偏愛百景

第10回 高校野球を見ると泣いてしまう大人たち。

東京では作家、愛媛ではお百姓の二拠点生活。毎週やってくる連載の締め切りと愛媛での怒涛の日々を送る。好きなものを残すためなら猪突猛進、実家周辺の景色への「偏愛」から太陽光パネルになる予定の農地を買ったとか。 高橋久美子の原動力は「偏愛」だという。日々の生活が少々不便でも、困ることがあっても、こうしたいのだから仕方ない。 「偏愛」を軸に暮らす様子をつづる、ひとりごと生活記録。

7月末のある朝、ピンポンパンポーンと町内放送があった。「なになに? よう聞こえんな」窓を開ける。「繰り返し、ライブビューイングのお知らせをします……」

私の母校の野球部が、高校野球地区予選の決勝まで残っているというのは知っていたが、決勝戦を市庁舎のスクリーンで観戦しませんかというものだった。

勝てば21年ぶりに甲子園出場だった。

ちょうど愛媛に帰っていた私も朝の畑仕事を中断し、テレビをつけて後輩たちを見守る。勝ってほしい。甲子園行かせてあげたい。親目線なら、この暑さを無事にのりきってくれたらそれでいい。少年たちのよくよく焼けた顔。そろそろ高校野球の時期を10月にずらせないのか?という気持ちも湧いてくるが、始まっているのだから仕方ない。「いま」という二文字が選手の顔に浮かび上がっている大人の何倍も、いましかないと。

試合も終盤、きらきらした眼差しで後輩たちは、どこまでも伸びやかだった。そんな良いエネルギーのままに逆転をしていった。このメンバーで、一日でも長く野球をしてたいんだな。いまが楽しくて楽しくて仕方ないんだな。サイレンが鳴り響き、懐かしい校歌が流れる。私も小さく口ずさむ。

蝉の声が急に大きくなる。彼らの真っ直ぐな眼差しを見る私の目には涙が溢れていた。完全に年やな。日照り続きだというのに、あっちもこっちも、街は感涙の雨で潤っていたに違いない。がんばる人を見ると、なぜ涙が出るんだろう。もう戻れない過去的なのを引っ張り出してしまうからなのか。本当は青春なんてアホくさと思っていた高校時代を、どんだけ美化しとるんじゃ。もう一人の自分がスリッパで頭をしばいてくる。

 

21年前、私は甲子園のアルプススタンドでドラムを叩いていた。甲子園大会が吹奏楽部のコンクールと重なっていたので、現役生の代わりにOBが行くことになったのだった。大学2年だった私は、待ってました!とばかりに、他のOBたちと貸し切りバスに乗り込み甲子園へ向かった。一昨年まで現役で野球応援に行っていたのだから、大体の曲は楽譜を見なくてもすぐ演奏できた。

一勝できたらええね。から始まったのに、どんどんと勝ち進んだ。

「すいませーん。そういうわけでバイト休ませてくださーい」

勝つたび、バイト先に連絡をしながら甲子園近くのホテルに連泊したのだった。毎日、お祭り騒ぎであった。現役生がコンクールを終えて戻ってきても甲子園に居座り続けた。そしてベスト4まで達していた。

 

吹奏楽部と野球部は同士のような連帯感があった。地区大会のときから野球応援には必ず駆けつけた。吹奏楽コンクールの練習も佳境だというのに、応援団やチア部との合同練習もあったし、選手全員にその人がマウンドに立つときの曲とコールがあるので、相当な曲数をさらう必要があった。4番が打席に立つと、「うららーうららー」と吹き、目立った動きのないときはアフリカンシンフォニー、ヒットが出たら、ちゃーらーらーらちゃっちゃっらー、ドンドン!(あれは曲名何ていうたっけな)。1アウトならこの曲、2アウトでこの曲、とまあ、応援団長とコンタクトをとりながら慌ただしく曲を変えた。木管楽器は夏の日差しで割れるといけないので、外用のプラ管(プラスチックの楽器)を持っていくが、生身の人間は一つしかない。暑さにやられる部員も出てくるし、日焼けで顔は真っ赤、夕方帰ってフラフラの状態からコンクールの練習がはじまった。

「ファールボールにお気をつけください」ってアナウンス、まさかねえ……と思っていたら、見事私のオデコに命中し、でっかいたんこぶができた年もあった。

野球応援に行くことを「コンクール前じゃのに!」と迷惑がる先輩もいたけど、私達は心から応援したかったのだ。コンクールのための演奏、コンサートのための演奏、私達はいつも音の頂点を目指して、ほとんど自分たちの感動のために演奏していた。

でも野球応援だけはそうではなかった。100%、目の前でがんばる人のために演奏していた。相手校の吹奏楽部に負けてなるものかという思いも少しあったな。

 

我が野球部は、私の在籍した年間は、いつもシード校に選ばれるけど、ぎりぎりのところで出場を逃した。結果だけを新聞やテレビで見て、大人は一喜一憂した。

吹奏楽部は、毎日ほぼ野球部と同じタイムスケジュールで部活と向き合っていたので、ロングトーンをしながら、マーチング練習をしながら、雨の日も風の日も、彼らが泥まみれになって走ってきたのを知っている。

負けているときにこそ、心を込めて演奏した。試合終了、アルプススタンドの下に整列し、帽子を脱いで「ありがとうございました」と礼をしてくれるとき、心から「おつかれさま」の拍手を送った。ここまで連れてきてくれてありがとう、という気持ちになった。

がんばる人を見ると、涙が出る。それは、がんばりの仕組みを知っているからだ。今日できた即席のがんばりではなくて、年間、もしくは年、10年間、積み重ねてきたものだと知っているから。私達もそうだったから、だから、その重なりのてっぺんの今日を泣かずには見られないのだね。

 

母校はこれまで6回甲子園に行っているが、出場した年に楽器が新調されたりマーチングの衣装が変わったりしている。「吹奏楽部にはお世話になってるから」と贔屓めなのだった。

文化部でありながら、野球部の次にしんどいと呼ばれた我が吹奏楽部は恐怖の夏休み合宿があり、野球部の後援会が甲子園出場時に建ててくれた合宿場を借りて寝泊まりした。あの合宿でたいてい3人くらいは体調を壊した。いま思うと、がんばり方をもっと考えてがんばればよかったのにな。ネットで調べることもできない時代なので、いまの子たちに比べて効率も悪く、無駄も多かったと思う。

 

年生の引退コンサートの、夏の定期演奏会にはみんな見に行くように監督から言われていたのだろう、野球部はみんな見に来てくれた。最後にステージで野球部の部長が吹奏楽部の部長に花束を渡してくれるのも、なんだか泣けるのだった。

 

最寄りの無人駅から、高校へいく始発電車、まだ真っ暗なホームで電車を待つのは、朝練のある吹奏楽部と野球部だけだった。同じ中学校から、甲子園と全国大会と、それぞれの目標をもって私達は朝日よりも早く光っていた。電車の中、テスト勉強をしながらでかいおにぎりを食べた。

 

部活以外、学校という場所が苦手だった私は、それなのに教師を目指していた。自分が先生になっていても、あの日の私を救い出せていたとは思えない。でも、その子が自分を救うための何かを持つことを応援することはできただろう。

部活をやめて勉強して偏差値を上げなさいと言い続けた、あの頃の先生を私は憎んではいない。仕方なかったのだと思う。それぞれの立場があるし、それぞれの描く幸せの形がある。

でも、先生の言うとおりにしなくて良かった。自分の好きなことをやめなくて良かった。

大会で良い成績を残せなかったけど、何も後悔はなかった。未来のためだけでなく、いまのために生きられたからだ。そして、誰でもなく自分で選んだ道だったから。

 

大学へ行って、こんなに自由なんかい。と思った。いままでの学校生活は一体なんだったのか、と怒りを覚えるほどに自分次第だった。多種多様な人々がいたし、いてもよかった。東京へ出てきて、やっぱりうちの大学の(特に軽音楽部の)人たちは、かなりおかしかったなと思う(そのへんは『いっぴき』を読んでください)。ネットがない時代だから、世界が均一化されてなかったんかもね。

 

私は鳴門教育大学という教育大の、初等教育国語科を専修していた。もちろん書くことも好きだったけれど、それ以上に音楽が好きだったので軽音楽部とフィルハーモニー管弦楽団を兼部した。音楽教諭の免許を取るため音楽科に混ざって授業を取ったり、さらに四国大学の吹奏楽部にも入って定期演奏会や大会にも出た。中高と続けた吹奏楽部が学内にはなかったので、他大学でまぜてもらったのだった。

有名な打楽器奏者に大阪から来ていただき、他の大学と合同で、数ヶ月に一度レッスンをしてもらい、暇さえあれば打楽器の練習をする何学部かわからん生活だった。

 

四国大学吹奏楽部の定期演奏会に出演し、先輩に家まで送ってもらうとき、ふと高校時代の話になった。大学では中高時代の話をあまりしてこなかった。暗黒だったからだ。

その日、ぽつんと

「吹奏楽がなければ、死んでいたようなもんです」

と言った。自分でも驚いた。先輩はゆっくり頷いて、

「そっか、吹奏楽があってよかったなあ」

と言ってくれた。

 

吹奏楽も野球も、顧問が代わると、強豪校だったところがそうでもなくなり、全く無名だった高校が県大会を突破するようになる。現に、強豪だった私達の高校よりも、いまはお隣の高校が名門と呼ばれるようになっているようだ。指導者でこんなに変わるということは、高校生たちに大差はないということ。みな素晴らしい可能性を持っているということに私は胸を打たれる。勝てたなら幸せなことだし、良き指導者と巡り会えたこともラッキーだと思う。でも、負けは負けでいいものだ。チーム戦だからこそ、思うようにいかないこともある。でも仲間といっしょに考え、作り、負け、泣いた日々が、もはや勝ちだった。

それで良かったんだ、それ以外なかったんだと思う。

今日、泣きながら甲子園の砂を袋に持ち帰る後輩たちを見届けた。どの子もどの子も、みんな勝ちだ。逃げずにいまに向かった素晴らしい後輩たちへ。

 

 

高橋久美子作家・詩人・作詞家。1982年愛媛県生まれ。音楽活動を経て、詩、小説、エッセイ、絵本の執筆、アーティストへの歌詞提供など文筆業を続ける。著書に小説集『ぐるり』(筑摩書房)、エッセイ集『旅を栖とす』(KADOKAWA)、『いっぴき』(ちくま文庫)、『一生のお願い』(筑摩書房)、『その農地、私が買います』(ミシマ社)、詩画集『今夜 凶暴だから わたし』(ミシマ社)、絵本『あしたが きらいな うさぎ』(マイクロマガジン社)など。近著にエッセイ集『暮らしっく』(扶桑社)がある。

偏愛百景

第9回 毒をもって毒を

東京では作家、愛媛ではお百姓の二拠点生活。毎週やってくる連載の締め切りと愛媛での怒涛の日々を送る。好きなものを残すためなら猪突猛進、実家周辺の景色への「偏愛」から太陽光パネルになる予定の農地を買ったとか。 高橋久美子の原動力は「偏愛」だという。日々の生活が少々不便でも、困ることがあっても、こうしたいのだから仕方ない。 「偏愛」を軸に暮らす様子をつづる、ひとりごと生活記録。

子どもの頃から、何でも食べてしまう癖がある。

道端に生えている草花も、少しちぎって噛んで、苦ければぺぺっと吐き出し、いけるものは食べた。幼稚園のときに園中のサルビアの蜜を吸って園長先生に怒られた。ランドセルには常にビニール袋を忍ばせ、下校中、山菜を採った。春のお目当ては野イチゴだったが、たしっぽ(イタドリ)、ツクシ、ワラビ、フキ、ヨモギ、ビワ、秋は栗、山柿、その季節のものを採って帰り、母と一緒に灰汁抜きをして食べた。

野山に自生する山菜には灰汁がある。それゆえに動物にも虫にも食べられず茂ることができている。灰汁を抜いて調理すれば大体のものは美味だった。

 

野イチゴは実が熟れたと思ったら、翌日には駄目になっていた。柔らかいので雨が降ればすぐ腐るし、あんな美味しいのだから動物や虫だって大好物だ。スーパーに行っても野イチゴは並んでいない。イチゴも美味しいけど野イチゴは更に特別だった。肥料もなにもやってないのに、どうしてこんなに甘く、しかし甘いだけでない濃厚で複雑な味わいに育つんだろう。初夏、私は愛媛へ帰ったら今でも秘密の野イチゴスポットへ行っては、むしむしと食べる。

 

野イチゴの近くには必ずヘビイチゴが生えていた。偽物と言ってはヘビイチゴに失礼だが、苦くて野イチゴとは真逆の味だった。野イチゴと同じ赤いビー玉の形だけれど、粒粒が尖ってプラスチックみたいだし、野イチゴより鮮やかで美しすぎるのが、逆に怪しかった。探さなくてもヘビイチゴはどこへでも生息していた。野イチゴは、大体が茂みの中に隠れている。とびきり美味しいものは、奥へと身を隠していた。

「蛇いちご」その名前からして、食べてはいけないと、見えぬ規制線が張られる。そいつが、この春、私の畑に繁殖しはじめ、蔓が他の野菜に巻き付き、刈るにもトゲがあるので一苦労した。よく見ると中には食べられているものもある。蓼食う虫も好き好き。私が野イチゴを愛するように、どこかの誰かがヘビイチゴを愛してやまないのだ。

 

2023年6月、都内某所。私は近所の広場で友人達と梅の実を拾っていた。黄色い完熟の梅がごろごろと芝生を埋め尽くしている。毎年、ここで大量に梅を拾って梅干しや梅ジャムを作るのが恒例だった。

「完熟で潰れてるんはそのまま食べても美味しいんよー」

と言いながら、私は梅の割れたところは手でむしって、反対側をがぶりと齧った。

「おいしいわあ。もはや杏といっても良いくらいよ」

友人たちはおののいている。

「危ないよ。青梅を食べて死んだ人もいるそうよ」

「そうですよ。青酸カリが入っているっていうよねえ」

「へー。そうなん。でも完熟のは大丈夫よ。毎年こうやって食べてるもん」

こんなおいしい物を生で食べないなんてもったいない。落ちているとはいえ、芝生なんだしいけるだろ。むしろ農薬がないからこっちのほうが安全だ。

そんなことを話しているそばから、私の左下唇が熱を帯びてきた。

「あれ、なんか唇が……ジンジンする」

「ほら! やっぱり! 青梅食べたからですよ!」

いやいや、真っ黄色に熟しとったよ。でも、もしかしたらそうなん? 青酸カリ? 毎年へっちゃらやのに免疫力の低下?

持ってきた水筒のお茶に、熱くなった唇を浸してみる。それは裏庭のドクダミとビワの葉を干してお茶にしたものだった。これも毎年の恒例で、どうせ引いて捨てるなら飲んだらええわ、というところから野草茶作りが始まった。東京の近所を散策し、今では10種類以上の野草を乾燥させてストックしている。

私は何かに再利用できることに喜びを感じてしまう癖もある。パウチのついた袋とか、クッキーの箱とか、コピーの裏紙とか。まだ使えるのだから取っておいて、どんぴしゃり使い所がはまると達成感でいっぱいだ。時には、喫茶店で出してくれる生地がしっかりしたお手拭きを持って帰ってしばらく台拭きとして使ったりもする。エコの精神というより、まだこんなにしゃんとした顔をしている物を、どうしたって捨てる気にはなれない、というだけだ。

そういうわけで、みんなが梅を拾っている間、私はそっと唇をドクダミ茶に浸した。ビワは万病に効く漢方薬だし、ドクダミは体の毒出しをしてくれる。大急処置としてはいいはず。野草茶が効いたのか、その後、唇は勢いを弱めたかに見えた。

 

しかし……翌日の朝、私の左下唇はあひるだった。昨日より腫れ上がっていた。内側にも腫れてご飯が噛みにくい。痛みはないけど何か、しこりみたいなごりごりしたものが入っている感じがする。まずいなあ。青酸カリか(後で調べたら、正しくは青酸カリではないらしい)。

「梅 かじる 口腫れる」

と検索したけど、めぼしいものは出てこない。大体の人が腹痛とか下痢で運ばれていた。青梅は唇にはダメージをくらわさないのか。じゃあ一体なんなんだ。なぜ唇全体ではなく左下だけ? 虫か? 落ち梅にきっと虫がついてたんだ。

こういうときは母に電話だ。

 

「ああ、それは毛虫だろ。梅に毛虫の毛が残ってたんだろ」

「ええ! 毛虫? 毒じゃない?」

「まさかー。黄色で潰れとるくらいだったんだろ? ほしたら毒やか抜けとるよ」

愛媛の近所のおじさんが、梅拾いに行って毛虫にやられて寝込んだと言っていたのを思い出した。風向きで毛が飛んできただけでも顔が腫れるのだそうだ。

「久美ちゃん、梅には毛虫がおるけん気つけときなーよ」

おじさんの声が脳内でこだまする。

 

「ドクダミをように揉んで口に貼り付けといたら治るだろ」

と母が言った。

しかしなあ、昨日よりも腫れているというこの状況は穏やかじゃない。毛虫は遅延性の毒がある場合もあるって書いてあるし。ここは現代医学に頼っといた方がええんでないのか。

 

昨夜、友人たちが帰ってからずっと雨だった。「梅雨」とは美しい言葉だなとこの季節になると思う。唇は腫れているが、そう思う感性はまだ残っていたし、よけいに心が繊細めいていた。「梅雨」……梅の花の頃ではなく、実の頃と雨を合わせたのは誰だろう。雨で一気に梅の実は落ちる。それもまた大粒の雨のようで、色気のある言葉だと思った。

 

長靴をはいて、腫れた唇を舐めたり舌で押したりしながら皮膚科へと歩いた。診療時間の15分前に着いたというのに待合室は人であふれている。

「あのう、予約してないんですが診察ってしていただけますか?」

受付の方は電話応対しながら、「保険証出してくださいね」と言った。相当忙しそうだ。しばらく待ってみたが、どうやら予約がないと診察はできないとのことだった。

この腫れた唇が目に入らぬか。と、マスクをとって唇を見せびらかしてみたが、病院ではこのくらい大したことなさそうだった。昼からの時間帯ならギリ空きがあるとのことで、予約をしてまたてくてくと歩いて帰った。

帰ったら、もう一回病院へ行く気力がなくなっていた。そう思えるってことはそこまで深刻でもなかったということだ。キャンセルの電話を入れて母の言った通り、裏庭の一番強そうなドクダミの葉をちぎって、それをねちゃねちゃになるまで手で揉んで、腫れたところに貼り付けラップをした。ひんやりと気持ち良い。ドクダミの花や葉を焼酎に漬け込んだ虫刺され薬は今年も作ったが、ドクダミを直でいくのが一番効くのだと母は言った。何かあると確かに母はドクダミかアロエで治した。ただでさえ臭いドクダミを潰して直で唇に貼るなんて狂気だと覚悟を決めたが、さほど臭くなかった。

疲れて、ソファーで眠った。

 

 

数年前の正月にも、アホなことがあったなとウトウトしながら思い出す。母がこんにゃくを作ろうと三年もののこんにゃく芋を茹で、食卓に載せていた。籠にこんもりと入った真っ白の芋は、湯気を立ち上らせ夢のように美味しそうだったのだ。母が「それ食べたら駄目よ!」と言ったときにはもう遅かった。

ぎゃーーーーー!!!!

死ぬと思った。「針千本飲ます」とはこのことだ。割れたガラスを飲んだかに喉や食道が痛くて痛くて、七転八倒した。喉が内側にも腫れて、息もしづらくなってきた。家族中大慌てだが、正月で病院もしまっている。牛乳がこんにゃく芋のシュウ酸を緩和するそうだから、とりあえず牛乳を飲めと父に言われて、引きちぎられそうな喉に牛乳を流し込んだ。

2日くらいするとお粥が食べられるくらいには治まった。母いわく、その昔こんにゃく芋は殿様を毒殺するときに使われていたそうなのだ。こんな猛毒を、こんにゃくにしてまで食べようとした人の食欲の凄さを思った。という話を武勇伝みたいにしていいのはムツゴロウさんだけだ。あそこまで行ったらもう殿堂入りだけど、こういう目に合うたび、ほとほと自分の学習能力のなさというか抑えられぬ欲を情けなく思う。40を越えてまだこんなことをしているなんて。学べ、学びやがれ。

思えば私は物心ついてから、口まわりの怪我が多い。全部、好奇心に負けて食べてしまったor飲んでしまった系だ。それを話しだすと長いのでまた後日書くとして、ドクダミという救世主の話をしよう。

 

ベトナムを旅したとき、フォーには必ずミントやレモンバーム、パクチーなどの香草がセットで運ばれてきた。しかも籠にもりもりと。あっさり鶏塩味のフォーには、どれも味が濃すぎると思ったが、そのミスマッチさが癖になった。栄養だって野菜の何倍もある。パクチーはわかる。でも、ミントはかなりハードだし、さらに驚いたのは、生のドクダミも入っているのだ。裏庭に生えている葉っぱのまんまで。

レタスとかキャベツなどといった生易しい野菜ではなく、ほぼ草と言っても過言ではない香草をフォーやタイスキに入れてむしゃむしゃと食べている。暑すぎて野菜が育ちにくいというのもあるのかもしれない。でも、育てずとも勝手に生えてくるものの方が生命力が強いに決まっている。その地に勝手に生えるということは、その地の人の体に必要な食べ物ということで、理にかなっているとも思った。

 

母が子どもの頃に見ていたTV時代劇では、

「ちょっと草を取ってきますね」

と、夕飯の支度をする女性が籠を持って家を出るシーンがあると言う。まゆつばもんだけど、どうやら日本も野菜をいちいち育てるようになったのはわりと近代からだということなのだ。それまでは、庶民は食べられる草(ノビルとかそれこそワラビやタラの芽とか)を食べていたのだと母は語る。なるほど、愛媛であくせく畑をしている自分が馬鹿らしくなってきた。草や。草を食べればええのか。

フォーの上に載せたミントたちは、口中をスースー爽やかなミント臭にした。お陰で、体がバテることなくスッキリと保たれた。ベトナムの人たちは、みんな、何食わぬ顔でむしゃむしゃ草を食べた。ただし、ドクダミは別だった。どのテーブルを見てもみんなドクダミだけは残していた。

口に入れて悶絶した。くせえ。やっぱりくせー! 「良薬口に苦し」といえどもこれはなかなかだ。あの臭さ、忘れられない。でも、私と妹は頑張って生のドクダミを10日以上食べ続けた。結果、あの暑さや湿気にやられることもなく(むしろ帰国の頃には体が軽くなっていた)異国での生活を元気に過ごしたのだった。

 

東京の家の裏庭には、ドクダミ以外にも勝手に生えてくる草がいっぱいある。三つ葉、フキ、ミョウガ、ミント、エゴマ、しそ、パセリ、タイム、ユキノシタ、菊芋……。もはや全く手入れをせずとも、種を撒かずとも雑草の中でも勝手に成長してくる。野菜を植えても、こいつらが勢力を伸ばしてくるので全然育たなかった。

私は、野菜を食べずに、これらの草だけでどのくらいいけるのかをやってみた。2週間は余裕だ。草のように巨大化し腰丈まで伸びた三つ葉を除草もかねて毎日お浸しや、ごま油で炒めて食べ続ける。エゴマの葉っぱもいくらでも伸びるので醤油漬けにしてご飯に載せて食べると最高。ユキノシタは天ぷらにすると美味しい。最近は水引という大きな草がたくさん生えてきたのでよく食べる。あまり味はしないので、ちりめん雑魚と一緒に炒めものにすると、いけなくもない。ということで、6月はほぼ野菜を食べず庭の草で過ごしたが、草刈りもできて一石二鳥だった。

 

さて、唇の話をしよう。

ドクダミを貼り付けて数時間後、夕方には腫れがすっかり治まっていた。嘘みたいな話でしょ。ドクダミが効いたのかもしれないし、毛虫の毛が一本だったから、放っておいてもいずれ治ったのかもしれない。

それにしても毛一本でここまでダメージを食らわせる毛虫ってすごいな。本当に刺されていたら、それこそ病院送りだったのだろう。

梅と毛虫とドクダミと私。誰かが誰かを痛め、誰かが誰かを治癒し、それぞれに作用しながら循環しているんだな、などと上手くまとめてお終いにしようとしています。来年からは落ちている梅は絶対に食べない。多分。

 

 

 

高橋久美子作家・詩人・作詞家。1982年愛媛県生まれ。音楽活動を経て、詩、小説、エッセイ、絵本の執筆、アーティストへの歌詞提供など文筆業を続ける。著書に小説集『ぐるり』(筑摩書房)、エッセイ集『旅を栖とす』(KADOKAWA)、『いっぴき』(ちくま文庫)、『一生のお願い』(筑摩書房)、『その農地、私が買います』(ミシマ社)、詩画集『今夜 凶暴だから わたし』(ミシマ社)、絵本『あしたが きらいな うさぎ』(マイクロマガジン社)など。近著にエッセイ集『暮らしっく』(扶桑社)がある。