第11回 没入すること、10歳前後であること

内田樹先生と三砂ちづる先生の往復書簡による、旧くてあたらしい子育て論。ともに離婚により、男手で女の子を育てあげた内田先生と、女手で男の子を育てあげた三砂先生。その経験知をふまえた、一見保守的に見えるけれども、実はいまの時代にあわせてアップデートされた、これから男の子・女の子の育て方。あたらしい世代を育てる親たちへのあたたかなエール。

第11便・A

当時の女の子たちは失神していた

 

内田先生

お便りありがとうございます。ご無沙汰してしまいました。今年、2022年の夏も暑いですねえ。38度とか40度とか・・・体温より高くなってきました。この夏、沖縄、八重山によく行っていますが、そちらでは大体30度前後、32、3度より上がることはないですから、日差しは強いものの、風が吹きますし、東京より涼しい感じがしますね。沖縄県はまさに避暑地の様相を呈してきました。

ゲームやガジェット。おもしろいんですけどねえ、子どもたちが夢中になるのも、わかるんですけどねえ。e-スポーツの時代ですから、子どものみならず、若者も大人も夢中だし、世間的にもみとめられているわけです。世間の母親たち(父親もですが)どうやって小学生、中学生くらいの子どものゲーム時間を制限するか、に苦慮するというか、一体どの年齢でこどもをこういうことに曝露させていいのか迷う、というか、そんな感じだったと思うんですが、いまや、親たち自身もゲーマーですからね。新型コロナパンデミックで小学校でもタブレットが供給されるようになりましたし、もう、次世代は生まれた時からこういう世界にすっかり親和性のある形で育っていきます。どうしようもない。それでも、なお、親たちにためらいが残るのも、この世界が、耽溺するほどに魅惑的であり、その世界に没入してしまうことが、わかっているからですね。

その耽溺が、いわゆる「没我」の世界、「ゾーンに入る」世界か、と言われるとね、それはやっぱり、なんだかね、ちがう、と思いますよね。前回のお便りの最後に書いてくださっているように、身体的に「ゾーンに入る」ものすごく気持ちの良い経験、というのとは、おそらく異なる。ゲームの世界で「限界を超え」、「自我をつきぬける」経験自体は、できるのかもしれないけれど。おっしゃるように、私たちが少年少女だった頃にゲームやガジェットはありませんでしたが、すでにマンガや映画、音楽に小説、そういったものはありましたし、十分に魅力的でした。活字の小説より、さらに、マンガ、生演奏の音楽より、さらに、レコードやカセットに録音された音楽、そういった、もう、一手間かかったもの、あるいは視覚的に強調されたもの、繰り返せるもの、の方が、ずっと「没入させる力」は強かった、と思い出します。

1950年代生まれの私の世代は、黎明期にあった少女マンガと共に育ってきたので、マンガへの没入感は子どもの頃から親しみのあるものでした。普通の本もかなり読んでいましたが、いわゆる小説などとは、没入感が異なることは、初めから意識できました。小学校に入る頃から「少女フレンド」を読み始め、「なかよし」、「りぼん」、「マーガレット」、「少女コミック」と、成長とともに精緻化されていく少女マンガの世界に耽溺していったのは、この時代を生きた女の子たちの喜びでしたね。少年ジャンプが創刊されたのは小学校4年生の時でしたから、マンガ界は活気付き始めていました。大島弓子のデビューにも萩尾望都のデビューにもリアルタイムで立ち会ったことは幸運でしたし、中学校の部活をテニス部にしたのも志賀公江の「スマッシュをきめろ!」(「エースをねらえ!」の大ヒットで日本中の中学生がテニス部に入るようになる少し前のことです)を読んでいたせい、寝ても覚めてもこのマンガの世界に生きていて、初めてラケットを手にした時の喜びを忘れることがありません。「ポーの一族」、「トーマの心臓」は、のち、没入し過ぎて、勉強にならないため、高校時代の受験前には、単行本を新聞紙で包んだ上に、紐をかけて、簡単には出せないようにして、ベッドの奥におしこみました。やることがあまりに原始的で、かわいいものです。受験が終わった後、まっすぐ向かったのは、当時マンガ立ち読みし放題だった大阪の駸々堂書店で、竹宮惠子の「ファラオの墓」を立ち読みで読破しました。まだ、マンガ喫茶とか、なかった頃の話です。何時間、いたんだろう。それこそ没入しすぎて覚えていません。なんと、寛容だった駸々堂さん、ありがとうございます。ごめんなさい、竹宮先生、全部立ち読みしてしまって・・・。その後、精華大学学長になられた竹宮先生に(内田先生、素敵な対談本を出しておられますね)、B L(ボーイズラブですが)を卒業論文のテーマにした4年ゼミの学生が、長い質問の手紙を出したところ、とんでもなく丁寧、かつ、内容の濃いお返事をくださって、一学部生にここまでおつきあくださる竹宮先生に感服しました。再度、心の中で、「ファラオの墓」立ち読みしてごめんなさい、と謝ることでした。

音楽も、まことに忘我の経験。そういえば、当時の女の子たちは、失神していました。きっとよくおぼえてらっしゃいますよね。1960年代から、そうですねえ、80年代ころまででしょうか。世界中のロックコンサートで、日本のグループサウンズのコンサートで、女の子たちは、きゃーっと言って、失神していたのです。プレスリーが踊れば失神し(これは50年代末かも)、ビートルズが日本に来た、と言っては失神し。マイケル・ジャクソン(同い年です)のコンサート映像では、失神する女の子をカメラで追ったりしていました。それがひとりやふたりではないのですよね。同時代の世界中の女の子が同じような音楽を聴いて失神していた。それが、ある時から、失神しなくなった。90年代くらいからは失神しなくなったんじゃないでしょうか。コンサートでの熱狂は今も変わらず続いていて、ある意味ずっと大規模にもなったと思いますし、小さなライブハウスでの熱狂も、ファン心理も、以前より重層的で深いものになっているようですが、でも、いまどき、誰も失神しません。あるとき、これはなんだろうなあ、なにがかわったんだろうなあ、と考えたことがありますが、よくわかりません。調べてみたことがありますが、誰もこういうことを研究している方は見つかりませんでしたし、私もわからない。当時の音楽やグループが特別だった、ということもないように思います。音楽は当時の流れを引き継いで、ずっと進化しているのですからね。これって、ひょっとしたら、内田先生の言われる、幼い頃の「ゾーンに入る」とか「フロー体験」と、なんらかの関わりがあったのではないか、とふと、思ったりしましたが、おそらく違うな、と、書きながら、思っている。「忘我」の「フロー体験」と、「失神」とは、方向性が違います。

前回のお便りで、私たちが例としてあげている幼い頃の「忘我」の経験は、サンゴ礁の海で海に溶けてしまったり、道端の植物にこころうばわれてじっとみいってしまったり、夏の日差しのもと、冷たい川の流れの中で100%の気持ちよさを経験したり、風の中、竹と同化したり・・・それはすべて、なんらかの形で、人間がつくりあげたものではない環境、というか、自然のなにかに接することで、起こってきていることでした。音楽やマンガやゲームに没入すること、あるいは、アカデミックハイ。あるいは、書くこと、創作活動における、先が見えてくるような、ハイな経験。それらは全て、人間の記号的な知的作業のうちに営まれていることです。ところが私たちが例に挙げている子どもの頃に経験する「ものすごく気持ちの良いこと」は、人間の記号的な知的作業とほぼ関係ないところで、突然、その世界に“ほうり込まれた”ようになって、その世界と一体化する、という形で立ち現れていますね。ありていな言い方をすれば、“自然”に同化させられている。

これらの幼い時の身体感覚は、ゲーム、ガジェット、音楽、マンガ、映画、アカデミックな作業、執筆・・・なんでもいいのですが、人間の“知的営み”に入るようなものへ没入感よりも、「先駆的に」、あるもののような気がします。母親のおなかのなかで育ち、この世に生まれてきて、いったんは、きりはなされたような状態にありながら、それでも生まれてきた人の感覚は完璧で、幼い人はおそらくこの世界と全て繋がっていることを全身で理解している。おそらく乳幼児は、すべてこれ「フロー体験」みたいな感じで生きているのではないかと思います。産む側の女性の経験を私はずいぶん聞き取りしてきていますが、文字通りの「フロー体験」、つまりは、ものすごく気持ちがよくて、時間の感覚がないような、自分が周囲に溶けてしまったような感覚をよく語ってくれます。お産の時にそういう感覚を持つ女性は少なくないのです。こういう母親と生まれてくる子どもの感覚はおそらく一致しているのだと思います。その感覚を、科学的には証明せよ、といわれても、することの難しい事案ですから、なんとも言えないのですが。

「フロー体験」そのもののような赤ちゃんは、その後の人生を生きていくために、首がすわり、腰がすわり、立ち上がり、言語を獲得し、周囲と言語や身体的な身振りでコミュニケーションをとるようになり、五感が分化していき、その五感で扱えるものに対処するようになっていくプロセスの中で、その「フロー体験」のようなものは薄れていき、それこそ「人間社会」に適応できるようになっていく。でもそういう中でも、自分とは異なる存在を感じられるような状況に、ゆったりとおかれると、不意に、その「一体感」というか「フロー体験」みたいなものが、自分に戻ってくる。それは、おそらく幼いうちは何度も体験されているものだと思いますが、それを明確に思い出すことができ反芻できる経験として意識できるようになるのは、少し大きくなってからのことだろうと思います。意識的にそれと感知できて、それを言語で表現できて、のちの人生でも思い起こせるもの、である必要があるとすれば、それはやはり10歳まで、くらいまでに体感されることではないか、と思えます。逆にいえば、言語獲得を経たのち、生まれた頃の「フロー体験」とそれが同一のものだ、という絶対的な感覚を、感じやすいとともに、それを記憶することもでき、言葉で反芻できる年齢が、10歳くらい、と言えるのかもしれません。

もちろん10歳前後以降でも、人間はそういう経験に開かれています。つまりは、身体的な没我の経験というのは大人になった人間にも訪れるものであり、とりわけ、女性は出産時にそういう経験をする人が少なくないものですから、私自身はそういう経験を「原身体経験」と呼んで、出産経験のスケール化、など記号化の極みみたいな疫学研究をしたこともあります。後の年齢でも開かれてはいるものの、この10歳頃までの、人間が生殖期に向かう前の、明瞭な体験、というのは、具体的に人間にとって大きな転換期である思春期、そしてのちの成人期の困難をうまく乗り越えやすくするきっかけを提供するようのではないでしょうか。

それらの身体的な経験が10歳前後までに先駆的にあると、内田先生がお書きになっているように、「必要な時にはいつでもそこにもどる」ことができるようになる。そのような経験をしていることが、その後のマンガや、本や、音楽や・・さらに現代ではゲームなどの記号的な没入感を、より深く愉快にもし、また、そこから抜け出すことにも、愉悦を感じられるようになるのではないでしょうか。あくまで仮説ですがね。

そう思えば、先の世代としては、どうやって子どもたちが10歳までに身体的な没入感を感じられるような経験を提供できるのか、という話になります。でも、それって、そういう経験がいいですから、できるだけ子どもにそういう経験をさせてあげましょう、といった、新しいお稽古ごととか、サマーキャンプにもっと参加させて、より自然な環境に子どもをおいてあげましょう、とか、そういうお膳立てができるようなこととは、違うような気がします。

経済学者、内田義彦の書いたトンボ釣りの話が思い出されます。今は、トンボ釣り、という言葉自体、もう、わからない人が増えているのかもしれませんが、要するに、トンボを捕まえることです。ご飯を食べるより、何をするより、トンボを釣るのが大好きな子どもがいて、喜んでトンボ釣りに熱中している。これをやめさせようと思うと、それは簡単で、大人が、毎日、毎日、命令して、「トンボを釣ってこい」といえば良い、「やれ」と言われると、楽しみであることが楽しみでなくなり、苦痛になってくる、と。

大人がお膳立てして環境を提供する、というのは、なんだか少し、このトンボ釣りの話と似ているような気がしてなりません。子どもたちに「フロー体験」を10歳前後くらいまでにしてもらいたいのですが、そのために、何かをする、というは、どうも本末転倒な気がするのはそのためです。できそうなことは、とにかく、子どもがぼうっとできる静かな時間、大人からすると意味のないような時間がたくさんあること、そして、ゲームやガジェットへの曝露を少しでも後ろ倒しにする、くらいしか思い至りませんが、このことは具体的な次世代へのアドバイスとして、もう少し考えを深める必要がある気がします。

立秋も過ぎたのに、今日も暑い日になりそうです。どうかご自愛ください。

三砂ちづる 拝

 

 

第11便・B

師に全幅の信頼を置く

 

三砂先生

こんにちは。内田樹です。

お手紙頂いてから1月近くご返事できずにすみませんでした。

この夏休みは7冊本を抱えていて、うち1冊だけは何とか仕上げて出版社にゲラを戻しましたけれど、残り6冊は今同時並行で書いています。これもその一冊なんです。『資本論』解説、カミュ論、権藤成卿の復刻本の解説、米中論、勇気について、そしてこの子育て論を並行して書いています。支離滅裂なラインナップですね。

どうしてこんなになんでもかんでも引き受けてしまうんでしょうね。自分が苦しい思いをするだけなんですけれど、それでも面白そうな企画を持ち込まれると、つい「やります」と言ってしまうんです。

でも、その時点では書きたいことが頭の中にあるわけじゃないんです。頭の中にはまだ何もないんです。でも、何となく「書くことをこれから思いつくかもしれない」という予感がする。まだアイディアにはなっていないのだけれど、「アイディアの予兆」のようなものがそのオファーを受けた時にふっと目の端をよぎる。そんな感じです。実際に書き始めてみると、たしかにその「予兆」から何かが浮かび上がって来る。さざえのつぼ焼きをつまようじで引き出すとき、ていねいにひっぱりだすと「つるっ」と中味が出てきますね。あんな感じ。

それに、僕が書いているものって、どれもネタが古いんです。なにしろ『資本論』にアルベール・カミュに農本主義者・大アジア主義者ですから。いったいいつの時代の話をしているんだよと言われそうです。でも、気がついたら、僕のところに来るのって、そういう企画ばかりなんです。いつの間にか、「古老に聴く」というタイプの取材がほんとうに増えました。

最初に来たのは「1969年の三島由紀夫VS東大全共闘の行われた時の時代の空気はどんなものでしたか」と訊かれたとき。そういうタイトルのドキュメンタリー映画に「時代の証人」としてちょっとだけ登場しました。そしたら、次は「1968年の第一次羽田闘争の山崎博昭君の死にどんな衝撃を受けましたか」を訊かれ、次は「1972年の早稲田大学内ゲバ殺人によって以後の学生運動はどう変質しましたか」を訊かれました。

ある出来事がどういう文脈で起きたのか、その出来事がのちの時代にどんな影響を及ぼしたのかといったことは、研究書を読めばわかりますが、リアルタイムでその出来事があったときに同時代の人たちが何を感じ、どういう表情やどういう言葉づかいでそれについて語ったのかは、その場にいた人間しか記憶していません。そういう「現代史の生き証人であるところの古老」というポジションに気がついたら立っていました。

この「男の子を育てる話」もある意味では、そうだと思うんです。僕に求められているのは、一般論ではなくて、「昔、男の子はこういうふうに育てられた」という個人的な見聞の証言ではないかという気がするのです。

「そんなのはあなた一人の個人的な経験や知見であって、一般性を要求できないよ」と言われたらその通りなんですけどね。でも、「証言」というのはもともと一般性を要求するものじゃない。むしろ「一般性を揺るがすもの」です。

よくドキュメンタリーに「昔の出来事を遠い目をして語る古老」が出てきますね。でも、彼らはすわりのよい結論を述べたり、わかりやすい教訓に落とし込んでくれたりはしてくれない。むしろ、そういう(ディレクターがあらかじめ仕込んでおいた)予定調和的なシナリオにはないことを呟いて物語を「脱臼」させる。

ですから、僕たちもその「古老」に倣ってはいかがかと思うのです。ここはできるだけ個人的な、偏頗なことを書いて、「子育て」についてのできあいの物語を混乱させる。混乱させるだけさせて、さっと逃げ出す。なんだかその方が誰にでも同意してもらえるような面白みのない「一般論」を語るより楽しそうだと思いませんか。

というところまでが前置きです。前便で三砂先生が振ってくださったトピックについて書きます。一つは「没入」ということ、もう一つは「10歳前後」ということです。論脈上はつながりのないこの二つ言葉に僕はつい強く反応してしまいました。それはその二つについて別のところに書いたばかりだったからです。その話をしますね。

先日、知り合いから大学でのセクシャルハラスメントの被害者女性の裁判闘争の支援を頼まれました。もしかしたら三砂先生もご存知かもしれませんが、早稲田の大学院で、文芸評論家としても高名な人物が、女性院生に対して研究指導に際して、繰り返し暴言を吐き、自尊心を傷つけただけでなく、指導や卒後の世話の代償に性的関係を求めてきた事件です。そのせいで女性は退学を余儀なくされ、心に深い傷を負うことになりました。教員は退職し、大学は事件の隠蔽をはかった教職員を訓戒しましたが、被害者に対する謝罪も補償もありませんでした。この女性は、大学がハラスメントが多発している事実を認め、それに適切に対処できる仕組みを作るように訴えを起こしています。

僕が彼女が書いているこの経緯を読んで、強い怒りを感じました。それは、師弟関係というのが、本来は弟子の側に「自己放棄」と師への「全幅の信頼」を求めることで成立するものだからです。自分についてくる人に「自分を手放すこと」を求めるからです。それを悪用したことを許し難く思ったのです。

たしかに中等教育や大学でも学部レベルでは、そこまでの「没入」は求められません。でも、大学院レベルになると、一人の教師と一人の院生が一つのことについて、余人の入り込む余地のないほど密度の高いやり取りをすることが起きます。研究職というのはある種の「ギルド」ですから、独特のジャルゴンが行き交い、世間の常識がしばしば通らない。でも、入会しようとする者は「清水の舞台から飛び降りる」つもりで、自分の手持ちの価値観や判断基準をいったん「かっこに入れて」、「メンター」の指示に黙って従う。そうしないと「ギルド」に入れてもらえないと思うからです。

その時、学ぶ者は一時的に非常に無防備になります。自己刷新のためには、それまで身にまとってきた「鎧」を脱ぎ捨てることが必要だからです。一時的にではあれ、とても脆く、傷つきやすい状態を過ごさなければならない。

この脆弱で、傷つきやすいプロセスにある人が外傷的な経験を受けないように気遣うことはメンターのとてもたいせつな仕事だと僕は思います。ほんとうに教え子の知的成熟を望んでいるなら、教師は教え子が「自分を手放す」プロセスを無事に通過できるように、じっと見守って、適切な指示を与え、励ましてあげるのが仕事だと思います。

でも、このセクハラ教師は、教え子がそれまで生き方を律していた個人的な規範を手放して、メンターの言に黙って従うことを決意したことにつけ込んで、おのれのせこい欲望を満たそうとした。これは単にこの人物の属人的な卑しさということ止まらない罪深いものだったと思います。彼がこの女性の「学び」への開かれを傷つけたからです。

これから先、彼女はもう新しいことを学ぶために無防備になるということができなくなったと思います。誰かを信じて心を開くということができなくなる。「謎めいたこと」を言う人間には興味を持つより先に嫌悪と不快を感じるようになる。忍耐強く相手の話を聴くよりも、「ひとりがたり」をしている方が落ち着くようになる。そうやって、自分に居着いてしまう。でも、これはお分かりでしょうけれど、知性的、感情的な成熟にとってはほとんど致命的なことです。

学びの場で受けた外傷的経験は単に「セクハラされて不愉快だった」ということでは済まされません。それは当事者の「学ぶ能力」そのものに深い傷を残すからです。

そんなのはもう過ぎたことなんだから、早く忘れた方がいいというような賢しらな助言をする人がいますが、それは傷の深さを理解していない人の言葉だと思います。学ぶ人がメンターから受けた傷は、遠く未来にも影響を及ぼすからです。

この女性が最近書いたものを読んで、僕はなんだか悲しくなりました。とても文章の上手な人なのです。論理的できちんとした、説得力のある文章を書くのです。でも、硬直しているのです。自分に触れてくる異物に対する不安と嫌悪で、文章の皮膚がかちかちに堅くなっている。彼女が、この事件以前にどんなものを書いていたのかを僕は知りません。でも、おそらくこれよりはもっと手触りの暖かい、風通しのよい文章を書いていたのではないかと思います。この人はある意味で「自分の声」まで奪われてしまったのです。

子どもたちが「没入」できることはとてもたいせつだ。このことについては僕たちはもうよく了解し合っていると思います。そうできるように支援するために、傍らにいる大人に何ができるでしょう。それは「自分を手放して、没入しても大丈夫だよ。怖いことないよ。誰も君を傷つけないから」という保証をしてあげることだと思うのです。

小さい子どもが大人の手をぎゅっと握って「放しちゃだめだよ」と言う時がありますね。あれは、彼らが「冒険」をしようとする時なんです。そういう時はしっかり握ってあげる。もし小さい時に、「放しちゃだめだよ」と大人に頼んだのに、手を放されたという経験をした子どもは、それからあと「冒険」することに対してずいぶん臆病になると思います。ですから、子どもたちが10歳くらいになるまでは、親はどんなことがあっても「手を放してはいけない」と思います。それくらいの年齢までに「自分を手放しても怖いことはない」「人を無防備に信じても裏切られることはない」という確信を子どもが持つことがとてもたいせつだからです。

前に講演のあとの質疑応答で、フロアから「内田さんのその根拠のない自信はどこから来るんですか?」というたいへん本質的な質問を頂いたことがあります(会場は爆笑していました)。「子どもの頃に内田家の人たち、父と母と兄から深く愛されて育ったからだと思います」とその時にはお答えしました。「愛されていた」というのは、言葉が足りなかったかも知れません。「愛されていた」というよりは「いつも見守ってもらっていた」という方が正確だと思います。子どもの頃に、自分が手をつかんだ時に、親から手を振り切られたという記憶がないのです。その体験のせいか、人に自分を委ねることが別に怖くない。信じることが怖くない。おかげで、僕は武道と哲学というふたつの分野で、「師に全幅の信頼を置く」という得難い経験をすることができました。以前、兄に「どうして樹はそれほど無防備に人を『先生』と言って後についてゆくことができるのか」としみじみ言われたことがありました。「お前は、『弟子上手』だな」と。その通りかも知れないと思います。兄は的確に見ていたと思います。そして、僕が「弟子上手」なのには、小さい頃に(この兄も含めて、家族から)「握っていた手を振りほどかれた」という外傷的経験がなかったことが大きく与っていると思います。

でも、それってやっぱり「10歳前後」までなんだと思います。その次の段階では「世の中には決して心を許してはいけない人間がいる」ということを大人は教えなければいけない。

僕の父親は僕が8~9歳の頃に、僕を前に座らせて「信用できる人間かどうかは、その人物の地位や学歴とは関係がない。哲学を持っていない人間を信用するな」と申し渡しました。子どもに向けて語る言葉にしては、あまりに堅苦しい言葉でしたし、父親の表情も真剣でしたので、忘れがたい思い出になっています。

父は満州事変の年に19歳で満州に渡り、敗戦の翌年に北京から帰国しました。15年間大陸にいて、大日本帝国の消長をつぶさに見てきた人です。驕った日本人たちが朝鮮半島や中国大陸で何をしてきたのかも見たし、帝国が瓦解するのにも立ち会った。その混乱の中で、父は「信用できる人間」と「信用できない人間」を見分けることは死活的に重要だということを思い知らされたのだと思います。

父が子どもの僕に「哲学を持っている人間」という言葉で言おうとしていたのは、「世間の人々」がどう言おうと、どうふるまおうと、ことの筋目を通す人のことだと思います。自分なりの条理を維持していて、損得勘定や私利私欲で言動がぶれない人間。おそらくそういう人に父は窮地を救われたことがあり、逆に学歴も地位も申し分ないが、平気で人を裏切る人間に煮え湯を飲まされたという個人的な経験があったのだろうと思います。

父が小学生の僕に教えようとしたのは、「世の中には決して信用してはいけないタイプの人間が存在する」という経験知でした。それを父は子どもがある年齢に達した時には「教えておかなければならないこと」だと思ったのです。「ある年齢に達したとき」という条件がつくのは、あまり幼いときから「世の中には信用してはいけない人間がいる」ということを口うるさく言うと、それは子どもの成長の妨げになるからです。

幼い子どもはまず「学ぶ」ことから始めなければならない。まずは心を開いて他者に接する無防備さを身につける。ある種の無垢さです。子どもたちの成熟を願うなら、まず人を信じること、人に身を預けることを教えなければならない。「誰も君の手を放さない」「誰も君を傷つけない」という保証を与えるところから始める。

でも、そんな子どもたちもいつか「世間」に踏み出してゆかなければなりません。そして、世間に出ればいつか必ず「決して信用してはいけないタイプの人間」に出会う。イノセントな向上心につけこみ、彼らから収奪し、致命的な傷を負わせて立ち去る人間に出会います。そういう人間はこの世間にはたくさんいます。だからこそ大学や職場でハラスメントがあれだけ起きるのです。そういう人間を見分けて、決して近づかない知恵が死活的に重要になります。

僕たちは子どもたちを育てる時に「信じろ」ということと「信じてはいけない」ということを二つ教えなければならない。時間順としては、まず「人を信じること」を教え、次に「信じてはいけない人がいる」ということを教える。そういう順序になると思います。そして、その二つのモードの切り替えが「10歳前後」ではないかというのが僕の仮説なんです。

「人を信じなさい」ということを教えてくれる心優しい親は多くいると思います。でも、子どもがある年齢に達した時に、子どもを前に座らせて「よく聞きなさい。世の中には決して信じてはいけない人間がいる。これからそれを見分ける方法を教えるから、よく聞いて忘れないように」と教えてくれる親はそれほど多くはない。

それは親の経験知でよいと思うのです。限定的な経験から絞り出したような言葉で十分だと思うのです。子どもが第一に知るべきなのは「どういう人間を信じてはいけないか」という識別法ではなくて、「世の中には決して信用してはいけない人間がいる」という事実の方だからです。

「ねえ、いったいどうすればいいの? 人を信じていいの? それとも信じちゃいけないの?」と子どもは泣訴するかも知れませんけれど、それに対しては「信じたり、信じなかったりするんだ」と答えるしかありません。「人間は葛藤のうちでしか成長しないのだから、それくらいは成熟のコストとして引き受けなさい」というところまで口に出して言っても、子どもには難し過ぎてわからないかも知れませんけれど。

長くなり過ぎたので、今日はここまでにしておきます。では。

内田樹 拝

内田樹(うちだ・たつる)
1950年東京生まれ。凱風館館長。神戸女学院大学文学部教授。専門はフランス現代思想、映画論、武道論。著書に『「おじさん」的思考』『こんな日本でよかったね』『コモンの再生』『日本習合論』など多数。『私家版・ユダヤ文化論』で第六回小林秀雄賞を、『日本辺境論』で2009年新書大賞を受賞。

三砂ちづる(みさご・ちづる)
1958年山口県生まれ。京都薬科大学卒業。ロンドン大学Ph.D.(疫学)。津田塾大学多文化・国際協力学科教授。著書に『女たちが、なにか、おかしい おせっかい宣言』『自分と他人の許し方、あるいは愛し方』『オニババ化する女たち』『死にゆく人のかたわらで』『自分と他人の許し方、あるいは愛し方』『少女のための性の話』など多数。

第10回 「ものすごく気持ちの良いこと」を経験した強さ

内田樹先生と三砂ちづる先生の往復書簡による、旧くてあたらしい子育て論。ともに離婚により、男手で女の子を育てあげた内田先生と、女手で男の子を育てあげた三砂先生。その経験知をふまえた、一見保守的に見えるけれども、実はいまの時代にあわせてアップデートされた、これから男の子・女の子の育て方。あたらしい世代を育てる親たちへのあたたかなエール。

第10便・A

自分を手放せること/自立していくこと

 

内田先生

こんにちは。お便りありがとうございます。お返事遅れてしまいました。申し訳ありません。

2020年春以降、COVID-19パンデミックで、海外に出かけられていませんでしたが、3月にエルサルバドルという中米の小さな国と、初めての北米訪問になるメキシコに数日行きました。メキシコは北米なんですね。ラテンアメリカですけど、北米。つまり北米はアメリカ合衆国とカナダとメキシコ。すみません、ブラジルに10年住んでラテンアメリカはそれなりに知っているつもりだったのに、いまだに、メキシコが北米だ、と知らなかったのです。中米の国だと思っていました。中米、つまりは、セントラルアメリカと呼ばれる国は、グアテマラ、ホンジュラス、ニカラグア、エルサルバドル、コスタリカ、パナマ、ベリーズの7カ国で、メキシコは北米って、今更にして知りました。アメリカ合衆国にもカナダにも、飛行場のトランジットで降りたことがあるだけで、訪問したことはありませんからメキシコが文字通りの初北米、となりました。今となっては初めて訪問した北米がアメリカでもカナダでもなく、メキシコ、というのは、よかったな、と思います。

公衆衛生の中でも、とりわけ健康格差の大きな国でその格差の把握と受け入れられない格差の解消を模索する国際保健、という分野で仕事をしてきたので、海外に出ることは、もともと、日常の一つでありました。ほぼ二年間、どこにも出かけず、ずっと日本にいる、というのは、20代後半から、初めてのことだったような気がします。2022年のゴールデンウィークにかけて、帰国時の検疫がゆるめられましたから、観光で海外に出る人も増えたとは思いますが、3月には、まだ、成田空港はびっくりするくらいガラガラでした。メキシコシティー直行便も、申し訳ないくらい乗客が少なくて、CAさんたちに、実によくしていただきました。お手洗いを使おうとすると、扉を開けて、待っていてくださって、恐縮するばかり。

欧米諸国では、規制がどんどん緩和され、マスクをつけないことも日常になっていると言われた2022年春でしたが、エルサルバドルもメキシコも、水際対策自体はそんなに厳しくなくて、ワクチン証明書も陰性証明も出す必要がありませんでしたが、市中では、とにかく、全員マスクをしており、飲食店では、検温、消毒、が励行され、東京で生活しているのとほとんど変わるところがありませんでした。エルサルバドルで親しく働いている国立母子保健病院の二人のスタッフが父親をCOVID−19感染で亡くしていました。パンデミック当初の、この感染による感染致死リスクは大変高かったのです。

エルサルバドルは人口650万弱ですから、千葉県くらい、総面積は岩手県よりちょっと大きいくらい。国としては、とても小さい。ここで、「出産のヒューマニゼーション」という、日本の国際協力のお家芸の一つみたいな「出生と出産の場を、科学的根拠に基づいた形で、よりやさしくする」という、日本の助産師が大活躍するプロジェクトが、2018年から行なわれています。こんな小さな国なのに、1980年代から90年代にかけて、アメリカの介入が深く関わる内戦で7万人以上が亡くなっています。その時代は、エルサルバドルに限らず、ラテンアメリカにおけるアメリカ合衆国の介入は、あまりにも露骨なものでありましたから、当該国の方々のみならず、一度でもラテンアメリカに関わったことのある人は、あの当時のアメリカのありようを、忘れることはないと思います。内戦の記憶を生々しく留めるエルサルバドルで、次世代がよりやさしい環境で生まれることができるように、という出生と出産の場をよくしよう、という国際協力プロジェクトは、先に逝った世代の祈りのような気がします。思えば、この1990年代からJ I C A(Japan International Agency: 国際協力機構)は「出産のヒューマニゼーション」プロジェクトを行なってきたのですが、2000年以降、このプロジェクトは、アルメニアやカンボジアなど大虐殺の歴史を持つ国でも立ち上げられていったことは、今になると偶然とも思えません。

出産の場が穏やかなものになると、何が良いのかというと、産むお母さんが安心します。産むお母さんが安心してお産に臨むと、お産が良い感じで進むためのホルモンがよく機能することで、結果としてお産が安全になる。お産が怖い、とか、こんなところでお産をしている場合ではない、とお母さんが思うと、一言で言えば、お産が進まない。まあ、そうですよね。その昔、祖先の人間たちがジャングルだかサバンナとかで暮らしていた頃、夜中に産気づいて、お産しようと思ったら、猛獣が近寄ってきた、とか、何か危ないことが起きたとすると、あ、これはお産なんかしていると母子共に危ない、だから、陣痛も、ちょっと微弱陣痛くらいにしておいて、逃げなくちゃ、ということになりますよね。つまり病院でお母さんたちが微弱陣痛で、赤ちゃんが生まれるくらいのいい陣痛が来ない時、というのは、ひょっとしたらお母さんたちが「こんなところで産んでいる場合じゃない、こんなところで産めない、なんか、怖い」と、思っていることの結果であるかもしれない。だから助産師たちは、懸命にお母さんたちに寄り添い、励まし、優しくするのです。そのようにしっかりと受け止められて、あ、ここでお産して大丈夫、と安心してお産に望むお母さんたちは、自分を手放し、体がゆるみ、赤ちゃんを良い感じでこの世に送り出すことができるようになる。人間の生理学的なお産のプロセスは、そのようになっており、そのようになっているからこそ、人間が近代産科医学の医療介入の助けが期待できない時代でも、途絶えることなく続いてきた、と言えるのでしょう。

 

エマニュエル・レヴィナスは、人間にとって最も耐え難い苦しみは「自分が自分に釘付けになっていること」と言っておられる、とのこと。採り上げているのは不眠と恥辱と吐き気、そしてそれらの不快な状況はどれも「われわれが自分自身と手を切ることができないことから生じる」。内田先生のおっしゃるように、それは、誠に卓見ですね。眠れないこと、を特に取り上げておいでですが、確かにそうです。眠れないことは、自らが過剰で、自分自身のことをずっと考えてしまったり、なぜ眠れないのか悩んだり、一体自分はどうなっているのか詳細に記述しようとしたりする事が根底にある、と。眠る、ということは、ふっと自分を手放せることだ、とお書きになっています。

アカデミックの世界で、眠れない人、多いですよね。1990年代に10年くらいイギリスの大学で働いていましたが、sleeping pill(就眠剤)を飲んでいない人は、いなかったくらい、多くの同僚が不眠に悩まされ、それが職場の話題でした。職場は、公衆衛生大学院でしたから、みんな、それなりの医療関係者の集まりです。眠れないことも、就眠剤を飲み続けることも、きっとそれは健康に良いとは言えない、ということは頭ではわかっていても、眠りにつくことができないことはもっと困るから就眠剤に結果として頼らざるを得ない。心理カウンセリングに通うことと、就眠剤を飲むことは、日常の一環、となっていることがよくわかりました。その後ブラジルにも住みましたが、こちらでも大学関係者、研究者の友人たちは同じような感じで、眠れない悩みを抱えている人が多かった。アカデミックとか、研究者とか、そういう仕事は、仕事にきりがありません。職場から帰ってきたら仕事が終わり、ということがなくて、何か考えたいこと、何か先に進めたいこと、何か解決したいこと、があるからこそ、分野は違えど、研究者になっているのです。やりたいことがあって、やるべきことが目の前にあるのに、今日という日を終えることはとても困難。もうちょっと、もうちょっと、とパソコンや本の前にかじりついて、夜更かししてしまう、というのは研究者の日常です。どこでオフにしたらいいのかわからない。自分をふっと手放す、ということがもっとも難しい職業かもしれない。自らの観察ばかりしてしまう。

わたしが30年以上、出産の経験について研究してきたのは、他でもない、出産、というのは、先にちらっと書きましたように、最もパワフルな「自分を手放す」経験であり得る、ということが直感的に理解できたから、そしてそれをなんとかして見える形で示したい、と思ったから・・・、というところがあります。「自分を手放す」経験、というのは、いわば、何かもっと大きなものに自分を委ねる、という経験で、それこそ、現在の少しずつ積み上げ、文字を通して理解するような知識の体系とはあまり相性が良くない。アボリジニーの人たちが、旅に出るときは、何も持っていかない、世界に委ねて、旅をする、と言っていたのとおなじようなことです。近代的な知を積み上げていくことが私たちにとって学ぶ、ということなのですが、それとは対極にあるような経験です。

人間が人間を産む、というのは、なかなかのことで、助産師さんたちは、「あっちの世界に行ってしまうくらいにならないと」生まれない、という表現をなさったりします。トイレに行って、トイレのスリッパを揃えて出てくるようだと、まだ生まれない。もう何が何だかわからなくなって、トイレのスリッパ揃えるような余裕がなくなると、生まれる。産んでいた女性たちもそういう状態を「宇宙の塵になっていたように感じた」とか、「時間の感覚がなくなっていた」とか表現して、まさに、出産で自分を手放すような経験をされたのだなあ、と思う。そういうお産をすると、そのお産の経験自体に支えられて、それからの育児の日々を乗り越えて生きやすいようなのですね。だから助産師さんたちは、がんばる。それを手助けしようとしてくれる。自分を手放して、自分を委ねた、というパワフルな経験は、それからの人生を支えてくれるものなのだ、とご存じなのです。

 

珊瑚礁の海のすぐそばで、幼い頃を過ごした男性の、少年の頃の話を伺いました。日が暮れるまで、ひたすら、海で魚を追い続ける。潮が引き始めた10時ごろから海に入り、潮が満ちてくる午後4時ごろまで、6時間近くも海に潜って、素潜り漁をする。ひたすらに魚を追いかけているうちに、自分自身が海に溶けて、自分も魚になってしまったような感覚になる。それはとにかく、とても気持ちよく、心地よいことなのだそうです。自然のリズムの真ん中に、自分が溶け込んでいき、自分は手放され、自分がなくなる。無我の境地、っていうのかなあ、難しくいうと・・・。とにかく、すごく気持ちがよくて、心地よくて、まだ知らないわけだけど、天国ってきっとこういうところなんじゃないかなあ、とおっしゃっていた。

それを聞きながら、全ての幼い人は、そのようにしてこそ、育つべきなんだなあ、と思います。自分が何ものであるか、あるいは、何ものでもないか、それを少年の頃に体感すること。そしてそれは、「ものすごく気持ちの良いこと」であることを知ること。幼い頃というのは、もともと、容易に自分を手放すことができるとてもオープンな状態にあるのだと思います。時間のことなど全く気にせず、やりたいことを延々とやる、心惹かれることを続ける。

今ではよく知られたモンテッソーリ教育の創始者である、イタリアの教育者、マリア・モンテッソーリは、それこそが教育の原点であるべきだ、と言っていましたね。1870年、イタリアに生まれ、ローマで初めての女子学生として医学部に入学するのですが、当時、物乞いをしている母親の傍らで、つまりは、ひどい環境にある小さな女の子が、小さな一枚の紙切れでとても深く集中して遊んでいる姿を見かけます。その女の子は、集中しているからこそ、とても充実し、平和な状態に見えた。モンテッソーリは、どんなひどい逸脱状態にある子どもでも何かに集中することによって変わることができる、という考えを天啓のように受け取るのです。障害児教育や、当時のローマのスラム街で子どもたちの教育を担当し、環境としてはひどい状態のため、落ち着いてもおらず、集中力もなかったような子どもが、自分がやりたいことを見つけると、どんどん変わってゆく。見つけたやりたいことを繰り返してやっていくうちに、集中力も深くなり、学びが深くなっていった、その経験から、モンテッソーリは、自由に選ぶ、繰り返す、集中する、充実感、達成感を持って終了する、というステップを理解した時、子どもたちは内側から変わり、自立していく、というのです。

紙切れにでも集中できる子どもが、海の中で集中して魚を追うのであれば、それはいっそうその子どもの本来の意味での自立を促すでしょう。自分を手放すことと、内側から変わり、自立していくことは、本当はコインの裏表のようなことなのですね。自らを手放す経験が幼い人たちに多く開かれていることについて、あらためて、この、子どもたちがガジェットとゲームに否応なしに組み込まれている時代に、考えてしまうのでした。

今日はこの辺りで。またお便りいたします。

三砂ちづる 拝

 

 

第10便・B

自我が消えてしまう時の解放感と愉悦

 

三砂先生

こんにちは。お手紙ありがとうございます。

最初に訪れた北米の地がアメリカではなく、メキシコとは驚きです。実は、僕もアメリカにはほとんど行ったことがないんです。若い頃に親類を訪ねてサンフランシスコに10日ほどいたのと、長じてからハワイに二度(兄とだらだらしに行ったのと妻とだらだらしに行った)だけで、東海岸も中西部も知りません。

僕はけっこうたくさん「アメリカ論」を書いているんですけど、考えてみたら、ネタはほとんどが小説と映画からでした。そもそも、アメリカ人の友人・知人が一人もいない・・・これはかなり偏っていますね。誰も指摘してくれなかったので、今まで気が付きませんでした。

鶴見俊輔は戦前にハーバード大学に留学していましたが、敵性国民として獄中に投じられている間に恩師のはからいで卒業証書をもらい、開戦直前に最後の日米交換船で日本に帰って来るのですが、それから二度とアメリカを訪れなかったそうです。別にアメリカに恨みがあるわけじゃないし、日本に義理があるわけでもないけれども、「負ける時は負ける側にいたい」と思って帰国して、ついそのままになった。

僕のアメリカとの「疎隔感」もそれに近いのかも知れません。日本は戦争に負けてアメリカの「属国」になりました。戦後しばらくは主権国家に戻りたいという願いを持っていましたが、もうそれも捨てて、「国家主権を回復したい。国土を回復したい」と願うことさえ止めた骨の髄までの「属国」になりました。その属国民であることの屈辱が僕をアメリカから遠ざけているのかも知れません。

『若草物語』や『あしながおじさん』の舞台であるニューイングランドなんか、個人的には「すごく行きたいところ」なんですけれど、それでもどうしても腰を上げて行く気になれない。たぶん、このままニューヨークもワシントンもシカゴも一度も訪れずに一生を終えるような気がします。

 

「不眠」の話は『レヴィナスの時間論』の中でかなり詳しく論じたトピックでした。三砂先生がおっしゃるように、眠るためには「自分を手放す」ことが必要です。でも、「自分を手放す」という行為は能動的・主体的にはできません。「自分を手放そうとしている自分」が前面に出てくると、自我は強化されるばかりですから。

睡眠薬にしても、薬を処方してもらったり、購入したり、服用したりするのは、自分自身ですから「自分で自分の眠りをコントロールしようとしている」という自我の過剰は解除できません。でも、ほんとうの意味でぐっすり眠るためには、自我の支配をどこかで終わらせないといけないんです。「ここから先は『自我』は入れません」と言って押し戻さなければならない。

よく「羊を数える」という就眠儀礼がありますけれども、あれはたしかに「自我の放棄」のためのエクササイズとしては合理的だと思います。「数える」というのは脳の働きですけれども、かなり単純な行為なので、自我が介入しなくても「羊をカウントする」作業だけは自動的にできる。そうやって自我の干渉を弱める。

武道では「有我有念」「有我一念」「無我一念」「無我無念」という四つの段階を仮説的に設定することがあります。

頭の中に煩悩や妄念がぐちゃぐちゃ渦巻いている状態が「有我有念」。それを(例えば「羊を数える」というふうに)単一の対象に集中するのが「有我一念」。その対象に没入しているとある時点で「無我一念」の境位に至る。「眠る」だけなら、この段階までくればもう十分です。

三砂先生がお書きになっていた「小さな女の子が小さな一枚の紙切れでとても深く集中して遊んでいる姿」というのは、たぶんこの子が「有我一念」から「無我一念」にレベルがシフトした瞬間の「没入感」をとらえたものではないかという気がします。集中がある強度を越すと「我」が消える。そういうことって、ありますよね。僕たちが苦しんでいる日々の悩みはほぼすべて「我」に絡みついているものですから、「我」が消えれば悩みも消える。経験的にはそうです。

武道の場合では「有我」というのは、脳が骨格や運動筋を操作して身体を「速く強く」使おうとするという「上意下達的なシステム」のことです。それは遅く、弱く、非合理な動きになります。100%脳が身体をコントロールしようとすると、どうしても選択的に随意筋だけを使い、それ以外の身体部位は「止める」ようになるので、仕方がありません。 だからすべての身体資源を活用しようと思ったら、「無我」で動かなければならない。

そもそも、「速い」とか「強い」というのは、速度や強度を競う相手がいて、それとの相対的な遅速強弱の「比較」にこだわっているから出てくる言葉です。「無我」の状態では、そういう対立や比較がなくなる。

僕たちのしている武道の稽古はそういう境地をめざしています。いわば「眠りながら動く」ような動きが理想的なものになるわけですね。周りのことなんかぜんぜん気にしないで、自在に動く。ジャッキー・チェンの「酔拳」というのはあれは術理的にはけっこう正しいんだと思います。

どうやって「無我」の状態に入るのかについては、武道でも宗教でも多年の蓄積を踏まえた具体的な技法があります。それを稽古ではあれこれと試してみます。

稽古しているとよく眠れるようになります。それはただ身体が疲れて休息が必要だからという生理的な理由だけではなく、稽古で「自分を手放す」ための技法をあれこれ工夫していることも関係があると僕は思います。

この「自分を手放す」経験の重要さを今の学校教育はどれくらい配慮しているのか、僕にはわかりません。たぶんまったく配慮していないような気がします。

三砂先生がモンテッソーリ教育について書かれたのは、言葉を換えて言えば、「ゾーンに入る」とか「フロー体験」とかいうことだと思います。

子どもたちにもぜひそれを経験して欲しいと思います。ある対象や、遊びにのめり込んでいるうちにふっと自我が消えてしまう時の解放感と愉悦をぜひ経験して欲しい。

 

前にもお話ししたことがあったかと思いますが、うちの娘がまだ小さい頃に、小学校からなかなか帰ってこなかったことがありました。学校からうちまでは細い上り坂一本で子どもの足でも歩いて5分とかかりません。娘の友だちが遊びに来ました。「まだ帰ってないよ」と言うと「一緒に校門を出たのに」と言うので、探しに行きました。そしたら、学校とうちの途中で座り込んでいました。何をしているんだろうと思っていたら、道端の草を見ているんです。ものすごい集中力で見つめていて、僕が近づいても気がつかない。そして、しばらく見てから深いため息をついて立ち上がり、数歩歩いてまた別の植物をみつけて、座り込んで観察を始めた。感動的な光景でした。子どもが対象に没入している。その集中の深さと身体から発熱している感じが伝わってきました。モンテッソーリが紙切れで遊んでいる女の子を見たときにも、たぶん似たようなものを感知したんじゃないかと思います。

僕自身も個人的な記憶としては、9歳くらいのときに似たことがありました。伊豆半島の養護施設にいたころの話です。病気がちの子どもたちを集めた施設ですので、勉強は午前中でおしまいで、昼からは友だちと遊んでもいいし、ひとりで本を読んでもいいし、何もしないでぼんやり過ごしてもいい。

その日は台風が近づいてきていて、僕は一人で音楽室にいました。窓の外を見ているうちに空一杯に黒雲が広がり、強い風が吹き始めました。竹林が風にたわんでほとんど90度に倒れてはまた起き上がるということを繰り返していました。その竹林を見続けているうちに、「竹と同化する」という不思議な感覚がありました。自分が自分の体から抜け出して、台風にあおられる竹林に入り込んでしまって、竹になって風にたわんでいる。その時のふるえるような解放感を長く忘れることができませんでした。

「没入すること」の喜びを人生の早い時期に経験するというのは、子どもにとってほんとうにたいせつなことだと思います。それこそ、僕たちが教師として若い人たちにまず伝えるべきことじゃないかという気がします。

娘が18歳になって家を出てから僕は一人暮らしになりました。25年ぶりの一人暮らしでしたので、もう好きなだけ本を読んで、好きな音楽を聴いて、好きな映画を観るという自由を満喫しました。

その年の夏休みに入ってから『レヴィナスと愛の現象学』を書き始めました。何時間も何日もぶっつづけで書き続けました。誰も止める人がいませんから。もう子どものためにご飯を作ったり、洗濯物にアイロンかけたりということをしなくていいわけですから、好き放題に時間が使える。

そういう生活を二週間くらい続けていたら、ある日「ゾーン」に入りました。「アカデミック・ハイ」と個人的に名づけることになった経験ですけれども、まだ論文を書いている途中だったのですが、書いている論文の最後までが全部見通せました。結論まで書き終わっている。そういう「ヴィジョン」が見えたのです。ほんの短い間の現象でした。必死になってその時の「書き終わった論文」について、何が書いてあったのか、メモを取ったのですけれど、後から読むと何が書いてあるかわからない文字列が残っただけでした。でも、その「ヴィジョン」を見た後、論文を書く進度は一気に上がりました。「この方向でよい」「自分はこの論文を書き上げることができる」ということについては、もう迷いや揺らぎがありませんでしたから。

そういうことって、あるんですよね。人間は、知的な働きでも、身体的な運動でも、短い時間だけれども、限界を超えて、深く、遠いところにたどりつくことがある。それは「自我」の拡大とか強化ということではありません。「自我」の向こう側に突き抜けてしまう。そういうことがあるんだよということを子どもに経験させてあげたい。

 

「ものすごく気分のよい状態」を知っている人というのは、そこが「戻るべき原点」になる。そういうことがあるような気がします。

僕が久しく尊敬する治療家の池上六朗先生は、患者さんのそばに立っているだけで、触りもしないで、身体の歪みを治してしまうという「特技」をお持ちです。どうしてそんなことができるのか、いろいろ理由を考えてみた結果、僕が得た仮説は「池上先生は、人生のある時点で、『どこにもつまりや痛みやこわばりやゆるみがない、100パーセント気分のよい状態』を経験したことがあって、その状態をありありと体感的に再現できるので、その体感を相手に伝えることで治療してしまう……というものでした。

その時に、池上先生に「もしかして、先生、子どもの頃に、『100パーセント気分がいい状態』を経験したことがありませんか?」とお訊ねしてみました。すると池上先生はしばらく考えてから、「そう言えば、ある」とお答えになりました。

まだ池上先生が少年だった頃。80年ほど前のことです。ある夏の日に、松本の家の近くのきれいな川で泳いだことがあるそうです。川の上には樹影が広がり、夏の日差しの下の川の水はひんやりしていた。水中に潜ったときに、「いま、100パーセント気分がいい」ということを実感したことがあるそうです。「思えば、あれが原点かもしれない」とおっしゃっていました。

三砂先生が書かれている「珊瑚礁のところで泳いでいると天国にいるような気がする男の人」もたぶん同じような経験をしているのではないかと思います。そういう原点を持っている人は自分の体のゆがみやこわばりがすぐに感知できる。どういう姿勢をしたり、動きをすればそれが補正できるかも直感的にわかる。休養であれ、栄養補給であれ、身体が何を求めているのかがわかる。そういう人が「健康」な人なんじゃないかと思います。

それは体重や血圧や尿酸値みたいなもので数値的に表示される「健常」とは別のものだと思います。自分固有の、自分だけにわかる「気分のいい状態」がリアルに感知できるので、必要なときにはいつでもそこに戻ることができる。

「ものすごく気持ちの良いこと」を知ること。それが子どもたちにとって最もたいせつな経験だと僕も思います。

 

果たして子どもたちはガジェットやゲームや仮想現実を通じて「ゾーンに入る」ことができるようになるかどうか、これは難しい問題だと思います。僕自身はそういうものに「没入した」経験を持たないので、断定的なことは言えません。でも、それらが子どもたちをある種の仕方で「限界を超えること」に誘い、「自我」の向こう側に突き抜ける経験をさせてくれるのであれば、教育的な意義はあるかも知れないと思います。実際に僕たちは子どもの頃にマンガに読みふけったり、映画に没入したり、音楽を聴いたりしながら、「我を忘れた」経験があるわけですから。でも、それが身体的に「ものすごく気持ちの良いこと」であるとは言えません。それだけでは足りないと思います。どうすれば子どもたちにそういう経験をしてもらうことができるのか。家庭教育でも、学校教育でも、それが一番たいせつなことではないかという気がします。

内田樹 拝

内田樹(うちだ・たつる)
1950年東京生まれ。凱風館館長。神戸女学院大学文学部教授。専門はフランス現代思想、映画論、武道論。著書に『「おじさん」的思考』『こんな日本でよかったね』『コモンの再生』『日本習合論』など多数。『私家版・ユダヤ文化論』で第六回小林秀雄賞を、『日本辺境論』で2009年新書大賞を受賞。

三砂ちづる(みさご・ちづる)
1958年山口県生まれ。京都薬科大学卒業。ロンドン大学Ph.D.(疫学)。津田塾大学多文化・国際協力学科教授。著書に『女たちが、なにか、おかしい おせっかい宣言』『自分と他人の許し方、あるいは愛し方』『オニババ化する女たち』『死にゆく人のかたわらで』『自分と他人の許し方、あるいは愛し方』『少女のための性の話』など多数。