セクハラ・性暴力被害を言語化することはむずかしい。ましてや、それが「よきことをなす人」たちの組織内で起きたときの場合は、さらに複雑な事態となる。そもそも、セクハラ・性暴力はなぜおきるのか。「よきことをなす」ことが、なぜときに加害につながるのか。被害を言語化するのにどうして長い時間が必要になるのか。セクハラ・性暴力をめぐる加害・被害対立の二極化を越え、真に当事者をサポートするための考察。
まずはそれを進歩と呼ぶこととして
この文章を書いている今(10月22日)、日本全国で信じられないほど急速にコロナ陽性者数が減少している。二桁にまで感染者数が減った理由はいったいなぜなのか?それに対する医療側からの満足な回答は得られていない。誰でも考えつくような常識の範囲を超える内容ではなく、昨年(2020年)の3月以降、日本の医療への信頼感が崩れる思いをしたのは私だけではないだろう。自然科学や医学がどれほど進歩しようと、まるでSFのように、新たな感染症が今後も我々を襲う危険性は決して無くならないという事実を突き付けられた思いだ。
いっぽうで、人間を対象とした人文科学(臨床心理学や社会学、哲学、文学など)はどうだろう。カウンセラーである私はそのような全体を俯瞰できる立場にないが、この分野も、近年ではエビデンス重視の傾向が強まっていることは確かである。それに加えて、次に述べるような「進歩」とも呼べる状況が生まれている。
21世紀になって児童虐待防止法(2000)、DV防止法(2001)が制定された。この20年のあいだに起きた変化は、臨床心理学の底流を動かすものだったといえる。家族における暴力(子ども虐待、ドメスティック・バイオレンス)が法的に認知され、国や自治体はその防止に努めなければならなくなった。さらに近年ではSDGsについても国際的潮流に伴って積極的に取り組む姿勢を示さなければならなくなった。メディアをとおして国民に浸透しつつあるこの言葉は、10月31日に実施された衆議院選挙における立候補者の政策提言のなかに、ジェンダーという言葉を初めて登場させたのである。
この地点から20世紀までの世界を振り返ってみれば、家族や職場が、そして公共空間が、どれほど多くの差別と暴力に満ちていたかが逆に照射されるだろう。人口の約半数を占める女性たちが、今でこそ暴力と名付けることができるが、それまでは耐えるべき、あたりまえ、思いやりだ、ありがたいとして多くの行為を受け入れざるを得なかったのだ。殴られたり、一段低く見られたり、女だからとして差別されてきたひとたちが、それは差別であり、暴力であり、私は被害を受けたのだと言えるようになった。つい最近も、女性というだけで都立高校や医大の入試で差別されていたことも明るみに出たが、おそらく暗黙のうちに当然のこととして行われていたのだろう。あからさまな男性優位的、女性蔑視的発言は、即座にSNSで炎上するようになった。
親ガチャという言葉が流行しているが、女に生まれたというどうしようもない事実は、ジェンダーガチャと言ってもいいだろう。ある地域に生まれ育つことで生じる差別も含めて、本人の責任ではないのに、理不尽に差別される人たちが少しずつ減少する方向に政策や制度が変わりつつあるとするならば、私はそれを進歩と呼びたい。家族という閉鎖的空間において、人間扱いされなかったり、殺されそうな人たちが、そこから逃れる可能性が少し生まれたことを、同じく私は進歩だと思う。
このような流れは自然現象のように生じたわけではない。それこそ長い長い時間をかけて、多くの先人たちが理不尽な扱いに対して異議申し立てをしてきたからである。社会的ムーブメントとして、草の根的な運動として声を挙げるひとたちの存在が、このような変化を生み出したことを忘れたくはない。さらに、それらを研究し学知へと抽象化することで女性学やジェンダー学が誕生した。フェミニズムとは、このような背景を持っており、この視点を抜きにした家族の暴力へのアプローチは、何かが足りないとさえ思う。近年のエビデンス重視の方法論は、ジェンダー的視点を脱色することで成立していることを指摘しておきたい。
二項対立はあくまでプロセスに過ぎない
私の50年近いカウンセラーとしての実践は、僭越ながらこのような流れの一翼を担ってきたのではないかと自負している。しかしこのところ私が危惧していることがある。
それは、先進諸国の理論や著書に倣いその成果を尊重するあまり、未消化のままにスローガン的にそれを取り入れてしまうことだ。コピペのようにお定まりのカタカナ言葉を連呼すれば、それが正しい行動になるという傾向に対して抵抗感をおぼえる。
モラハラという言葉の流通や、エンパワメント、レジリエンスといったカタカナ言葉は、これまでの手あかにまみれた言葉を一掃する効果をもたらすが、いっぽうでその内実を地道に積み上げないと、声高で表面的なものになりかねない。
そのような被害者の権利主張は、往々にして加害者批判・非難・敵視につながる。被害者対加害者の構図は、それがなかった時代、つまり被害などと認知されなかった時代に比べれば格段の進歩なのだが、二項対立はあくまでプロセスに過ぎないことを自覚しなければならないと思う。そのような射程を持たなければ、いたずらに対立構造を煽り、そこから抜け出ることができなくなってしまうだろう。周囲からの共感もなかなか得られないはずだ。
2001年に『DVと虐待』を著した。当時まだDV防止法が制定されていなかったが、私の基本的姿勢は、子どもの虐待を視野に入れ、被害と加害の錯綜を前提とした複雑な力関係を視野に入れなければ、DV被害者支援はできないというものだった。それから20年が過ぎ、DVの被害者支援は微々たる進化を遂げているが、上記の私の問題意識とは程遠い現実のままである。いっぽうで新たにハラスメントという言葉が登場し、20年前のDVと同じような扱いを受けつつある。つまりある種の正邪論の装いとともに、ハラッサー(ハラスメント加害者)は悪である、加害者にならないようにするにはどうしたらいいのか、といった広がりを見せている。一部の地方自治体では、ハラスメント防止講座の受講が管理職にとって必須となっており、いったい何をしてはいけないのかを学ぶことで、ある種の怯えすら生じている。
○○という行為はパワハラになる、△△という発言はセクハラになるといった具体例とともに解説されたハラスメント防止対策の指針は、今や組織の中で生きていくために必要不可欠な態度を示すものである。
このような一般企業や団体、地方自治体に徹底しつつあるハラスメント防止の方針が、届かない世界がある。それは非営利であり、理念を掲げた組織や団体である。たとえば福祉や医療、教育、マスコミなどは、ある種の社会正義が存在基盤に埋め込まれているため、そもそもがハラスメントとは無縁であると考えられている。極論すれば、そこに所属しているだけでハラスメントや暴力とは無縁であるという免罪符を手にすることになる。外からのイメージは、「あんなすばらしいことをしている団体」「正しいことを行っている組織」という一種の偶像化や理想化に満ちているため、内部の人たちもいつのまにか自分たちが「よきことをなす」存在であり、ハラスメントや暴力などとは無縁であり、組織内にそんなものは存在しないという錯覚をするようになる。
コロナ禍が与えた影響のひとつが、このような団体におけるハラスメント、中でもセクハラの表面化だった。そのことが、本連載のきっかけをつくったといってもいい。
「よきことをなす人」たちのセクハラ事件
2020年緊急事態宣言が発出された直後から、次々とネット上でのセクハラの告発が相次いだ。
具体的に挙げてみよう。2020年6月、東京豊島区にある「べてぶくろ」の元スタッフがnoteに性被害を投稿した。これは大きな反響を呼び、週刊誌報道にもつながった。2020年11月には社会福祉法人「グロー」の理事長に対するセクハラ訴訟が起きた。12月には札幌の教諭による25年以上前にあった性暴力に対するセクハラ認定(東京高裁)、2021年3月NPO法人soarにおけるセクハラによる理事解任声明、2021年7月東京シューレ理事会による性暴力加害事件に対する声明(★2022年8月2日削除。本連載第6回もご参照ください)へと続く。
これらは#MeTooの流れや2017年伊藤詩織さんによる元TBSの山口敬之氏への告訴、2018年フォトジャーナリスト広河隆一氏に対する性被害の告発といった流れに続くものだろう。
しかし昨年からの告発は、加害者とされた人たちは社会福祉や教師、NPO法人といった社会的に「よきことをなす」はずの団体に所属していた。セクハラとは程遠い、いやそれとは真逆の、マイノリティである人たちの援助といった人権や社会的正義を守ることを使命とする人たちなのである。
芸能人や政治家といった社会的に名の知れた人たちをセクハラで訴えることは、大きな話題を呼ぶことは間違いない。告発者のプライバシーが保護されれば、加害者とされたひとは大きなダメージを被るだろう。それまでの社会的地位を失いかねない。
しかしよきことをなす人たちに対するセクハラの告発は、もっと複雑なダメージを与える。それは加害者と名指されたひとだけではない。その団体を信奉し、その団体と理念を共有する人たちも同様な影響を被る。「よきことをなす」の「よき」という判断の基準が揺らぐことで、加害を指摘された人が所属する組織全体が揺らいでしまうことになる。そうならないために、さまざまな駆け引きや工夫がなされることは想像に難くない。ダメージを最低限にとどめるために、多くの場合とかげのしっぽを切るように、一部の人に責任を押し付けて幕引きがされる。そのような幕引きで果たして十分なのだろうか。それで事足れりとさせないようにしたい、そう思っている。
それは被害者にとっても不十分な結果だろう。よきことをなす人からのセクハラ被害は、短くても3年という長きにわたって苦しんだ末に告発されているのだ。この点を強調したい。その長い時間を知って、多くのひとたちは「これは捏造ではないか」「どうしてもっと早く訴えなかったのか」「こんな昔のことを引っ張り出すなんて、悪意があるのでは」と考えがちだ。それがなぜなのか、どうしてここまで時間がかかるのか、そのあたりの仕組みについて説明が必要だろう。多くの人が納得しなければ、いつまで経っても被害者へのバッシングはなくならないし、被害者自身がそのことで二次的三次的に被害を受けることにもなる。
なぜここまで長い時間を要するのかについて、被害者の中で起きていることを私なりに説明したいと思った。
緊急事態宣言発出後、インターネットという媒体をとおした告発(匿名の)が大きな力を持つようになったことが、告発を後押しすることになったのかもしれないとも思う。
私はこれまでDVや虐待など家族の暴力について発言したり書いたりしてきた。所長を引退したあとも、オンラインでDV被害者とAC(アダルト・チルドレン)の女性たちのグループカウンセリングを継続中である。またNPO法人主催のDV加害者プログラムにもかかわっている。家族におけるDVや虐待などについては、著書をとおしてある程度書きつくした感もある。
しかしセクハラについては、どうにも言葉にならないものがあった。それが2020年以降のコロナ禍にあって、多くの被害者の言葉を聞くことで徐々に言語化できるようになった。
このように書いてくると、よくあるセクハラ加害者告発の連載かと思われるかもしれないが、それは違う。被害者の経験を精緻に聞き、そこから見えてくる「加害者」を描くことは、二項対立的で単純な世界から一歩踏み出すことを意味するからだ。加害者ってひどいよね、ほんとに人間じゃないよね、と片付けてしまうことに私は興味はない。
加害者=悪といった正邪論が優勢となれば、それと反比例して、反フェミバッシングや「被害捏造論」も大きくなるだろう。そのような対立構造、加害・被害の二極化を避けなければと思う。本連載を始めようと思ったのは、そんな動機からである。
何より必要なことは、被害を受けたひとたちの言葉を聞くことである。私が納得いくように聞くのだが、それは押しつけではなく、その人たちの責任の無さをどのように言語化するかという試みなのだ。
目の前に座り語るひとたちの言葉を聞くことは、どのように聞くか、聞いたことをどのように言語化するかとセットになっている。そして私が聞くことが、目の前の人にどのように影響するか、どのように助けになるのかという問いともつながっている。
連載は、このような私のカウンセラーとしての経験から出発している。
しばらくのあいだ、セクハラの仕組みについて、そして「よきことをなす」ことがしばしば加害につながることについて、私が考え続けてきたことを書いてみたいと思う。
1946年生まれ。公認心理師・臨床心理士。お茶の水女子大学大学院修士課程修了。1995年に原宿カウンセリングセンター設立、現在は顧問。アルコール依存症、摂食障害、DV、子どもの虐待などに悩む本人や家族へのカウンセリングを行なってきた。『母が重くてたまらない』(春秋社)、『DVと虐待』(医学書院)、『加害者は変われるか?』(筑摩書房)、『家族と国家は共謀する』(KADOKAWA)、『アダルト・チルドレン』(学芸みらい社)、『家族と災厄』(生きのびるブックス)など、著書多数。