内田樹先生と三砂ちづる先生の往復書簡による、旧くてあたらしい子育て論。ともに離婚により、男手で女の子を育てあげた内田先生と、女手で男の子を育てあげた三砂先生。その経験知をふまえた、一見保守的に見えるけれども、実はいまの時代にあわせてアップデートされた、これから男の子・女の子の育て方。あたらしい世代を育てる親たちへのあたたかなエール。
第3便・A
性教育はナナメの関係で
内田先生
こんにちは。先日は、ばったり、お目にかかりました。前便に、十歳くらいまで男の子より女の子の友達の方が多かったのだけれど、十一歳の時に平川克美くんに会って、はじめて「男の子の親友」ができた、と、お書きになっていましたね。そうやって、はじめてできた男の子の親友と、いまだに一緒に遊べるなんて、ほんとうにいいですね。
コロナパンデミック前までは、平川克美さんの隣町珈琲で連続講座をさせてもらったりしていましたが、昨年3月以降、伺うことがないまま、隣町珈琲が移転した、というお話もきいたままになっていました。で、先日、ふと出来心で、隣町珈琲に伺うことにして、新しくできてものすごく広くなって、平川さんの蔵書がたくさん置いてあるお店で、平川さんとコーヒー飲みながら、詩の話などしていたところに、内田先生がおいでになり、3人でおしゃべりすることになったのでした。オンライン対談とか、この往復書簡とかやらせていただいていますが、内田先生に直接お目にかかるのは、ひさしぶりでしたね。アレンジしようとしても難しいと思いますから、あのタイミングで「ばったり」お目にかかれて、とてもうれしかったです。まあ、平川克美さんのところにうかがっていて、そこで、お目にかかる、というのは、必然ともいえますし、そんなに偶然、ともいえないのですけれど・・・。でもやっぱりあれは、ばったり、お目にかかりました、の状況でありました。
なんの約束もなしに、「ばったり」人に出会うことって、冷静に考えてみると天文学的確率で、ほとんどありえないことなんですけど、でも、誰でも、人生の途上で、一度ならず、そういうことを経験していますよね。とりわけ、ご縁の深い人とは、そういうことが多いと言うか、そういうことが起こるからやっぱりご縁が深いのだと再認識すると言うか・・・。
とても短い時間に、立て続けに担当編集さん3人に会ったことがあります。お一人と本郷三丁目の中華料理店で会って、あら、こんにちは、といったあと、別の出版社の編集さんと、国分寺駅あたりをぼんやり歩いていた時にばったりお目にかかり、そのあと、またあんまり時間をおかずにこれまた別の編集さんと、文京区の路上でばったりと会いました。そんなに編集さんばかりに、ばったり会っておりますと、これは、おお、もっとものを書け、という啓示であるな、と勝手に理解するわけです。啓示は受け取った人のものですからね。
2015年に亡くなった連れ合いと一緒に住み始める前、二度にわたってなんの約束もなしに都内の全く関係ないところでばったり会いました。一度は、水道橋だったかな、飲み屋の前。もう一度は、地下鉄の駅の改札口。どちらも、そんなところにいるとも知らなかったのに、一週間に二度そんなことがあると、もう、これは結婚しかない、と観念します。逆に、これ、ずいぶん昔の話で、別の人のことですけど、気まずい離れ方をして、向こうは私に会いたくないけど会わなければいけない、とおそらく思っているであろう人に、二度も続けて、おおよそ会いそうもない空港のターミナルと、さらにふだん立ち寄ったこともないバス停で、こちらも立て続けにばったり会ったことがあります。先方はうれしくもなかっただろうけれど、ともあれ、会わないより会えてよかった、と双方、思った。こういうことが起こる人は、やっぱりある意味「運命の人」だと思ってしまいます。
どの場合も、タイミングがずれていたら、絶対に会いません。ちょっと歩く速度が遅かったら、とか、あそこで寄り道していたら、とか、ばったり会っていない。こういうことがおこると、行動や意思は自分で選んでいるようでも、ほんとうはそうでもなくて、時空を超えてはりめぐらされているご縁の糸があって、その中で生かされているようなものなんだな、と思えたりします。ある種の“啐啄同時”のようにも思える。
啐啄同時は禅由来のことばのようで、「啐」は卵の中のひなが孵化するときに内側から鳴くことだそうで、「啄」は親鳥が外から卵の殻をつつくことだそうですね。師と弟子の呼吸があう、とか、文字通り親子の息があうときなどに使われているようですが、「ばったり」会う、ということも、なんらかの双方からの目に見えない働きかけがあって、ある瞬間に、そこに顕現するようなものではないか、とも思えます。
前便で内田先生がおっしゃっていた「親の側が自分の感情生活形成の行程を回顧的に分析してみる」ことが必要なのは、「啄」、ができる必要があるからではないでしょうか。つまりは外側から、あ、いま、内側から鳴こうとしているな、ということを感知して、外からとんとんと同時につつく、ということができるようになるためには、言語によらない、すごく深いレベルでの共感能力というものが必要とされるから、そういう自分になっていなければならないから、ということ。いま、目には見えないけれども、そこで自分を必要としているものがいままさに、形を表そうとしていることを感じ取るためには、それを感じられる自分でいる必要がある。共感能力を高める、ということは、自分自身をよく知り、客観的に見ることができる、という作業に他なりません。ずっと前に内田先生、「共感能力を高めるためのシナプスを活性化させると、相手のことがよくわかるようになる、というのではなくて、自分を高いところからみているように、自分のことがよく見えるようになることだ」ということをどこかにお書きになっていましたね。池谷裕二先生とのお話だったかな、今見つけることができないんですけれども。
それぞれの“感情生活形成の行程”って、本当に本人にしかわかりません。それぞれに違うから、みんなこうしたらいい、みたいなことには決してならないんだけれど、でも、やはり子ども、という人に向き合う時には、親は、なんとかして、不十分ながらもその時点までの自分の感情生活を回顧的に分析して、総括して、自分を高みから観察する必要がある。それをやらないと、殻の中からあげようとしている鳴き声、「啐」がきけないんじゃないか、と思います。子どもが出しているサイン、声になっていない感情、言葉になり始めた感情、それらが自分の目の前でおこっているときに、それに反応できる自分に、どれほど、どれほどなれるのか、は、どれほどそこまでの自分を観察できているか、にかかっているんだ、と思うんですね。
「子どもに性教育ってどうしたらいいんですか」とか、聞かれることがあります。私自身は、家庭で性と政治の話はしないほうがいいと思っているので、そういうことを家庭でオープンに話すことについてあまり積極的になれません。そういうことはナナメの関係の誰かから学んで欲しくて、家庭でそういうこと話すの難しいよなあ、と思ってしまうのです。だから自分から何か言い始めることは難しいよね、っていうんです。自分から話すことは難しいですね、でも、もしも子ども側からそういう質問を受けた時は、全人生かけて答えるしかないですよね、って言っています。「子どもがなにか聞いてきた時、そしてそれっておそらく、人生に一度か二度しかないと思うんですが、そのときに、全人生をかけて答えてください」みたいな答え方をしているんですよね。たとえば「赤ちゃんってどうしたらできるの」って子どもに聞かれた時には、間髪を入れず、自分の全人生をかけて、何か答えないといけない、ということです。そこで何を話せるか、に、万人向けの正解というものはなくて、その子どものその時の状態にもっともふさわしいことを、親が話すしかなくて、その内容は、親自身の感情生活の行程の分析なしには、決まっていかない。
そのことはもちろん「性教育」的なことにかぎらず、ほんとうは、すべての本質的な子どもの言葉による問いかけ、ことばにならないサイン、などに対して、おっしゃるような「追試不能」の一発勝負として、その場に立ち現れてくるものにほかなりません。
「感情生活の行程の分析」、なんだか余計わかりにくいはなしにしてしまったかもしれません。すみません。話題を前便の最初に戻します。
前便最初にお書きくださったような「冒険的な生き方」、ほんとうにそういうことをしているのでしょうかね、私は・・・。引用しておられるレヴィ=ストロース先生の「悲しき熱帯」の冒頭の、「私は旅と冒険が嫌いだ」のつぎには、“ブラジルになぜ行ったか、行っておこったさまざまなことをここに書くことに価値が一体あるというのか、だから書きはじめるのに15年もかかっちゃったよ、冒険は、単に仕事に付随したものだよ・・・”、みたいな話に展開していくのですよね。
レヴィ=ストロース先生と自分を並べるような恐れ多いことは決してしてはいけないのですが、いや、ほんと、冒険って、結果として、付随してくるものにすぎない、と私も思います。冒険を、やろうと思ってやる冒険家の方ももちろんおられますけど、それはごく少数で。ほとんどの場合、フィールドワークと言う名の仕事に、あるいはいやおうなしの生活に付随して、結果として、あれって、人から見たら冒険だったよな、みたいになるんじゃないですかね。
数年前に、京都大学の大型類人猿の研究班にご一緒させてもらって、コンゴDRCに行ったことがありました。ヒトの性と生殖の研究をしていたので、大型類人猿ボノボの性行動について研究者とゆっくり話をしたり、ボノボのいる森に行かせてもらったりしたかったし、当時、大型類人猿の保護とコミュニティ開発のありようについて、現地のNGOが模索していましたから、そのことについても興味があったので、研究班に参加させてもらっていたんですね。で、朝3時に起きて、まだ真っ暗な夜明け前に、トラッカーについて懐中電灯を頼りに真っ暗な森に分け入り、ボノボを探すんです。コンゴDRCの森深く・・・。さらに広域調査では、小さな集落のはずれにテントをはって泊まるんですが、村の人に、「トイレ、あそこにあるけど、あのトイレ、先週の夜に、ゾウに潰されたんで、作り直したものだから、気をつけてね」って言われたから、あー、気をつけなきゃ、と思いながら真夜中にトイレにいきました・・・。とか、あれこれを振り返れば、そのとき、やっていたことは “冒険”以外のなにものでもないです。客観的に。でも自分では冒険とはちっとも思っていなくて、あれは研究班の仕事だった、と思うんですね。
そんなかんじですから、ましてや、10年暮らしたブラジル、「旅と冒険」とは思っていないですね。まあ、日々の生活ですからね、冒険的なことはちっともないわけですね。そういう日常の中で、息子たち二人は育っていきました。国は違いましたが、日常の生活、つまりはご飯を食べて、学校に行って、みんなでおしゃべりして、眠りについて、というような日常は、少しも冒険ではありませんでした。
息子たちふたりは10歳と8歳になる歳まで、日本に暮らしたことがありません。ほとんどをブラジルで、イギリスですこし、暮らしました。私が家庭内で唯一の日本語話者でしたから、それこそ彼らの「日本語という母語習得」についてはいろいろ考えました。彼らの父親はブラジル人だったのでポルトガル語を話す。私は彼らには日本語で話しかける。家族の言語はポルトガル語ですが、子どもたちは私に向かって話すときは、家族で話している時でも必ず日本語で話すようになりました。日本語の絵本と日本昔話はたくさん読みましたし、実家の父が当時の「日本昔ばなし」を毎月ビデオに録画して送ってきてくれていて、息子たちはいつもみていました。「ママ、きれいな女の人はみんな悪い人か、化けものだね」と長男がいいました。おお。それは、真実かもしれない。その後アンジェリーナ・ジョリーとかペネロペ・クルスが好き、とかいうような青年になりましたが、二人とも悪い人じゃないんじゃないかと思うけど・・・
日本語は私と話しているけれども、小学校の2年生と4年生までブラジルの現地校でポルトガル語で勉強していましたから、突然日本に帰ってきて(彼らにとっては“帰る”でもありません。暮らしたことないんですから。帰国子女じゃなくて、入国子女、です)板橋区立小学校に入ったので、学校についていくのは大変だっただろうと思います。彼らの日本語能力には、徹底的に欠けるところがあると思ったので、何かやらなければならない、と思って、毎朝ちょっと早く起きて、漢文や古文の素読をやりました。
“故人西のかた 黄鶴楼を辞し 煙火三月揚州を下る・・・”とか、毎朝やっていました。意味なんか説明してません。覚えるだけ。週に一つ選んで金曜日までには暗唱するようにします。子どもって柔軟ですね。どんどん覚えていきました。“鞦韆院落夜沈沈(しゅうせんいんらくよるちんちん)”、とかもう、男の子だからきゃあきゃあ、言って喜んでましたけど。雨ニモマケズ、平家物語も竹取物語も「海潮音」も。
子どもを育てるうえで、これはやってよかったな、って思い出せるものは少ないのですが、これは、結構、やってよかった、その後役にもたったし、と、息子に言われました。実は、15年海外生活を終えて日本の暮らしに着地しようとしていた私自身にも、素読はとてもよかった。日本語のリズムが体に戻ってきました。年年歳歳花相似たり、歳歳年年人同じからず。
今日はこの辺りにいたします。どうか引き続きご自愛くださいませ。
三砂ちづる 拝
第3便・B
感情のカタログを増やす
三砂先生
こんにちは。内田樹です。
お手紙、ありがとうございます。
先日は隣町珈琲でばったりお会いできました。たしかにお会いするのって、ずいぶん久しぶりなんですよね。隣町珈琲の2年前の新年会でお会いして以来じゃないでしょうか。
あの時は、鶴澤寛也さんと山村若静紀さんと三砂先生と、着物の女性がずらりと並んで壮観だったという記憶があります。寛也さんの三味線で、若静紀さんが1メートル四方くらいの空間でみごとに舞ったのを覚えています。玉川奈々福さんも安田登さんもおいででしたよね。
隣町珈琲に行くと、いつの間にか僕の友だちが平川君の友人ネットワークに入り込んでいることに気づいてびっくりします。今名前を挙げた方たちはどなたも最初にまず僕が知り合った方たちだし、大瀧詠一師匠も小田嶋隆さんも釈徹宗先生も白井聡さんも名越康文先生も…、みんな僕の方が最初に知り合ったのに、気がつくと平川文化圏に鎮座ましましている。僕たちの交遊関係はなんだか「コモンズ」として共有されているみたいですね。
それというのも、僕たちは基本的には「たいせつなものは共有」することにしているからなんです。はじめて会った11歳くらいから、ずっとそうでした。平川君が読んだ本の話をしてくれたら、それは僕が読んだような気になる。平川君が会った人の話を聴くと、僕も会ったことがあるような気になる。平川君の「・・・はいいよ/・・・はダメだ」という判断は、とりあえずまるごと受け入れる。
そうなってしまうのも、しかたがないんです。11歳からずっとそうなんですから。60年もそうやって暮らしてきたわけですから、今さら周りから「それ、変ですよ」と指摘されても変えようがありません。
とにかく、だいたいどんなトピックについても、「平川は僕と同意見だろう」と本人に確認する前から思い込んでいるわけです。だから、僕たちは「孤立」ということとは基本無縁なんです。
エッセイを読んでいる、とときどき「・・・というようなことを思っているのは私一人だけだろうか」という修辞的な結語に出会いますけれど、僕たちの場合は「というようなことを思っているのは私たち二人だけだろうか」というのが基本なんです。
とりあえず僕の他にもう一人同じようなことを考えている人がいる。それだと、ほんとうに生きてゆくのが気楽ですよ。もちろん細かく詰めてゆけば、あちこちで意見の違いはあります。でも、その違いを言い立てることよりも、自分の中からは湧き出してくることのないアイディアが、平川君においてどうして生まれたきたのか、それを探求する方が面白かった。
僕たちの関係って「共感ベース」じゃないんです。二人とも気質がまったく違うし、育った環境も違うし、それぞれの「家風」も違うし、音楽や映画や文学についても好みがまるで違いますから。だから、二人で手を取り合って「そうそうそうそう」とはげしく頷き合って、ハイタッチする…というようなことは実はほとんどないんです。小さい時から一度もなかったんじゃないかな。
そうではなくて、僕たちの合意の仕方というのは「平川がそういうんだから、たぶんそうなんだろう」というタイプのものです。しみじみと「そうだ、その通りだ」と身体を震わせて共感しているわけじゃなくて、「平川がそういうくらいなんだから、そのような感懐なり判断に至るには、それなりの必然性があるに違いない(ようわからんが)」というふうに割とクールに受け止めている。
「彼がそう思うに至ったことにはおそらく必然性があるのであろう」ということをとりあえず受け入れる。これはいわば自分の個人的な判断をいったん「かっこに入れる」ということです。フッサール現象学にいうところの「エポケー(判断停止)」です。自分の意見はとりあえず「棚上げ」にしておいて、平川君の意見を「正しい」と仮定する。その上で果たしてどういう理路をたどればそれが「正しく」思えてくるのかを考える。そういう思考訓練を僕たちはたぶん11歳の頃からずっとしてきたんだと思います。そして、そのことは僕のものの考え方にずいぶん影響を及ぼしたような気がします。
僕の大学院時代の研究対象はユダヤ教哲学と反ユダヤ主義でしたが、どちらも「まったく共感できない」ものでした。何しろ文化的なバックグラウンドにおいて共通点が一つもないんですから。でも、研究するに際してそれほど苦労した覚えがありません。
例えば、19世紀末頃の反ユダヤ主義者の書き飛ばした、知恵の足りない政治パンフなんかを読んでいるときも、頭ごなしに「何をくだらぬことを」と嘆じるということはなくて、「果たしてどのような心理過程をたどれば人はかかる倒錯的な世界観に親和するに至るのか」というふうに考えることができた。その作業に特段の努力も要らなかった。そうやって彼らの内面に身を添わせていると、ふとその人の孤独とか虚無感とか焦りとかが生々しく感じられることがありました。なるほど、そうだったのか。そういう気分だったのか。まあ、そこまで追い詰められていたら、そんなふうな妄想に取り憑かれることも、あるかも知れないなあ…、というふうに。
神戸女学院大学に採用された時に、面接の時に僕の反ユダヤ主義研究をとても高く評価してくださったアメリカ史の先生がいました。「『政治的に正しくない思想家』の行う推論を中立的に記述しているところが、よい」という不思議な評価をしてくださいました。
この先生はアメリカの奴隷制の研究家だったのですが、もしかすると南部の奴隷制支持論者の書いたものを山のように読んでいるうちに、彼らがそのように信じるに至った理路を理解するためには、いったん自分の判断を「棚上げ」する必要があるということを経験されたのかも知れません。
僕の学者としてのスタンスはですから「共感ベース」ではありません。僕が大学院で学んだ一番生産的な知見は、「まったく共感できない相手についても、推論の道筋はある程度まではフォローできる」ということ、そしてその道筋を見失わないためには「オレの意見」が介入してくることを自制しなければならないということでした。
この知見はずいぶん汎用性の高いものだと思います。僕が長じて「物書き」になって、たぶん僕とはぜんぜん意見も感覚も違う人たちを読者として迎え入れることができたのも、この態度がかなり与っていたのではないかと思います。それができたのも、平川君相手に、子どもの頃から「自分の判断をかっこに入れる」訓練をずっとしてきたせいかも知れません。小学生の時のクラスに誰がいたのか、ということで人間の運命が激変することって、あるんですよね。
わ、長くなってしまいました。ごめんなさい。
感情教育の話の続きをちょっと書きますね。感情教育は終わりがないと思います。僕はもう古希を迎えましたけれど、それでもまだ感情の「ひだ」が、日々の生活を通じて、少しずつ数を増したり、深くなったりするのを感じます。諦めとこだわりの「中ほど」とか、悲しみと解放感の「中ほど」とか、そういう何とも名前のつけようのない感情がちょっとずつ「感情のカタログ」に書き加えられてゆく。
「死ぬ」ということについての感情的な反応も少しずつ変わっています。いまは「そろそろお迎えが来るな」というので「やるべきことを済ませておかないと」と焦る気分と、「いろいろ執着がなくなって楽になるなあ」という楽しみな気分と、「でも、死ぬ前に苦しむのは絶対やだ」という苦痛の予感とか、そういうものがいろいろ混ざっていますし、その比率も日ごとに変わります。
「死に向かう感情」というような文字列を若い頃には平気で読んだり書いたりしていたわけですけれど、実はぜんぜんわかっていなかったということがわかってきました。
ある程度の年齢に達したり、ある状況に置かれないと、理解できない感情、そもそもそんなものがあることを知らなかった感情というものがありますね。このあと、だんだん身体があちこち傷んできたり、頭の働きが悪くなってきて、これまでできていたことができなくなったり、これまで言えたことが言えなくなったりすると、それはそれでまた独特な感懐が生じて来るんだろうと思います。そういうものもすべて「感情が豊かになる」過程である考えることにしています。
でも、不思議なもので、そういう自分の「感情のカタログ」を増やしているわけですけれども、それを誰かと共有したいとか、共感して欲しいとかは思わないんです。「オレのこの感情をわかってくれ」とは特に思わない。でも、それを記述することにはとても興味があるのです。自分の中にあって、うまく分節できない星雲状態の感情を記号的に表象する作業はすごく面白い。でも、それは理解や共感を求めてしているのではないようです。
子どもの頃に、「プロ野球ゲーム」を自作して、一人でいくつかの球団の試合をサイコロで再演して、こつこつとスコアブックをつけるということをしていたことがあります。サイコロ試合ですから、もちろん現実のリーグ戦とは順位が違い、現実の打率や防御率とは違う数値が出て来るのですが、それを克明にノートにとっていました。そのノートは誰にも見せませんでした。というか、誰ひとり見たがらなかった。僕の脳内妄想野球なんか、誰にとっても面白くないですからね。
僕の「感情カタログ」も、その脳内野球に類するものではないかと思います。僕にとっては時を忘れるほどに面白い作業なんですけれど、誰かに理解してもらうためにしているわけではない。
性教育って、僕は娘にはしたことがありません。たぶん別れた妻のところに行って、彼女から教わったのだろうと思います。家族の間では宗教とセックスのことはあまり話題にしない方がいいと僕も思います。それがタブーだということではなく、三砂先生もお書きになっている通り、それを子どもにうまく伝えることができるような言葉を持っていないからです。宗教もセックスも、できあいの言葉で簡単に言い切ってよいことではありません。「超越者とは何か?」とか「欲望とは何か?」というような根源的な問いにできあいの答えはありません。何を言っても、きわめて不完全な表現にしかならず、たぶんその不完全性ゆえに、聴いた人はそれを誤解する。黒と白と灰色しか色相を区別できない人に、オレンジとか空色を説明するようなものですから。
だから、さいわい、娘にそんなことを訊かれなくてほんとうに助かりました。世の中には「うまく言葉にできないことがある」「あまり簡単に言葉にしてはいけないことがある」という事実を、そういう親の「腰が引けた態度」から娘が学んでくれたのであれば、それが性について、親が子どもに伝えることのできるたいせつなメッセージの一つではないかと思います。
三砂先生のご子息たちへの国語教育、すばらしいですね。こんなやり方を思いついた人を僕は知りません。でも、すごくよいと思います。コロキアルな日本語を母親と交わしたことしかない彼らでも、その経験を入り口に「日本語のアーカイブ」にはアクセスできます。それは彼らにとって「あまりたくさんの語彙を持たない母語」なんだと思います。それでも母語であることに変わりはない。母語では、「はじめて聞いたんだけれど、なんとなく意味がわかってしまう」ということが経験できます。これは外国語ではたぶん無理です。
僕は小学生低学年の頃、大人たちの話を横で聴いているだけで、大量の語彙を獲得したことがありますまだ。辞書というものを引くことを知らない年齢だったのに、聴いていると意味がわかるんです。現代文だけでなく、古語でも漢語でも、それが日本語のアーカイブから取り出して使われている限り、なんとなく意味がわかりました。
そんなことができたのは、わずか10年弱くらいの母語経験だけで、僕の中のどこかに「母語のアーカイブへアクセスする回路」が開いたからだと思います。
そこにはこれまで日本列島に暮らしていた人たちがかつて口にしたり、書いたりしたすべての語、すべての文、すべての音韻が堆積している。そのほとんどは現代ではもう使われないものですけれども、現代語がその堆積から生まれ出てきたものである以上、「根っこはつながっている」。
前に、池澤夏樹さんの個人編集『日本文学全集』で、『徒然草』の現代語をしたことがありました。どうして池澤さんが『徒然草』に僕を指名したのか、よくわかりませんでしたけれど、きっと何か思うところがあっての人選だろうと思って、快諾して、二年ほどかけて訳しました。
『徒然草』なんて高校生の頃に古文の教科書で部分を読んだのが最後で、50年近く見たこともなかった。ところが、古語辞典片手に訳し始めたら、これがすらすら訳せるんです。意味がわかる。かなり微妙なニュアンスまでわかる。へえ、母語だとこういうことができるのか…とちょっと感動しました。
その後、「『徒然草』を訳して」という演題で講演した時に、フロアから「『徒然草』の専門家で、その研究で学位を取りました」という人が手を挙げたので、慌てたことがありました。でも、その人が「たいへんよい訳でした」と言ってくださったので、さらにびっくりしました。その理由が「係り結びの訳が適切」だということでした。
僕は「係り結び」という文法的な約束事があるのは知っていましたけれど(「ぞなむやかこそ」ですよね)、そこに何種類か訳し分けしないといけないほどにニュアンスの差があることは知りませんでした。僕はそれと気がつかぬままに、そのニュアンスを訳し分けていたらしい。なるほど、母語とはこういうものなんだと思い知りました。
三砂先生のお子さんたちは複数の言語について「母語的入り口」を持っているんだと思います。だから、たぶんそれらの言語については「はじめて聴いたけれど、なんとなく意味がわかる」ということがよくあるんだろうと思います。
それから三砂先生ご自身が漢文的なものが好きだというのは意外でした。そう聞いてうれしくなりました。僕も大好きなんです。
80年代の脱構築とかポストモダンとかいって浮かれていた時代の空気が僕は嫌いで、世間に背を向けて、反時代的なものばかり読んでいました。とくに好きだったのが、吉川幸次郎、白川静、石川淳、森銑三といった同時代の「漢語使い」たちの文章でした。現代語と漢籍の教養が入り混じった独特の乾いた論理性に、べたついた温帯モンスーンの知的風土を吹き抜ける一陣の涼風のようなものを感じました。あれが、僕にとって文章の一種の理想なんです。ぜんぜん実現できていませんけれどね。
さて、今回はこれくらいにしておきます。なかなか本題に入らないでいるのか、いま話していることが問題の核心に触れているのか、それは「これから」の持ってゆきかたですね。武道では「残心」ということをたいせつにします。技が終わったあとに、それまでの動きをすべて「調える」ことです。文章の最後に句点を打つみたいなものです。それによって、「なるほど、ここまでの逸脱と見えたものは実はすべてここに至る伏線だったのか・・・」と得心するということがあります。そういうふうになるといいですね!
内田樹 拝
内田樹(うちだ・たつる)
1950年東京生まれ。凱風館館長。神戸女学院大学文学部教授。専門はフランス現代思想、映画論、武道論。著書に『「おじさん」的思考』『こんな日本でよかったね』『コモンの再生』『日本習合論』など多数。『私家版・ユダヤ文化論』で第六回小林秀雄賞を、『日本辺境論』で2009年新書大賞を受賞。
三砂ちづる(みさご・ちづる)
1958年山口県生まれ。京都薬科大学卒業。ロンドン大学Ph.D.(疫学)。津田塾大学多文化・国際協力学科教授。著書に『女たちが、なにか、おかしい おせっかい宣言』『自分と他人の許し方、あるいは愛し方』『オニババ化する女たち』『死にゆく人のかたわらで』『自分と他人の許し方、あるいは愛し方』『少女のための性の話』など多数。