなく育ってきたからだ。それは幸運だったが、言い換えれば怒鳴られることへの耐性を持たなかったともいえる。
いずれも、演者が男性ばかりのシンポジウムや会議の最中だった。紅一点(古い?)の私は、フロアの男性から、時には精神科医から怒鳴られたのである。屈辱を感じると余計に冷静になる癖があるので、表向き平然としていたが、内心はショックで呆然とした。どこかで、同じシンポジストの男性がそのことを問題にしてくれるかという期待があった。しかし彼らは、平気な顔をしながら、何事もなかったかのように議事進行を急いだのである。中には怒鳴った男性に向かってニヤニヤする人までいた。私にとっては、そのことも同じくらいショックだった。
不思議なことに、あまりに「なにごともなかった」ように扱われたために、私自身も「あんなことなんでもなかったんだ」と思おうとしたのである。そうか、あんなことよくあることだから、みんなはふつうに議事進行したんだ、私が感じすぎたんだ、と。
しかしシンポジウム終了後、怒鳴られたことでふらふらになってしまったのだ。
少し余裕ができてから、あの場で私ができたことは何だろうと何度も振り返ってみた。
「おっしゃる内容は理解できますが、そのように怒鳴ることは暴力的ではないのでしょうか。もう少し別の言い方でお話ししてくださいますか」
がんばればそう言えたかもしれない。しかしそれは私の任だったのか。司会者が適切に介入して、私との間をつなぐ必要があったのではないか。もしくは私の方から司会者にそのことを依頼することもできたかもしれない。
私のほうから、相手の調子に合わせて逆襲し啖呵を切ることもできただろう。
「そういう言い方、どうなんですか? それってあなたの言ってることと矛盾しますよね。・・・」
しかし、壇上の私には無理だった。怒鳴られたことで冷静を保つだけでせいいっぱいだった。
終了後、私の傍に寄ってきて「信田さん大丈夫でしたか?」と声を掛けてくれたのは、DV加害者の当事者としてシンポジウムに登壇していた一人の男性だった。「いやあ、こんなこと慣れてますから、だいじょうぶですよ。心配してくれてありがとう!」と答えたのだが、それがどれだけ助けになったことだろう。
彼だけがあのできごとを気に掛けてくれたのである。そのほかの参加者は軽やかに談笑しており、そうやってシンポジウムは無事終了したのだ。
その二年後、彼は、うつ病で自殺したと人づてで聞いた。10年以上前の話だが、怒鳴られたこととセットになった、あの「なかったことにしてスルーする」男性研究者や援助者たちの態度が、今でも忘れられない。私は心の中でつぶやいた、「正体見たり」と。どれだけ非暴力やフェミニスト的言説を紡ごうとも、多様性を掲げて平和を謳おうと、あの時の態度がすべてを物語っている。残念ながら全員男性であるが、彼らを信用できないという思いは今でも変わらない。
戦争と性暴力
高名な作家だけでなく、研究者などによるセクハラ問題はもう挙げるのもいやになるほどだ。女性を性的対象とすることと人間としてかかわることがどのように整合性を持つのかについて、論考を読ませていただきたいとさえ思う。
エティエンヌ・ド・ラ・ボエシの『自発的隷従論』(2013、ちくま学芸文庫)は支配・被支配の構造に関する古典的名著だ。1577年に著された本書は、ボエシが10代後半で書いたものだという。そのことに驚かされるが、それほど長くない論考なのにそこで書かれていることが、21世紀の今、性暴力をめぐる状況と大きくリンクしていることにも驚く。M.フーコーも述べているように、権力・力とは、荒ぶる強制ではなく、性をめぐる常識や、尊敬や正義という価値の下で発生し、結果的に従わざるを得なくなるのだ。
いっぽうで、可視化された国家の暴力を私たちは日々テレビの画面で見ることができる。ロシアのウクライナへの武力侵攻の先は見えないままだが、その対極にあるかに見える性暴力と戦争は深いところでつながっている。「慰安婦」問題に関する数々の論考は、まさにその点をめぐって書かれたものだ。性暴力被害者の声が上がりつつあるのは、ウクライナの問題と大きくリンクしているのではないかと思う。
最後に、前回予告した内容と大きく違ってしまったが、できるだけオンタイムで生起する事象について考えていきたいという私の希望からこうなったことをお伝えしたい。
1946年生まれ。公認心理師・臨床心理士。お茶の水女子大学大学院修士課程修了。1995年に原宿カウンセリングセンター設立、現在は顧問。アルコール依存症、摂食障害、DV、子どもの虐待などに悩む本人や家族へのカウンセリングを行なってきた。『母が重くてたまらない』(春秋社)、『DVと虐待』(医学書院)、『加害者は変われるか?』(筑摩書房)、『家族と国家は共謀する』(KADOKAWA)、『アダルト・チルドレン』(学芸みらい社)、『家族と災厄』(生きのびるブックス)など、著書多数。