第2回 詩の女神と薄皮一枚

テンション高めでこの連載の第1回を開始してから、早くも半年になってしまった。
 「こっちはね、大学で同じ内容の講義をやってんだから、週1ペースでアップしてやりますよ!余裕ですよ」と豪語していた気もするが、その春学期の講義もとっくに終わって、早くも秋学期の中盤を迎えてしまった。
 途中までは担当編集者氏からなんとなく催促の雰囲気もあったのだけど、それも今ではまったく消えてしまった。
 糸の切れた凧が、ネットの大洋にプカリプカリと漂っている。それがこの連載「生き延びるための美学」の現状だ。

事情があるのだ。
 実は一度、幻の第2回を書いてはいたのだ。6月のことだ。
 そう、書いたんですよ。赤穂浪士並みの義理堅さだと思いませんか。
 だけど、これが本当にひどいシロモノだった。
 ちょっとだけ、中身を引用すると、こんな感じ。

「オ~~フロイデ、ニヒトディ~~ゼ~テ~ン♪」
 やばいっすね。パイセンのバリトン、激ヤバっすよ!すごいっす。え?うるさい?黙って聞いてろ?え?なんすか、俺を見ろ?自分に親指向けて、なんなんすか?意味わかんないっす。あ、歌詞が出てきた、始まるっす。
 「フロ~~~イデ!フロイデ!フロイデ!」
 わかったっす!フロイデとフロイトかけてんすね!それでこの曲選んだんすね、すごいっす。パイセン、マジ凄いっす、やばいっす。マジっす。

もう意味わからないでしょ?
 一応説明しておく。僕と精神分析の祖であるフロイト先生が、同じ部活(当時流行ってたアメフト部ね)の先輩後輩になったという設定だ。そして、先輩であるフロイトが僕をカラオケに連れていって、ベートーベンの「歓喜の歌」を延々と聞かせるという絵空事を書いていたのだ。
 なぜそんな意味のないことを思いついてしまったのか、もう覚えていないのだけど、書いているときは、シュールな設定が面白過ぎると思って、二人でカラオケしているシーンだけで4000字も書いてしまった。喫茶店で一人、大笑いしながら書いているのだから、どうかしてる。
 だけど、気づいてもいた。「なんかおかしいな、大丈夫なのかな、これ」とときおり不吉な気持ちになっていた。そこで友人に読んでもらったところ、「正直、何が面白いか全くわからないです、つまんないよ、これ」と真顔で言われてしまったのだった。
 玉手箱を開けた瞬間の浦島太郎級の目覚めだ。討ち入りを終えた後の赤穂浪士級の大後悔だ。あるいは千年の恋が冷めて、大量のリボ払いが残っていたときの心境だった。
 「俺は一体、何をやってるんだ、どうかしてる!」
 そう言われてから読み直すと、全然面白くなくて、ただのバカに見えるから不思議だ。
 そういう事情で、すっかり心が折れてしまった。それで、この連載のことは忘却することにしたのだ。

 

薄皮一枚

そもそも私はネットにまとまった文章を書くのが、どうも苦手だ。
 フロイトが「フロイデ!」とシャウトしているような謎のカラオケ場面に夢中になってしまうように、私の場合、文章を書いていると、ちょっとおかしくなってしまうときがある(普段は完璧な小市民として生きているのに)。
 そういうものが、そのままワールドワイドウェブに放り出されて、不特定多数の人に読まれてしまうと、裸で大通りに放り出されているような気持ちになってしまう。
 ほら、炎上とかって、裸だと気づかずに裸で歩行者天国に出ちゃうようなものじゃないですか?
 ネット怖いよ。

その点、本や論文などの実際に紙媒体で出版されるものはいい。
 出版されるまでに時間がかかるので、その間にクールダウンができるし、書いたものには編集者のチェックが入るからだ。
 「すいません、言いにくいんすけど、チャックがほんのり空いたり空いてなかったりしてるし、お尻のところもちょいと破れてるような気もしないではないような・・・あと、鼻毛もね、春の新芽みたいっすよ、いやこれも季節ものみたいで俳味があるっちゃあ、あるんですけどね、へへへ」と編集者氏が傷つかないように言ってくれる。
 すると、私もチャックを閉めて、鼻毛を切って、ズボンに薄皮一枚をパッチワークすることができる。みっともないことにならないように、自分を取り繕うことができる。

そう、薄皮一枚って、本当に大事なのだ。
 私たちの生きている世界は、自分を偽らないこと、「ありのままの私」であること、自然体であることが良きことで、仮面をかぶらず、素顔のままでいることが推奨されがちだ。
 自己啓発本なんか読むと、自分の中に潜んでいる「本当の私」を発見して、本当にやりたいことに正直に生きられると、元気が出てくると盛んに語られている。
 「ユー、その薄皮一枚、脱いじゃいなよ」って、このデスペラートな新自由主義社会は言ってくる。

だけど、実際のところ、薄皮一枚をきちんと羽織っていることができなくなると、私たちはとても傷つきやすくなってしまう。
 ありふれた心理療法家としては、どうしてもそう思ってしまう。
 心理療法の仕事をしていると、その薄皮一枚がどうしても手に入らなくて、苦しんでいる人に出会うからだ。
 自分からひどい臭いが漏れ出しているのではないかと不安になったり、周囲から考えを見抜かれているように感じてしまったり、つい大切な人に剥き出しの悪意をぶつけてしまったり。
 自分のことをうまく取り繕えなくて、薄皮一枚をうまく羽織っていられないことで、人は傷ついてしまう。
 当然だ。裸で道に放り出されたら、誰だって怖い。
 そういう人が、どうにかこうにかして薄皮一枚を手に入れるお手伝いをするのも、心理療法家の大事な仕事なのだ。

心理療法というと、もしかしたら服を脱がすイメージがあるかもしれない。
 お医者さんに行ったら、服を脱いでもらって、体の診察と治療をするわけだけど、同じように心理療法は普段着込んでいる心の衣や鎧を脱ぐところだというイメージがある。
 それはそれで間違ってはいなくて、そういう場合もあるのだけど、それだけじゃないのもまた事実だ。
 服を着るためのお手伝いをするのも、心理療法なのだ。

 

詩の女神は隠す

生き延びるための美学とは、この薄皮についての心理学だ。

ラ・フォンテーヌという作家の「寓話集」という作品に、真実の女神と詩の女神を描いた挿絵がある。
 その絵の中で、真実の女神は裸だ。そして、その裸を見せつけようとしている。「ワタシを見てチョーダイ」と言わんばかりに、ガバーっと自分を晒している。
 だけど、面白いことに、詩の女神は、そんな真実の女神の陰部に、布をかけようとしている。恥ずかしいところを、後ろから隠してあげようとしているのだ。

そう、詩の女神、つまり美の神様とは隠す女神なのだ。モザイクをかけ、マエバリで大切なところを隠す。剥き出しで、傷つきやすい部分に、薄皮一枚をかぶせてあげて、見えないようにしてあげる。生々しいものをオブラートに包む。
 美とはこの薄皮のことだ。心は生々しくて、傷つきやすい。だからこそ、心は薄皮一枚を必要とする。美はそのようにして、心を覆い、守る。

だから、友人にどうしても言わなきゃいけないけど、言ったら傷つけてしまうかもしれない事柄について、伝わるための言葉を入念に選んで「その鼻毛、春っぽいよ、生命力感じるなぁ」と婉曲に伝えるとき、あなたは生き延びるための美学の中にいる。
 あるいは、職場で恥ずかしい大失敗をしちゃった次の日に、本当は同僚に顔を合わせることができないと思っているのに、それでもなんとか普通を装って出勤しようとしているとき、あなたは生き延びるための美学の中にいる。
 Facebookで楽しそうな日常だけをアップしているリア充が、そうやってつらい自分やみじめな自分をキラキラしたもので覆っているとき、リア充は生き延びる美学の中にいる。

私だって同じだ。
 おかしな文章を書いてしまったことを教えてもらって、原稿をなかったことにしているとき、そして今のようにボロだらけの原稿を必死に推敲して読めるものにしているとき、私もまた生き延びるための美学の中にいる。

取り繕うこと、装うこと、隠すこと、猫を被ること、きれいに見せかけること、そういう薄皮一枚は私たちが生き延びるために不可欠なものなのだ。

それじゃあ、その薄皮は何によって可能になるのか?
 その問いへの答えは、「裏方と時間」ということになるのだけど、その詳細は次回以降に譲ろう。
 あるいは、その薄皮の正体とは何か?
 自我だ。と言いたいのだけれども、やはりその詳細は次回以降に譲ろう。

生き延びるための美学は、まだまだイントロダクションなのだ。
 長い長いイントロダクションで、本編をデコレートする。薄皮一枚を張り巡らす。
 そうやって、生々しいものを覆う。それは、心の健康のために、とても大切なものなのだ。
 だから、ボロを出す前に、薄皮一枚をうまくかぶれているうちに、この文章も終わってしまおう。

それでは皆様、ごきげんよう。
 お次はまた半年後!
 にならないといいなぁ。

 

 

1983年カナダ生まれ。京都大学教育学部卒、京都大学大学院教育学研究科博士後期課程修了。沖縄の精神科クリニックでの勤務を経て、現在、十文字学園女子大学専任講師。博士(教育学)・臨床心理士。2017年3月、「白金高輪カウンセリングルーム」を開業。著書に『野の医者は笑う―心の治療とは何か』(誠信書房2015)、『日本のありふれた心理療法―ローカルな日常臨床のための心理学と医療人類学』(誠信書房2017)、そして翻訳書に「心理療法家の人類学―こころの専門家はいかにして作られるのか」がある。

白金高輪カウンセリングルーム

第1回 心理療法家の友ヒッピアス

美とは何か?――芸術家でも、女優でもないわたしたちにとって、それはどこか遠い世界の問いのように感じられるかもしれません。だけど実際には、日々わたしたちは美しさや醜さに右往左往しながら暮らしています。ふと駅のトイレで自分の顔が鏡に映ったとき、わたしたちはそれがいつもより少し疲れて見えただけで、恐ろしく動揺します。また、なかなかイケメンではないか、といい気分になったりもします。実は自分たちが思っている以上に、美醜の問題は生きていくことを支えてくれたり、困難にしていたりするのです。 心理療法家として、美をめぐって苦悩する人との話し合いを行ってきた著者。本連載では、人がいかに見かけに傷つけられ、見かけに救われるのか。生きていくうえで、美醜とは心にとっていったい何なのか?といったことを考察していきます。

生き延びるための美学。

編集者から「タイトル、堅苦しすぎ的な気もするんで、ほら、もっと、若い世代にアピールするよ的な、感じがあれば、とか的な」と言われて、ムカついたので、ジャラジャラした感じに直してみる。

「この超タフでデスパレートな世の中を、ギリギリでいつも生きていたいから、美について考えてみるんだ、俺たちは」的なのでどうですかね?
 だめ?ちょっとジャラジャラしすぎか。そうか。じゃあ、KAT-TUN的な要素を完全に脱臭してみますか。女子高生風にしてみる。

「ぃきるのはまぢ、っらぃときもぁったから、かぁぃぃにつぃて、ほんきだしてかんがぇてみたょ。。。ぁたし。。。」
 だめだ。これは自分でもわかる。頭がおかしくなりそうだ。読みにくい。もっと普通にいきましょか。

「生きづらい世の中をサバイブするために、美について考えてみませんか?」。
 うん、これくらいの感じがちょうどいいのではないか。ビジネスセミナーっぽいのがちょっと気になるけど、まあいいか。なにもかもがビジネスになってしまう世の中なんだから、ちょうどいいのかもしれない。

じゃあ、そうしよう。「美をサバイブする」。これがテーマだ(だけど、やっぱりタイトルはカッコいい方がいいから「生き延びるための美学」にしてほしいなぁ)。

とまあ、いろんな文体を試しているのには理由がある。先取りして結論に触れてしまうと、生き延びるための美学では、「何を語るか」ではなく、「いかに語るか」が重要だからだ。
 喋っている中身ではなく、その喋り方にこそ美は宿る。そういうことを考えてみたいんだけど、まあゆっくりいこう。ということで、文体がときどき変わるけど、お付き合いのほどよろしくお願い申し上げますです候。
 
 美をサバイブする。
 なんだそりゃ、と思われるかもしれない。「美術館って牛の化け物がでてくるような迷宮だったっけ?」とか「音楽会って楽器の中に機関銃が混じっていて、ハープの音色と共に乱射してくるっけか?」とかと思われるかもしれないけど、勿論そんなことはない。
 美術館も音楽会も安全だ。たまには実存的な稲妻に打たれる人もいるかもしれないけど、防弾チョッキを着ていくべきところではない。
 だから、この連載で扱われるのは、そういうところで陳列されていたり、鑑賞されたりする美ではない。というか、そもそも、そういうことを語ることは、私にはできない。
 だって、タイトルに「美学」と入れてはみたけど、私は美学者ではないからだ。ごめんなさい。「看板に偽りあり」だ。とは言え、世界には看板以外には何もない、というのも本連載のコンセプトなので、美学者じゃないのに美学を語ってみます。その点、ご承知おきくださいませ。

じゃあ、お前は何者なのだ?と聞かれちゃうだろうから、先んじてお教え差し上げよう。
 私は心理療法家だ。
 「ぇ。。。しらなぃ。。。っらぃ。。」と先ほどの女子高生の声が聞こえる。確かにあまりメジャーな仕事ではないかもしれないね。ほら、世間的にはカウンセラーと呼ばれている職業のことですよ。
 いいかな、そこの女子高生。心理療法家って、心の治療を行う仕事なんですよ。毎日ね、小さな面接室で、クライエントと二人きりで話をするんです。他では話せないシリアスな話を聴くんです。それで、私も理解したこと、思ったことを伝えるんですよ。そうやって、色々な困りごとについて、一緒に考える仕事です。結構大変ですよ。楽な仕事じゃないからね。いいかな?
 
 とにかく、私は心理療法家だから、フロイトとかユングとかの深層心理学は学んできたけど、美学を学んだわけではない。
 だから、「初期ルネサンスにおけるジョット的人間」とか「シャガールにみるロシア農村的イマジネール」みたいなことは一切わからない。
 そうじゃなくて、もうちょっと生々しくて、危険で、不安に満ちた美しさや醜さが、私の関心事だ。クライエントたちが、自分の人生を苦しめたり、癒したりする美しさや醜さについて語るからだ。
 そう、私たちが生きている毎日の中にある美が、この連載のテーマだ。そして、それは実は美学以前の問題を扱うことを意味している。
どういうことだろうか?

 

偉大なクソリプおじさん

美学とは何か。
 それは「美とは何か?」を問う学問だ(今道友信というスーパー碩学がそういっていた)。
 そして、「美とは何か?」を最初に問うたのはソクラテスだ。
 というか、私たちが「○○とは何か?」と一歩立ち止まって考えるようなことは、大体ソクラテスが先に考えている。
 
 この人はなかなか厄介なおじさんだ。毎日、アゴラと呼ばれる広場に出て行って、そこで得意げに話をしている賢そうに見える人に絡んでいくのを日課としている。
 もし、現代に生まれていたら、一日中Twitterに張り付いて、手あたり次第バズってるTweetに絡んでいって、クソリプおじさんと呼ばれていたことだろう。
 だけど、ソクラテスは偉大なクソリプおじさんで、彼が色々な人に絡んでいって、それを弟子であるプラトンがTogetterみたいにしてまとめてくれたおかげで、今私たちは偉大な知的遺産に恵まれている。
 そう、ソクラテスがしつこくクソリプを繰り返したおかげで、「真とは何か?」「善とは何か?」「愛とは何か?」ということを、私たちは考えることができるようになった。その果てにiPS細胞とか「中動態の世界」とか、そういう最先端の学問の結晶がある。
 
 そして、ソクラテスは「美とは何か」についても、最初に問うた。その様子は「ヒッピアス(大)」という作品に描かれている。
 ふしぎなタイトルだ。これは別にヒッピアスが今大便してますよーという意味の、小学生男子の使う暗号ではない。「ヒッピアス」という作品が二つあって、その長さに応じて「ヒッピアス(大)」と「ヒッピアス(小)」に後世の人が分けたというのが実情である。
 それはともかく、「ヒッピアス(大)」は、ソクラテスと若くて賢いソフィストであるヒッピアスの対話編だ。ソフィストというのは、うまく喋ることを訓練された人たちのことである。彼らは「何を喋るか」よりも「いかに喋るか」が大事だと思っていた人なので、私たちの「生き延びるための美学」にとっては偉大な先輩だということになる。
 その先輩ヒッピアスは、「俺はね、何でも知っているんだよ。賢いからね」と調子に乗っていた。Twitterによくいるタイプだ。すると、Twitterパトロールをしていたソクラテスがいつものように慇懃無礼に絡んでいく。クソリプを飛ばす。君はとても賢いらしいし、僕もそう思うんで、美について教えてくれないか?と問うのだ。
 自信満々のヒッピアスは「そんなの余裕だよ、だって僕ちゃん、かなーり賢いんだもんね」と余裕しゃくしゃくで答える。

 

ソクラテス@かなり無知です

美とは何か。それは美しい乙女のことである。ヒッピアスはそう答える。
 すると、ここからソクラテスのスーパー性格の悪いクソリプが始まる。

「そうだと思うよ。そうだと思うんだけど、僕の友人にね嫌な奴がいてさ、そいつだったらこういうと思うんですよ。ほら、美が美しい乙女だとすると、すべての美しいものが美しいのは、美しい乙女によってである、ということなのですかな?なーんて、僕の友人だったら言ってくると思うんだけど、どう思う?」

ちょうど140字でクソリプを飛ばす。ソクラテスのいつものやり方だ。
 とは言え、このクソリプはもっともなことを言っているので、窮したヒッピアスは、また別の答えを絞り出す。
 美とは何か。黄金のことだ。そうTweetする。
 またもやソクラテスはひっくり返す。同じように「じゃあ、美しいものには黄金が含まれているってことね?(´∀`)」
きっとヒッピアスはムカついただろう。「ソクラテス@かなり無知です」という失礼千万なアカウントを、ブロックしてしまおうと思ったかもしれない。だけど、プラトンはすでにリツイートを始めているし、ほかのフォロワーもみているから、無下にブロックすることもできない。それにヒッピアスは結構いいやつだったから、きちんともう一度答える。
 美とは何か。「立派な生き方をして、親を弔い、子供から弔われること」
 ソクラテスはまた同じ手口でひっくり返す。「いや、僕はそう思うよ。そう思うんだけど、僕の友人がね、さっきみたいに言うと思うんですよ(´艸`)」
 とうとうヒッピアスはぶちぎれる。

「そいつはなんて嫌なやつなんだ!」

すると、ソクラテスはこう言う。これがまたふるってる。
 

「彼はそういう男なのですよ、ヒッピアス。気の利いたところがなく、どこにでもザラにいる屑みたいなやつで、真実以外は何も気にかけない、といったね。」(「ヒッピアス(大)」プラトン全集10巻 岩波書店)

 
 超絶カッコよくないですか?
 ソクラテスは自分の友人のことと称して、自分のことを「気の利いたところがなく、どこにでもザラにいる屑みたいなやつで、真実以外は何も気にかけない」とのたまうのだ。
 大学生だったころ、私はこの言葉に心を深々と撃ち抜かれた。かっこよすぎる。人間かくあるべしだ。そうだ、俺もソクラテスみたいになろう。終生を学問に捧げ、学者として生きてくのだ。そう心に誓い、大学院に進学すると決めたのだ。
 とはいえ、その3か月後くらいにニーチェから「神は死んだよ、真実とかもないからね」と言われてしまったので、「気の利いたところがなく、どこにでもザラにいる屑みたいなやつ」だけが残ることになり、今の私に至る。
 
 本題に戻そう。
 何が起きていたのか?ソクラテスが「美とは何か」と問うたのに対して、ヒッピアスは「何が美なのか」を答えた。このディスコミュニケーションが「ヒッピアス(大)」という物語の構造だ。
 そして「何が美なのか」ではなく「美とは何か」を問うことによって哲学の扉が開く。そのことによって、個々の事柄を超えたところにある何かに開かれていくからだ。そう、そこから美学が始まる。

 

わが友ヒッピアス

ここから、美学のめくるめく世界を綴っていくことは、もちろん私にはできない。
 プラトンが美のイデアについて語ったことや、中世の僧侶たちが美を神の現れとしたこと、カントが美の根拠としての主観を「悟性と構想力の遊動」と喝破したこと、そして美を感じるときに脳の報酬系の部分が反応していることについて語ることは私にはとてもできない。
 美学者は「美とは何か」に答えようとしてきた。美を美とならしめているもの、美の背景にあるものについて、手を変え品を変え語ってきた。イデアから神へ。神から主観へ。心へ。そして脳へ。美の裏側について、美学は語ってきた。
 
 だけど、私は美学者ではない。残念ながら、心理療法家だ。だから、美学者とは違った道を行こうと思う。このとき、私たちはヒッピアスが歩いていた道の方に行ってみたいと思う。そう、ソクラテスではなく、ヒッピアスこそが、私たちの同伴者だ。
 だって、実際のところ、ヒッピアスはなかなかいいことを言っているではないか?
 「美とは何か?」と問われて、ヒッピアスは「美しい乙女」「黄金」「立派な生き方をして、親を弔い、子供から弔われること」と答えた。
 そのへんの女子大生に、「美とは何か?」と聞いてみるとよい。

「ジャニーズ!」「HeySayJump」「札束」「ジャニーズ!」「お正月に久しぶりに会ったおばあちゃんの笑顔」「ジャニーズ!」「EXILE!」「ジャニーズ!」「ジャニーーーーーズ!」

ものすごいクールな女の子とものすごい気立てのよい女の子が二人混じりこんでいるみたいだけど、それも含めてヒッピアスとほぼ同じことを彼女たちは答えている。
 ヒッピアスは性愛と美について語り、資本主義と美について語り、家族と美について語っていた。そう、ヒッピアスは美のイデアではなく、自分が生きていくうえでの美について語っていたのだ。
 よく考えてみると、それこそが心理療法家である私の関心事ではないか。美は人生から何を奪い、何をもたらすのか。そういう話を、私は小さな面接室で日々聴いているではないか。
 
 痩せても痩せても自分を醜く感じてしまう話。美しいキャリアになればなるほど自分が何なのかわからなくなる話。ゴミが散乱し、吐き気を催すほどに汚れた部屋をどうすることもできない話。そして、愛する人に裏切られたあと、一人で見た夕焼けの話。
 私はそういう話を聴き、そこにある美しさや醜さがいったい何であるのかを一緒に考える。話し合う。そのとき、私たちは美のイデアについて考えたり、アプリオリに生じる「悟性と構想力の遊動」について考えたりするわけではない。そうではなくて、その夕焼けが彼や彼女にとってなんであったのか、その個人的で、とてもパーソナルな意味を話し合う。そう、私たちはアポステリオリに話し合う。
 
 だから、この連載はヒッピアスと共に歩もうと思う。ヒッピアスのように、生きる上での美について考えてみようと思う。
 わが友ヒッピアス。美学が始まろうとするそのすぐ手前で、ソクラテスをブロックせずに、リプを続けたことで後世に名を遺したこの悲しいソフィストと共に、歩んでみよう。

 

桃に傷つけられ、桜に癒される

生き延びるための美学。
 最後に私たちが何について考えていくのかをもう少し明確にするために、講義中に大学の学生たちに行ったアンケートの結果を抜粋しておこうと思う(この連載は講義を基にしているので、そういうことも可能なのだ)。
 提示したクエスチョンは二つだ。
 一つ目は「あなたが美しさあるいは醜さに傷ついた時のことを教えてください」(ちなみに、この連載では美は「美しさBeauty」ではなく、「感性的な質Aesthetics」と定義しているので、美しさだけではなく醜さも含んでいる。ほら、そもそも美学ってAestheticsの訳なわけだし。とはいえ、反論がある人は『美と深層心理学』という私の著作を読んでください。「ちょっとそういうマーケティングには乗れないなぁ」と見抜かれたあなたは、とりあえず同意しておいてくださいませんか?)。
 すると、以下のような答えが得られた。
 
 「朝携帯のアラーム止めた後、真っ暗な画面にうつった自分の寝起きの顔に圧倒的絶望を感じた」(コメント:「自分」とは不意打ちで現れるものであることを示す素晴らしい観察だ)

「通学路にある猫の死骸が日ごとに酷くなっていくのを見ると嫌だなと思う」

「誰でもいいから手当たり次第付き合って、やることやってまた次っという恋愛をしてたことを思い出すと醜かったなと思います」(コメント:そういう時期もありますな)

「とても大切なものを大切に保管していたら、大事に保管しすぎて逆に傷がついていてとてもショックだった」

「アトピーで痒さに耐えられず掻き壊したあとの皮膚を見たとき」

「はりきって髪の毛もやっていざメイクって思った時の化粧ポーチが汚いとき」(コメント:俳味があります)
 
 当然のことながら、傷つくパターンは醜さに傷つくというものが多い。それにしても、女子大生というのはいろいろなものに傷つくのだなぁ。
 美に傷つけられたパターンもあった。「桃を丸かじりしてそのまま寝て朝起きたら唇腫れた」というやつだ。これには感心した。桃の美しさと、(アレルギー反応なのだろうが)次の日に腫れた唇の桃っぽい感じの重なりが、俵万智的ポエジーを感じて、いいなぁと思った。
 
 もう一つ、「あなたが美しさあるいは醜さに癒された時のことを教えてください」という質問もしてみた。以下の答えがあった。
 

「イケメン美大生とご飯するだけで心の病みが軽減した気がした」

「自分よりメイクが下手だったり、太っていたりする人を見て安心してしまう」(コメント:ラカンが喜びそうな観察ですな)

「疲れた時に見るネコの写真に癒される」

「疲れ果てて何もする気が起きない時にアイドルの動画を見ると安眠できる」(コメント:美とは慰めるものなのですよ、フロイトも言ってました)

「とんでもない美少女が顔も性格も悪い私に笑いかけてくれたこと」

「テスト週間明けの自分の部屋の汚さで、テストを乗り切った達成感を感じる」(コメント:お疲れ様)

「スッピンがオシャレな友人が化粧張り切りすぎてむしろケバくなってたとき」
 
 どれも味わいがあっていい。そこはかとない悲しみがいいですよね。
 個人的には「桜の写真を撮る彼氏の後ろ姿」という回答もあって、これはポエジーを感じた。桜が美しく、その桜を美しいと思っている彼氏が美しくて、それを美しいと思っている彼女自身も美しさに包まれているという場面設定に、「いいなぁ、若いって」と思ったのだった。
 
 これだ。これが生き延びるための美学だ。
 私たちは生きる中で、美しいものに癒され、そして傷つけられる。あるいは醜さに脅かされ、そして慰められる。
 だから、ソクラテスのようにではなく、ヒッピアスのように美について考えてみようと思う。美学の一歩手前で、ゴチャゴチャと考えてみたいのだ。
 ギリギリで生きていたい、というか生きざるを得ない人のために、美について考えてみよう。私たちが生きる上で切実な美について考えてみよう。
 「ぇ。。。まぢ、それって、ぁたしのははなしじゃん」って呟いているあなた。そう、これからあなたのための美学を始めようと思うのだ。
 
 ということで、そういうことをやってみようと思うのでございますのですわよ、候。
 

1983年カナダ生まれ。京都大学教育学部卒、京都大学大学院教育学研究科博士後期課程修了。沖縄の精神科クリニックでの勤務を経て、現在、十文字学園女子大学専任講師。博士(教育学)・臨床心理士。2017年3月、「白金高輪カウンセリングルーム」を開業。著書に『野の医者は笑う―心の治療とは何か』(誠信書房2015)、『日本のありふれた心理療法―ローカルな日常臨床のための心理学と医療人類学』(誠信書房2017)、そして翻訳書に「心理療法家の人類学―こころの専門家はいかにして作られるのか」がある。

白金高輪カウンセリングルーム