内田樹先生と三砂ちづる先生の往復書簡による、旧くてあたらしい子育て論。ともに離婚により、男手で女の子を育てあげた内田先生と、女手で男の子を育てあげた三砂先生。その経験知をふまえた、一見保守的に見えるけれども、実はいまの時代にあわせてアップデートされた、これから男の子・女の子の育て方。あたらしい世代を育てる親たちへのあたたかなエール。
第5便・A
一度は死んだもの、と思って育てる
内田先生
こんにちは。お便りありがとうございます。三砂ちづるです。
NHKのテレビ番組、『ジェスチャー』覚えていますよ。女性チームのキャプテン、水之江滝子さん、男性チームのキャプテン、柳家金語楼さん、でしたよね。説明してくださっているように、一人のプレイヤーに視聴者から寄せられたある言葉、というかフレーズが教えられ、そのプレイヤーはジェスチャーを使って、チームメイトに説明して、チームメートがそのフレーズをいいあてたら、そちらのチームのポイント、っていうもので男女のチームで競うんでしたよね。是非、一度、やってみてください、とお手紙で例にあげてくださっている「負うた子に教えられ」とか「二兎を追うもの一兎を得ず」とか、いうような、まともなことわざっぽいものではなかったよな、確か・・・と思って、公開されているNHKのアーカイブをみてみると、「外人観光客に親切にしたらプロポーズされ、あわてて断っているバスガイド」とか、「ダンナさんをノシたらノシイカになってしまったのであわてて水をかけてふくらませているイカの奥さん」とか、なんだかめちゃくちゃな問題が出てきます。でも、番組は、まさにそんな感じだった、と思い出しました。「テレビ放送が始まった1953年(昭和28年)にスタート、以来、1968年(昭和43年)まで15年にわたって放送された」のだそうですから、おそらく、昭和33年生まれの私は、この番組を話題に出して、あ、それそれ、覚えてる、と言える、最後の世代ではないかと思います。
この「ジェスチャーみたいな感じ」で、体がわかっていることを頭に伝えて、体がわかっていることを言葉にしていく、という感じで文章を書き出す、ということ、よくわかります。ゼロから書き始めるときは「大体こういうことを書こう」みたいなことは、わかっているけれど、着地点は見えていません。どんな短い文章でも、かなり長い文章でも、最後どんなふうに着地するのか、書き始めた時点ではわからない、というか、「頭」は理解していない。着地点わからずに書いていて、でも書きたいことはなんとなくわかっていて、書きながらああ、そうか、そういうことだったのか、と思いながら書き進めている。
なんというんでしょうか、書いている私とは違う私が上から眺めているみたいな感じで、その上から眺めている私に、これ、わかる?ん?わからない?え?こっち?あ、そうか、こういうこともあるよね、みたいに、その「上からの私」が納得してくれるようなことを、言葉を選んで書き進めている、というか・・・。いやいや、今の、話、飛んでない?とかそれはちょっとわかりにくいでしょう、とかいう「上からの私」に納得していただけるように、書いています。書き始めると、考えてもいなかったことが出てきたり、思い出したり、話が違う方向に行っちゃったりするのですが、最後はどこかに着地するのが、興味深いです。人ごとみたいですが、そんな感じです。大体の「枠」を決める、「枠」をいただく、ことはとても重要なことで、「大体何文字で書く」と決めて、そこに向けて「上からの私」がOK出すまで着地点に向けて書いていく、というか、そんなふうに書いています。内田先生のお話は、この「上からの私」が「頭」なんだなと思いました。
ゲラになって読み返すときは、書いた時のことをほとんど忘れているので、まっさらの自分が他人の文章を読んでいるような感じになります。学生の卒論の指導とかで、彼女の書いた文章を、よりわかりやすくするには、こうしたらいいんじゃないの、と赤を入れる作業と似ています。これは、こういうことを言いたいんだよね、というのは、よくわかっているわけだから、もうちょっとここをなおすと「するする読める」、になるな、と思うところまで手を入れていく。「音読に耐えるか」「声を出して読めるか」ということだ、とおっしゃること、よくわかります。「ぐるぐる」と「するする」ですね。本当に多作で感心してしまう内田先生のバックステージストーリー、とっても励みになります。
さて、「親を許す」ことについて。「親に許された」ことの経験はあるけれども、「親を許した」という経験がない、とのこと。
この往復書簡にいただいたお題は、「男の子の育て方」でありました。こういう時代にどうやって男の子は育つのが良いのか、またどうやって男の子を育てるのがいいのか、ということについて考えていく、ひいては、女の子の育ち方についても、何か役に立つところがあるのかもしれない、などということを、離婚して女の子を育てられた内田先生と、離婚して男の子を育てた私で、やってみる、ということであります。
離婚・・・という時点で、子どもたちには許してほしい、と願うしかない、という状況を作ってしまっています。離婚するカップルには離婚するカップルの数だけ、離婚する事情というものがあるわけですが、そのような事情は全て親の事情であり、親の勝手であり、子どもたちにとっては自分にとってお父さんお母さんと呼んできた人を中心にあったはずの家族が、いったんリセットされて、どちらかの親との暮らしをなくすわけですから、どう考えてもアンフェアであり、どう考えても、申し訳ない状況でしかありえません。
息子たちの父親はブラジル人でした。子どもたちが生まれて上の子が10歳、下の子が8歳になるまで、少しだけイギリス、ほとんどをブラジルで暮らしてきました。父親とはポルトガル語を話し、私とは日本語を話し、家族の言葉はポルトガル語。学校も現地校でポルトガル語。ブラジル人家族としてブラジル文化の中でポルトガル語を話しながら、子どもたちは育っていて、日本語や日本文化、というのは、あくまで、母の言語、母の文化、でしかありません。子どもたちが幼かった頃からすでにポケモンとかデジモンとか聖闘士星矢とか世界中の子どもたちに愛されていましたから、そう言ったコンテンツを日本語で早めに豊富にゲットできることにはちょっとしたうれしさはあったかもしれませんけれど、その程度のことです。生まれてからずっと日本語でしか話しかけませんでしたから、彼らはバイリンガルとして育ち、「母語」が母の言葉であるとすると日本語ですが、なんと言ってもブラジルに住んでブラジルの親がいて、ブラジルの学校に通っているのですから、彼らの第一言語はポルトガル語で、ブラジルの大家族に囲まれて、ブラジル文化の中で育っていました。
離婚して私が子どもたちを連れて日本に帰る(彼らにとっては、住んだことないのに「帰る」ところでもない。「行く」。)ということは、彼らには想像もつかないおおごとを押し付けることになることは、わかっていました。離婚して、父のいる家族の暮らしをなくしてしまうだけではない、この人たちは、ブラジルという文化を根こそぎ失ってしまうのです。今まで住んだ国ではない、初めて住む国に住み、新しい文化の中で育って行かざるを得ない。しかも父親のいないところで。そんなことをしていいのか。
それでも子どもというのはある年齢までは親の範囲内で生きてもらうしかない。ブラジルを出ることになって、本当に持っていきたいものだけ選んで、と、子どもたちに言って、もう帰って来られないかもしれない、ということを説明して、それでも私と一緒に日本に行くのだ、と告げる私に、彼らがついてきてくれたことはただ、ありがたかった。そういうんなら、そうしかないよな、と幼いながらにあきらめるしかなかった子どもたちのことを思うと、本当に申し訳ない。東京の区立小学校に入り、典型的な日本の集合住宅に住み、知人の紹介で見合いして再婚した私の夫と新しい関係を作り(作ったと思ったら彼はガンで早逝してしまって)、彼らには本当に苦労をかけました。
これだけ親の勝手でやっているのですから、ずいぶん不満があると思いますし、離婚して彼らが失ったものの大きさを思うと、彼らには許しがたいことであり、いつか許されることがあるのか、最後まで黙って待つしかない、という内田先生と同じ口調になってしまいます。幾重にも「親を許す」について、自分が許されるかどうか、を話す資格はありません。私たちが話すことができるのは、「自分が自分の親を許す」かどうか、だけです。親になる、ということは、許されることを学ぶことだ、と思ってきました。子どもたちが許してくれるかどうかはわからないにせよ。
それを思うと、しみじみ、「親を許す」ことを、思いつくこともないような育ち方をした、という内田先生のお話、つまりは内田先生の育ち方、には男の子の育て方の重要なキイがあるような気がします。子どもが許すモードになる必要もない育て方を親がした、というのは、何よりの親への勲章です。だれにでもできることではないとはいえ、「あれこれいわれなかった、制度的次男ポジション」、「幼い頃に大病をして、生きているだけでオーケーとなった」、このへんには、汎用可能な重要なモードが隠れているような気がします。
このように育ってほしい、このように育てたい、こんなふうになってほしい、そのような期待を親はどうしても持ってしまいがちです。おっしゃるように、当時は、まだ、「長男」への親からの期待は非常に大きなものだったと思います。そのような期待と関心を持たれているお兄さんを見て、内田先生が「なかなか大変そうだな」と思われたように、子どもは「ある形」を期待されると、本当につらくなるのではないかな、と思いますね。期待と関心はもちろん良い方向で機能すれば、本人にとって大きな力になりはすること、そしてそのような例も少なからずあることを、もちろん知らないわけでありませんが。
こんなふうになって欲しい、このように育ってほしい、は、どんな親でもちょっとは思うことであるにせよ、ある意味、その子の「いま」の否定であり、その子にその子ではないものになることを求めることになる。子どもは将来何かになるために生きているのではないのだから、「期待」は多くの場合、つらい結果につながりやすい・・・。
子どもたちを日本に連れて帰ってきて、彼らはバイリンガルですから話されている日本語はわかるものの、話されている中身がわからない、という意味でのカルチャーショックが、当初、ずいぶんあったと思います。その一つが「大きくなったら何になるの?」、「大きくなったら何になりたいの?」、「将来の希望は?」などといった、大人になった時にどうしたいか、という質問の数々を頻繁に受けることでした。その質問をする大人たちは、悪気などあろうはずもなく、気楽な子供との会話、と思って聞いてくれていたのだと思いますが、彼らは答えられず、私に「大きくなった時のことはわからないよね」と言っていました。私たちは子どもたちに話す時なんとなく習慣的にこういう質問をするのですが、ブラジルではこういうことを幼い子どもに聞かなかった、ということを思い出します。子どもは、子どもである今、を存分に味わうことこそが何より大切だ、という暗黙の合意だったのかもしれない、と気づいたのはブラジルを離れてからでした。
子どもの今、に開かれた親の姿勢、オープンエンドな関わり、そういうもののなかで育てば、子どもは「親を許す」必要もなくなる。
さらに、「幼い頃大病をして、生きているだけでOK」これは、本当に達観です。オープンエンドな育て方、さらに、生きていればいい、というスタンス。簡単に言えば、「無理やりやらせない」。内田義彦のエッセイに「トンボ釣り」の話、というのがありました。子どもがトンボ釣り(と書きながら、これって、今の子どもにはわかりにくい、一昔前の遊びになってしまったのかもしれない、と思いますが)に夢中になっていて、他のことを何もやらない。トンボ釣りをやめさせたければ、簡単なことで、無理矢理トンボ釣りをやらせれば、子どもはやりたくなくなる、と書いてありました。無理矢理やらせるとなんでも嫌になってしまう。そうだよなあ、と思いました。今どきのゲームやスマホの耽溺性を考えると、やめさせたいから無理矢理やらせる、という方向性でいいのかどうか、迷いはありますけど。
ともあれ、「生きているだけでO K」に、どのように至れるか。結構これが難しい。「親子問題」のドラマとか小説ってけっこう、そこに落ちていくんですよね。いつも問われる側は親の方で。林真理子さんのみごとな近作『小説8050』も、そこに至るまでの親の葛藤の物語、として読みました。
民俗学関係の本には、よく、以前は生まれた子どもを元気に育てるための儀礼として、生まれた子どもを一度「辻」に「捨てる」ことを、形として行い、一度は死んだものと思い、拾ってきて育てる、というのがあった、ということが出てきます。一度は死んだもの、と思って育てる。これって親の側への「生きていればいい」のスタンス獲得のためのトレーニングだったんですね、きっと。
ところで、家族同士であまりしゃべらない、食卓でもほとんど世話話みたいなこと以外大した会話はなく、黙々と食べる、というのはうちも同じです。電話で話す、ということも用事がない限りほとんどなくて、ゆっくり話すという習慣がない。家族というのは、黙っていて、何も話さないけど、それが気づまりじゃない関係、頻繁に連絡を取る必要すら感じないもの・・・という感じは我が家にもあります。先日も黙ってごはんを食べていたけど、息子が、ぽろっと「今年に入って9割がた緊急事態宣言で、何が緊急なのかわからない」と一言。誠にその通りでございます。
パンデミックの出口がまだ見えません。どうかご自愛くださいませ。
三砂ちづる 拝
第5便・B
家族とは「想像の共同体」
三砂先生
こんにちは。内田樹です。第五信拝受しました。今回はあまり遅くならずにすぐにご返事差し上げることにします。
三砂先生もたいへんだったんですね。僕は娘一人を連れて、東京から芦屋に移動しただけですけれども、三砂先生は二人連れてブラジルから東京ですからね・・・「ブラジルという文化を根こそぎ失ってしまう」という表現に胸を衝かれました。彼らがいずれもう一度ブラジルに出会って、ブラジルの文化をおのれのものとして回復するという機会に恵まれますことを僕も願っています。
それはたぶん可能だと思うんです。
僕は高校生のときに一度は「内田家の文化」みたいなものをきれいさっぱり捨てたつもりでした。でも、四十歳過ぎから、自分の中にあって「ゆるぎないもの」の相当部分が「家風」によって培われたものであることに気がつきました。
その頃はまだ父母も兄もみんな元気でしたから、仲良く行き来はしていましたけれど、でも、僕をかたちづくったのはその時点での「リアルタイムの内田家の家風」じゃなくて、「1950~60年代の内田家の家風」なんです。
その「家風」なるものは70年代にはもう消滅していました。子どもたちは二人とも家から出て行ってしまうし、それぞれ結婚して家族ができましたから。そして、僕は四十歳を過ぎたあたりから、「1958年から64年くらいまでの、下丸子に住んでいた頃のわが家のありようって、なんか懐かしいなあ。今にして思えば、僕の精神的な骨格をかたちづくったのは、あの日々だったんだなあ」と遠い目をするようになった。
その頃にたぶん兄も同じような感懐を抱くようになったんでしょうね。「家族旅行しないか」と提案してきました。これが不思議な話で、「家族旅行」なんだけれど、兄の一家(兄と妻と三人の子ども)、僕の一家(僕と娘)はこの場合の「家族」にはカウントされていないんです。つまり、まだ兄も僕も家を出る前の、60年代なかばまでの構成メンバー四人だけの内田家を「再演する」というプランだったんです。
父母もこの提案を喜んでくれたので、「四人だけの家族旅行」というものを父親が亡くなる10年くらい前から毎年するようになりました。この旅行はほんとうに楽しかった。「むかしずいぶん親不孝したから、その埋め合わせをしているんです」というふうに対外的には「言い訳」をしていましたけれど、そんな義理がらみのことではなくて、四人で暗黙のうちに30年前、40年前の「内田家」を演じていたのです。
あれは、いったい何だったんでしょうね。家族四人が集まって、「今はもう存在しない家族」のために供養をしている…というような感じでした。ほとんど同窓会ですね。「かつて存在したが、今はもうなくなった集団」をかつてその集団のメンバーだった人たちが集まって懐かしんでいるわけですから。父母にしてみても、まだ若くて、元気で、希望にあふれていた時代の自分の気分や体感を思い出す機会だったのかも知れない。
三砂先生のお二人の息子さんたちも、たぶんご自分の家族を持つようになってしばらくしてから、「ねえ、同窓会やらない?」というようなことを言い出すんじゃないかな。「三人でブラジルに行かない?」って。なんだか、そんな気がします。まだだいぶ先の話になりそうですけれど。でも、その時に彼らもまた「一度失ったブラジル文化」を取り戻して、それがどれくらい深く彼らの精神的骨格をかたちづくっていたのかを再確認することができるのではないでしょうか。
家族って、今ここにあるものであるという以上に「今の自分をかたちづくった場所だと自分が信じている集団」のことなんじゃないでしょうか。「想像の共同体」です。
だからたぶん「私の家族」という言葉で頭の中に思い描くイメージが、家族のメンバー全員によってひとりひとり違っている。メンバーたちの年齢が違ったり、住んでいる家が違ったり、場合によっては構成員の数が違ったり・・・「うちの家族」という言葉だけは一緒でも、家族のひとりひとりが頭の中に描いている像は違っている。
今年の初めに放映されていた宮藤官九郎脚本のテレビドラマ『俺の家の話』ってご覧になりましたか? 僕はふだんテレビはぜんぜん見ないのですけれど、このドラマだけはなぜか毎週見てました。能楽師の家の話というので興味がありましたし、宮藤官九郎+長瀬智也という組み合わせは『池袋ウェストゲートパーク』も『タイガー&ドラゴン』も面白かったので、期待して見ました。
このドラマ、一度はばらばらに分解してしまった家族が、父親の危篤をきっかけに再構築されるという話なんです。家族をまとめることができなかった自分勝手な父親が死にそうだということで、いろいろな仕方で父親からスポイルされてきた子どもたちが再結集する。でも、一度分かれた家族ですから、お互いになかなか心が許せない。でも、このドラマの場合でも、クライマックスは子どもたちが「今の自分」を手放して、「あの時代の自分」を演じるようになるところなんです。「あのころの家族」を技巧的に再演しているうちに和解が成就する。そういう話なんです。最後は「そこにいない人間があたかもいるかのようにみんながふるまう」ことで家族が結束する…というメシア信仰みたいな、実に宗教的に深い終わり方をするんですけど。
家族を結びつけるのは、今一緒にいると、どういうふうに楽しいとか、どんな支援を期待できるかとか…というようなことじゃなくて、「もうここにはないもの」を共有し、それを懐かしく思い出すということなんじゃないでしょうか。
そして、みんなが懐かしむ「もうここにはないもの」は「もともとなかったもの」かも知れない。
いや、もしかしたら、その方があるいは多いのかも知れません。でも、それでいいと思うんです。人間をかたく結びつけるのはたいていの場合「存在するもの」ではなくて、「存在しないもの」だからです。
前にフランスの地方都市でひと夏を過ごすことがあって、その時に読むものがなくなって、街の本屋さんに本を買いに行ったことがあります。日本文学のコーナーを見たら、驚いたことに谷崎純一郎の仏訳が何冊も並んでいたんです。『陰影礼賛』とか『細雪』とか。
いったいどんなフランス人が『細雪』を読んで面白いと思うんだろう…と不思議な気がしました。昭和17~18年の阪神間のブルジョワ家庭の結婚話とか物見遊山の話とか、フランス人が読んで分かるのかなと思いました。
でも、ずいぶん後になって、フランス人でも『細雪』を読める理由がわかりました。『細雪』って全編にわたって「失われたもの」あるいは「もうすぐ失われるもの」を懐古する物語だからです。
「もうすぐ失われるものを懐古する」って変ですけれど、そういうことってあるんです。
小説が描くのは、京の景観であっても、美食であっても、芸能であっても、耽美的な生活であっても、それを微に入り細を穿って記述している谷崎は「あとしばらくしたら、これらのものはすべて消える」と思っているようなんです。事実、『細雪』に描かれた「美しいもの」はほとんど昭和20年の大空襲で灰燼に帰してしまう。
『細雪』は陸軍の検閲にひっかかって発禁処分になりました。僕は検閲官のこの「慧眼」に脱帽します。検閲官は、この小説の行間からにじみ出る「帝国臣民が享受してきたすべての『美しいもの』はもうすぐあとかたもなく破壊されるだろう」という文学者の予感を見とがめたわけですから。
だからこそ、フランス人読者が谷崎を読んでも、その感動は伝わるんだと思います。僕のような戦後生まれの日本人にとって、『細雪』が描いたような美的世界はほとんどすべて「すでに失われたもの」です。「実際には触れたことがない」という点では、僕もフランス人読者も変わりがない。
「今、ここに存在する美しいもの」はその場に行かないと経験できませんが、「かつて存在したけれど、今はもう搔き消えてしまったもの」を懐古し、その欠落を悲しむということなら、想像力さえ働かせれば、誰にでもできる。
フランスでよく読まれている日本人作家は谷崎潤一郎と村上春樹と夏目漱石ですが、この三人の作家に共通するのは、「何かたいせつなもの」がとりかえしのつかない仕方で失われたトラウマ的経験をめぐる物語を代表作としているということです。それがあるいは彼らの世界性の秘密かも知れません。
どうしてこんな話をしているかと言うと、もうお気づきでしょうが、家族も「そういうもの」ではないかという気がするからです。「もう存在しないもの」を懐かしむ気持ちにはある種の深さと普遍性がある。他のことではなかなか共感し合えない人たちも、「欠落感」の深さと切実さにおいては結びつくことができる。
『北の国から』というテレビドラマがあります。三砂先生もたぶんいくつかはご覧になったことがあると思いますが、ドラマの中の回想シーンで、純(吉岡秀隆)がよく「そんなことが起きているとは、僕はぜんぜん知らなかったわけで」というナレーションを入れます。このナレーションは、自分の家族の身に「そんなこと」が起きたことを自分は(知っているべきだったのに)知らなかった。家族としての責任を十分果たせなかった。そのことについての微かな悔いをにじませています。
でも、このような「悔い」こそが家族をむすびつけているものではないかなという気が僕にはします。家族でない人については、そんなふうな悔いは感じないからです。家族以外については風の便りに触れた時に、「そうだったのか、あいつそんなことになっていたのか…」という感懐は持つでしょうけれど、「私がそれを知らなかったことについては私に非がある。責められても仕方がない」とは思いません。
どんな親しい家族同士でも、どこかで必ずお互いについて「そんなことが起きていたとはまったく知らなかったわけで…」という思いを抱くことはあると思います。そのことについて微かな悔恨の念を覚えるというのが、家族であることの証ではないかなという気がします。
わあ、なんだかすごく長くなってしまいました。すみません!
もう一つすごく共感できたのが、日本ではすぐに大人たちが「大きくなったら何になるの?」「将来の希望は?」といったことを子どもに訊くことです。
そんなのは当たり前のことで、世界中どこでも子どもたちは同じ質問を向けられていると思っている人がいるかも知れませんけれど、これは違います。
僕がこれまで読んできた世界各国の小説を思い出す限り、「大きくなったら何になるの?」というような質問は人間の内面に踏み込むデリケートな問いですから、かなり親しくなった後にしか発されないし、よほど相手から信頼されていないと問いかけても答えは得られない。そして、たいていの場合、その答えは「あっと驚く」ようなものです。だからこそそういう問いはめったに物語の中には登場しないし、その答えをきっかけに物語が大きく転換したりする。
でも、「将来何になるの?」は日本では日常的な、きわめてカジュアルな質問です。でも、「将来の夢は?」なんて、よく知らない人に訊かれても、すらすら答えられるはずがないし、答えたくもない。少なくとも僕はそういう質問にまじめに答えたことがありません。高校生まではそう訊かれると「法学部に行って、検事になる」と答えていました。「どうして?」とさらに訊かれると、「容疑者の供述の矛盾を衝いて、相手を追い詰めるのが得意だから」と。そんなの嘘なんですよ、もちろん。でも、そういうふうにでもして煙に巻かないと、しつこいから。
今は高校生たちもはやばやと「将来の夢」を確定することを求められます。「夏休み明けまでに将来の夢を確定して進路指導に提出すること」なんていう課題が出るんです。そのせいで、今の高校生たちは「夢」という語を見るとうんざりした気分になるんだそうです。気の毒な話ですね。
これは日本社会の得意芸であるところの「均質化圧」「同調圧」の典型的な表れだと思います。子どもは一回自分で口にしたことに縛られます。何となくうっかり「将来は・・・になりたい」なんて言ってしまうと、それがしばしば呪いになる。どうせ誰かの請け売りで、他者の欲望を模倣しているに過ぎないんですけれど、一度口にしたことは固有のリアリティーを獲得する。それが皮膚の中にねじ込むようにして内面化される。その結果、子どもたちの夢が「相互模倣」の中に巻き込まれて、みんなが同じような夢を持つようになる。
気の毒です。だから、僕は子どもに向かって絶対に「将来何になりたい?」という質問をしません。だって、わからないんですから。僕が仏文学者になったのも、武道家になったのも、物書きになったのも、ぜんぶ「もののはずみ」です。もののはずみで違う方向に転がっていたら、ほんとうに検察官になっていたかも知れないし、政治家になっていたかも知れないし、役者になっていたかも知れません(かつての岳父に「私の地盤を継いで、自民党から衆院選に出る気はないか?」って訊かれたことがありますし、舞台を見たディレクターから俳優としてテレビに出ないかって誘われたこともあります)。
だから、子どもを見ても、「この子が将来何になるかなんて、全然予測が立たないなあ(とりあえず元気で生きてくれていたらそれでいいよ)」と思って、のんびりしてます。
さ、切りがありませんから、もうほんとに止めますね。ではまた。
内田樹 拝
内田樹(うちだ・たつる)
1950年東京生まれ。凱風館館長。神戸女学院大学文学部教授。専門はフランス現代思想、映画論、武道論。著書に『「おじさん」的思考』『こんな日本でよかったね』『コモンの再生』『日本習合論』など多数。『私家版・ユダヤ文化論』で第六回小林秀雄賞を、『日本辺境論』で2009年新書大賞を受賞。
三砂ちづる(みさご・ちづる)
1958年山口県生まれ。京都薬科大学卒業。ロンドン大学Ph.D.(疫学)。津田塾大学多文化・国際協力学科教授。著書に『女たちが、なにか、おかしい おせっかい宣言』『自分と他人の許し方、あるいは愛し方』『オニババ化する女たち』『死にゆく人のかたわらで』『自分と他人の許し方、あるいは愛し方』『少女のための性の話』など多数。