第7回 赦しを語ることができない

教会のなかで出遭う人。教会の外で不意打ちのように出遭う人。一時は精神を病み、閉鎖病棟にも入った牧師が経験した、忘れえぬ人びととの出遭いと別れ。いま、本気で死にたいと願う、そんな人びとと対話を重ねてきた牧師が語る、人との出遭いなおしの物語。いのりは、いのちとつながっている。

罪を赦す。キリスト教では、このことが重要なテーマとして語られてきた。神が人として受肉しキリストとなったこと。死から復活したキリストが昇天したこと。これらとともに、十字架のキリストによる人間の贖罪が、その教えの中心となってきた。キリストが十字架で自ら犠牲となって我々の罪を贖ったという信仰は、そのルーツの一つを、キリスト教以前からすでにイスラエルの教えであった、ヘブライ語聖書のレビ記にみることができる。(旧約聖書という呼称はイエス・キリストの出来事を神の新しい約束として、そこから遡って「旧い」約束という意味を付したキリスト教側による呼び方なので、聖書学の世界などにおいて、キリスト教から価値独立的に、ヘブライ語聖書と呼ぶことが増えてきた。)

‟アロンは生かしておいた雄山羊の頭に両手を置き、イスラエルの人々のすべての過ちと、罪となるあらゆる背きをすべて告白し、それらを雄山羊の頭へ移してから、担当の者の手によって荒れ野へ放つ。民のあらゆる過ちを負って、雄山羊は不毛の地、荒れ野へ放たれる。“(レビ記16章21-22節 聖書協会共同訳)

スケープゴート(贖罪の山羊。ゴートは英語で山羊のこと)の由来である。山羊の頭に手を置くことで、共同体全体の罪が山羊に憑依する。呪術に見えるかもしれない。じっさい、宗教学者から見れば呪術的なのだろう。そしてイエス・キリストが贖罪の山羊のように人間の罪を一身に背負い、犠牲となる構造も、現代の倫理観には馴染まないかもしれない。というのも、そもそもスケープゴートという語からよいイメージを抱く人間が、こんにちいるだろうか。「イエスは我々のスケープゴートとなった」、そう表現するやイエスはたちまち、いじめで自殺する子どもや、過酷な労働で労災死する大人と同じ表情になる。キリスト教徒がイエス・キリストをいじめや企業の犠牲者としてイメージすることは、あまりないとは思う。しかし、じっさいプロテスタントのキリスト教徒は「イエス・キリストはわたしたちの罪を贖うために、十字架で死んでくださった」と語るのである。

呪術的か否かはともかくとして、そのようなしかたで自分の罪を赦されたと信じた信仰者は、自分も神から赦されたのだから他人のことも赦さなければならないという仕方で、その信仰を実践することが望ましいとされる。それが現実的にどれほど実践可能なのかは別として、少なくとも教会では赦しを、もう少し柔らかい言葉で表現するなら寛容を説くようになる。じっさい、イエス自身が聖書のなかで、赦しについて印象的なエピソードを語っている。彼は赦しを、分かりやすい金額に譬えるのだ。

‟その時、ペトロがイエスのところに来て言った。「主よ、きょうだいが私に対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」イエスは言われた。「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍まで赦しなさい。そこで、天の国は、ある王が家来たちと清算をしようとしたのに似ている。清算が始まると、一万タラントン借金している家来が、王の前に連れて来られた。しかし、返済できなかったので、主君はこの家来に、自分も妻も子も、また持ち物も全部売って返済するように命じた。家来はひれ伏し、『どうか待ってください。きっと全部お返ししますから』と懇願した。家来の主君は憐れに思って、彼を赦し、借金を帳消しにしてやった。ところが、この家来は外に出て、百デナリオン貸している仲間の一人に出会うと、捕まえて首を絞め、『借金を返せ』と言った。仲間はひれ伏して、『どうか待ってくれ。返すから』と頼んだ。しかし、承知せず、行って、借金を返すまでその人を牢に入れた。仲間たちは、事の次第を見て非常に心を痛め、主君に一部始終を報告した。そこで、主君はその家来を呼びつけて言った。『不届き者。お前が頼んだから、借金を全部帳消しにしてやったのだ。私がお前を憐れんでやったように、お前も仲間を憐れんでやるべきではなかったか。』そして、主君は怒って、借金を全部返すまで、家来を拷問係に引き渡した。あなたがたもそれぞれ、心からきょうだいを赦さないなら、天の私の父もあなたがたに同じようになさるであろう。」“(マタイによる福音書18章21~35節 同訳)

ペトロは誰かとトラブルになり、どうしても赦せないことがあって、怒っていたのかもしれない。しかし彼なりに「赦さなければならない」という思いとのあいだで葛藤していたのではないか。それで、どうしたらよいのかをイエスに相談したのだろう。するとイエスは借金の譬えで答えたのだ。タラントンというのは英語のタレント、すなわち才能の語源である。とても高価な単位だ。一方で1デナリオンは労働者の一日の賃金である。東京都の現在の最低賃金は1,041円(令和3年10月1日現在)であるから、残業がない8時間労働だとして(実際には残業がない仕事は少ないだろうが)8,328円である。そして1タラントンはなんと6,000デナリオンである。ということは49,968,000円。5千万円近い。タレントつまり才能という言葉が、驚嘆するような能力を持った人物に対して使われる語であることがよく分かる。イエスが借金の話で出している金額をみてみよう。1万タラントンの借金を上記の最低賃金を手掛かりに換算すると499,680,000,000円。5千億円近い、気の遠くなるような負債である。そんな巨額の負債を帳消しにしてもらった男が、こんどは100デナリオン、つまりたったの83万円ちょっとの借金を、容赦なく取り立てる構図になっているのだ。5千億赦してもらった男が83万を赦さないという戯画になっている。

ここで重要なのは、譬え話冒頭の一言「天の国は~に似ている」である。イエスは天の国という、いわば宇宙から地球を眺めるような巨視的なまなざしをペトロにもたらしている。宇宙飛行士が地球を見たときに「国境などなかった」と詠嘆したというが、それと同様のパラダイム変換をペトロに促しているのだ。お前の目の前には赦せない誰かがいるのかもしれないが、神の国からお前たち全体を見おろしてみろ。お前自身もまた、赦されないはずのものを赦してもらっているのが見えるだろう?だったら、お前の目の前の誰かのことも赦してやれ────天の国すなわち神という視点を持ち出さなければ、とうてい受け入れ難い話なのである。自分もまた赦された者なのだという気づきは、地上においてローカルな国家対国家を見るのではなく宇宙から地球全体を見るような、超越論的なまなざしがなければ成り立たないのである。

しかし、ここでわたしは戸惑う。わたしは宇宙飛行士ではない。国境がない地球というものを、宇宙空間なり月面なりから見たことは一度もない。わたしは地上、この地球の渦中にいるので、地球の全体像は他人(それこそ宇宙飛行士)から伝え聞いた話や映像から想像するほかない。赦しもそうである。わたしは超越的な視座から「わたしもあなたも赦された人間」と実感することが、未だ実感できないでいる。それでも社会について、あるいはわたし個人の話についてなら、わたしは「寛容であるべきだ、まさに赦せないときにこそ赦しについて考えてみるべきなのだ」と、かろうじて語ることができる。なぜなら寛容な社会を望むことは政治的におそらく正しいであろうし、わたし個人のありようとしても、そのように語ることは、どこか高潔な響きがあって気持ちもよいからである。だが、自分以外の人間に、同じように赦しや寛容を語ることが出来るのか?それも、実際に赦せぬ思いを抱えた人間を前にして?

 

礼拝に、ふだん見かけない女性がやってきた。礼拝が終わったあと、彼女はうつむきながら「お話を聞いてもらいたいのですが」と、消えいるような声で意思表示した。ただごとではないと思ったが、こういうとき別室のない小さな礼拝堂はもどかしい。他の人たちがまだ歓談しているなかで、微妙な話はしづらい。わたしは「表に出ましょう」と、扉を開けて彼女と外に出る。目の前は閑静な住宅街の路地。ときおり歩行者が通り過ぎ、車が徐行する。わたしたちは扉の前に立ちつくし、じっとそれらを見る。彼女は黙ったままだ。

「・・・やっぱりこんなのじゃ話せませんよね?」

彼女は小さくうなずく。

礼拝堂の二階にわたしは妻と住んでいるが、今日は散らかっている。でもいいや。わたしたちは再度礼拝堂に入った。

「ちょっと待っててくださいね!」

わたしは大急ぎで二階に上がると、布団やらなんやらをめちゃくちゃに畳み込み、開いた空間に座布団を敷くと、彼女をそこへ案内した。二人向きあって座る。彼女はとたんに号泣し始めた。

今、彼女のことを振り返って、考える。彼女が将来落ち着いたとして、わたしはたとえば「あのつらい出来事はあなたのすべてではない。あなたの一部でしかない。とらわれてはいけない。もしもネガティヴな感情がまだあるなら、少しずつ手放していきましょう」などと言い得るだろうか?そんなことを問うまでもなく、問いそのものへの拒絶がわたしの内に湧きだしてくる。「手放す」などと言っているが、ようはあの出来事を、あの加害者を許容せよ、赦せと語っているのと同じではないか。あるいは百歩譲って、彼女が自分から加害者を赦す気になったとする。わたしはそのような彼女を信仰の名のもとに祝福してもよいのか。これも危険なことである。なぜならもしも彼女が「わたしが悪かったんだ。わたしに隙があったから、あんなことになったんだ」と納得しようとしている、そういう意味で加害者を「赦す」のであれば、それは彼女をますます傷つける「赦し」なのであり、そんな「赦し」は赦しでもなんでもない、彼女への二次暴力でしかないのである。そしてもしもわたしが、彼女が楽になることを企図して、「そうでしたか。赦せてよかったですね」とか「憎しみから自由になりましょう。そうすれば楽になれますよ」などと語るのであれば、────彼女がその言いぶんに従い、かりそめに楽になったとして────そんな宗教はマルクスに言われるまでもなくアヘンである。

わたしは精神科病院に入院した折に、精神科医と対話を重ねた。医師はわたしの被害者意識を問題視した。たとえばわたしが幼稚園の職員室で副園長に激昂した理由について、わたしは当初、副園長のわたしへの不当な扱いを強く訴えていた。だが医師はわたしの話を聞くうちに、わたしがキレたのはそれだけが理由だったのかについて、疑いを持ち始めたのである。医師との対話の結果わたしがたどり着いたものは、激昂した事件よりもずっと昔、子ども時代から連続している、癇癪の蓄積であった。つまりわたしはなにか自分の思い通りにいかないことがあると、自分が不当に扱われていると感じて癇癪を起こし、その怒りの爆発でもって周囲に言うことを聞かせてきたのである。なまじ周囲の人々が(呆れたり諦めたりして)わたしの言うことを聞いてくれたという成功体験があったものだから、わたしの被害者意識は強化されてしまった。複雑な人間関係において、どちらか一方だけが100パーセント悪いということはそれほど多くない。わたしが癇癪を起こしたとき、たしかにきっかけとして相手にもなんらかの非はあったのかもしれないが、たいていの場合、わたしにも落ち度はあったのである。わたしが学んだことは「相手の立場も考えてみる」とか「自分の怒りを相対化して観る」とった、しごく初歩的なことであった。そのことを日常生活から距離をおいた精神科病院のなかで実感して以来、わたしは以前ほど怒らなくなり、生きづらさも減った。「沼田先生はおおらかですよね」と言う若者に「被害者ポジションから降りることがいちばんだよ」と語ったこともある。

だが、わたしのこの個人的体験を「自分も赦されているのだから相手をも赦そう」という、聖書の金言と同一視してもよいものだろうか。たしかに、わたしはそれで納得できた。だが上記の女性のように、一方的な暴力の犠牲となった人も教会には来るのだ。そういう出遭いを実際に経た後となっては、もはや赦しについての聖書の言葉を語るのが恐くなってくる。あなたは神から、そして周りの人たちから、たくさん赦されていますよ。だったら、あなたが赦せないと思うその人のことも、赦したらいいじゃないですか────そんなお気楽なことを礼拝で語ることが、それこそ「赦される」のだろうか。

書店に行けば、高名な宗教家が「手放すこと」や「赦すこと」について語っている書物を手にとることができる。逆に「怒ること」「赦さないこと」を勧める宗教書というものを、わたしは見かけたことがない。当然である。人々が宗教家や宗教書に求めているのは癒しや救いなのであって、怒りの火に油を注ぐことではないからである。とはいえ、なぜあの人、一方的に傷を負わされたあの人が、自分でその傷を癒さなければならないのだろう。わたしは彼女をはじめ、不正義によって受けた傷から血を流す、幾人かの顔を思い浮かべずにはいられない。そう、わたしは「手放すこと」や「赦すこと」を、彼ら彼女らに対して、決して語れないのである。宗教家であるにもかかわらず、わたしは赦しを語ることができない。

わたしは極端なことを言っているのだろうか。だが、「これだけは赦せない」という思いを、誰もが一つぐらいは胸の内に秘めているのだとしたら。手放しや赦しを語ることによって、胸の内の聖域を、わたしは踏みにじるのではないか。赦しを語ろうとすると、スケープゴートとなった彼ら彼女らの顔がどうにもちらついてくるのである。

 

日本基督教団 牧師。1972年、兵庫県神戸市生まれ。高校を中退、引きこもる。その後、大検を経て受験浪人中、1995年、灘区にて阪神淡路大震災に遭遇。かろうじて入った大学も中退、再び引きこもるなどの紆余曲折を経た1998年、関西学院大学神学部に入学。2004年、同大学院神学研究科博士課程前期課程修了。そして伝道者の道へ。しかし2015年の初夏、職場でトラブルを起こし、精神科病院の閉鎖病棟に入院する。現在は東京都の小さな教会で再び牧師をしている。
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第6回 聖書のなかの「かわいそうランキング」

教会のなかで出遭う人。教会の外で不意打ちのように出遭う人。一時は精神を病み、閉鎖病棟にも入った牧師が経験した、忘れえぬ人びととの出遭いと別れ。いま、本気で死にたいと願う、そんな人びとと対話を重ねてきた牧師が語る、人との出遭いなおしの物語。いのりは、いのちとつながっている。

わたしのもとには現在、先の見えないコロナ禍ということもあり、以前より相談の連絡が増えている。例えば、若い人であれば将来が見えないという不安。中高年の人であれば、これまでの人生の意味への問い。コロナ以前は当たり前だったさまざまなものが制限や中断や停止を余儀なくされるなかで、それまで考えもしなかった抽象的な考え、極論すれば「自分はなぜ生きているのか」が頭をもたげてくるのである。その問い方は一人ひとり異なる。その人ごとに固有の、しかし普遍性をもった問いに耳を傾けながら、わたしもまた「自分はなぜ生きて、この目の前の人と向きあっているのか」を問うことになる。

ところで、よそでそういう話をすると「沼田先生のところにはいろんな人が相談に来られるのですね。沼田先生は頼りにされていますね」と言ってもらえる。そんなふうに言ってもらえるのは嬉しいことだが、わたしは牧師としての失敗もたくさんしてきている。今もしているし、これからもするだろう。なにしろ相手は人間である。そんなにうまくいくわけがない。美談になりそうな出来事など、ほとんどないといってもいいくらいだ。

以前、ツイッターで、「かわいそうランキング」という言葉を知った。今では多くの人が使っているネットスラングであるが、もとは白饅頭こと御田寺圭氏が提唱した概念であるという。彼の著作『矛盾社会序説』の冒頭には、彼の実体験として、こんなエピソードが紹介されている。

彼は学生時代、あるホームレスと親しくなった。そこで、彼は友人との会話のなかでそのホームレスのことや、ホームレスたちが売っている雑誌『ビッグイシュー』のことを話題にした。ところが彼の友人は『ビッグイシュー』のことをまったく知らず、見たこともないと答えたのである。そのとき御田寺氏は実感したという。人はたとえ視界内にホームレスが映ったとしても、そのホームレスが見えていないのだと。『ビッグイシュー』を売るホームレスは都市部であれば(とくに彼と友人が暮らしていた生活圏では)それなりに見かけるはずだし、その友人も見ているはずなのだが、視界に入っても見えていない。すなわちホームレスは不可視化されているのだと。御田寺氏はこの原体験を契機として、人が「かわいそう」と感じる対象は限られているという事実を、さまざまなデータを用いて語るのである。

御田寺圭氏の見解には反論も多い。わたしもときに、彼のフェミニズムやリベラリズムへの厳しい批判にはついていけないこともある。しかしたしかに彼が言うとおり、ホームレスといわずとも、「かわいそう」という感覚をまったく刺激しない、だがじつは追い詰められている人々は存在する。不可視化された存在として彼がおもに指摘するのは中高年男性である。わたしはそこに中高年女性も含めたい。ツイッターでの議論は、フェミニズムにしてもアンチフェミニズムにしても、若い男女のことが話題になっているケースが多いからである。いずれにせよ、わたしは彼から、自分が微塵も気にかけていない人々がいる可能性を教わったのである。

そこで話は教会に戻ってくる。すなわち、わたしが「こんな人、教会に来て欲しくない」と、思わず拒絶反応を示してしまうような人がいるし、そういう人としばしばトラブルになってしまうという話である。冒頭の悩み相談一つとってもそうである。聖書には、ぎくっとしてしまう言葉がある。

‟あなたがたの集会に、金の指輪をはめ、きらびやかな服を着た人が入って来、また、汚れた服を着た貧しい人が入って来たとします。きらびやかな服を着た人に目を留めて、「どうぞ、あなたはこちらにお座りください」と言い、貧しい人には、「あなたは、立っているか、そちらで私の足元に座るかしていなさい」と言うなら、あなたがたは、自分たちの中で差別をし、悪い考えに基づいて裁く者になったのではありませんか。“(ヤコブの手紙2章2~4節 聖書協会共同訳)

聖書にはすでに「かわいそうランキング」が言及されているのだ。そして、ここにはもう一つ大事な事実が隠されている。その‟貧しい人“がすなわち通俗的な意味での‟いい人”とは限らない、ということである。わたしたちはドラマなどの影響により、貧しく虐げられた人を、無垢で純粋な人、あるいは貧しさから抜けだそう、夢を追いかけようと努力している人としてイメージしがちである。そして、そういう‟貧しい人“を支援したいと思う。ここに落とし穴がある。

わたしのもとにやってくる人のなかには、複雑な生い立ちを背負わされた人もいる。なかには幼少時からつねに、まわりの大人たちから裏切られ続けてきた人もいる。ニュースになるような、警察が逮捕できる暴力だけが子どもを傷つけるのではない。小さな裏切りの、膨大な積み重ね。そんな裏切りを浴び続けてきた人はときに、「世界のすべては自分の敵である」と思っている。いや、思っているというのは正確ではない。野良猫があなたの目の前で寝ているところを思い浮かべて欲しい。あなたがわずかでも近づけば、猫は飛び起きる。飼い猫とは違って、野良猫は熟睡することがない。つねに世界に対して警戒を怠らない野良猫は、寿命も短い。世界のすべてが敵であるという、いっときの安心も許されない、つねに緊張を強いられる生活。そんな生活を何十年も続けていれば、疲弊してしまう。疲れきり、「もう生きていられない」と感じた人が、この孤立状態からなんとか抜け出したい、牧師ならなにか教えてくれるかもしれないと、わたしのもとへやってくる。だが、そもそもその人は、誰かから無条件に愛されたり、誰かを無条件に信頼したりした経験がない。わたしを信用しようとしても、信用とはなにかが、そもそも分からない。

そういう人のなかには──もちろん、そういう条件にある人すべてがそうだというのでは決してない──わたしに高い理想を見いだし、わたしを絶賛し、頻繁に連絡してくるなど急に距離を詰めてくるが、わたしがその理想からわずかでも逸脱した言動をするや一転、わたしを激しく憎み罵るようになる、そんな人もいる。なかには「沼田牧師に傷つけられた!」とふれてまわったりする人もいる。

そういう人と向きあったとき、わたしもまた怒りに駆られてしまう──勝手にそっちから来ておいてなんだその態度は。昼夜かまわずさんざん話につきあって、感謝されるならまだしも、なんでこんなにめちゃくちゃ言われなきゃならないんだ。そんなことだからあなたは、けっきょく誰のところに行ってもまともに相手にされないんだよ──そこまで毒づいて、はっと気づく。これこそ「かわいそうランキング」そのものではないか。たとえば教会に相談に来た人が、とても礼儀正しくて、なんだったら「些少ですが献げさせてください」とばかりに、教会に高額な献金までしてくれて。じっさい、そういう人もおられたのだが、その人を相手にしたときのわたしの態度はどうだった?今回の人と、向きあうわたしの表情も声色も、ぜんぜん違うよね?

ある性産業に従事している女性と話すことがあった。彼女は自分の仕事を誇りに思っており、慈善家が「性産業の犠牲になっている女性たちを救うためには、性産業そのものがない世界を築かなければならない」と主張することに怒っていた。

「わたしのことを『かわいそうだ』と言う前に、店に来てみろってんだ。わたしのフェラチオがどれだけうまいか、味わってから『かわいそう』かどうか判断したらいい」

彼女の凛としたもの言いに、わたしは共感した。ふと、彼女のノースリーブから露出した腕が目に留まった。肩から上腕にかけて、偶然ついたとは思えない幾つもの傷痕が刻まれていたのである。精神科医で嗜癖の専門家である松本俊彦氏の著作で読んだことがある。自傷は、つかみどころがない苦しみを現前化する行為でもあると。この人が自分の仕事に誇りを持ち、喜びを感じながら従事していることに、おそらく偽りはないだろう。それは彼女の口調からもいきいきと伝わってくる。だが彼女もまた、わたしには到底分かり得ない苦しみを抱えているのかもしれない。このときもわたしは聖書のある一節を思い出していた。

‟あなたがたはどう思うか。ある人が羊を百匹持っていて、その一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残して、迷い出た一匹を捜しに行かないだろうか。よく言っておくが、もし、それを見つけたら、迷わずにいた九十九匹より、その一匹のことを喜ぶだろう。“(マタイによる福音書18章12-13節 同訳)

わたしはこの聖書の箇所を、園長をしていた折には幼稚園児たちに、そして卒園生の子どもたちにも、何度もしたものである。

「イエスさまはね、迷子になったかわいそうな仔羊を、いっしょけんめいさがしてくれるんだよ。仔羊はきみたちだ。きみたちがひとりぼっちになって泣いていたら、すぐにイエスさまがさがしにきてくれるんだ」

だがわたしはその話をする際に、自動的に脳内変換していた。羊の群れから迷い出た一匹の羊を、かわいらしい仔羊としてイメージしていたのである。まるで捨てられた仔猫のように、心細そうに鳴いている一匹の仔羊。そこに雄々しく姿を現す、頼もしい羊飼いすなわちイエス・キリスト……。

わたしの話には、羊を探す羊飼いからの視点しかない。探される羊の側からの視点がないのである。群れから迷い出た羊は、ほんとうに「かわいい仔羊」だったのか? そもそも羊が「迷い出た」というのも、羊飼いからはそう見えたということである。わたしは幼稚園の園長をしていたときのことを思い出す。子どもたちのなかでときおり、朝礼や終礼時に、なにがなんでも集まらないで、独りで遊んでいる子どもがいた。「さあ、こっちにおいで」と子どもたちが集まっているほうへ促そうとすると、とたんに機嫌が悪くなって、ものすごい力で抵抗したり、大声で泣き叫んだりした。クラス担当の先生は慣れたもので、そういう子は無理に動かそうとしない。独り遊びをさせつつ、目の前の子どもたちと、その一人飛び出した子どもとの両方に目配せしながら、見事に仕事をやってのける。

先の女性と羊を重ねて考える。「迷い出た」と羊飼いに思われた羊は、発見した羊飼いの喜びをよそに

「また見つけてくれちゃって。もう放っておいてくれないかな。群れるのがいやなんだよ」

と、ため息の鳴き声を鳴いているかもしれない。一方で、羊飼いの側はどうだろう。こんなトラブルが一度きりなら、羊を見つけられて嬉しいと感じるかもしれない。だが、捕まえても捕まえても、繰り返し群れから脱走する厄介な羊だったとしたら?

「もう知らん! 勝手に野犬にでも喰われちまえばいいんだ」

本気ではないにせよ、思わず愚痴をこぼしたくもなろう。ただでさえ重労働のなか、それに加えて行方不明の羊を探して回らねばならないのだから。そんなことを繰り返された日には、羊飼いも堪忍袋の緒が切れてもおかしくはない。

関わられることを拒む人。そういう人を前にしたとき、「そっとしておこう」。「人それぞれなのだから」。そう考えるほうがずっと理にかなっているのかもしれない。かわいそうだ? 余計なお世話だ! こっちは誇りをもって生きているんだよ!──だが、もしもその人が心で血を流しているのだとしたら? でも、その人に関わっても「ありがとうございます。沼田先生のおかげで助かりました」とは決して言ってもらえず、むしろ罵倒されるのだとしたら。それでも、わたしは関わろうとするのだろうか。パターナリズムと批判されようが、その人に余計なお節介をしてしまうのだろうか。

わたしは相手の話を聴く。基本は傾聴することが、相談者を前にしてわたしのなすべき第一の仕事である。だが、聴くということは、動かされるということである。相手の話が深刻であればあるほど、「そうですね、たいへんですね」と頷いておしまいとはいかなくなる。背中がむずむずしてくるのである。はらわたの据わりが悪くなってくるのである。なにかをせずにはおれなくなるのである。それは具体的には専門家の窓口に繋いだり、その窓口へ向かう本人に同行したりすることなのであるが、問題は、相手がそんなことを求めているか否かである。

わたしが具体的に行動を起こすのは、相手との信頼関係ができたと思うときである。なぜなら、わたしが行動することによって生じるなんらかの変化を、相手が恐れることもあるからだ。今、つらい。つらいから牧師に話しに来た。だけど、現状を今すぐ変えたいわけではない。ただ話を聴いてもらいたかっただけ。今はなにかを変えることさえしんどい。どんな方向に変わることができるのか、イメージする気力もない……。そんな状態の人に対してこちらが勝手に動いてしまったら、相手の不信を招き、むしろ傷つけてしまうだけである。とはいえ、こういうこともあるのだ。すなわち、信頼できたと思っていたのはわたしだけで、相手はまだわたしを信頼に値するか試していた、そういうことが。

パラリンピックのニュースを毎日なんとなく観ていた。障害を乗り越えて、あるいは障害を生きる力そのものとして、スポーツに漲る命のすばらしさ。街頭インタビューでは、

「共生社会について考えた」

「障害なんて関係ないと思った」

といった生き生きとした意見が聞かれた。一方で、わたしが出遭う人のなかには、幾重もの壁に阻まれ、そもそも頑張るとはなにかという問いさえなく、つねに不機嫌で、漲るなにかというイメージからは程遠い人もいる。そういう人が、あなたのそばにもいませんか。共生について考えるなら、まずはその人とどうやって生きていくか、考えてみませんか。わたし独りでは、よい知恵が浮かばないのです。

 

 

日本基督教団 牧師。1972年、兵庫県神戸市生まれ。高校を中退、引きこもる。その後、大検を経て受験浪人中、1995年、灘区にて阪神淡路大震災に遭遇。かろうじて入った大学も中退、再び引きこもるなどの紆余曲折を経た1998年、関西学院大学神学部に入学。2004年、同大学院神学研究科博士課程前期課程修了。そして伝道者の道へ。しかし2015年の初夏、職場でトラブルを起こし、精神科病院の閉鎖病棟に入院する。現在は東京都の小さな教会で再び牧師をしている。
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