第5回 「もうここにはないもの」が家族を結びつける

内田樹先生と三砂ちづる先生の往復書簡による、旧くてあたらしい子育て論。ともに離婚により、男手で女の子を育てあげた内田先生と、女手で男の子を育てあげた三砂先生。その経験知をふまえた、一見保守的に見えるけれども、実はいまの時代にあわせてアップデートされた、これから男の子・女の子の育て方。あたらしい世代を育てる親たちへのあたたかなエール。

第5便・A

一度は死んだもの、と思って育てる

 

内田先生

こんにちは。お便りありがとうございます。三砂ちづるです。

NHKのテレビ番組、『ジェスチャー』覚えていますよ。女性チームのキャプテン、水之江滝子さん、男性チームのキャプテン、柳家金語楼さん、でしたよね。説明してくださっているように、一人のプレイヤーに視聴者から寄せられたある言葉、というかフレーズが教えられ、そのプレイヤーはジェスチャーを使って、チームメイトに説明して、チームメートがそのフレーズをいいあてたら、そちらのチームのポイント、っていうもので男女のチームで競うんでしたよね。是非、一度、やってみてください、とお手紙で例にあげてくださっている「負うた子に教えられ」とか「二兎を追うもの一兎を得ず」とか、いうような、まともなことわざっぽいものではなかったよな、確か・・・と思って、公開されているNHKのアーカイブをみてみると、「外人観光客に親切にしたらプロポーズされ、あわてて断っているバスガイド」とか、「ダンナさんをノシたらノシイカになってしまったのであわてて水をかけてふくらませているイカの奥さん」とか、なんだかめちゃくちゃな問題が出てきます。でも、番組は、まさにそんな感じだった、と思い出しました。「テレビ放送が始まった1953年(昭和28年)にスタート、以来、1968年(昭和43年)まで15年にわたって放送された」のだそうですから、おそらく、昭和33年生まれの私は、この番組を話題に出して、あ、それそれ、覚えてる、と言える、最後の世代ではないかと思います。

この「ジェスチャーみたいな感じ」で、体がわかっていることを頭に伝えて、体がわかっていることを言葉にしていく、という感じで文章を書き出す、ということ、よくわかります。ゼロから書き始めるときは「大体こういうことを書こう」みたいなことは、わかっているけれど、着地点は見えていません。どんな短い文章でも、かなり長い文章でも、最後どんなふうに着地するのか、書き始めた時点ではわからない、というか、「頭」は理解していない。着地点わからずに書いていて、でも書きたいことはなんとなくわかっていて、書きながらああ、そうか、そういうことだったのか、と思いながら書き進めている。

なんというんでしょうか、書いている私とは違う私が上から眺めているみたいな感じで、その上から眺めている私に、これ、わかる?ん?わからない?え?こっち?あ、そうか、こういうこともあるよね、みたいに、その「上からの私」が納得してくれるようなことを、言葉を選んで書き進めている、というか・・・。いやいや、今の、話、飛んでない?とかそれはちょっとわかりにくいでしょう、とかいう「上からの私」に納得していただけるように、書いています。書き始めると、考えてもいなかったことが出てきたり、思い出したり、話が違う方向に行っちゃったりするのですが、最後はどこかに着地するのが、興味深いです。人ごとみたいですが、そんな感じです。大体の「枠」を決める、「枠」をいただく、ことはとても重要なことで、「大体何文字で書く」と決めて、そこに向けて「上からの私」がOK出すまで着地点に向けて書いていく、というか、そんなふうに書いています。内田先生のお話は、この「上からの私」が「頭」なんだなと思いました。

ゲラになって読み返すときは、書いた時のことをほとんど忘れているので、まっさらの自分が他人の文章を読んでいるような感じになります。学生の卒論の指導とかで、彼女の書いた文章を、よりわかりやすくするには、こうしたらいいんじゃないの、と赤を入れる作業と似ています。これは、こういうことを言いたいんだよね、というのは、よくわかっているわけだから、もうちょっとここをなおすと「するする読める」、になるな、と思うところまで手を入れていく。「音読に耐えるか」「声を出して読めるか」ということだ、とおっしゃること、よくわかります。「ぐるぐる」と「するする」ですね。本当に多作で感心してしまう内田先生のバックステージストーリー、とっても励みになります。

さて、「親を許す」ことについて。「親に許された」ことの経験はあるけれども、「親を許した」という経験がない、とのこと。

この往復書簡にいただいたお題は、「男の子の育て方」でありました。こういう時代にどうやって男の子は育つのが良いのか、またどうやって男の子を育てるのがいいのか、ということについて考えていく、ひいては、女の子の育ち方についても、何か役に立つところがあるのかもしれない、などということを、離婚して女の子を育てられた内田先生と、離婚して男の子を育てた私で、やってみる、ということであります。

離婚・・・という時点で、子どもたちには許してほしい、と願うしかない、という状況を作ってしまっています。離婚するカップルには離婚するカップルの数だけ、離婚する事情というものがあるわけですが、そのような事情は全て親の事情であり、親の勝手であり、子どもたちにとっては自分にとってお父さんお母さんと呼んできた人を中心にあったはずの家族が、いったんリセットされて、どちらかの親との暮らしをなくすわけですから、どう考えてもアンフェアであり、どう考えても、申し訳ない状況でしかありえません。

息子たちの父親はブラジル人でした。子どもたちが生まれて上の子が10歳、下の子が8歳になるまで、少しだけイギリス、ほとんどをブラジルで暮らしてきました。父親とはポルトガル語を話し、私とは日本語を話し、家族の言葉はポルトガル語。学校も現地校でポルトガル語。ブラジル人家族としてブラジル文化の中でポルトガル語を話しながら、子どもたちは育っていて、日本語や日本文化、というのは、あくまで、母の言語、母の文化、でしかありません。子どもたちが幼かった頃からすでにポケモンとかデジモンとか聖闘士星矢とか世界中の子どもたちに愛されていましたから、そう言ったコンテンツを日本語で早めに豊富にゲットできることにはちょっとしたうれしさはあったかもしれませんけれど、その程度のことです。生まれてからずっと日本語でしか話しかけませんでしたから、彼らはバイリンガルとして育ち、「母語」が母の言葉であるとすると日本語ですが、なんと言ってもブラジルに住んでブラジルの親がいて、ブラジルの学校に通っているのですから、彼らの第一言語はポルトガル語で、ブラジルの大家族に囲まれて、ブラジル文化の中で育っていました。

離婚して私が子どもたちを連れて日本に帰る(彼らにとっては、住んだことないのに「帰る」ところでもない。「行く」。)ということは、彼らには想像もつかないおおごとを押し付けることになることは、わかっていました。離婚して、父のいる家族の暮らしをなくしてしまうだけではない、この人たちは、ブラジルという文化を根こそぎ失ってしまうのです。今まで住んだ国ではない、初めて住む国に住み、新しい文化の中で育って行かざるを得ない。しかも父親のいないところで。そんなことをしていいのか。

それでも子どもというのはある年齢までは親の範囲内で生きてもらうしかない。ブラジルを出ることになって、本当に持っていきたいものだけ選んで、と、子どもたちに言って、もう帰って来られないかもしれない、ということを説明して、それでも私と一緒に日本に行くのだ、と告げる私に、彼らがついてきてくれたことはただ、ありがたかった。そういうんなら、そうしかないよな、と幼いながらにあきらめるしかなかった子どもたちのことを思うと、本当に申し訳ない。東京の区立小学校に入り、典型的な日本の集合住宅に住み、知人の紹介で見合いして再婚した私の夫と新しい関係を作り(作ったと思ったら彼はガンで早逝してしまって)、彼らには本当に苦労をかけました。

これだけ親の勝手でやっているのですから、ずいぶん不満があると思いますし、離婚して彼らが失ったものの大きさを思うと、彼らには許しがたいことであり、いつか許されることがあるのか、最後まで黙って待つしかない、という内田先生と同じ口調になってしまいます。幾重にも「親を許す」について、自分が許されるかどうか、を話す資格はありません。私たちが話すことができるのは、「自分が自分の親を許す」かどうか、だけです。親になる、ということは、許されることを学ぶことだ、と思ってきました。子どもたちが許してくれるかどうかはわからないにせよ。

それを思うと、しみじみ、「親を許す」ことを、思いつくこともないような育ち方をした、という内田先生のお話、つまりは内田先生の育ち方、には男の子の育て方の重要なキイがあるような気がします。子どもが許すモードになる必要もない育て方を親がした、というのは、何よりの親への勲章です。だれにでもできることではないとはいえ、「あれこれいわれなかった、制度的次男ポジション」、「幼い頃に大病をして、生きているだけでオーケーとなった」、このへんには、汎用可能な重要なモードが隠れているような気がします。

このように育ってほしい、このように育てたい、こんなふうになってほしい、そのような期待を親はどうしても持ってしまいがちです。おっしゃるように、当時は、まだ、「長男」への親からの期待は非常に大きなものだったと思います。そのような期待と関心を持たれているお兄さんを見て、内田先生が「なかなか大変そうだな」と思われたように、子どもは「ある形」を期待されると、本当につらくなるのではないかな、と思いますね。期待と関心はもちろん良い方向で機能すれば、本人にとって大きな力になりはすること、そしてそのような例も少なからずあることを、もちろん知らないわけでありませんが。

こんなふうになって欲しい、このように育ってほしい、は、どんな親でもちょっとは思うことであるにせよ、ある意味、その子の「いま」の否定であり、その子にその子ではないものになることを求めることになる。子どもは将来何かになるために生きているのではないのだから、「期待」は多くの場合、つらい結果につながりやすい・・・。

子どもたちを日本に連れて帰ってきて、彼らはバイリンガルですから話されている日本語はわかるものの、話されている中身がわからない、という意味でのカルチャーショックが、当初、ずいぶんあったと思います。その一つが「大きくなったら何になるの?」、「大きくなったら何になりたいの?」、「将来の希望は?」などといった、大人になった時にどうしたいか、という質問の数々を頻繁に受けることでした。その質問をする大人たちは、悪気などあろうはずもなく、気楽な子供との会話、と思って聞いてくれていたのだと思いますが、彼らは答えられず、私に「大きくなった時のことはわからないよね」と言っていました。私たちは子どもたちに話す時なんとなく習慣的にこういう質問をするのですが、ブラジルではこういうことを幼い子どもに聞かなかった、ということを思い出します。子どもは、子どもである今、を存分に味わうことこそが何より大切だ、という暗黙の合意だったのかもしれない、と気づいたのはブラジルを離れてからでした。

子どもの今、に開かれた親の姿勢、オープンエンドな関わり、そういうもののなかで育てば、子どもは「親を許す」必要もなくなる。

さらに、「幼い頃大病をして、生きているだけでOK」これは、本当に達観です。オープンエンドな育て方、さらに、生きていればいい、というスタンス。簡単に言えば、「無理やりやらせない」。内田義彦のエッセイに「トンボ釣り」の話、というのがありました。子どもがトンボ釣り(と書きながら、これって、今の子どもにはわかりにくい、一昔前の遊びになってしまったのかもしれない、と思いますが)に夢中になっていて、他のことを何もやらない。トンボ釣りをやめさせたければ、簡単なことで、無理矢理トンボ釣りをやらせれば、子どもはやりたくなくなる、と書いてありました。無理矢理やらせるとなんでも嫌になってしまう。そうだよなあ、と思いました。今どきのゲームやスマホの耽溺性を考えると、やめさせたいから無理矢理やらせる、という方向性でいいのかどうか、迷いはありますけど。

ともあれ、「生きているだけでO K」に、どのように至れるか。結構これが難しい。「親子問題」のドラマとか小説ってけっこう、そこに落ちていくんですよね。いつも問われる側は親の方で。林真理子さんのみごとな近作『小説8050』も、そこに至るまでの親の葛藤の物語、として読みました。

民俗学関係の本には、よく、以前は生まれた子どもを元気に育てるための儀礼として、生まれた子どもを一度「辻」に「捨てる」ことを、形として行い、一度は死んだものと思い、拾ってきて育てる、というのがあった、ということが出てきます。一度は死んだもの、と思って育てる。これって親の側への「生きていればいい」のスタンス獲得のためのトレーニングだったんですね、きっと。

ところで、家族同士であまりしゃべらない、食卓でもほとんど世話話みたいなこと以外大した会話はなく、黙々と食べる、というのはうちも同じです。電話で話す、ということも用事がない限りほとんどなくて、ゆっくり話すという習慣がない。家族というのは、黙っていて、何も話さないけど、それが気づまりじゃない関係、頻繁に連絡を取る必要すら感じないもの・・・という感じは我が家にもあります。先日も黙ってごはんを食べていたけど、息子が、ぽろっと「今年に入って9割がた緊急事態宣言で、何が緊急なのかわからない」と一言。誠にその通りでございます。

パンデミックの出口がまだ見えません。どうかご自愛くださいませ。

三砂ちづる 拝

 

第5便・B

家族とは「想像の共同体」

 

三砂先生

こんにちは。内田樹です。第五信拝受しました。今回はあまり遅くならずにすぐにご返事差し上げることにします。

三砂先生もたいへんだったんですね。僕は娘一人を連れて、東京から芦屋に移動しただけですけれども、三砂先生は二人連れてブラジルから東京ですからね・・・「ブラジルという文化を根こそぎ失ってしまう」という表現に胸を衝かれました。彼らがいずれもう一度ブラジルに出会って、ブラジルの文化をおのれのものとして回復するという機会に恵まれますことを僕も願っています。

それはたぶん可能だと思うんです。

僕は高校生のときに一度は「内田家の文化」みたいなものをきれいさっぱり捨てたつもりでした。でも、四十歳過ぎから、自分の中にあって「ゆるぎないもの」の相当部分が「家風」によって培われたものであることに気がつきました。

その頃はまだ父母も兄もみんな元気でしたから、仲良く行き来はしていましたけれど、でも、僕をかたちづくったのはその時点での「リアルタイムの内田家の家風」じゃなくて、「1950~60年代の内田家の家風」なんです。

その「家風」なるものは70年代にはもう消滅していました。子どもたちは二人とも家から出て行ってしまうし、それぞれ結婚して家族ができましたから。そして、僕は四十歳を過ぎたあたりから、「1958年から64年くらいまでの、下丸子に住んでいた頃のわが家のありようって、なんか懐かしいなあ。今にして思えば、僕の精神的な骨格をかたちづくったのは、あの日々だったんだなあ」と遠い目をするようになった。

その頃にたぶん兄も同じような感懐を抱くようになったんでしょうね。「家族旅行しないか」と提案してきました。これが不思議な話で、「家族旅行」なんだけれど、兄の一家(兄と妻と三人の子ども)、僕の一家(僕と娘)はこの場合の「家族」にはカウントされていないんです。つまり、まだ兄も僕も家を出る前の、60年代なかばまでの構成メンバー四人だけの内田家を「再演する」というプランだったんです。

父母もこの提案を喜んでくれたので、「四人だけの家族旅行」というものを父親が亡くなる10年くらい前から毎年するようになりました。この旅行はほんとうに楽しかった。「むかしずいぶん親不孝したから、その埋め合わせをしているんです」というふうに対外的には「言い訳」をしていましたけれど、そんな義理がらみのことではなくて、四人で暗黙のうちに30年前、40年前の「内田家」を演じていたのです。

あれは、いったい何だったんでしょうね。家族四人が集まって、「今はもう存在しない家族」のために供養をしている…というような感じでした。ほとんど同窓会ですね。「かつて存在したが、今はもうなくなった集団」をかつてその集団のメンバーだった人たちが集まって懐かしんでいるわけですから。父母にしてみても、まだ若くて、元気で、希望にあふれていた時代の自分の気分や体感を思い出す機会だったのかも知れない。

三砂先生のお二人の息子さんたちも、たぶんご自分の家族を持つようになってしばらくしてから、「ねえ、同窓会やらない?」というようなことを言い出すんじゃないかな。「三人でブラジルに行かない?」って。なんだか、そんな気がします。まだだいぶ先の話になりそうですけれど。でも、その時に彼らもまた「一度失ったブラジル文化」を取り戻して、それがどれくらい深く彼らの精神的骨格をかたちづくっていたのかを再確認することができるのではないでしょうか。

家族って、今ここにあるものであるという以上に「今の自分をかたちづくった場所だと自分が信じている集団」のことなんじゃないでしょうか。「想像の共同体」です。

だからたぶん「私の家族」という言葉で頭の中に思い描くイメージが、家族のメンバー全員によってひとりひとり違っている。メンバーたちの年齢が違ったり、住んでいる家が違ったり、場合によっては構成員の数が違ったり・・・「うちの家族」という言葉だけは一緒でも、家族のひとりひとりが頭の中に描いている像は違っている。

今年の初めに放映されていた宮藤官九郎脚本のテレビドラマ『俺の家の話』ってご覧になりましたか? 僕はふだんテレビはぜんぜん見ないのですけれど、このドラマだけはなぜか毎週見てました。能楽師の家の話というので興味がありましたし、宮藤官九郎+長瀬智也という組み合わせは『池袋ウェストゲートパーク』も『タイガー&ドラゴン』も面白かったので、期待して見ました。

このドラマ、一度はばらばらに分解してしまった家族が、父親の危篤をきっかけに再構築されるという話なんです。家族をまとめることができなかった自分勝手な父親が死にそうだということで、いろいろな仕方で父親からスポイルされてきた子どもたちが再結集する。でも、一度分かれた家族ですから、お互いになかなか心が許せない。でも、このドラマの場合でも、クライマックスは子どもたちが「今の自分」を手放して、「あの時代の自分」を演じるようになるところなんです。「あのころの家族」を技巧的に再演しているうちに和解が成就する。そういう話なんです。最後は「そこにいない人間があたかもいるかのようにみんながふるまう」ことで家族が結束する…というメシア信仰みたいな、実に宗教的に深い終わり方をするんですけど。

家族を結びつけるのは、今一緒にいると、どういうふうに楽しいとか、どんな支援を期待できるかとか…というようなことじゃなくて、「もうここにはないもの」を共有し、それを懐かしく思い出すということなんじゃないでしょうか。

そして、みんなが懐かしむ「もうここにはないもの」は「もともとなかったもの」かも知れない。

いや、もしかしたら、その方があるいは多いのかも知れません。でも、それでいいと思うんです。人間をかたく結びつけるのはたいていの場合「存在するもの」ではなくて、「存在しないもの」だからです。

前にフランスの地方都市でひと夏を過ごすことがあって、その時に読むものがなくなって、街の本屋さんに本を買いに行ったことがあります。日本文学のコーナーを見たら、驚いたことに谷崎純一郎の仏訳が何冊も並んでいたんです。『陰影礼賛』とか『細雪』とか。

いったいどんなフランス人が『細雪』を読んで面白いと思うんだろう…と不思議な気がしました。昭和17~18年の阪神間のブルジョワ家庭の結婚話とか物見遊山の話とか、フランス人が読んで分かるのかなと思いました。

でも、ずいぶん後になって、フランス人でも『細雪』を読める理由がわかりました。『細雪』って全編にわたって「失われたもの」あるいは「もうすぐ失われるもの」を懐古する物語だからです。

「もうすぐ失われるものを懐古する」って変ですけれど、そういうことってあるんです。

小説が描くのは、京の景観であっても、美食であっても、芸能であっても、耽美的な生活であっても、それを微に入り細を穿って記述している谷崎は「あとしばらくしたら、これらのものはすべて消える」と思っているようなんです。事実、『細雪』に描かれた「美しいもの」はほとんど昭和20年の大空襲で灰燼に帰してしまう。

『細雪』は陸軍の検閲にひっかかって発禁処分になりました。僕は検閲官のこの「慧眼」に脱帽します。検閲官は、この小説の行間からにじみ出る「帝国臣民が享受してきたすべての『美しいもの』はもうすぐあとかたもなく破壊されるだろう」という文学者の予感を見とがめたわけですから。

だからこそ、フランス人読者が谷崎を読んでも、その感動は伝わるんだと思います。僕のような戦後生まれの日本人にとって、『細雪』が描いたような美的世界はほとんどすべて「すでに失われたもの」です。「実際には触れたことがない」という点では、僕もフランス人読者も変わりがない。

「今、ここに存在する美しいもの」はその場に行かないと経験できませんが、「かつて存在したけれど、今はもう搔き消えてしまったもの」を懐古し、その欠落を悲しむということなら、想像力さえ働かせれば、誰にでもできる。

フランスでよく読まれている日本人作家は谷崎潤一郎と村上春樹と夏目漱石ですが、この三人の作家に共通するのは、「何かたいせつなもの」がとりかえしのつかない仕方で失われたトラウマ的経験をめぐる物語を代表作としているということです。それがあるいは彼らの世界性の秘密かも知れません。

どうしてこんな話をしているかと言うと、もうお気づきでしょうが、家族も「そういうもの」ではないかという気がするからです。「もう存在しないもの」を懐かしむ気持ちにはある種の深さと普遍性がある。他のことではなかなか共感し合えない人たちも、「欠落感」の深さと切実さにおいては結びつくことができる。

『北の国から』というテレビドラマがあります。三砂先生もたぶんいくつかはご覧になったことがあると思いますが、ドラマの中の回想シーンで、純(吉岡秀隆)がよく「そんなことが起きているとは、僕はぜんぜん知らなかったわけで」というナレーションを入れます。このナレーションは、自分の家族の身に「そんなこと」が起きたことを自分は(知っているべきだったのに)知らなかった。家族としての責任を十分果たせなかった。そのことについての微かな悔いをにじませています。

でも、このような「悔い」こそが家族をむすびつけているものではないかなという気が僕にはします。家族でない人については、そんなふうな悔いは感じないからです。家族以外については風の便りに触れた時に、「そうだったのか、あいつそんなことになっていたのか…」という感懐は持つでしょうけれど、「私がそれを知らなかったことについては私に非がある。責められても仕方がない」とは思いません。

どんな親しい家族同士でも、どこかで必ずお互いについて「そんなことが起きていたとはまったく知らなかったわけで…」という思いを抱くことはあると思います。そのことについて微かな悔恨の念を覚えるというのが、家族であることの証ではないかなという気がします。

わあ、なんだかすごく長くなってしまいました。すみません!

もう一つすごく共感できたのが、日本ではすぐに大人たちが「大きくなったら何になるの?」「将来の希望は?」といったことを子どもに訊くことです。

そんなのは当たり前のことで、世界中どこでも子どもたちは同じ質問を向けられていると思っている人がいるかも知れませんけれど、これは違います。

僕がこれまで読んできた世界各国の小説を思い出す限り、「大きくなったら何になるの?」というような質問は人間の内面に踏み込むデリケートな問いですから、かなり親しくなった後にしか発されないし、よほど相手から信頼されていないと問いかけても答えは得られない。そして、たいていの場合、その答えは「あっと驚く」ようなものです。だからこそそういう問いはめったに物語の中には登場しないし、その答えをきっかけに物語が大きく転換したりする。

でも、「将来何になるの?」は日本では日常的な、きわめてカジュアルな質問です。でも、「将来の夢は?」なんて、よく知らない人に訊かれても、すらすら答えられるはずがないし、答えたくもない。少なくとも僕はそういう質問にまじめに答えたことがありません。高校生まではそう訊かれると「法学部に行って、検事になる」と答えていました。「どうして?」とさらに訊かれると、「容疑者の供述の矛盾を衝いて、相手を追い詰めるのが得意だから」と。そんなの嘘なんですよ、もちろん。でも、そういうふうにでもして煙に巻かないと、しつこいから。

今は高校生たちもはやばやと「将来の夢」を確定することを求められます。「夏休み明けまでに将来の夢を確定して進路指導に提出すること」なんていう課題が出るんです。そのせいで、今の高校生たちは「夢」という語を見るとうんざりした気分になるんだそうです。気の毒な話ですね。

これは日本社会の得意芸であるところの「均質化圧」「同調圧」の典型的な表れだと思います。子どもは一回自分で口にしたことに縛られます。何となくうっかり「将来は・・・になりたい」なんて言ってしまうと、それがしばしば呪いになる。どうせ誰かの請け売りで、他者の欲望を模倣しているに過ぎないんですけれど、一度口にしたことは固有のリアリティーを獲得する。それが皮膚の中にねじ込むようにして内面化される。その結果、子どもたちの夢が「相互模倣」の中に巻き込まれて、みんなが同じような夢を持つようになる。

気の毒です。だから、僕は子どもに向かって絶対に「将来何になりたい?」という質問をしません。だって、わからないんですから。僕が仏文学者になったのも、武道家になったのも、物書きになったのも、ぜんぶ「もののはずみ」です。もののはずみで違う方向に転がっていたら、ほんとうに検察官になっていたかも知れないし、政治家になっていたかも知れないし、役者になっていたかも知れません(かつての岳父に「私の地盤を継いで、自民党から衆院選に出る気はないか?」って訊かれたことがありますし、舞台を見たディレクターから俳優としてテレビに出ないかって誘われたこともあります)。

だから、子どもを見ても、「この子が将来何になるかなんて、全然予測が立たないなあ(とりあえず元気で生きてくれていたらそれでいいよ)」と思って、のんびりしてます。

さ、切りがありませんから、もうほんとに止めますね。ではまた。

内田樹 拝

 

内田樹(うちだ・たつる)
1950年東京生まれ。凱風館館長。神戸女学院大学文学部教授。専門はフランス現代思想、映画論、武道論。著書に『「おじさん」的思考』『こんな日本でよかったね』『コモンの再生』『日本習合論』など多数。『私家版・ユダヤ文化論』で第六回小林秀雄賞を、『日本辺境論』で2009年新書大賞を受賞。

三砂ちづる(みさご・ちづる)
1958年山口県生まれ。京都薬科大学卒業。ロンドン大学Ph.D.(疫学)。津田塾大学多文化・国際協力学科教授。著書に『女たちが、なにか、おかしい おせっかい宣言』『自分と他人の許し方、あるいは愛し方』『オニババ化する女たち』『死にゆく人のかたわらで』『自分と他人の許し方、あるいは愛し方』『少女のための性の話』など多数。

第4回 親を許すこと、親から許されること

内田樹先生と三砂ちづる先生の往復書簡による、旧くてあたらしい子育て論。ともに離婚により、男手で女の子を育てあげた内田先生と、女手で男の子を育てあげた三砂先生。その経験知をふまえた、一見保守的に見えるけれども、実はいまの時代にあわせてアップデートされた、これから男の子・女の子の育て方。あたらしい世代を育てる親たちへのあたたかなエール。

第4便・A

ぼんやりの効用

 

内田先生

こんにちは。お便りありがとうございます。

そうでしたね、先日、平川克美さんの隣町珈琲でばったりお会いする前に、内田先生にお目にかかったのは、2年前、これまた隣町珈琲の2019年の新年会でしたね。あの頃の隣町珈琲はとっても狭くて、とっても狭いとわかっているのに、平川さんとその周りの人に会いたくて、ひしめき合いながら、お正月を寿いで、山村若静紀さんの踊りがみたくて、それでなくても狭いのに、みんな、いっそう身を寄せ合って、1メートル四方の空間をなんとか作り、若静紀さんが踊られたのでした。密集して、密接して、がやがやとみんなでおしゃべりして、お酒を飲んで、あんなふうに人に会うことができたこともあったんだなあ、というふうに思いおこす日が、こんなに早く来るとは思っていませんでした。

思えば内田先生と平川さんと三人でお話ししたのは、今回が初めてでした。一対一ではお話しする機会も対談する機会もありましたが、お二人がおしゃべりなさっているのをわたしがひとりでみている、という機会はあのように偶然にしか訪れませんね。自慢の兄たちを、いいなあ、すてきだなあ、と思って話をきいている状況をいただいて、勝手に「妹」ポジションを自分のものとしてしまったわたしは、大変幸せにおふたりをながめました。妹の役割はもちろん、「妹の力」を日々、精励して養い、兄たちの安寧を願い、無事を祈ることです。

映画の話、韓流ドラマの話をしておられたときに「平川くん、映画みたあと、批判とかしないよね、わるくいわないよね、かならず、なにかいいこというよね」っておっしゃっていましたね。平川さんは、おもしろくないものは最後までみないんだよ、最後までみるものはなにかいいところがあるんだから、みたいなことを答えておられました。

おお。

最後までみるものには、なにかよきところがある。みるべきところのないものはスルー。そして目の前にあるものは大切にする。特別な人です。平川文化圏のここちよさをもとめて、ああやって新年会に密集していたのだと思います。なにをやってもほめてもらえる。わるくいわない。平川さんはいつも自分の気がついていないいいことをみつけてくれるし、ほめてくれる。それは内田先生も同じです。ちがうところをあげつらうのではなく、そうか、この人はこんなふうにいうのか、と理解してくださる。

それって大事ですよね。学生は、批判的態度を身につけて、批判的な読み方をせよ、と教えられると思うんですけど、教師としては、ものごとを批判する前に、まず自分が好きな書き手をみつけなさい、っていうんです。この人の書いているものが、理由はまだうまく言えないけれど、好きだ、気に入っている。ならば、その人のものを全部読みなさい、そして自分の思っていることを他人が上手にあらわしてくれている、と思えるものをみつけなさい。そうして自分の思いが言葉になることを経験し、自分の思考の軸を作っていき、言語化して行く。そういうプロセスを経て、その上で初めて、なにかを批判する、ということができると思うんですね。

しかも、批判するのではなく、まずどうしてそう考えることになったのかな、というアプローチ、まさに内田先生がなさっているようなことをしていく。「彼がそう思うに至ったことにはおそらく必然性があるのであろう」。そういうふうに考えていく基礎が、幼い頃からの平川さんとの人間関係でつくられていった、とはなんとすばらしいことでしょう。それは双方向の関係で、お互いを大切にする中でつくられていったものですね。

親子関係も、また。

「親がそう思い至ったことには、あるいは、親がそうするに至ったことには、おそらく必然性があったのであろう」、子どもの側がこの認識を持てるようになることが、子どもが大人になる、ということなのだろう、と思います。多くの場合は、自分自身が親になったときになんとなく気づきはじめるのかとおもいます。聡明な人は、もっと早くにわかるのでしょうけれども。

マイケル・ジャクソンは、同い年の1958年生まれで、誕生日も近いので、勝手に同じ時代を生きてきたという思いを抱いていました。マルティン・ルーサー・キングが有名な“I have a dream” の演説をしたのは1963年、アメリカで法の上での人種差別が終りを告げることになった公民権法が制定されたのが1964年。そういう時代が彼の幼少時で、ジャクソン5の“I want you back” で全米チャート1位になったのは1969年。MTVネットワークに初めて登場した黒人歌手となったのが1980年代。50歳の角を曲がれずに、マイケルが逝ってしまってもう十年以上経ちます。彼が、「子どもと親」について、オクスフォード大学でスピーチをした文章や音声で残っています。2001年3月のことだから彼は43歳です。彼は、「無償の愛とは、子どもから親に捧げるものだ」、と話しているんですね。

マイケルは、自分が親になって、自分の子どもたちのことを考えている時、この子どもたちが大きくなったら、自分のことをどんなふうに思うんだろう、と考え始める。自分がこういう仕事をしていたから、いつもパパラッチに追いかけられたりしてしまっていて、公園に行ったり、映画に行ったり、普通のこどもたちができることができなかったから、大きくなってからわたしを恨んだりするかな、でもどうか自分のことを許してほしい、お父さんはちょっと難しい環境にいたけど、まあ僕たちにたくさんの愛をくれてあたたかい人だったよな、と思いかえしてくれるといいんだけどなあ、と言います。

そして、そうやって、自分の子どもたちに、自分の至らなかったことをなんとか許してほしい、と思うにつけて、考えるのは、自分の父親のことだった、というんですね。マイケルの父は、息子たちがジャクソン5として活躍するために、虐待に近い厳しさで子ども達を育てたというし、実際にマイケルは父に虐待されていた、と言っていたこともあった。マイケルの父は、アメリカ南部の貧しい黒人家庭に生まれ育ち、30年代の大不況期に思春期を過ごすのですから、誇りを奪われ、希望をないがしろにされていく世界で男として成熟していくことをもとめられた。そんな彼が、自らの感情を表に出すことを困難だ、ということに何の不思議があるだろうか、感情に壁を張り巡らせなければならないような環境で育って、自らの心をどんどん閉ざしていったことは仕方のないことだった、とマイケルは思うようになる。差別され厳しい環境で育っていくことは、感情に壁を作り、感情を表せなくなり、自らへの感情教育も困難になる。マイケルは、父の感情についてそんなふうに考えている。

そしてスピーチの最後に、親との間にどんなことがあったとしても、どうか親を許してほしい、親を許して、親に、今一度、愛する、とはどういうことか教えてあげてほしい、親にひどい目に遭わされたと思っている人も、親に手を述べてほしい、と語りかけます。あなたたちにお願いすると同時に、わたし自身にも願う、わたしたちの親に、無償の愛、をとどけられるように、と。子どもに無償の愛をとどけられてこそ、親はどうやって人を愛したらいいのか学び直せるのだ、と。

初めて読んだとき、ううむ、とうなってしまいました。子どもが親を許す。子どもが自らの親に愛情を注ぐ。わたしたちすべては、誰かの子どもです。誰かの親ではない人もいるかもしれないけれど、全ての人は誰かの子ども、そしてわたしたちにできるのは、自分の親を許すこと。自らが親となって、自分の子どもをどうやって育てるのか、ということにむきあうとき、自分ができるのは、子どもにどうするのか、というより、自分の親を許し、自分の親を愛することだ、というのは、親になる自らの感情教育の大変重要な部分を形作るような気がします。親になる私たちは、不可避的に間違う。子どもには、許してもらうしかないのだと・・・。

ちょっと、考えるにはしんどいことになってきました。

いまいちど、平川さんの話題に戻ります。内田先生に最初にお会いしたのは2003年のことですが、平川さんにお目にかかったのは、ずっと後のことでした。書き手としても、内田先生のお友達ということでも、「平川克美」のことは存じ上げていましたが、会う機会もなく、内田先生に直接ご紹介いただく機会も特にないまま、時間が過ぎていました。何年くらい前かなあ、今ほど、日本で話題になる前のエマニュエル・トッドが来日した時に、藤原書店でのトッドを囲む会で平川さんに初めて会いました。お互い、なんで、この人がここにいるの、なんで、トッドなの、と思ったんですが、内田先生からお話を聞いていたのでなんとなく以前から知っているような気がして、すぐ打ち解けてお話しすることができまして、その後、親しくお話しさせていただくようになったのです。ですから、トッド、がきっかけでした。トッドご本人はもちろん知る由もないことです。

トッドについては、昨年、勤め先の大学の講義で、彼の人口論について、話すことになりました。サバティカルをとる同僚の人口学の先生の代わりに、人口論について2ターム分、講義することになり、1ターム目を人口学の概論、2ターム目を人口学の特論として、トッドを取り上げたのです。専門としてきた疫学と、トッドの専門の人口論はコインの裏表みたいなところがある分野です。日本から離れていた間の10年くらいロンドン大学衛生熱帯医学校というところで働いていたのですが、所属していた部局はDepartment of Epidemiology and Population Sciencesと言いました。つまり「疫学人口科学部」です。集団の健康を扱う公衆衛生という分野の最もパワフルな計測道具である疫学と、人口の数とか分布とか構造や変化を問題として人口現象を分析する人口学は、重なるところも多いのです。とはいえ、人口学は専門ではありませんから、授業しようと思うと、かなりしっかり自分で勉強しないと授業になりません。昨年、全てオンライン講義になったことは大変だったのですが、自分としては、突然オンライン講義に移行したのが大変だったのか、この人口論をはじめとしてたくさん初めてやる講義ばかりを担当したのが大変だったのか、よく分からなかったのですが、それはともかく。

授業をするのですから、彼の書いたものは、今一度読み直しました。彼の理論そのものも、ですが、インタビューなどもたくさん読みました。その中で、彼が自分の子どものころ、若い頃を振り返って、「時間がたくさんあること」こそが、創造性に何より大切なことだと言っていたことが印象的でした。トッドはフランスで育ちますがイギリス仕込みの人口学者でもあり、とてもユニークで、経済よりも人口動態を軸に歴史を捉え、結果としてソ連崩壊やイギリスのEU離脱、アメリカでのトランプ政権誕生を予言してきたことで世界に知られていきます。人口動態を注視していれば、こんなことがわかるのか、と目を開かれる思いがするのですが、彼のオリジナルな着想、視点は、とにかく、ヒマでやることがなくて、ぼうっとしていたころの生活によっている、というのですね。

人が育つ過程で、ぼんやりする時間がたくさんある、というのは、本当に大切なことです。わたしは学齢期前の子どもと大学生は、とにかくぼんやりする時間がたくさんあって欲しい、と思うんですよね。柳田國男が子供の遊びを分類していて、軒遊び、というのを定義していました。柳田が自分で作った言葉だ、と言っていますが、親に抱かれている時期と、外で活発に友達と遊び始める前に、いわば、家の軒先で親か誰かの目の届くところでぼんやりして一人遊びしている、というような時期の遊び、のことです。吉本隆明はこれを、母親によって育てられている時間と、学童期に始まる優勝劣敗の世界の入り口との間に、弱肉強食になじまないような世界が可能かもしれなくて、軒遊びの世界は、その可能性を暗示しているのだ、というふうに言っていました。意識するしないは別として、そういう中間、つまりは、赤ちゃんである時期と、学童期の中間にあるこのぼんやりした時間を持つことが人間の力の特性にかかわるのではないか、と。

大学生という多くの人にとって二十歳前後の時期も、少し似ていると思います。生徒として守られていた時期と、まさに弱肉強食の社会にさらされる中間としての時間を提供するのが大学生、という時期なのかもしれない。その中間の時期を経験することをゆるされた人は、そこでぼんやりすることによって得た力を、世界のために使えるのかもしれないと。パンデミックの中、人に会う機会が減っている大学生が、ぼんやりする時間がたくさんとれているといいな、とか思ったりするのでした。

平川さん話題が続きました。くしゃみしておられるかもしれないですね。それではまた。どうかご自愛ください。

三砂ちづる 拝

第4便・B

生きているなら、それでいい

 

三砂先生

こんにちは。内田樹です。お手紙ありがとうございます。

結構早くにお手紙をいただきながら、返事が遅れて済みません。

三砂先生への手紙は、書き出したら、数時間で書き上げちゃうだろうということがわかっているので、あまり「締め切り」を気にしないでぼおっとしているので、安藤さんを心配させてしまいます。申し訳ありません。

さきほど、今年4冊目の単著のゲラのリタッチが終わったので、ようやくご返事に取りかかれます。

今年だけで単著が4冊って、多すぎますよね。まだ7月ですよ。

この他に共著、対談本がありますから、秋ごろはまたも一時的に「週刊ウチダ」状態になりそうです。

どれも編集者がブログ記事やあちこちの媒体に書いたものを蒐集して、編集してくれた「ありものコンピレーション」なので、手を入れずにそのまま出してもいいんですけれど、ゲラを見ていると、どうしても推敲したくなってしまうんです。どんどん書き足し、どんどん削っているうちに、いつの間にか原形をとどめぬものになっています。

そういう性分なんです。自分の原稿に手を入れる作業がけっこう好きなんです。少しでも読みやすくなると、すごくうれしい。

「読みやすい」というより、「声に出しやすい」という方がいいかも知れません。

僕の場合、自分の文章を推敲するときの基準は「音読に耐えるかどうか」がなんです。意味とかメッセージよりも、声に出してすらすら読めるかどうかということが僕にとってはたいせつなんです。どうしてなんでしょうね。

すごくロジカルで、術語も一義的に用いられて、丁寧に書かれているのだけれど、なんだか泥濘に足をとられたようにもたついて、なかなか先へ読み進められないという文章があります。その一方で、へんてこな話が、よくわからないロジックに導かれて、うねうねと書かれているんだけれど、なんとなく読み出したら止まらない文章というものがあります。僕はたぶんそういう文章をめざしているんだと思います。

それって、「面白い文章」というのとはちょっと違うんです。

「面白い」と「止まらない」は違う。かっぱえびせんだってそれほど「美味しい」わけじゃないけど(メーカーさん、すみません)、食べ出すときりがないでしょ。

というのは、たぶん僕が書こうとしていることは非常に「共感されにくいこと」だからだと思うんです。「ああ、わかるよ、その感じ。オレも前からそう思っていたんだ」というリアクションがあまり期待できない。

たしかに、そういう「打てば響く」リアクションをしてくれる人を想定読者にして書くという書き方はあります。内輪にだけ通じる固有名詞やほのめかしによって、読者たちに「これがわかる私たちはselected fewだ」というエリート意識をもたらすような書き方ってあります。僕もそういう書き方に影響されて、そういう書き方をしていたことがありますから、わかるんです。

でも、今僕がしているのはそれとは違うんです。僕は「打てば響くようにわかる人」に向けて書いているわけじゃない。「何言ってんだよ、こいつは・・・」と頭上に疑問符を点じながらも読むのを止められないという読者に向けて書いている。

だから、「音読に耐える」ことが必須の条件になるなんです。

「すらすら読める」というのは「わかりやすい」とは違います。「意味がわからないけれど、すらすら読める」ということはあるんです。音がシームレスに続き、ある種のリズムがあって、息をつくところが、ちゃんと用意されていると、すらすら読める。

今書いていることだって、かなり意味がわかりにくい話だと思いますけれど、たぶん三砂先生はすらすら読んでくれていると思います。

最初にゼロから文章を起こすときは、自分が何を考えているのかを自分に説明しようとして書いています。だから、話はくどくなる。同じところをぐるぐる回るし、行き止まりにぶつかると、分岐点まで戻る。ブログにはその「ラフ」の状態の文章をだいたいそのまま、推敲しないで上げているので、本にするときには、手を入れないと「すらすら」にならない。

最初に書いているときは自分のアイディアを自分に説明しようとしています。変な言い方ですけれども、そうなんです。

橋本治さんは本を書くことについてこんなふうに書いています。

「分かってて書くんじゃない。分かんないから書く。体が分かることを欲していて、その体がメンドくさがりの頭に命令する──『分かれ』と。」

僕が書くときのスタンスもかなりこれに近いです。体の方は何かを先駆的にわかっている。でも、それを言葉にするのは頭の仕事です。

昔、NHKのテレビ番組で『ジェスチャー』ってあったの覚えてますか? たぶんこの本の読者で「ああ、あれね」という人はきわめて少ないでしょうけれども、一人のプレイヤーにある単語が教えられます。その人はその語が何であるかをチームメイトに向かってジェスチャーだけで示すんです。チームメイトはその所作から、その人がどういう語を表現しているのかを言い当てる・・・というゲームを二チーム対抗でやるんです。これが結構難しいんです。「負うた子に教えられ」とか「二兎を追うもの一兎を得ず」とか、ジェスチャーでどうやって示したらいいか、お暇なときにやってみてください。

閑話休題。体が頭に向かって「分かれ!」というのはこの『ジェスチャー』みたいな感じなんです。体が「こういう感じのことってあるでしょ!」と頭に伝えるんだけれど、わかってるのは「感じ」だけで「言葉」じゃないから、頭はけっこうとんちんかんな回答をする。頭が「え~と、それはこういうことですか?」というふうに変換候補を出してくるのを、体の方が「あ、惜しい。近い!」とか「ぜんぜん方向違い」とか反応して、そのやりとりの中でだんだん言葉がかたちを整えてくる。

最初に文章をゼロから書き出すときって、そんな感じです。

でも、推敲しているときはそれとは違います。まったく違う。推敲段階では、一応僕の体と頭は合意ができています。実感と言葉が一応はセットになっている。だから、「こういうことがわかった」ということについては、とりあえず自分の中では齟齬はありません。でも、「自分の中では齟齬がない」ということと「他人に分かってもらえる」というのは別の話です。

今度は体に仮説的に「他人」になってもらう。そして、頭が次々と「わかったこと」をあれこれと言い換えて体に向かって差し出すんです。今度は言葉はもうだいたい出来上がっている。だいじなのは止まらずに読み続けてもらうことだけです。さいわい体は頭と違って、理屈っぽくないですから、シームレスに言葉がつながっていて、話がぽんぽんとリズミカルに進み、音読しても呼吸が楽だと「するする」と言葉を吞み込んでくれる。

つまり、定式的に言うと、ゼロから書き起こすときは、「体」が自分で、「頭」が他人役。ゲラを直しているときは、「頭」が自分で、「体」が他人役。そういう役回りみたいです。

あ、最初からまた逸脱してしまいました。ごめんなさい。でも、まあいいですよね。こういう文章を書くときにも実は二段階あるというバックステージの打ち明け話をしているわけですから。「ぐるぐる」と「するする」。

前回のお手紙で「親を許すこと」という言葉がずしんと胸にしみました。

「親を許す」ことは自分の決断でできますけれど、「子に許される」ことは先方の専管事項ですから、こちらは手が出せない。もじもじと下を向いていることしかできません。だから、「子に許される」関係のことは娘に考えもらって、僕は「親を許す」というのがどういうことか考えてみたいと思います。

というのは、僕は「親に許された」ことの経験はあるのですけれども、「親を許した」という経験がないのです。

僕は父親とはあまり話さない父子でした。世の息子たちはおおかたそうでしょうけれども、父親と親しくて、よくおしゃべりをする息子って、まずいませんよね。

二人兄弟ですから、小さいとき、父の関心はもっぱら兄に向かっていて、僕に対する関心はかなり低かったです。ただし、「関心が向かう」というのは「期待する」ということで、兄はその期待にあまりまじめに応えていないので、実情は「兄はひんぱんに叱られるが、弟は何も言われない」ということでした。次男というのは、わりとそういうものですよね。のちに下村胡人の『次郎物語』を読んで、「次男への父親の無関心」がかなりの程度まで制度的なものだということを知って、「なるほど、そういうものか」と思いました。ですから、父親にあまり期待されないことを僕はとくに不満には思っていませんでした。それより「親の期待」を一身に担わされた兄が気の毒だなと思いました。その経験はもしかするとかなり大きな影響を与えたのかも知れません。「子どもにあまり期待をかけると、子どもはけっこうつらい」というのを兄の横顔を見ながら感じていましたから。

弟の方はもともとあまり期待されていない上に、6歳で大病をして、「生き延びても、心臓に重篤な後遺症が残ります」と医師に宣言されたキャリアでしたから、親からすれば「とにかく生きていれば、それでいい」ということになります。

これはものすごく楽でしたね。生きているだけで、親が満足してくれるんですから。僕が長じて娘に対して「生きていてくれさえすれば、それでいい」というずいぶんとゆるい育児方針を取るようになったのは、その体験があるせいだと思います。

父とは差し向かいで話すということがほとんどありませんでした。ですから、たまに二人きりになるとどぎまぎしました。1950年代のふつうの家には電話なんかありませんから、「今日は遅くなるよ」というような日程変更は事実上ありません。サラリーマンは朝家を出る時間も、夕方家に帰る時刻も決まっています。乗る電車も決まっている。だから、夕方になって雨が降ってきたりすると、駅は傘を持って勤め帰りの父親を迎えにくる子どもたちが何人もいました。僕もときどき駅に父を迎えに行きました。すると、いつもの電車の、いつもの車両から父親が降りてきます。改札口で手を振ると、僕に気づいて、にっこり笑ってくれる。父親が大きな傘をさし、僕は小さな傘をさし、並んで家まで帰ります。迎えに行って、父の役に立てるのはたのしいのですけれど、父と二人でいても話すことがない。父も「最近、勉強しているか」とか訊くだけで、「うん」と答えると、話のあとが続かない。でも、僕はその「話題がなくて、手持無沙汰のまま、家に向かって歩いている」というのがけっこう好きでした。

そういうことってあると思うんです。「話すことがない」で無言のままでいるというのは、僕の子どもの頃は家庭の基本だったように思います。家族というのは、別にのべつおしゃべりして、笑っていたわけじゃない。食事のときも、母親がなんとなく世間話をして、それにみんなが気のない返事をするくらいで、ほとんど無言だったと思います。僕はそういう淡泊で、微妙に疎遠な感じが好きでした。

家族というのはあまりべたべたしない方がいい、好き嫌いの熱量が薄い方がいいという僕の今日にいたる家族観はたぶんその時期の内田家で形成されたのだと思います。ほんとうに「家風」というのはいろいろなところに顔を出すものですね。

ですから、僕には今回三砂先生が提示された「親を許す」ということを主題として真剣に考えたことがありません。逆に親には何度か許してもらいました。

僕は親に対してかなりひどいことをしましたけれど、僕が「許せない」と思うようなことを親は僕に一度もしたことがありません。

僕が親にした「ひどいこと」の一つは、高校を中退して、家を出たことです。せっかく進学校に入って、受験生として順調に仕上がっていたはずの息子が、いきなり「自立」すると言い出して、学校辞めて、家出しちゃったんですから、親は驚きますよね。でも、これはまったく親が悪かったわけじゃなくて、1967年という時代のせいなんです。

世界中で若者が体制に反抗していた時代ですから、僕も反抗しないと時代に遅れてしまうと思っただけなんです。そういう点ではまことに時代の風儀に忠実な高校生でした。内田家は子どもにあまり干渉しないのんきな家でしたし、通っていた日比谷高校も当時としてはずいぶんと自由な校風の学校でしたけれど、そういうこととは関係ないんです。こういうふうに俗情と結託して気楽に受験勉強すること自体が許しがたいプチブル的退廃だと定義してしまったんですから、どうしようもない。

高校を辞めて、家も出て半年してから、素行不良でアパートを追い出され、無一文になって、がりがりに痩せこけて、家に戻って「また家に置いてください」と懇願しました。そしたら、親たちは黙って受け入れてくれました。さんざんえらそうなことを言って家を飛び出した息子が尾羽打ち枯らして親の前に手をついたときに、「だから言っただろう」というようなことを親たちはひとことも言いませんでした。僕に屈辱感を与える言葉をひとことも口にしなかった。これにはほんとうに感謝しています。そういう言葉があるいは喉元まで出かかったのかも知れませんが、そんなところで息子に要らぬ屈辱感を経験させても、溝が深まるだけで、何の意味もないということを親たちは分かっていたのだと思います。

もう一つの「ひどいこと」は、結婚した後、妻が両親とはげしいいさかいをして、内田家と絶縁すると言い出した時に、僕が妻の側についたことです。そのせいで、生まれてすぐの娘は6歳になるまで、両親と会うことができませんでした。一番かわいらしい頃の孫を見ることも抱くこともできなかったのです。それについては、ほんとうに両親には言い訳ができないくらいひどいことをしたと思っています。数年後に離婚したあとに、僕の方から親に詫びを入れて、関係を修復してもらいました。その時も僕を責めるようなことは親たちは言いませんでした。また黙って受け入れてくれました。

考えると、ずいぶん「ひどいこと」を親に向かってしたものだと思います。でも、二度とも、親たちは黙って僕を許して、受け入れてくれた。あるいは、6歳の時に一度は「死んだ」と思って諦めた息子なので、「生きているなら、それでいい」というオープンマインドでずっと接してくれていたからかも知れません。

ですから、僕には「親に許してもらった」経験はあっても、「親を許す」というようなことが主題になることはなかったのです。

娘は僕の育て方にはずいぶん不満があると思います。とくに離婚したことは彼女にとっては最大の「許しがたいこと」だと思います。これについては娘が「許す」と言ってくれるまで黙って待つしかありません(最後まで許してくれない可能性もあります)。

そう考えると、僕は親にも子どもにも「許しを請う」という双方的に謝るだけというずいぶん情けないポジションにいることになります。つまり、親にも子にも、双方的に「ひどいこと」をしてきたということです。とんでもない男ですね。

僕の育児は「ふつうじゃない」と前に書きましたけれど、こういう家族史的背景もそれには関与しているのかも知れないと思います。そういう人の書く育児論が果たして世の人の参考になるのかどうかわかりませんけれど、「世の中には変な家族もあるものだ」という情報もそれなりに生産的だからということで、読者のお許しを願うことにします。

それから、「暇にすること」の効用というお話をトッドについて書かれていましたけれど、僕もそれには100%賛成です。そういうお前は多動で「暇にしたこと」なんかないじゃないかとすぐにつっこまれると思いますけれど。たしかに、平川君と僕は現在の診断基準なら間違いなく「多動症」の子どもでした。とにかく「暇にして」「ぼおっとしている」ことがまったくできない子どもでしたから(それは大人になってからも変わりません)。

平川君は学生時代に渋谷のライオンで現代詩をノートに書き写したり、いまだと銭湯めぐりをしていることを「閑人のわざ」だと称しているかも知れませんけれど、そんなの信じちゃダメですよ。あの人は僕と同じで根っからの多動症なんですから。あれは「必死になって、寸暇を惜しんで現代詩を書き写し」「必死になって、寸暇を惜しんで銭湯に入っている」です。一見すると生産性がないというだけで、今していることに集中しているという点では「仕事をしている人間」をはるかに凌駕しています。

僕だってそうです。日々こんなふうに「心にうつりゆくよしなしごとを、そこはかとなく」書きつづっているわけですけれど、「そこはかとなく」というのは「無計画に」ということであって、「無計画」であることは「尋常ならざる集中力を以て」ということと矛盾するわけじゃないんです。だから、傍目には「世の役に立たないことをよくあれだけ書くよ。よほどの閑なのかね」と呆れられるかも知れませんけれど、やってることは平川君と変わらない。必死になって、寸暇を惜しんで、驚異的な集中力を発揮して「何の役に立つのかわからないこと」をやっている。

三砂先生が「軒遊び」という言葉で言おうとしていることも、それに近いような気がします。遊びって、それなりに高い集中力を求める活動ですよね。でも、その社会有用性や経済的生産性は考量不能です。ふつうは「ゼロ査定」される。でも、違うんです。何なんだろう、遊びっていうのは、いろいろな外的制約を全部外してもらって、とりわけ「そんなことをして何の役に立つのだ」というタイプの小うるさい干渉をきっぱりと排して、ある一点に集中する、「集中の修業」のことではないかという気がするんです。

限りある生命資源を、ある瞬間、ある一点に集中しないと生き延びることができないというクリティカルな瞬間が生き物には必ず訪れます。「遊び」というのは、すべての生命資源を一点に集中して、他が見えなくなるという機制を自分の中に手作りする基礎訓練じゃないかというような気が僕にはします。

「若い時に遊んだ子は強い」というのは人類の経験則なのだと思いますが、それは「いきなりスイッチが入って、高度の集中状態に入ることができる」かどうかが生死にかかわるということを意味しているのではないかと思います。

おお、また長くなってしまいました。今日はここまでにしておきます。

Covid-19の感染爆発はなんだかひどいことになっておりますけれど、どうぞご自愛ください。

内田樹 拝

内田樹(うちだ・たつる)
1950年東京生まれ。凱風館館長。神戸女学院大学文学部教授。専門はフランス現代思想、映画論、武道論。著書に『「おじさん」的思考』『こんな日本でよかったね』『コモンの再生』『日本習合論』など多数。『私家版・ユダヤ文化論』で第六回小林秀雄賞を、『日本辺境論』で2009年新書大賞を受賞。

三砂ちづる(みさご・ちづる)
1958年山口県生まれ。京都薬科大学卒業。ロンドン大学Ph.D.(疫学)。津田塾大学多文化・国際協力学科教授。著書に『女たちが、なにか、おかしい おせっかい宣言』『自分と他人の許し方、あるいは愛し方』『オニババ化する女たち』『死にゆく人のかたわらで』『自分と他人の許し方、あるいは愛し方』『少女のための性の話』など多数。