第2回 「おすそわけ」は廻りも自分も幸せにする。

テレビのバラエティ番組の定番のひとつに「お金持ち」の豪邸訪問がある。タレントから事業家などさまざまなお金持ちの邸宅を尋ね、リポーターが取り上げる。

ある番組で美容業界で成功した社長の家を紹介していた。広いリビングに掛かっている現代絵画を指差して「何か、高そうな絵ですね」と質問する。

ニューヨークの著名な現代画家の「油絵」が映っていた。実は私もこのアーチストの「版画」なら一枚持っているので、すぐにピンときた。

美術番組ではないけれど、誰が描いた作品なのかとか、この絵のどこが気に入って買ったのかとか、作品そのものについて触れたり、尋ねたりすることは一切なく、お決まりの質問をする。

「おいくらだったんですか?」

下品な質問だと思う。けれども、視聴者の興味も実はそこにあるものだ。

質問された方も、「1000万円だったかな、安いもんですよ。私、金持ちなんで」と言いたげな顔をしながら、1000万を別な表現に置き換える。例えば、「ちょっとしたベンツが買えるくらいかな」とほんの少しだけぼやかしてみせる。ただし、表情は俺、大金持ちなんで、でへへ、というままだ。

リポーターはその金額にわざとらしく大げさに驚いてみせる。

「すごいですね~」

絵画だけでなく、置いてある家具や、使っているティーカップ、着ている洋服やもちろん宝石など、とにかく高そうなものの値段を質問する。

そういう自称成功者に対して、多くの視聴者は羨望のまなざしで画面を見る。

そして、思う。「この人はいったいお金をいくら持っているのかしら?」

しかし、「あんなに、お金があれば、何の不自由もないのよね、羨ましいわ」とは、あまり言わない。それは、思うだけだ。口に出して言うのは、どちらかというと批判の言葉が多い。下品だ、成金趣味だ、金の使い方を知らないなどと言うものだ。半分、これ嫉妬である。

誰でもお金があることは羨ましい。しかし、この自称成功者は金を稼ぐ事に成功しただけであることも年齢を重ねたものなら知っている。

テレビに出てくる金満生活をする人たちをそれほど幸せそうだとは思えないことも多い。私などは、この人はお金を数えきれないくらい手にいれることはできたけれども、果して同じくらい幸せは手にしているのかなと思ってしまう。

むしろ、お金を稼ぐ事に一生懸命になって、昔は持っていた幸せなものを捨ててしまったのではないかと思うくらいだ。

番組では個人的な資産を築く事に成功した社長とその会社で働く若者の生活を対比してみせた。これほど豪華な生活をするのは会社の従業員の目標になるためだとも言った。すごい理屈である。なぜなら、美容師の生活はとても厳しい。その会社で働く従業員に、月にあと1万円、いや5000円でも給料を上げてやれば、どれほど感謝されるだろうにと私は思うのだ。まだファミリーのような会社なのだ。何で映画「男はつらいよ」のタコ社長のように、従業員の給料を払うために必死に働く社長になれないのかと思ってしまうのだ。

おいしいお米を丁寧に炊いたごはんは、どんな日本人をも幸せにする。しかし、私などはおかわりをすることはあってもそれ以上は要らない。山ほど炊いてもらってもムダにするだけだ。おいしいからといって、食べきれないほど欲しいとは誰も思わない。

先日ふるさと納税の返礼品が届いた。高級な国産の豚肉4キロだ。届いた肉の量を見てびっくりしてしまった。これは食べきれない。冷凍にしておくにしてもムダにしてしまう。日本の畜産農家が汗水垂らして作ってくれた。そして、命あった肉をムダにしてしまう。困ってしまって、どうしようか考えた。

そして、若い放送人だけれどフリーランスで収入が不安定で子どもを授かったばかりの知り合いと、小さな事業を立ち上げたばかりの長岡出身の青年、いつも笑顔のトレーナーの3人に連絡を取った。

うまい豚肉1キロもらってくれないか?

「すごく助かります」「月末まであと3千円しかなくてどうしのごうか悩んでいたんですよ」「肉ならいくらでも食いたいです。またいつでも言って下さい」数時間で必要な人のところにうまく収まった。そして、3人から、ありがとう、と言ってもらって、私はとても幸せな気分になった。

そして、思い出した。ああ、自分はお裾分けで幸せになったんだと思ったのだ。

子どものころの食卓には、よくお裾分けのおかずがのっていた。多く作っても少しでも手間は同じ。自分の家で食べきれない分をちょっとした器に入れて、お隣に持って行く。お隣からもらう。

勝手口から「お口に合うかしら」などと言って持って来るのだが、抜群に美味しい。

そして、料理のコツをお互いに情報交換したりする。お互いが幸せになり、口だけでない近所の絆ができて行く。

人が生きて行くのに大切な食べるという行為に関して、無制限に求めるということを私たちはしない。むしろ、頃合いを越えて、持っているものがムダになりそうだったら、それを誰か必要な人に分け与えたいと思うものだ。洋服だって、家具だって、多くのものが同じである。無尽蔵に欲しいとはあまり思わない。

ところが、どうだろう。お金だけはそうでないのだ。もっと、もっとと思ってしまう。お金に対する欲望はとまるところをしらない。とくに21世紀になる少し前から世界を席巻している、グローバリズム経済の洗礼を私たちの日本社会も受けて、もっと欲しい、もっとお金があったらいいのにと思うようになってきた。お金に対する無尽蔵の欲望をもつことは果して幸せなのか立ち止まって考えることが無くなってしまった。むしろ、もってるお金、つまり資産に比例して、幸福も増して行くと思う人たちも増えてしまった。

無尽蔵の欲望。私たち日本人の本来の美徳はそこにない。少なすぎては困るが多すぎても持て余す。ちょうどいい頃合いがいいのだと、少し遠慮する。欲望をコントロールする。それを良しとしてきたように思う。それは、金に対しても同じはずだ。もちろん、グローバリズムになる前からも、金に対する欲望に歯止めがない人もいただろう。しかし、我々は、それを守銭奴といって蔑んでいたものだ。

お金とはいい距離感が必要なのだ。それを意識していないと、もっと金が欲しいという欲望に私たちの心はすぐに絡めとられてしまう。

バラエティ番組で見たお金持ちに対して、私たちは羨ましいという思いと、何かこういうのは嫌だなという二律背反する気持ちを意識して行きたい。

もっとも、大金持ちの人は、この文章を読んで、けっ、貧乏人が負け犬の遠吠えだと言うかもしれない。貧乏=負け犬としか考えられない人は、心をお金に絡めとられているのだ。放っておけばよい。

毎日を普通に生きているはずなのに、お金に心を絡めとられている人がいる。その一例が「老後破産」教に入信した人たちだ。老後のことを、お金を準備することだけに奔走する人たちだ。

次回はとっても危険な「老後破産」教についてお話したい。

Profile

経済評論家。1961年生まれ。慶應大学商学部卒業、東京大学社会情報研究所教育部修了。大学卒業後、外資系銀行でデリヴァティブを担当。東京、ニューヨーク、ロンドンを経験。退職後、金融誌記者、国連難民高等弁務官本部でのボランティア(湾岸戦争プロジェクト)経営コンサルタント会社などを経て独立、現職に至る。『年収300万~700万円 普通の人が老後まで安心して暮らすためのお金の話』(扶桑社)、『普通の人が、ケチケチしないで毎年100万円貯まる59のこと』(扶桑社)、『お金をかけずに 海外パックツアーをもっと楽しむ本』(PHP)、『アジア自由旅行』(小学館/島田雅彦氏との共著)『日経新聞を「早読み」する技術』(PHP)など、多数の著作がある。 Facebook

第1回 前書きにかえて、10円玉の重み

僕は、昭和36(1961)年に東京都杉並区大宮町で生まれた。

29坪の土地の平屋の家に住んでいたが、ほんの幼い頃に2階建てに建替えられた。両親は2人とも新潟出身で父は東京外国語大学卒の会社員、母は新潟の高校を卒業して女優を目指して上京した人だった。結婚前は俳優座の養成所に通っていたと言っていた。まだ若かった二人の生活は当時にしてもとても質素だった。家は2階建てにはなったものの、上の階の3部屋のうち2部屋は学生をおき賄い付きの下宿としていたし、毎晩夜遅くまで内職をしていた。マイホームを買うのに相当ムリをしていたのだと思う。

 本当に慎ましい生活だった。旅行やレジャーは何もなかった。ごちそうのすき焼きはいつも豚のバラ肉。僕が初めて牛肉を食べたのは学校給食だと思う。家で20才になるまで牛肉が出たことはなかった。例外は、時おり母が嬉しそうに、今日のハンバーグは合挽きだと言っていた時くらいだろう。もちろん、当時の生活を今の基準で比べることはできない。日本全体が質素だったからだ。

当時の楽しみは日曜日に母と新宿のデパートに行くこと。それも新宿三丁目の伊勢丹に行くことだった。当時の伊勢丹の屋上には子ども用の遊園地があった。コーヒーカップや、豆電車、空を飛ぶ象など遊具があって、それにふたつくらい乗せてもらえた。それが楽しみだった。終ると母はいろんなフロアでウィンドウショッピングをするが、ほとんど買物などはしない。ただ眺めているだけだった。もちろん年に一度か二度は買物をすることもあった。すると、鮮やかなタータンチェックの伊勢丹のショッピングバックとともに家に帰ることになる。そのショッピングバックは家に帰っても捨てられずに大切に取っておかれた。

伊勢丹での用事が済むと時おり西口の京王百貨店の8階の大食堂に連れて行ってもらった。食堂の前のガラスケースに並ぶ食品サンプルの前で、母はいつも「好きなものを選んでいいのよ」と言った。

そこで、私は小さな両手をガラスケースについて、端から端までじっくりと見て廻るのだが、毎回決まってこう言った。

「お子様ランチ!」

「はい、分りました」にっこり母はそう応えた。

いや母はそういうのを分っていた。「上にぎり!」などとは5歳の私が決して言わないのを。

ご馳走だった。ハンバーグや目玉焼きも乗っていたが、まあるく型取られたケチャップの赤いチキンライスの山の頂上には日の丸が立っていた。それをどのタイミングでスプーンを入れるか少し迷ったのを今でも覚えている。毎週、火曜日くらいになると、週末はデパートに行かないの? とせがんだ。当時の贅沢のすべてがそれだった。そんな満面の笑顔でお子様ランチを食べる僕を母はにこりとして見ていたが自分では何も食べないことが多かった。ただ子どもたちの笑顔を見ていたのだ。

デパートに行く時は、大宮八幡前のバス停から永福町駅発の新宿西口行きの京王バスに乗る。ワンマンバスの時代ではなく、帽子を被った女性の車掌さんがいた時代だ。そして、バスは今もある西口のロータリーに到着する。西口は京王百貨店と小田急百貨店がいまと同じようにあった。慎ましい生活をしているのに、母は財布を出して僕に10円玉を握らせる。当時の僕はもうその10円玉はおいしいお菓子に変わることを知っていた。ところが母は僕の背中を推して促した。

「さあ、いってらっしゃい」

母が促したその先の小田急百貨店の前には白い軍服をきた傷痍軍人のかたが2-3人いた。片足や片腕のない人もいたし、頭をうなだれている人も、ハモニカを拭く人もいた。中にはぎっと睨むように遠くを見ている人もいた。各々の前に白い箱があって、自らがどこの戦地でどう戦ったかを書いてあった。そうやって、高度経済成長の入口に立ち豊かになりつつあった東京の人たちの行き交う街のど真ん中で手をついていた。そこだけ切り取られた空間だった。

戦争経験が書かれた白い箱は募金箱にもなっていて、母に背中をおされた僕はそこに手の中の10円玉を入れた。そして、幼い僕は自然と頭を下げた。なぜ5歳にもならない自分が頭を下げたのかは分らないが下げた。そして、なぜかそこに立ち尽くしてしまうこともあった。片足のない、片腕のない、真っ白い服装の兵隊さんたちの前で。

そうしていると、母はすっと寄って来て僕の片手をぎゅっと握って伊勢丹の方に歩いていった。僕は母の顔を見上げるのだが、前を向き決して振り向かず、何も言わなかった。無言の時間は西口から伊勢丹のある東口を結ぶ角筈ガードを抜けるまで続いた。ガードの下をくぐる時に、上を走る山の手線の轟音がした。

あの時のことを今でも鮮明に覚えている。あれから50年以上が過ぎ、新宿の傷痍軍人はいなくなったが、僕はあの人たちのことを忘れないようにしたいと思っている。母が何回も握らせてくれた10円玉のおかげで、世の中のことを考える上でとても大切な根っこになるようなものを作ってくれた。

これから、ここでお金にまつわる話を中心にできるだけ愉快に綴っていこうと思っているのだが、本の前書きのようなものに変えて、忘れられない10円玉の話をさせていただいた。佐藤治彦と申します。どうぞ、よろしくお願いします。

Profile

経済評論家。1961年生まれ。慶應大学商学部卒業、東京大学社会情報研究所教育部修了。大学卒業後、外資系銀行でデリヴァティブを担当。東京、ニューヨーク、ロンドンを経験。退職後、金融誌記者、国連難民高等弁務官本部でのボランティア(湾岸戦争プロジェクト)経営コンサルタント会社などを経て独立、現職に至る。『年収300万~700万円 普通の人が老後まで安心して暮らすためのお金の話』(扶桑社)、『普通の人が、ケチケチしないで毎年100万円貯まる59のこと』(扶桑社)、『お金をかけずに 海外パックツアーをもっと楽しむ本』(PHP)、『アジア自由旅行』(小学館/島田雅彦氏との共著)『日経新聞を「早読み」する技術』(PHP)など、多数の著作がある。 Facebook