第3回 放っておいてくれませんか。あなたには分からない

教会のなかで出遭う人。教会の外で不意打ちのように出遭う人。一時は精神を病み、閉鎖病棟にも入った牧師が経験した、忘れえぬ人びととの出遭いと別れ。いま、本気で死にたいと願う、そんな人びとと対話を重ねてきた牧師が語る、人との出遭いなおしの物語。いのりは、いのちとつながっている。

死にたいと語る人に、どんなふうに応えたらよいのか。さまざまなメディアが「独りで抱え込まず、相談を」と訴える。もちろん、善意の手を差し伸べようとしているのだし、そこに示される電話なりインターネットなりに問い合わせれば、誠実に耳を傾けてくれる相談員が待っているだろう。だが、そもそも本気で死にたい人が、誰かに相談しようとするケースは少ない。誰かに相談できていたなら、死にたいと思うほど追い詰められることはなかったからである。「独りで抱え込まず、相談を」という啓蒙は無意味ではまったくないが、いちばん届いて欲しい人に届かないという歯がゆさがあることもまた事実である。

一人の人間が追い詰められ、失望し、孤立し、SNSなどで「死にたい」という一言を発するに至るまでの事情は、それぞれ異なる。幸運にも(それはあくまで支援者の側から見て、相手が死ぬ前に連絡をしてくれたという意味での「幸運」であって、それ以上の意味はない)その背景について相手が語り始めるや、そこには幾重にもかさなり、複雑に絡みあった、生い立ちや環境にまつわる苦しみの連鎖がある。わたしもしばしば、その重層性と複雑さとを前に、いったいどこから手を差し伸べたらいいのかと立ちすくむ。

イエスは孤立するなかで「死にたい」と感じている人に救いの手を差し伸べたことがあったのだろうか。というより、そもそも、イエスの前に「死にたいんです。どうにかしてください」というような人が現われただろうか。うつむく現代人の前にイエスが現れたとする。「何をしてほしいのか」とイエスがその人に言う。その人は、こう答えるのではないか。

「放っておいてくれませんか。あなたには分からない」

‟一行はエリコに来た。イエスが弟子たちや大勢の群衆と一緒に、エリコを出られると、ティマイの子で、バルティマイという盲人が道端に座って物乞いをしていた。ナザレのイエスだと聞くと、「ダビデの子イエスよ、私を憐れんでください」と叫び始めた。多くの人々が叱りつけて黙らせようとしたが、彼はますます、「ダビデの子よ、私を憐れんでください」と叫び続けた。イエスは立ち止まって、「あの人を呼んで来なさい」と言われた。人々は盲人を呼んで言った。「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ。」盲人は上着を脱ぎ捨て、躍り上がってイエスのところに来た。イエスは、「何をしてほしいのか」と言われた。盲人は、「先生、また見えるようになることです」と言った。イエスは言われた。「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」盲人はすぐ見えるようになり、なお道を進まれるイエスに従った。“ マルコによる福音書10章46~52節 聖書協会共同訳

イエスの時代、こんにちのような社会福祉は存在しない。身体に障害を持つ人は物乞いをして生きるほかなかった。だが、イエスと出遭ったこの目の見えない人の言動からは、「われわれは物乞いをして生きるしかない」という状況から、なにがなんでも脱出したいという強い意志がうかがえる。どんなに人々から斥けられようが、それでも人々の社会に入りたい、自分も社会のなかで生きたいという、強い意志である。拒みに拒まれた末、ついにイエスの使いから呼び出されたときには、彼は「上着を脱ぎ捨て、躍り上がって」イエスのところに来る。もはや身体が制御できないほどみなぎる喜びが、躍り上がる躍動としてこの人からあふれだす。この人とイエスとの関係を要約すれば、次の二言になろうか。

「生きたいんです!」

「だいじょうぶ、あなたは神を信頼した。必ず生きることができる」

しかし現代、わたしに「死にたい」と打ち明ける人で、こんな人はほぼいない。なにもかもに疲れ果て、もうこれ以上生きてはいたくない。宗教に意義があるのは認めるが(だから牧師であるわたしに連絡をしたともいえる)、救いまでの道のりはあまりにも遠く感じられ、自分には無縁である...そういう人ばかりである。

聖書にもエレミヤ書やヨブ記に見られるように、「生まれてこなければよかった」と詠嘆する表現が見られる。そうした言葉を読む限り、古代の人々もまさに現代のわたしたちのように苦悩していたのだと実感する。ただ、古代の社会は、死にたいと思う以前に、今よりもずっと死が身近にあった。自殺などしなくても、疫病や飢饉、戦乱などで多くの人が死んだ。平時であっても、ちょっと病をこじらせれば人は亡くなった。寝付いてから亡くなるまでの時間も短かった。聖書には「霊」という言葉がヘブライ語とギリシャ語でそれぞれרוּחַやπνεῦμα と表現されている。それらの語はいずれも、もともと風や息という意味を持っている。というのも、人が生きている状態すなわち霊が宿っている状態は、すなわち息をしていることだからだ。息を引き取ったら、人は死ぬ。つまり、息すなわち霊が身体から吹き出て、二度と吸い込まれることはなく、そのまま神のもとへと帰ったということである。古代社会に人工心肺装置は存在しなかった。だから脳死という倫理的に判断が難しい問題も、誰も想像さえしなかった。

以前、國學院大學の博物館に、居家似岩陰遺跡から出土した全身の人骨が数柱展示された。(企画展「縄文早期の居家似人骨と岩陰遺跡─居家似プロジェクトの研究成果─」)12~15歳程度や若年成人女性の遺骨が数柱、ガラスケース内に展示されていたのである。8500~8000年くらい昔の骨であるが、いずれも若いので歯並びは美しく、骨もしっかりしていた。この女性たちは早死にしたのだなと思っていたが、解説には「縄文早期人は早死であった可能性」とも記されていた。つまり、この女性たちがたまたま早死にしたのではなく、だいたいの人がこれくらいの年齢で死んでいたかもしれないのである。ひょっとすると、彼女たちは白髪の老人を見たことがなかったのではないか。岡村道夫も『縄文の生活誌』のなかで、十五歳からの平均余命は十五年から二十年、四十歳まで生きられる人はごくわずかだったと語っている。イエスが生きた時代のイスラエルの人々は、そこまで短命ではなかったとは思うが、出産時の母親や新生児の死亡率は今よりはるかに高かっただろう。高齢者だけでなく子どもや若者の死にも、人々は日常的に遭遇していたはずである。

小津安二郎の『早春』だったろうか。まだ若い会社員が肺を患い寝込んでいる。彼は同僚たちに見舞われたその日の晩、痰がのどに詰まって死ぬ。葬儀に集う人々は号泣するでもなく、淡々と友人の死を受け入れる。一方で、定年を迎えたサラリーマン(笠智衆)の言葉も印象的である。「子どもたちも独立し、自分も終わりが見えてきた」旨、彼は語るのである。彼はまだ50代半ばくらいのはずである。いや、「まだ」50代半ばという表現は、小津の世界にはふさわしくないのだろう。彼の作品世界において、若者はときにあっさり病に斃れ、50も過ぎれば人は自らの死を意識する。それも、とくに不安を覚えることもなく。この作品が公開されたのは1956年である。たしかに作品はあくまで小津の世界を表現したものであって、当時の社会そのものを映し出しているわけではない。だが、それが当時の観衆に大きな違和感を抱かせることなく受け入れられ、社会的にも評価されたのである。この時代の人々にとって、まだまだ死は近かったのではないか。そうであるなら、たった65年前であるにもかかわらず、死に対する人々の感覚は、現代を生きるわたしたちとはまったく異なっていたことになる。

キリスト教の伝道のため、アマゾンの少数部族ピダハンのもとへ家族ごと移り住んだダニエル・L・エヴェレットは、彼らの素朴な生活と、いつも笑顔で幸福そうにしている現実を前にして、次第にキリスト教の必要を疑い始める。その疑問はやがて彼自身の信仰の必要性そのものに向かう。なにより、ピダハンほかアマゾンに住む人々の、死に対する構えに彼は揺さぶられたと思われる。あるとき、彼の妻と子供がマラリアで死にかけたときのことである。彼はこう語る。

‟ピダハンたちは、西洋人が彼らの二倍近くも長生きできると見込んでいることなど、知る由もない。見込んでいるどころか、それが権利だと考えているくらいだ。アメリカ人は特に、ピダハンの禁欲をもち合わせていない。とはいえ、ピダハンが死に無頓着だというわけではない。父親は、それで子どもを救えると思ったら、何日でもボートを漕いで助けを求めに行くだろう。わたし自身、夜中に思いつめた眼をしたピダハンの男に起こされたことは何度もある。すぐにきて、病気の子どもか伴侶を見てやってくれないかと。その顔に刻まれた苦悶と心痛は、ほかの何ものにも劣らず深いものだった。だがピダハンが、必要なときには世界じゅうの誰もが自分を助けるべきであると言わんばかりにふるまったり、身内が病気か死にかけているからといって日課をおろそかにしているところを見たことがない。冷淡なのではない。それが現実なのだ。ただわたしは、まだそれを知らなかった。“ ダニエル・L・エヴェレット著、屋代通子訳『ピダハン「言語本能」を超える文化と世界観』みすず書房、85頁 傍点筆者

アメリカ人にとって、つまりエヴェレット自身にとって、自分や自分の愛する人々が長生きすることは自明であり、もしもそれが脅かされるなら、日課すなわちなにもかもを投げ出してでも「世界じゅうの誰もが自分を助けるべきである」。それが彼の世界理解であった。世界理解は、それが揺さぶられない限り、世界理解として意識にのぼることすらない。だが彼はピダハンと出遭い、それが決して自明ではないことを知る。やがて彼はキリスト教さえも自明ではないと思うに至り、信仰を捨てるのである。彼がキリスト教を捨てるに至ったことを、わたしは衝撃と共に受けとめた。他人事とは思えなかった。わたしもまた「世界じゅうの誰もが自分を助けるべきである。自分は救われて当然の存在である」という自意識を、しかも無意識の自明なる前提としているのだと気づかされたからである。そして多くの現代人の苦悩も、この前提と深く関係していると思われたのである。

「誰もが自分を助けるべきである」。それは危険時の話である。もう少し敷衍してみよう。こうならないだろうか。「誰もがとは言わないにせよ、多くの人が自分に好ましい評価をすべきである」。そんなことを口にする人はいない、口にする人はよほどの傲慢であると言われるかもしれない。もちろん誰も表立っては口にしないだろう。だが多くの人がほぼ無意識の前提として「自分は正当に評価されるべきであり、そうでない場合にはその歪みは是正されるべきである」という価値観を内面化しているのではないか。それがあってこその、「なぜ自分は評価されないのか」「なぜ自分は孤立したのか」という苦しみなのではないか。

社会ではなくあなたの心(がまえ)が問題なのだと言いたいのではない。社会構造もまた人間が構築しているものだ。しかもそれはピダハンとは比較にならないほど複雑化している。ピダハンなら、自分が生活している社会の隅から隅まで、おおむねどんなことが営まれているのかを知っているだろう。福音書の時代に生きた人々も、自分たちの住む町のこと、そこにいる人々のだいたいの雰囲気を知っていたのではないか。遠い場所で起こるニュースなど知らなくても、この世の不思議については律法学者が教えてくれるさまざまな知恵で事足りたことだろう。いっぽうで、わたしたちは自分が暮らす社会の、そのほとんどを知らない。いや、社会の全体像を知っている人など、はたしているのだろうか。世界の矛盾すべてを説明してくれる学者や聖典など、わたしたちは知らないし、求めてもいない。自分では理解も把握もとうてい不可能な、この複雑な社会のなかで、わたしたちは事故や病気に遭遇しない限り、かつてないほどの長命を生きなければならない。そのような社会に、なんの歪みも矛盾もないということはありえない。わたしたちは全体像の分からない複雑なものに絡みとられ、身動きができずに苦しむ。死はそうした複雑さをとつぜん断ち切るかのように、不気味なものとして、あるいは理想として、苦悩する人の前にその姿を顕す。

ピダハンの人々は、死について詮索しない。彼らには創世神話がなく、来世への明確な信仰もない。彼らの平均寿命はおおむね40代であるという。子どもか大人かにかかわらず、マラリアで命を落とす人も多い。そんな彼らは、死を誰にでも訪れる、避けられないものと考えている。一方でイエスの時代を顧みれば、そこには精緻な信仰世界がある。だが、死が日常的なものであるという点では、ピダハンと大きくは変わらない。古代イスラエルの人々は、自分たちに死がとても近いからこそ、死の向こうにある救済をありありと想像できたのだろう。だが、教会に「死にたい」と連絡してくる人にとって────「死にたい」という言葉にもかかわらず────死は遠いし、死後の世界も遠い。あまりにも遠すぎて、死も死後の世界も、まるで存在しないかのごとくである。ときおり「死にたい」ではなく「消えたい」と語る人もいる。死にまつわる肉体の具体的イメージがそこにはない。モニターから画像が消えるように、ふっと電源が落ちる語感である。他人の死を看取る経験が少ない人にとって、自分の肉体の死を想像することは難しいのかもしれない。

わたしは牧師として、悩み苦しむ人と向きあっている。牧師の拠り所は、なんといっても聖書である。わたしの目の前で苦しむこの人を、神が見捨てるはずがない。もしもこの人の目の前にイエス・キリストがいたら、慰めに満ちた言葉をかけるに違いない────そこまで考えて、いつも立ち止まる。イエスの目の前に、長命を自明として「早く死にたい」と嘆く、そんな人はいただろうかと。イエスのもとにはむしろ、生きたい、だから救ってほしい、そういう人が殺到したのではないかと。もしもそうであるなら、わたしはイエスの言葉をこの目の前の人に対して、どのように適用できるのだろうかと。

だが、このように悩むとき、まさにイエス・キリストは、問いかけるわたしの前に立ち現れてくるのである。このまま蛇の生殺しのように生きるのはたくさんだ、もう死にたい...そのように願う、まさに現代に生きているこの人に、イエスはなんと答えるのか。そのように問うとき、わたしはイエスと切り結ぶ。わたしはイエス・キリストという真空に浮かんだ単語を信仰しているのではない。まさにこの問い、わたしが出遭う他人との関係において生じる、この問いのなかに含まれる主語「イエス」こそ、わたしが出遭い、信頼している相手なのだ。

 

日本基督教団 牧師。1972年、兵庫県神戸市生まれ。高校を中退、引きこもる。その後、大検を経て受験浪人中、1995年、灘区にて阪神淡路大震災に遭遇。かろうじて入った大学も中退、再び引きこもるなどの紆余曲折を経た1998年、関西学院大学神学部に入学。2004年、同大学院神学研究科博士課程前期課程修了。そして伝道者の道へ。しかし2015年の初夏、職場でトラブルを起こし、精神科病院の閉鎖病棟に入院する。現在は東京都の小さな教会で再び牧師をしている。
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第2回 ねえ、ラブホいかへん?

教会のなかで出遭う人。教会の外で不意打ちのように出遭う人。一時は精神を病み、閉鎖病棟にも入った牧師が経験した、忘れえぬ人びととの出遭いと別れ。いま、本気で死にたいと願う、そんな人びとと対話を重ねてきた牧師が語る、人との出遭いなおしの物語。いのりは、いのちとつながっている。

帰省して済ませなければならなかった用事をどうにか済ませ、わたしは故郷の繁華街で夜行バスを待っていた。季節がら日没は遅く、もう7時はまわっているはずだが、まだまだ空は明るい。乗車までまだだいぶ時間がある。わたしは石段に腰を下ろし、鞄から本を取り出して読んでいた。目の前に人の気配がしたので目を上げると、いつの間にか、中学生くらいの少女が立っていた。首元が緩んで伸びたトレーナーは汚れており汗臭い。髪の毛も洗っていないのか、頭にぺったりくっついている。彼女はわたしの目を見て、言った。

「ねえ、ラブホいかへん?」

「わるいな。おれ、これでも牧師やねん。君、どうしたんや?」

「ええっ牧師さん!?わたし小さいとき教会行ったことあるんよ。教会学校、楽しかったなあ!クリスマス会やったよ。あと、イースター!卵探ししたなあ。」

勢いよく話しだすと、彼女はわたしにくっつくように、ぺたんと座った。どうやら育った環境それ自体は貧困家庭ではなかったらしいことが、彼女の言葉の端々から見てとれた。塾やピアノなどに通わせてもらえるていどには、経済的にも豊かであったようだ。それに、教会への抵抗のなさ。クリスマスはともかく、イースター恒例の行事まですらすら話してくれるところをみると、彼女はけっこうながいあいだ教会に通っていたようだ。なにがどうなって彼女は今、見知らぬ男をラブホテルに誘うような生活になったのだろう。

「まあ、言いたくなかったらええんやけど。家帰らんの?」

「知らんわ。あんなとこ家ちゃうし」

彼女はそういうと黙り、繁華街を歩く人々を見ている。スーツ姿で腰掛けるわたしと、そのわたしにくっついて座る彼女との組み合わせ。道行く人たちは、ちらりとこちらを見ると、わたしたちの前に来るまでに少しよけて歩き去っていく。

しばらく話していたら、彼女は「ああ、つかれたわほんま」と、いきなりわたしの膝に頭をのせた。これでは、わたしはますます不審者ではないか。とはいえ追い払うわけにもいかないし、どうしたらいいのだろう。いま警察を呼べば、とたんに彼女は逃げていなくなるだろう。わたしは彼女に膝枕を貸したまま、途方に暮れてしまった。

「なあ。ずっと家帰らんのやったら、君はどうやって生活しとるん」

わたしの膝枕から彼女が応える。

「男に金もらったり、ホテルに連れてってもらったりして。そこでご飯食べたり、風呂はいったりしとんねん」

「なあ...そのうち襲われるで。いや、セックスのことやない。殴られたり蹴られたりな、お金とられたり。それと病気うつされてまう。妊娠してしまうかもしれんぞ。誰か友だちおらんのか?」

「おるよ。いっしょに集まったりするよ」

「そいつら、君のこと心配しとるやろ?」

「さあ...してへんよ。みんな同じことしてるし。みんなで集まってな、そこからそれぞれ行くねん。男と別れたら、また集合する」

「みんな同じことしてる」という、彼女のことを心配しないらしい「みんな」。こんなふうに会話に応じる彼女はわたしを信用したのかもしれないが、やはり赤の他人だ。ほとんど無意識的、生理的なレベルで警戒を怠っていないかもしれない。それと同じように、彼女は自分と同じような境遇の友人たちを、友人ではあるがしょせんは他人でもあると、そんなふうに捉えていると感じられた。友人たちも客の男たちも、わたしも同じ。最後に頼れるのは自分だけ。そういう「みんな」。自分以外の全員を、当然わたしも含んだ「みんな」。

わたしはそっけなく話すふりをしながら、頭はフル回転させていた。落ち着け。彼女を助ける方法を考えろ。考えあぐねた結果、わたしは話が分かりそうな同僚に電話をかけてみることにした。もちろん彼女に許可はとった。

「そいつなら、君のことなんとかしてくれるかもしれへんから」

「うん、ありがとう」

彼女は素直にうなずいた。同僚もわたしからの急な電話に、あわてて着替えでもしているのか、それほど遠くはないはずなのだが、姿を現すまでの時間は長かった。待っているうちに、彼女は膝枕のうえで寝息を立て始めた。日ごろの疲れがたまっているのだろう。穏やかな寝顔がむしろ痛ましい。まだ中学生くらいの子どもが、どうしてこんな厳しい生活をしないといけないのか。

やがて遠方から同僚が歩いてきた。近づいてわたしに気づくと、こんどは駆けよってきた。「これはどういうことです!?」

どうやらわたしの膝枕状態を、変に誤解してしまったらしい。わたしは誤解を解くよりは事情を説明したほうが早いだろうと、彼にこれまでの経緯を話した。彼女も目を覚まして、彼を見上げた。

残念なことに、話はわたしの思いもよらぬ方向へ進んでいった。彼は彼女にではなく、わたしに向かって説得を始めた。

「難しいですよ、やっぱり。たしかに、この子は厳しい立場だと思います。でも今、この子を引き受けて、責任とれます?なにかあったらどうするんです?」

彼女の顔がこわばりはじめた。彼女は立ち上がり、わたしと彼との論争を、こぶしを握って聴いていた。

わたしは彼と論争しながら、ちらちら彼女のほうを見る。

「いや、だいじょうぶだから。必ずなんとかするからね」

だが、もうだめだった。彼女とわたしとのあいだには、膝枕のときには考えられなかったような、なにかとてつもないものが立ちはだかっていた。彼女はわたしの顔から眼をそらさず、少しずつ、少しずつ後ずさりし始めた。まるで野良猫が人間を警戒するように、その野生の鋭い眼をそらさず、少しずつ、少しずつ。 どうすればいいのか。彼女を引き止められないか。同僚を納得させることはできないか。

「この子を今晩だけでもいいから、とりあえず泊めてくれませんか。それで明日以降、福祉につないでもえたら。それだけでもいいんですけど。ほんとうはわたしがそうしたいんだけど、幼稚園の仕事もあるし、バスには乗らないといけないし」

「無理ですよ。それにもう夜です。未成年者を親にも警察にも言わず、勝手に教会に泊めることはできません。わたしもあなたも男性ですよ?そんなことが露見したら、教会の社会的信用に関わります。彼女に親の連絡先を尋ねてください。」

「いや、親には連絡できない。彼女は親には会いたくないと言っている。警察のことも警戒している」

「それなら警察に連れて行きましょう。警察に保護してもらうしかない」

わたしの夜行バスの時間は迫っていた。呼ぶべき同僚を誤ったのか?いや、彼が言うことももっともだ。彼女が大人だったら、彼も教会に宿泊させることに同意したかもしれない。だが中学生である。ここは近代のキリスト教世界ではない。牧師の独断で未成年を、誰にも告げずに教会に泊めることなどできない。やはり最初から警察を呼ぶべきだったのか?

そのあいだも彼女は少しずつ後ずさり続けた。やがてわたしたちが追いかけてもすぐ逃げきれるほどに遠ざかると、彼女は繁華街の雑踏へと、あっという間に姿を消した。わたしも同僚も、引き留める暇もなかった。バスは到着し、同僚に見送られながら、わたしはステップに足をかけた。

なにもできなかった─── 夜行バスに揺られながらシートの背もたれを倒し、わたしは目をつむる。まぶたのなかで少女の、幼さの残る屈託のない笑顔と、立ち去り際の野生動物のような鋭い眼光とが、交互に浮かぶ。わたしを突き刺すように見る、ふたつの野生の眼。弾むように話す声と、息を殺す沈黙。わたしの膝の上で安心して眠るまぶたと、警戒に光りつつ遠ざかる細い眼。

「なぜ、なにもできないくせに、わたしにやさしくした?」

「うらぎり、ぜつぼうさせるために、わたしをしんらいさせ、きぼうをもたせたのか?」

彼女は幼い頃教会に通ったと言っていた。それも心から懐かしそうに。今は大嫌いな親に連れられて通ったのだろう。だが、その思い出を彼女は楽しそうに語った。彼女にとって、想いでのなかの教会は楽しく、なにより安心できる場所だったのだ。だからわたしが牧師だと分かったとたんに、わたしを客の男ではなく、頼れる大人として安心したのである。彼女はわたしに、想いでの教会を見たのだ。わたしの膝の上で寝ていた彼女は中学生ではなく、まだ教会に通っていた頃の、幼い女の子だったのだ。親を憎み、家での居場所を失い、夜の街を男性客を求めてさまようようになる前の。

だがわたしは、そんな彼女にとっての教会を破壊した。わたしは彼女の目の前で、牧師と牧師が彼女を押し付けあう醜態をさらしたのだ。それだけはやってはいけないことだった。彼女が野生の眼を光らせたとき、もはや教会さえもが彼女の居場所ではなくなった。彼女は今後二度と教会には近寄らないだろう。彼女は二度と牧師を信用しないだろう。

責任もとれないのに、わたしはその場だけのいい格好をしようとした。そして責任の所在という重い問題が頭をもたげるや、保身に走ろうとした。それでも、わたしはずるずると考え続けている。「責任をとれないことはやらない」でいいのだろうかと、往生際の悪い悩みを悩み続けてもいる。もう答えは出たではないか。無責任な結果がこれである。それにもかかわらず、わたしは未だに別の答えを探し続けているのだ。彼女を目の前にしたときに、拒絶することは「責任をとれないことはやらない」という意味では正しい。ただし、「責任がとれないことはやらない」という意味でのみ正しい。言っておくが、わたしはあの少女に声をかけたことを正当化したいのではない。わたしが彼女と出遭ってしまったとき、そこには、後先を考えずに応答せずにはおれないなにかがあったのではないか。決してうまくやり過ごしてはならない、関わりの意志へとわたしを衝き動かすなにかがあったのではないか。

わたしの神学部時代の恩師が、かつてこんなことを言った。

「人との出遭いは、交通事故のようなものだよ」

交通事故は予測可能なら起こらないものだ。起こってほしくもない。それは唐突に、自分の思いなし一切を突き破って起こる。事故を起こしたら、救急車や警察を呼ぶなどしなければならない。放置して逃げたら、それは犯罪である。事故に巻き込まれること。それは、自分の意志に関わりなく、その事故に関わらざるをえないということである。わたしは彼女と交通事故を起こしたのかもしれない。その場を立ち去ることは、彼女を轢き逃げするに等しいことだった。

わたしはそのような仕方で出遭う、予想外の他人に対して、責任をとれるのだろうか。そこで語られる責任とはなんだろうか。わたしたちは、究極的には自分の人生を生きるしかない。自分の人生の責任を他人に負ってもらうことはできない。また、他人の人生における、あれこれの結果をその人の代わりにわたしが出してやることもできない。あの少女がどんな人生をその後歩んだのかは分からないが、もしもあのとき「適切に」関わったとしても、それは彼女の人生を代わりに善くしてやったことにはならない。わたしとの関りを善いか悪いか判断し、行動を起こすのは彼女自身なのだ。彼女の人生を生きるのは彼女自身だからである。もしもわたしがあのときバスをキャンセルして彼女と関わり続けたとしても、それでも、わたしは彼女の人生に現われ出るもろもろの結果について、責任を負うことなどできないのである。

しかし、他人の責任を負えないということは、他人に対して無責任であることとイコールではない。他人に対してあらゆる意味で責任をとれないということになれば、そもそも責任という言葉が無意味になってしまう。そうではない。わたしはたしかに、相手の人生の結果までは背負えないという意味において、他人の人生の結果に対しては無責任に、その他人と関わる。だが、いちど関わったら、その人のことが頭の片隅にこびりつき続けるだろう。わたしたちの業界では「~のことを覚えて祈る」というが、「〇〇さんの状態が改善しますように」と言葉に出して祈るだけが祈りではない。忘れようとしても忘れられず、いつまでも頭にこびりついており、「あの後あの人どうなったかな」と気になり続けている、そのこと自体が祈りなのである。

この少女の責任を、あなたはとれるのですか。その問いに当時のわたしはひるんだ。だが今なら、こう答えるかもしれない。

そうです、責任はとれません。でも、この人に関わってみようと思います。責任なら神がとってくれますから。

 

日本基督教団 牧師。1972年、兵庫県神戸市生まれ。高校を中退、引きこもる。その後、大検を経て受験浪人中、1995年、灘区にて阪神淡路大震災に遭遇。かろうじて入った大学も中退、再び引きこもるなどの紆余曲折を経た1998年、関西学院大学神学部に入学。2004年、同大学院神学研究科博士課程前期課程修了。そして伝道者の道へ。しかし2015年の初夏、職場でトラブルを起こし、精神科病院の閉鎖病棟に入院する。現在は東京都の小さな教会で再び牧師をしている。
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