第6回 畏れられる母は女性蔑視を生む

母となった人の多くが「息子が可愛くてしょうがない」と口にする。手がかかればかかるほど、可愛いという。女性たちは息子のために、何を置いても尽くそうとする。それは恋人に対するよりも粘っこくて重たい心かもしれない。息子たちは、そんな母について、何を思っているのだろうか。そのような母に育てられた息子と、娘たちはどのように関係を作っているのだろうか。母と息子の関係が、ニッポンにおける人間関係の核を作り、社会を覆っているのではないのか。子育てを終えた社会学者が、母と息子の関係から、少子化や引きこもりや非婚化や、日本に横たわる多くの問題について考える。

NHK大河ドラマ「直虎」(2017年11月12日放送)をつけたら、徳川家康が「おおかたさま」つまりは母に「おイエをまもるために、息子を斬れ」と一喝され、自分の嫡男である信康を自害へと追いやる行動に移す場面がでてきました。やれやれまた、母には頭が上がらないって話するのか。史実がどうだったかはともかく、それで人に納得してもらうストーリーに仕上げていることに驚きます。奇妙じゃありませんか。権力を手中に収めている最高権力者でさえ、母には頭が上がらないという構図に落としているのですから。おそらく、プロデュースする側は女性の地位を高く描いているつもりなのでしょう。大河ドラマにはいつも「おのこ(男子)」を産み、立派に育てることがいかに地位確保のために大事であったのか強調されるシーンがでてきます。そして、必ず母は強し。母である瀬名が信康を命をかけて守ろうとするシーンで涙を誘う。これでもかこれでもかと、語られている母と息子の濃い関係は、正直いって飽き飽きするほどニッポン的人間関係を、いまも増幅させています。

地域の代表者は男性に

ところで、公の場における女性の地位はいまや国際的に見るなら、異次元のレベルに低く保たれているニッポン。10月の選挙で微増したものの、国会議員の女性比率は10.1%で世界193カ国中160位。もちろん先進国では最下位をキープ中です。日本より下位にランクされている国をみると、イスラム圏の国に混じって、タイとかスリランカなどの仏教国やトンガとかハイチなどの島嶼国が目立ちます。意外に元気で働きものの女性も多い国ではありませんか。働いているかどうかと女性の地位は関係するとは限りません。つい高度成長期前の日本では自営業の妻として女性の半数は働いていたのですから。

いまでこそ女性がPTA会長になることもあるようですが、つい最近の内閣府の調査結果でも、女性会長の割合は12.5%しかいません。自治会長になると4.9%にとどまっているのです。女性を地域の顔にすることが、ふつうの市民にとって、とても抵抗があるとわかる数字です。「女性が地域活動のリーダーになるために必要なこと」を聞くと「男性の抵抗感をなくすこと」が52.1%と最も高くなっていました。そう答える人は男性に多いようです((平成28年度男女共同参画社会に関する世論調査(http://survey.gov-online.go.jp/h28/h28-danjo/2-2.html)))。日頃の活動はすべて女性が支えているとすらいえるPTA活動で、根回しや意思決定も実質的に女性が仕切りながら、やってくれる人がいれば顔としては男性を会長にすえる。実際には、最後にかぶせられる帽子のような存在でもよいのです。副会長以下の役職者で支えるから実質的にかかわらなくてもいい、と頼み込んだりもして探すこともあります。女性に白羽の矢があたることがありますが、その場合は、高学歴であったり社会的に高い地位についているなど、外から見て会長職にふさわしい、わかりやすい基準が求められます。この実質的に仕事をすることと切り離して代表には男性という顔をたてるという組み合わせは、いわゆる理想的な奥さんのいる家庭の様子を、地域集団において再現しているともいえます。どんなに家のなかのことを妻が取り仕切っていても、ここぞというときには「主人を立てる」ことが円満な家庭を築くコツであるとされ、堂々と「夫操縦法」という言葉が出てくる。「操縦したい/操縦されたい」の組み合わせカップルはいまも続々誕生中でしょう。

「かあちゃん」は怖いもの

うちの「かあちゃん」に怒られる、と男性が言うとき、「かあちゃん」は妻であることが多いでしょう。はっきり「俺、異常なマザコン」と語っている北野武は、好きになった女性は母のように自分を包んでくれる人、なのだと言っています。そして、かあちゃんは同時にビシビシと時には力づくで鍛える人として、語られています。ニッポン人にとって、かあちゃんが母を意味すると同時に妻にも使える用語になっている理由は、まさに機能的には入れ替えてもかまわない等価なものであるからでしょう。

サザエさん一家の権力関係を漫画から丹念にひろうと、一家の主婦であるフネさんが主人である波平さんに説教する場面などが出てきます。描かれ方から推定するに、夫が妻に、つまりかあちゃんに頭があがらない家族として描かれているわけです。時代的にはサザエさんより少し後、高度成長期の家族を色濃く映し出すアニメ、ドラえもんにでてくるジャイアンのかあちゃんは何かと子どもを殴っている場面も登場しますし、のび太の家もお母さんがお父さんよりも、強そうに描かれています。ジャイアンのかあちゃんが剛田雑貨店を営んでいるほかは、みな専業主婦の設定なのに、働いていようといまいと、家庭のなかの母の地位は高く描かれます。より現代に近づくと、クレヨンしんちゃんの母みさえも、息子に振り回されつつ旦那を尻に敷いている強い妻となっています。この時代になると、家事はもはや「妻が夫にやってあげるもの」になっていますが...。ニッポンのファミリー向け人気漫画では、常に家庭内での地位に関して女性が強そうに描かれてきたといえそうです。

ちなみに、学術的にも夫と妻の勢力関係についての研究は蓄積があります。夫婦の関係性は、役割をどう分業するかという側面とともに、何かを決める意思決定を最終的にどちらがするのかといった側面からとらえる方法などがあります。いまのところ、日本の夫婦のどちらの地位が高いのかという結論ははっきりしていないようで、どちらかというと、家の中ではある程度平等であり、近年はさらに平等である方向に向かっているといわれます((松信ひろみ編,2016,近代家族のゆらぎと新しい家族のかたち[第2版],八千代出版.))ですから、「かあちゃんに頭があがらない」といういいまわしがあるからといって、その実質がどうなのかはもちろん疑っておかなくてはなりません。それにしても、ことさらに「オレは恐妻家」とか、「奥さんの尻に敷かれている」とか、喜んで口に出す男性が世間に相当多数いる社会であることは疑いようがありません。

グレートマザーへの畏れ

「かあちゃん」が怖いという心性のある社会で、なぜ女性の社会的地位が低いのでしょう。「地域の顔としては女性をおくには抵抗がある」、というふうに私的空間と公的空間で女性の地位が反転していく手がかりを、ユング派の心理学で用いられているグレートマザー(太母)という元型(アーキタイプ)から考えてみたいと思います。

グレートマザーとは全人類に共通して存在する地母神であり、個人の母親という概念を超えて人々が共通して無意識に持っているものだとされています。河合隼雄の解説によれば、人格化された地母神は、穀物の生成や、あるいは万物の生成をつかさどり、また逆に、死への神として、すべてのもの飲みつくしてしまうような属性を持っています((河合隼雄,ユングと心理療法,1999,講談社+α文庫.))。河合氏は、日本に多いとされる学校恐怖症の治療に向き合うなかで、グレートマザーに巻き込まれる恐怖にさいなまれていると解釈できる少年の夢を紹介しています。ユング派の心理学では、夢は無意識を見せるものとされ、大切に向き合います。学校恐怖症の男の子は、何もかもを飲み込んでしまう子宮をイメージさせる「肉の渦」にまきこまれそうになり、恐ろしくなって目を覚ました、という事例が紹介されています。

西洋の枠組みでとらえられないニッポン的な自我のありようを、精神分析学は模索しつづけています。河合隼雄は日本を母性社会ととらえており、日本社会は西洋のように自我の確立をめざしてこなかったと述べています。自我の確立にとって危険な感情である「甘え」を保存しつつ発展した文化として、ニッポン社会をとらえているのです。河合によると西洋のような「自我の確立をめざす文化においては、新生児の体験する「甘え」の感情をできるだけ早く消し去ることに強調点がおかれる」はずだといいます。一方、日本でそのような子育ては人気がでませんでした。例えば、子どもを幼い頃から別室で寝かせる西洋とは違い、3歳以下の日本の子どもの別室就寝は1%以下でしかありません。このように西洋と東洋で違う自我の有りようについて、河合氏は西洋的自我の確立の方向に治療を方向づけるべきかどうか迷っていると、心情を正直に吐露しました。西洋の心理学者が分析家たちが「母なるもの」のポジティブな面を見直そうとしている潮流とも出会ったからでしょう。ある意味とてもニッポン的な曖昧な表現である、「母なるものの完全否定によって自我を確立させたくない」、という河合氏の意向は社会の奥底で大事に守られ、再び現代に息を吹き返してきたと思います。ただしそれは、グレートマザーへの畏れを抱いたまま成長をした人々が、大人成員として振る舞い続けているということを、同時に意味します。このような日本人的な自我を持つ男性が、公的空間に出たらどうするでしょう。無意識に女性を畏れている男性集団は女性を自分より高い地位につけることに抵抗するのではないでしょうか。

阿闍世(あじゃせ)コンプレックス

日本型母性社会の深層心理から理解するためには、フロイトのエディプスコンプレックスに対置する阿闍世コンプレックスが手掛かりになるでしょう。古澤平作によって独創されたこの概念は、1932年にフロイトに提示されたものの長らく日があたりませんでした。1970世界にも発信されていった内容は、仏典の「涅槃経」からの改作を経た物語として知られています。阿闍世の物語はその母韋堤希(いだいけ)が自らの容色の衰えとともに、夫の愛が薄れていく不安から王子をみごもろうと思いたち、予言者に相談するところから始まります。仙人の生まれ変わりが子どもになると聞き及び、早く子どもを授かりたいという身勝手から仙人を殺してみごもった王子が阿闍世です。長ずるにおよんでそれを知った阿闍世は殺意を抱き、母を殺害しようとした結果、罪悪感から悪病に苦しむことになります。自分を殺害しようとしたにもかかわらず、その悪病にかかった息子である王子をゆるし、息子は献身的な看病をする母親の苦悩を認めて母を許す、愛と憎しみの悲劇です。この物語は3つの心理的構成要素からなっていると解説されています((小此木啓吾,1982,日本人の阿闍世コンプレックス,中公文庫.))。1つ目は一体感=甘えと相互性、2つ目は怨みとマゾヒズム、3つ目はゆるしと罪意識、となります。

エディプスコンプレックスでは、自分の父を殺し母を妻とするという運命を予言されていたエディプスが、その神託から逃れることができずに、予言どおりに2つの大罪を犯してしまい、その責任を負うためにみずから目を抉り放浪の旅に出るという悲劇です。つまり、運命的であろうと罰からは逃れられないというわけですが、阿闍世コンプレックスではいってみれば、とばっちりを受けたのは仙人でしょう。「跡継ぎの子ができない」と妻にプレッシャーをかけている王、つまり父は物語の外にいる希薄な存在となって、家族の関係者は誰も罪を贖ってはいません。このような自我のありようが、公的な立場にあっても最後に深々と頭をさげて謝ったり土下座したりすることでゆるしを乞い、罪を許すという身内関係が受け入れられやすい社会をもたらしていると、小此木は指摘します。

ところで、家族人類学者のエマニュエル・トッド氏は潜在的な「母殺し」の欲望が転化する歴史的事象の一つとして魔女狩りを取り上げています。魔女狩りが頻繁に行われた地域は、母親の家庭内地位が高くかつ不安定でもある権威主義家族の優勢な場所だという現象がみられるのです。老齢の女性、つまり母親の象徴として魔女に潜在的な女性への蔑視が噴出するというわけです。ニッポン人の深層心理構造において、子どもがいようといまいと成人女性が常に潜在的に母へと読み替えられていく力学が働いているとするなら、男性は幼く可愛いロリコン的に扱える女性への愛は成就しても、大人の女性への畏れは消えず対等に付き合えないのではないでしょうか。女性への関係が、包容力のある母にかわる対象として依存するか、小児愛的に一方的に可愛がるのか2択になっていたら、対等な関係を好む大人の女性は恋愛対象になりえません。献身的な日本の母親は娘を自立した存在へと育てながら、息子は依存させる存在として可愛がっているのですから、ミスマッチの増加と恋愛の不成立はなお存続しているように思われます。

女性蔑視を掲げる象徴的な集団

菅野完氏は安倍政権を支える右翼組織「日本会議」の行動原理を「左翼嫌い」と「女性蔑視(ミソジニー)」であると指摘しました((ダイヤモンド・オンライン編集部,2016,安倍政権を支える右翼組織「日本会議」の行動原理(上),ダイヤモンドオンライン( http://diamond.jp/articles/-/91567?page=3)))。具体的には、憲法24条改正、夫婦別姓反対、男女共同参画事業反対などの項目が掲げられ、従軍慰安婦問題にもつながっている述べています。つい先ごろ、その不幸な象徴ともいえる殺人事件が富岡八幡宮の宮司跡目争いにおいて生じました。背景には、「日本会議」とも関係の深い神社本庁の女性宮司」に対する差別的態度があります。

自民党の憲法24条改正案では、「家族は、社会の自然かつ基礎的な単位として、尊重される。家族は、互いに助け合わなければならない。」と入れるよう主張されています。この条文は現憲法にはないのですが、民法上の規定においては夫婦、親子、あるいは親族の扶養義務がすでに厳しい日本社会で、憲法にもこのような記述が明文化されたらどうなるか。単純にいえば、国が個人に対して福祉を提供する根拠が減り、戦前のように戸主に扶養義務を課していく制度へと戻っていくでしょう。当然ながら、生活保護制度への根拠が弱くなり現在より支給が抑制されるはずです。

でも、家族の中で役割を全うすることが人生の価値であると思っている人は女性に多いのです。若い人も結婚時に夫の姓を選ぶ人は相変わらず多いし、選択的夫婦別姓制度は法制化の兆しが見えません。選択制に反対して、自分だけでなく他人にも同姓を強要したい根拠はなんでしょう。自分が大事にしている価値を他人が守ろうとしないことへの憎悪なのかもしれません。戸籍制度を残し夫婦同性を強要する国はいまあまり見当たらないのですけれども、外の世界を知らないニッポン人は、この特殊な制度が世界中にあるものだと思い込んでいます。学生に「戸籍とか夫婦同姓って現在世界ではめずらしい仕組みだよ」と話すと「知らなかった」と驚きます。教育過程でそういう知識を得たり議論する場が設けられていないのです。ローカルなルールを、グローバルなルールだと思い込めるのは自信に満ちた態度とはいえ、一歩間違えばただの無知ともなります。

街宣活動をしている人も例外でなく、「夫婦同氏」の法制化が明治31年の民法改正に始まっていることを知らない人もいます。私は以前、スーパーマーケットの前で「夫婦別姓反対、伝統日本を壊すな」とマイクで絶叫していた街宣車の人に向かって、「伝統って、いつの話ですか?明治半ばまでの日本は、夫婦別姓でしたよ」と話したら、「そんなこと、あるわけないだろう!」と怒鳴られたことがあります。引き下がらなかったら、街宣車から上司らしき人が降りてきて「すいません。不勉強な者が話しておりました」と謝られたことがあります。オイオイ、勉強してから話してほしい。逆にわかっているのに「伝統」って軽く言うなよ、と呆れた記憶があります。当時の夫婦同姓への改定は、西洋の伝統の導入で、東洋からの離反でしょう。背景には、西洋列強と肩を並べるために中国的なるものと距離を取ろうとする差別意識があったと思います。いまや西洋は「夫婦同氏」でもなくなっているのですけれども。

右翼は何にこだわっているのでしょうか。日本の伝統や文化といった人あたりの良い言葉をつかいながら、母の地位をないがしろにしないよう、イエ制度から子どもが逃げ出さないよう、声をあげているのではないでしょうか。跡継ぎが残らず嫁がこない不満を「自由な社会にしたからよくない」と。若い人を吸い上げていく都会的なるものを嫌悪しているだけではないでしょうか。女性蔑視という言葉でとらえるよりは、女性を家族関係の中での役割に留めておきたいという願望のようにもみえてきます。しかし、母なるものに訴えようとする運動は、依然として人々へのアピール力があります。ニッポンに深く埋め込まれた力学を呼び覚ますからです。

母への畏れとセクシュアルハラスメント

ここのところ、世界で爆発的に広がりつつある#Me Too運動。あれほど女性進出が広がったアメリカでさえ、セクシュアルハラスメントの病根がこれほど根深かったとは驚きでした。ニッポン人にとどまらず、社会進出をする女性たちが増加することへの、男性の潜在的な畏れと関係があると感じます。ヒラリー・クリントン氏の落選は、政治的主張以前にユングの元型でいうところの、オールド・ワイズ・マン(老賢人)とグレート・マザー(太母)の構図に持ち込まれた時点で、厳しいものとなってしまったのかもしれません。グレート・マザーを畏れていると口に出して男性がいうことはないでしょう。ひっそりと、いろいろな理由を探してオールド・ワイズ・マン(とてもワイズと言い難いにせよ)に投票するという行為で、現代の「母殺し」という欲望を満たしたのです。

平たく言えばマザコンを隠すためにセクハラをする、という感じでしょうか。母なるものへの依存という根源的な畏れは、女性を押さえつけておかなければ安心できない心理を呼び覚ますのです。ハリウッドの大物プロデューサー、ワインスタインとごく親しいというタランティーノ監督。これでもかという暴力を繰り出すところが、マザコンを公言する北野武と近さを感じさせます。キタノのHANA–BIのように映画監督であれば映像で暴力をくりだし、潜在的母殺しを妻との無理心中といったシーンで成就してしまうことができます。それがかなわないプロデューサーは、現実世界で女性に不当な権力をふりかざしていたということでしょうか。

そして、言葉を発する側が女性であることで、世間から手ひどいしっぺ返しをくらうこともあります。小池百合子氏の「排除」があれほどネガティブに捉えられたことを、阿闍世コンプレックスから読み解くならば、ゆるしを与える側の性であるはずの女性から発せられた、父性を感じさせる厳しい言葉遣いに世間は激しく反発したのだといえます。心理学的には父性原理とは切断するもので、母性原理とは包摂するものであるからです。それゆえ、これまでマイルドな言葉づかいを信条としてきた小池氏の見せた、一瞬の父性的な表現が、命取りになったのでしょう。

女性蔑視の源が母への畏れにあるならば、なくす方法が見えてきます。息子の養育から3つの心理的要素を外せばいいのです。甘やかしすぎず、怨みをいだかせずマゾヒズムに陥らずに、罪の意識を負わせたりゆるしを与えたりしない関係をめざすのです。母と息子関係がそうなっている親子はもちろん多いでしょう。自分もその一員である女性という集団の未来に降りかかる差別の源を、自分たちが作り出し続けるのはもうやめたいものです。

Profile

1964年、三重県尾鷲市生まれ、愛知県で育つ。早稲田大学卒業後、シンクタンク勤務をへて東京工業大学大学院修了。博士(学術)、社会学者。現在、早稲田大学文学学術院ほか非常勤講師。主な著書に『子育て法革命』(中央公論新社)、『家事と家族の日常生活:主婦はなぜ暇にならなかったのか』(学文社)、「平成の家族と食」(晶文社)など。

第5回 母は稼いで世話もする

母となった人の多くが「息子が可愛くてしょうがない」と口にする。手がかかればかかるほど、可愛いという。女性たちは息子のために、何を置いても尽くそうとする。それは恋人に対するよりも粘っこくて重たい心かもしれない。息子たちは、そんな母について、何を思っているのだろうか。そのような母に育てられた息子と、娘たちはどのように関係を作っているのだろうか。母と息子の関係が、ニッポンにおける人間関係の核を作り、社会を覆っているのではないのか。子育てを終えた社会学者が、母と息子の関係から、少子化や引きこもりや非婚化や、日本に横たわる多くの問題について考える。

「サザエさん」以来の新聞連載ファミリー漫画の系列にあって、西原理恵子の「毎日かあさん」は新鮮な驚きもたらしてくれました。「ちびまる子ちゃん」でも「あたしんち」でもそうですが、ファミリー漫画に出てくる母は、多数派でもないのにいつも夫だけが稼ぐ専業主婦でした。「毎日かあさん」は、自ら稼いで世話もするシングルマザーの日常を描いています。ちなみに作者の出身地は高知県。47都道府県別の相対離婚率という指標で見ると3位に入っているくらい離婚の多い土地柄です。西原さんもひとり親2世代目。しかし日本で離婚が増えているといっても、まだ少数派にちがいありません。それなのに、2人親の専業主婦しか登場しなかったファミリー漫画の世界に殴り込みをかけた「毎日かあさん」が人気をつかんだのはなぜでしょう。ニッポンの母と息子という関係性からみると、王道を歩んでいるからだと思うのです。今回は「毎日かあさん」に仕込まれている母と息子のエピソードを拾いつつ、ニッポンに登場した次世代型の母親像を考えてみます。

 

父の不在から男捨離へ

日本のたいがいの家族には父の姿が日頃からみえません。家庭内別居とすら認識されていない長い不在の時間。結婚当初ならともかく、子どもが生まれてしばらくすると夫と妻の意識はすれちがい、妻は母役割に移行して子どもとの情緒的な関係をつくりながら、夫婦間はサバサバした経済/生活能力の交換という関係に変わっていくことが多いでしょう。「亭主元気で留守がいい」はいまもおおかた真実だし、夫婦の情緒的なつながりはそれほど強くありません。配偶者との離死別は男性にとって寿命を縮めたり自殺願望を抱きやすくなったりするのですが、女性はそんなこともないのです。
 となると、母が稼げるようになったとたん父が男捨離対象になってしまうのも、しかたがなさそうです。個人的な見立てでは、稼げてかつ生活能力の高そうな女性に結婚願望を抱く男性は主に2タイプ。この人なら稼いで世話もしてくれそう、という強い女性に頼って依存して生きたい人、もう1つのタイプは自分も稼げるし生活能力もあるなかで、同じように歩んでいけそうなパートナーを探している人。西原さんの亡くなった前夫はどちらかというと、依存したいタイプだったようにみえます。
 でも、ここが肝心なのですが「強い女性に頼って依存して生きたい」男性が好きになる女性は、自分が稼いで世話をすることで、精神的には男性に依存をしていたりもします。いわゆる共依存ですね。どんなカップルにも共依存的なところが少しはあったりするのでしょうが、ドメスティックバイオレンス(DV)に陥っているカップルは重度に共依存に陥っています。西原さんは前夫がアルコール依存症で、彼からDVを受けていたと公言しています。子どもが生まれた直後の自分の立場が弱い時期に、書いている漫画を破られたこともあるとのこと。当時は共依存の罠にはまっていたのかもしれません。強い意思で男捨離しその罠から抜けたのですから敬服します。
 DVとは夫がか弱い妻に暴力をふるうものと考えている人がいるとしたら、それは違います。殴らずにはいられない男たちとその妻への生々しいインタビューをまとめた本に出てくる妻は職業を持ち、聡明で可愛らしい、という例が目立ちます[1]豊田正義,2001,DV:殴られずにはいられない男たち,光文社新書.。世話をするのが生きがいという女性は、働き者で社会でもうまく立ち回る人なのです。DVは日本でも、結婚したことのある女性の5人に1人が経験[2]配偶者からの暴力に関するデータ,2017(http://www.gender.go.jp/policy/no_violence/e-vaw/data/pdf/dv_data.pdf),内閣府.しているというほど日常的なできごとです。私もこれまでの人生で幾人ものDV被害を経験した人と出会いました。被害にあった当事者は、美しくて情が深く働き者で頼り甲斐のある女性ばかり。もちろん被害者は女性ばかりとは限らないのですが、いまのところは女性の割合の方が高いのも確かです。被害者である女性が、必ずしも経済的には依存していなくてもなかなか別れられないのは、その依存関係が精神的なものだからでしょう。

 

息子愛への移行

男捨離したDV被害者はもちまえの愛情と働き者ぶりを、仕事と家族の維持に注ぎ込みます。一番愛情をかける対象者が息子になりやすいのです。もしかすると逆なのかもしれません。息子が産まれると妻が愛情を子どもに注ぐようになり、全力で愛情を注ぎつづけてくれると期待していた大人になりきれない夫が嫉妬心に苛まれ、父になりきれずに妻に甘えて暴力をふるうパターンです。もともと「大きい子ども」として妻と結婚してしまっているタイプの男性が直面する悲劇ですね。ちなみに、このときに妻が子どもよりも夫への愛情表現を優先させると、子どもの虐待に至ります。稼いで世話もする力のある女性であればそうならなくて済みそうなものですが、乳飲み子をかかえて生きていくのは大変で、夫と子どもの間で立ち往生してしまう女性がいても不思議ではありません。
「毎日かあさん」は稀にみる、リアルに登場する子どもを成長させていくファミリー漫画でしたので、移行していく息子愛の一端を垣間見せてくれました。誤解のないように付け加えておくと、漫画とは虚構の世界ですし、ご自身でも語っているように西原さんはあえてつくウソを楽しんでいるので、現実かどうかなどわかりません。でも、自らの家族と地域生活を世間にさらしてネタにしながら、母たちのツボにハマるポイントを見つけ出し描かれた表現はかなりリアルでしょう。
 そもそも論からいうと、子どもの周辺をネタにするという母子関係も昨今のトレンドを象徴します。インスタグラムの世界で子どもとペットは定番の画像として溢れています。子どもが成長した時に、これから問題化するケースもあるでしょう。「毎日かあさん」が大新聞で連載し続けられたという事実を裏返してみると、母が子や夫のプライバシーに配慮する必要は特段ないと、世間も考えているからなのでしょう。母と子が一心同体だと考えるから許されるのです。子どもどころか西原さんは夫を家事・育児ばっちりに「しつけ」てしまった奇跡の主婦を「トップ・オブ・ブリーダー」と呼んでいます。リスペクトした上でのジョークですけれども、私はこういう話であまり笑えません。
 また、西原さんは、「息子や娘の悪口は『大好きな恋人の悪口』なんです。」[3]西原理恵子,新作は「卒母した女性の悩みや第二の人生描きたい」(https://mainichi.jp/articles/20170519/mog/00m/040/016000c),2017.5.22,毎日新聞.と語っています。いまは恋人である高須クリニック院長のことを、世間に向けてクサしてみせるのも、愛があるゆえなのでしょう。そういう愛の表現をニッポン社会は歓迎してきたと思います。例えば、人前で家族を褒めることを、日本ではあまりしません。夫は妻のことを愚妻と呼び、妻も夫を立てているようで裏でこき下ろす、子どもの醜態をさらす。そうしつづけていないと、「家族の自慢をしてる」と嫌がられます。身内自慢はご法度です。でもそれは、身内愛があるがこその裏返しと受け止められます。
 とにかく親族や身内だと驚くほどに無条件に甘えてよい関係となるのです。私はこの関係性には慣れていないのですが、時に真綿にくるまれているように心地よいものだという感覚も知っています。結局、自分もアメリカ人みたいにはなれないなあと実感しています。アメリカで子育てしている知人が家族について話すのを聞いて、身内だろうと何だろうと褒めるのがあたりまえなので、「ご家族共々よい一年でしたね!」と反応すると、「いや、そうでもないんだけども、そういう風にいいことを並べることになっているからね」って返されたりします。無条件に家族を一体視してはいけない、という規範が社会にあるからこそ、自分の家族のことでも他者として褒められるのです。

 

「ダメ息子」と「しっかり娘」というお約束

「毎日かあさん」が時代の鏡であるならば、子育てにおけるジェンダーのギャップはまさに拡大中のようにみえます。「サザエさん」「ちびまる子ちゃん」「あたしんち」で展開されるヤワな男の子女の子区別など目じゃない、明快な差別表現のオンパレードだからです。実際、ダメ息子としっかり娘という定番のオチは、西原家に限定されずに保育園でみる一般の子どもの様子として描かれています。たとえば、保育園にお迎えにいくシーンの冒頭、
「女の子はおひめさまやおままごと。育て分けたワケでもなく自然と遊びが分かれている。」という解説からはじまって、
「園庭のすみに3〜4人ほど毎日必ずドロの中にすべり込んでカキフライになっているお子様たち」が 年中/年少の女の子にさえも「男の子ってやーね」「ほんとね」と揶揄されるおバカな面々であるという描画。(毎日かあさん:カニ母編)

ほかにも、「漫画を描き始めて話しかけてくれるのは男の子のお母さん」というオチの「共感」というコマでは、男の子のぶっとびエピソードが連続します。
「犬のウンコを食べた」「家の二階をこわされた」「小4でお母さんべったりの甘えっ子で風呂に入る」。という具合。
「女の子なら一緒に喫茶店に入れて公共の場でしからなくていい」らしい、というしめくくりとなります。(毎日かあさん:お入学編)
 さらに、強烈なセリフが入っている母と息子のツーショット一コマ漫画もあります。
「息子は犬くさい」(毎日かあさん:お入学編)

めちゃくちゃかわいいんだろうな、と思わせますが、そのかわいさは溺愛されるペットの領域に達しているという心象が読者に植え付けられます。すぐ次のページには「ウソ泣き」する娘にだまされない、という内容を扱った漫画があります。幼くても娘はすでに「自分に気のあるまぬけ男」や「父親」を騙すテクニックを持っている女で、母親にはその手が通じないから「うそ泣きするな」というオチとなっています。女性を小悪魔化して描く手法は聖女あつかいと同様に伝統的なジェンダー秩序づくりの定番ではありますけれど、娘のことは幼い頃から(自分と似ている!?)対等な人間として扱っている、という意味では、むしろ女性を持ち上げているともいえます。
 ほかにも、ツイッターで「#アホ男子母死亡かるた」が人気だったそうです。昔から繰り返されていた男の子のおバカぶりを嘆き合う井戸端会議を、誰もがSNSで発信/受信できる時代、目にみえて存在感を示すようになりました。書籍化もされています。これがフェミニズムを経た時代の社会の語りであると考えると、絶望的な気分になります。なぜ、#アホ女子父死亡かるた、にならないのでしょう。女の子にはアホでいる自由すらないのです。「母死亡」という自虐は、「アホ息子」に苛まれる自己犠牲を楽しむ「マゾ母」宣言にしか、私にはみえません。

 

男の子は劣化するのか、させられるのか

男女に生物学的な差異がある程度見られるという事実に、私も異論はありません。でも、生物学的な違いでさえも時に曖昧になるほどに、人間の性のありようは多様です。生まれ落ちた瞬間から人は男女を区別して扱われるし、あらゆる言説がジェンダー化されているなかで子どもたちは育ちます。「自然に」分かれているようにみえても、すでに生まれ落ちた時から恐ろしいほどの不平等が与えられ、3歳にもなればもう男女2分割の世界に馴染んでいるのです。それでも、社会や文化がつくりだした性別役割は地域や時代によって劇的な違いがありますし、人間の個性はいとも簡単に男女の2分割を乗り越えてしまうほど、ユニークなものだと私は信じています。
ところで先進国では共通していまや「男子の劣化」が問題になっており、アメリカでは歴史上はじめて30歳未満で学力的にも経済的にも女性が男性を上回りつつあるようです[4]フィリップ・ジンバルドー/ニキータ・クーロン,2017,男子劣化社会,晶文社.。かわりに男性が育児や家事を劇的にするようになったかといえば、そういうこともなく育休をとることすら不名誉であるとみなされてしまう状況がつづいています。結果として女性は全世界で「稼いで世話もする」ようになりつつあるのです。
 ただし、ニッポンは4年生大学への進学率で男性がいまだ上回る先進国ではめずらしい社会です。お約束のように広く語られる「ダメ息子」と「しっかり娘」は、成長の途中のどこかで、するりと入れ替わりを迫られているわけです。そんなに簡単に「ダメ息子」が真面目に勉学にはげむようになり、「しっかり娘」が脱落していくのだとすれば、まるで手品のようではありませんか。手品には必ずしかけがあるものです。例えば、振り返ると私の時代ですら公立の高等学校に男女差別の定員割合がありました。定員は露骨で、男2人に対し女1人の比率でした。旧制高校時代には女性が入れなかったのに比べればこれでも十分だろう、ということだったのでしょう。人口比ではありえない進学校定員の差別状態は、憲法で男女平等がうたわれた戦後40年間も続いていました。1985年の女子差別撤廃条約以後に、ようやくほぼ半数ずつの定員制に変えられたのです。
 このように少し前までは「ダメ息子」を「立派な息子」へと置き換えるシステムが目に見える形であちこちに残っていました。「しっかり娘」でもないのに貴重な公立進学校に席を1つ確保してしまった私に対して、近隣の男の子の母親から「女の子に進学校なんてムダ」と嫌味をいわれたこともあったと、後で母が語っていました。「女の子なんてどうせあとで伸びない」とか、「理系クラスなんて行ってどうするの」とか、女同士の自虐的会話も含めてあらゆる世間の雑音のなかを、泳いで生きていかなくてはならないニッポン女性。悲しいことに日本女性は大学卒の方が自殺願望を抱きやすいといわれるのは、そんなあたりに理由があるのかもしれません。
 ふと恐ろしい考えが頭に浮かびました。幼い頃にしっかりしており褒めそやされた娘が大人になって、昔ダメだった息子たちが立派な地位についていく様子をみたら、どう思うでしょうか。そしてどのような行為に走るでしょうか。無意識に自分の息子を通じて男性に復讐してしまうのではないでしょうか。「ダメな子ねえ」といいながら可愛がることによって。戦後日本には、男女平等を歌う民主的な憲法のもとで思想的にはリベラルに育ちながら、親たちに「女なんだから」といわれて泣く泣く高校や大学への進学を諦めた人が大勢います。そのしっかり娘たちは、母親となって目に見える行為としては、立身出世をめざすために子どもをビシビシ教育しているようで、無意識の力で男の子を劣化させてしまっているかもしれません。

 

母親業はやめられても、母はやめられない

ところで、西原さんは今年「卒母」宣言をしています。ちょうどこの連載の第1回「母親業はやめられない」を執筆した後のことでした。第1回の原稿を書き始めた当初、私は母親をやめることと母親業をやめることの区別が曖昧でした。編集者に「母はやめられないですよね」と指摘されて、母親という存在であることはやめられない、と気づいたのでした。西原さんの「卒母」はどちらなのでしょうか。
その後、卒母のススメは新聞連載されて次々と卒母の試みが投書されていますけれども、やっぱり母親の皆さんも区別は曖昧なように見えます。家から出て行く子どもを見送ってさびしい卒母、男捨離とかそうやって強い言葉で家族を捨てていこうと言い聞かせている母たち。その反転ぶりが読んでいると時に痛々しく、怖いと思うこともあります。
例えば反響の大きかった55歳のペンネーム「疲れた母」さんが「努力は実を結ばないのね」というタイトルで書いた投書ではこんな具合です。
「保育園や学校の給食表を冷蔵庫に張り、献立が重ならないよう手作りしていたのに、今じゃカップ麺大好き男に。」
「疲れた母」さんは、丁寧な生活習慣を大切にするよう育てた息子たちが、その教えに反することばかりをやっている様子に「徒労感いっぱいで、私は卒親する気満々だ」そうです。そして最後に、「努力が全く実を結ばない世界があるってこと、教えてくれてありがとう。」と締めくくられていますが、アイロニーっていうには、生々しすぎて笑えません。この人はほんとうに徒労感を抱えているようですし、息子の立場からみればありがた迷惑でしょう。
 母親業を一所懸命に営んできた人ほど、卒母という強い表現に憧れるように思います。まして母が稼いで世話もしたとすれば、どれほどのエネルギーが子どもに注ぎ込まれたことか。現代の母親が卒母したくなるのは、当然かもしれません。そこまで母親業に肩入れしなかった私は、卒母宣言をしたくなるほど熱意はないのですが。自分が母である事は動かしようのない事実ですから。人生のひと時、自分をかたちづくった母であるという関係性を消し去る事などできませんし、余韻は味わってもよいと考えています。むしろ夫や職場や友人や地域などあらゆる人間関係のなかの1つの役割でしかない「母であること」に、世間があまりにも過剰な視線を注ぐのを日頃からやめてほしい。母なんだから、単身赴任までして働くわけにはいかないでしょう? といった、明確な雇用差別は至る所で行われています。週末の新幹線はいまでも単身赴任の「お父さん」ばかりが目立ちます。
 しっかり娘でなくても、子どもがいなくても、母になっても自分の個性を活かせる人生を女性が手にしてはいけませんか。女性だからといって「母親業」にみんなが向いているわけでもないなかで、「母親業」をお任せされても、時に子どもに迷惑ですよね。日本でも産みの親と育ての親がいつも一致してきたわけでもありませんし、母親業と母となることをもっと分離してもいいはずです。そのときようやく、女性が無意識に「ダメ息子」を育て、「しっかり娘」に手渡すという、うんざりする連鎖は繰り返されなくなるに違いありません。

 

1 豊田正義,2001,DV:殴られずにはいられない男たち,光文社新書.
2 配偶者からの暴力に関するデータ,2017(http://www.gender.go.jp/policy/no_violence/e-vaw/data/pdf/dv_data.pdf),内閣府.
3 西原理恵子,新作は「卒母した女性の悩みや第二の人生描きたい」(https://mainichi.jp/articles/20170519/mog/00m/040/016000c),2017.5.22,毎日新聞.
4 フィリップ・ジンバルドー/ニキータ・クーロン,2017,男子劣化社会,晶文社.

Profile

1964年、三重県尾鷲市生まれ、愛知県で育つ。早稲田大学卒業後、シンクタンク勤務をへて東京工業大学大学院修了。博士(学術)、社会学者。現在、早稲田大学文学学術院ほか非常勤講師。主な著書に『子育て法革命』(中央公論新社)、『家事と家族の日常生活:主婦はなぜ暇にならなかったのか』(学文社)、「平成の家族と食」(晶文社)など。