第3回 子育てにおける母語の意味について

内田樹先生と三砂ちづる先生の往復書簡による、旧くてあたらしい子育て論。ともに離婚により、男手で女の子を育てあげた内田先生と、女手で男の子を育てあげた三砂先生。その経験知をふまえた、一見保守的に見えるけれども、実はいまの時代にあわせてアップデートされた、これから男の子・女の子の育て方。あたらしい世代を育てる親たちへのあたたかなエール。

第3便・A

性教育はナナメの関係で

 

内田先生

こんにちは。先日は、ばったり、お目にかかりました。前便に、十歳くらいまで男の子より女の子の友達の方が多かったのだけれど、十一歳の時に平川克美くんに会って、はじめて「男の子の親友」ができた、と、お書きになっていましたね。そうやって、はじめてできた男の子の親友と、いまだに一緒に遊べるなんて、ほんとうにいいですね。

コロナパンデミック前までは、平川克美さんの隣町珈琲で連続講座をさせてもらったりしていましたが、昨年3月以降、伺うことがないまま、隣町珈琲が移転した、というお話もきいたままになっていました。で、先日、ふと出来心で、隣町珈琲に伺うことにして、新しくできてものすごく広くなって、平川さんの蔵書がたくさん置いてあるお店で、平川さんとコーヒー飲みながら、詩の話などしていたところに、内田先生がおいでになり、3人でおしゃべりすることになったのでした。オンライン対談とか、この往復書簡とかやらせていただいていますが、内田先生に直接お目にかかるのは、ひさしぶりでしたね。アレンジしようとしても難しいと思いますから、あのタイミングで「ばったり」お目にかかれて、とてもうれしかったです。まあ、平川克美さんのところにうかがっていて、そこで、お目にかかる、というのは、必然ともいえますし、そんなに偶然、ともいえないのですけれど・・・。でもやっぱりあれは、ばったり、お目にかかりました、の状況でありました。

なんの約束もなしに、「ばったり」人に出会うことって、冷静に考えてみると天文学的確率で、ほとんどありえないことなんですけど、でも、誰でも、人生の途上で、一度ならず、そういうことを経験していますよね。とりわけ、ご縁の深い人とは、そういうことが多いと言うか、そういうことが起こるからやっぱりご縁が深いのだと再認識すると言うか・・・。

とても短い時間に、立て続けに担当編集さん3人に会ったことがあります。お一人と本郷三丁目の中華料理店で会って、あら、こんにちは、といったあと、別の出版社の編集さんと、国分寺駅あたりをぼんやり歩いていた時にばったりお目にかかり、そのあと、またあんまり時間をおかずにこれまた別の編集さんと、文京区の路上でばったりと会いました。そんなに編集さんばかりに、ばったり会っておりますと、これは、おお、もっとものを書け、という啓示であるな、と勝手に理解するわけです。啓示は受け取った人のものですからね。

2015年に亡くなった連れ合いと一緒に住み始める前、二度にわたってなんの約束もなしに都内の全く関係ないところでばったり会いました。一度は、水道橋だったかな、飲み屋の前。もう一度は、地下鉄の駅の改札口。どちらも、そんなところにいるとも知らなかったのに、一週間に二度そんなことがあると、もう、これは結婚しかない、と観念します。逆に、これ、ずいぶん昔の話で、別の人のことですけど、気まずい離れ方をして、向こうは私に会いたくないけど会わなければいけない、とおそらく思っているであろう人に、二度も続けて、おおよそ会いそうもない空港のターミナルと、さらにふだん立ち寄ったこともないバス停で、こちらも立て続けにばったり会ったことがあります。先方はうれしくもなかっただろうけれど、ともあれ、会わないより会えてよかった、と双方、思った。こういうことが起こる人は、やっぱりある意味「運命の人」だと思ってしまいます。

どの場合も、タイミングがずれていたら、絶対に会いません。ちょっと歩く速度が遅かったら、とか、あそこで寄り道していたら、とか、ばったり会っていない。こういうことがおこると、行動や意思は自分で選んでいるようでも、ほんとうはそうでもなくて、時空を超えてはりめぐらされているご縁の糸があって、その中で生かされているようなものなんだな、と思えたりします。ある種の“啐啄同時”のようにも思える。

啐啄同時は禅由来のことばのようで、「啐」は卵の中のひなが孵化するときに内側から鳴くことだそうで、「啄」は親鳥が外から卵の殻をつつくことだそうですね。師と弟子の呼吸があう、とか、文字通り親子の息があうときなどに使われているようですが、「ばったり」会う、ということも、なんらかの双方からの目に見えない働きかけがあって、ある瞬間に、そこに顕現するようなものではないか、とも思えます。

前便で内田先生がおっしゃっていた「親の側が自分の感情生活形成の行程を回顧的に分析してみる」ことが必要なのは、「啄」、ができる必要があるからではないでしょうか。つまりは外側から、あ、いま、内側から鳴こうとしているな、ということを感知して、外からとんとんと同時につつく、ということができるようになるためには、言語によらない、すごく深いレベルでの共感能力というものが必要とされるから、そういう自分になっていなければならないから、ということ。いま、目には見えないけれども、そこで自分を必要としているものがいままさに、形を表そうとしていることを感じ取るためには、それを感じられる自分でいる必要がある。共感能力を高める、ということは、自分自身をよく知り、客観的に見ることができる、という作業に他なりません。ずっと前に内田先生、「共感能力を高めるためのシナプスを活性化させると、相手のことがよくわかるようになる、というのではなくて、自分を高いところからみているように、自分のことがよく見えるようになることだ」ということをどこかにお書きになっていましたね。池谷裕二先生とのお話だったかな、今見つけることができないんですけれども。

それぞれの“感情生活形成の行程”って、本当に本人にしかわかりません。それぞれに違うから、みんなこうしたらいい、みたいなことには決してならないんだけれど、でも、やはり子ども、という人に向き合う時には、親は、なんとかして、不十分ながらもその時点までの自分の感情生活を回顧的に分析して、総括して、自分を高みから観察する必要がある。それをやらないと、殻の中からあげようとしている鳴き声、「啐」がきけないんじゃないか、と思います。子どもが出しているサイン、声になっていない感情、言葉になり始めた感情、それらが自分の目の前でおこっているときに、それに反応できる自分に、どれほど、どれほどなれるのか、は、どれほどそこまでの自分を観察できているか、にかかっているんだ、と思うんですね。

「子どもに性教育ってどうしたらいいんですか」とか、聞かれることがあります。私自身は、家庭で性と政治の話はしないほうがいいと思っているので、そういうことを家庭でオープンに話すことについてあまり積極的になれません。そういうことはナナメの関係の誰かから学んで欲しくて、家庭でそういうこと話すの難しいよなあ、と思ってしまうのです。だから自分から何か言い始めることは難しいよね、っていうんです。自分から話すことは難しいですね、でも、もしも子ども側からそういう質問を受けた時は、全人生かけて答えるしかないですよね、って言っています。「子どもがなにか聞いてきた時、そしてそれっておそらく、人生に一度か二度しかないと思うんですが、そのときに、全人生をかけて答えてください」みたいな答え方をしているんですよね。たとえば「赤ちゃんってどうしたらできるの」って子どもに聞かれた時には、間髪を入れず、自分の全人生をかけて、何か答えないといけない、ということです。そこで何を話せるか、に、万人向けの正解というものはなくて、その子どものその時の状態にもっともふさわしいことを、親が話すしかなくて、その内容は、親自身の感情生活の行程の分析なしには、決まっていかない。

そのことはもちろん「性教育」的なことにかぎらず、ほんとうは、すべての本質的な子どもの言葉による問いかけ、ことばにならないサイン、などに対して、おっしゃるような「追試不能」の一発勝負として、その場に立ち現れてくるものにほかなりません。

「感情生活の行程の分析」、なんだか余計わかりにくいはなしにしてしまったかもしれません。すみません。話題を前便の最初に戻します。

 

前便最初にお書きくださったような「冒険的な生き方」、ほんとうにそういうことをしているのでしょうかね、私は・・・。引用しておられるレヴィ=ストロース先生の「悲しき熱帯」の冒頭の、「私は旅と冒険が嫌いだ」のつぎには、“ブラジルになぜ行ったか、行っておこったさまざまなことをここに書くことに価値が一体あるというのか、だから書きはじめるのに15年もかかっちゃったよ、冒険は、単に仕事に付随したものだよ・・・”、みたいな話に展開していくのですよね。

レヴィ=ストロース先生と自分を並べるような恐れ多いことは決してしてはいけないのですが、いや、ほんと、冒険って、結果として、付随してくるものにすぎない、と私も思います。冒険を、やろうと思ってやる冒険家の方ももちろんおられますけど、それはごく少数で。ほとんどの場合、フィールドワークと言う名の仕事に、あるいはいやおうなしの生活に付随して、結果として、あれって、人から見たら冒険だったよな、みたいになるんじゃないですかね。

数年前に、京都大学の大型類人猿の研究班にご一緒させてもらって、コンゴDRCに行ったことがありました。ヒトの性と生殖の研究をしていたので、大型類人猿ボノボの性行動について研究者とゆっくり話をしたり、ボノボのいる森に行かせてもらったりしたかったし、当時、大型類人猿の保護とコミュニティ開発のありようについて、現地のNGOが模索していましたから、そのことについても興味があったので、研究班に参加させてもらっていたんですね。で、朝3時に起きて、まだ真っ暗な夜明け前に、トラッカーについて懐中電灯を頼りに真っ暗な森に分け入り、ボノボを探すんです。コンゴDRCの森深く・・・。さらに広域調査では、小さな集落のはずれにテントをはって泊まるんですが、村の人に、「トイレ、あそこにあるけど、あのトイレ、先週の夜に、ゾウに潰されたんで、作り直したものだから、気をつけてね」って言われたから、あー、気をつけなきゃ、と思いながら真夜中にトイレにいきました・・・。とか、あれこれを振り返れば、そのとき、やっていたことは “冒険”以外のなにものでもないです。客観的に。でも自分では冒険とはちっとも思っていなくて、あれは研究班の仕事だった、と思うんですね。

そんなかんじですから、ましてや、10年暮らしたブラジル、「旅と冒険」とは思っていないですね。まあ、日々の生活ですからね、冒険的なことはちっともないわけですね。そういう日常の中で、息子たち二人は育っていきました。国は違いましたが、日常の生活、つまりはご飯を食べて、学校に行って、みんなでおしゃべりして、眠りについて、というような日常は、少しも冒険ではありませんでした。

息子たちふたりは10歳と8歳になる歳まで、日本に暮らしたことがありません。ほとんどをブラジルで、イギリスですこし、暮らしました。私が家庭内で唯一の日本語話者でしたから、それこそ彼らの「日本語という母語習得」についてはいろいろ考えました。彼らの父親はブラジル人だったのでポルトガル語を話す。私は彼らには日本語で話しかける。家族の言語はポルトガル語ですが、子どもたちは私に向かって話すときは、家族で話している時でも必ず日本語で話すようになりました。日本語の絵本と日本昔話はたくさん読みましたし、実家の父が当時の「日本昔ばなし」を毎月ビデオに録画して送ってきてくれていて、息子たちはいつもみていました。「ママ、きれいな女の人はみんな悪い人か、化けものだね」と長男がいいました。おお。それは、真実かもしれない。その後アンジェリーナ・ジョリーとかペネロペ・クルスが好き、とかいうような青年になりましたが、二人とも悪い人じゃないんじゃないかと思うけど・・・

日本語は私と話しているけれども、小学校の2年生と4年生までブラジルの現地校でポルトガル語で勉強していましたから、突然日本に帰ってきて(彼らにとっては“帰る”でもありません。暮らしたことないんですから。帰国子女じゃなくて、入国子女、です)板橋区立小学校に入ったので、学校についていくのは大変だっただろうと思います。彼らの日本語能力には、徹底的に欠けるところがあると思ったので、何かやらなければならない、と思って、毎朝ちょっと早く起きて、漢文や古文の素読をやりました。

“故人西のかた 黄鶴楼を辞し 煙火三月揚州を下る・・・”とか、毎朝やっていました。意味なんか説明してません。覚えるだけ。週に一つ選んで金曜日までには暗唱するようにします。子どもって柔軟ですね。どんどん覚えていきました。“鞦韆院落夜沈沈(しゅうせんいんらくよるちんちん)”、とかもう、男の子だからきゃあきゃあ、言って喜んでましたけど。雨ニモマケズ、平家物語も竹取物語も「海潮音」も。

子どもを育てるうえで、これはやってよかったな、って思い出せるものは少ないのですが、これは、結構、やってよかった、その後役にもたったし、と、息子に言われました。実は、15年海外生活を終えて日本の暮らしに着地しようとしていた私自身にも、素読はとてもよかった。日本語のリズムが体に戻ってきました。年年歳歳花相似たり、歳歳年年人同じからず。

今日はこの辺りにいたします。どうか引き続きご自愛くださいませ。

三砂ちづる 拝

第3便・B

感情のカタログを増やす

 

三砂先生

こんにちは。内田樹です。

お手紙、ありがとうございます。

先日は隣町珈琲でばったりお会いできました。たしかにお会いするのって、ずいぶん久しぶりなんですよね。隣町珈琲の2年前の新年会でお会いして以来じゃないでしょうか。

あの時は、鶴澤寛也さんと山村若静紀さんと三砂先生と、着物の女性がずらりと並んで壮観だったという記憶があります。寛也さんの三味線で、若静紀さんが1メートル四方くらいの空間でみごとに舞ったのを覚えています。玉川奈々福さんも安田登さんもおいででしたよね。

隣町珈琲に行くと、いつの間にか僕の友だちが平川君の友人ネットワークに入り込んでいることに気づいてびっくりします。今名前を挙げた方たちはどなたも最初にまず僕が知り合った方たちだし、大瀧詠一師匠も小田嶋隆さんも釈徹宗先生も白井聡さんも名越康文先生も…、みんな僕の方が最初に知り合ったのに、気がつくと平川文化圏に鎮座ましましている。僕たちの交遊関係はなんだか「コモンズ」として共有されているみたいですね。

それというのも、僕たちは基本的には「たいせつなものは共有」することにしているからなんです。はじめて会った11歳くらいから、ずっとそうでした。平川君が読んだ本の話をしてくれたら、それは僕が読んだような気になる。平川君が会った人の話を聴くと、僕も会ったことがあるような気になる。平川君の「・・・はいいよ/・・・はダメだ」という判断は、とりあえずまるごと受け入れる。

そうなってしまうのも、しかたがないんです。11歳からずっとそうなんですから。60年もそうやって暮らしてきたわけですから、今さら周りから「それ、変ですよ」と指摘されても変えようがありません。

とにかく、だいたいどんなトピックについても、「平川は僕と同意見だろう」と本人に確認する前から思い込んでいるわけです。だから、僕たちは「孤立」ということとは基本無縁なんです。

エッセイを読んでいる、とときどき「・・・というようなことを思っているのは私一人だけだろうか」という修辞的な結語に出会いますけれど、僕たちの場合は「というようなことを思っているのは私たち二人だけだろうか」というのが基本なんです。

とりあえず僕の他にもう一人同じようなことを考えている人がいる。それだと、ほんとうに生きてゆくのが気楽ですよ。もちろん細かく詰めてゆけば、あちこちで意見の違いはあります。でも、その違いを言い立てることよりも、自分の中からは湧き出してくることのないアイディアが、平川君においてどうして生まれたきたのか、それを探求する方が面白かった。

僕たちの関係って「共感ベース」じゃないんです。二人とも気質がまったく違うし、育った環境も違うし、それぞれの「家風」も違うし、音楽や映画や文学についても好みがまるで違いますから。だから、二人で手を取り合って「そうそうそうそう」とはげしく頷き合って、ハイタッチする…というようなことは実はほとんどないんです。小さい時から一度もなかったんじゃないかな。

そうではなくて、僕たちの合意の仕方というのは「平川がそういうんだから、たぶんそうなんだろう」というタイプのものです。しみじみと「そうだ、その通りだ」と身体を震わせて共感しているわけじゃなくて、「平川がそういうくらいなんだから、そのような感懐なり判断に至るには、それなりの必然性があるに違いない(ようわからんが)」というふうに割とクールに受け止めている。

「彼がそう思うに至ったことにはおそらく必然性があるのであろう」ということをとりあえず受け入れる。これはいわば自分の個人的な判断をいったん「かっこに入れる」ということです。フッサール現象学にいうところの「エポケー(判断停止)」です。自分の意見はとりあえず「棚上げ」にしておいて、平川君の意見を「正しい」と仮定する。その上で果たしてどういう理路をたどればそれが「正しく」思えてくるのかを考える。そういう思考訓練を僕たちはたぶん11歳の頃からずっとしてきたんだと思います。そして、そのことは僕のものの考え方にずいぶん影響を及ぼしたような気がします。

僕の大学院時代の研究対象はユダヤ教哲学と反ユダヤ主義でしたが、どちらも「まったく共感できない」ものでした。何しろ文化的なバックグラウンドにおいて共通点が一つもないんですから。でも、研究するに際してそれほど苦労した覚えがありません。

例えば、19世紀末頃の反ユダヤ主義者の書き飛ばした、知恵の足りない政治パンフなんかを読んでいるときも、頭ごなしに「何をくだらぬことを」と嘆じるということはなくて、「果たしてどのような心理過程をたどれば人はかかる倒錯的な世界観に親和するに至るのか」というふうに考えることができた。その作業に特段の努力も要らなかった。そうやって彼らの内面に身を添わせていると、ふとその人の孤独とか虚無感とか焦りとかが生々しく感じられることがありました。なるほど、そうだったのか。そういう気分だったのか。まあ、そこまで追い詰められていたら、そんなふうな妄想に取り憑かれることも、あるかも知れないなあ…、というふうに。

神戸女学院大学に採用された時に、面接の時に僕の反ユダヤ主義研究をとても高く評価してくださったアメリカ史の先生がいました。「『政治的に正しくない思想家』の行う推論を中立的に記述しているところが、よい」という不思議な評価をしてくださいました。

この先生はアメリカの奴隷制の研究家だったのですが、もしかすると南部の奴隷制支持論者の書いたものを山のように読んでいるうちに、彼らがそのように信じるに至った理路を理解するためには、いったん自分の判断を「棚上げ」する必要があるということを経験されたのかも知れません。

僕の学者としてのスタンスはですから「共感ベース」ではありません。僕が大学院で学んだ一番生産的な知見は、「まったく共感できない相手についても、推論の道筋はある程度まではフォローできる」ということ、そしてその道筋を見失わないためには「オレの意見」が介入してくることを自制しなければならないということでした。

この知見はずいぶん汎用性の高いものだと思います。僕が長じて「物書き」になって、たぶん僕とはぜんぜん意見も感覚も違う人たちを読者として迎え入れることができたのも、この態度がかなり与っていたのではないかと思います。それができたのも、平川君相手に、子どもの頃から「自分の判断をかっこに入れる」訓練をずっとしてきたせいかも知れません。小学生の時のクラスに誰がいたのか、ということで人間の運命が激変することって、あるんですよね。

 

わ、長くなってしまいました。ごめんなさい。

感情教育の話の続きをちょっと書きますね。感情教育は終わりがないと思います。僕はもう古希を迎えましたけれど、それでもまだ感情の「ひだ」が、日々の生活を通じて、少しずつ数を増したり、深くなったりするのを感じます。諦めとこだわりの「中ほど」とか、悲しみと解放感の「中ほど」とか、そういう何とも名前のつけようのない感情がちょっとずつ「感情のカタログ」に書き加えられてゆく。

「死ぬ」ということについての感情的な反応も少しずつ変わっています。いまは「そろそろお迎えが来るな」というので「やるべきことを済ませておかないと」と焦る気分と、「いろいろ執着がなくなって楽になるなあ」という楽しみな気分と、「でも、死ぬ前に苦しむのは絶対やだ」という苦痛の予感とか、そういうものがいろいろ混ざっていますし、その比率も日ごとに変わります。

「死に向かう感情」というような文字列を若い頃には平気で読んだり書いたりしていたわけですけれど、実はぜんぜんわかっていなかったということがわかってきました。

ある程度の年齢に達したり、ある状況に置かれないと、理解できない感情、そもそもそんなものがあることを知らなかった感情というものがありますね。このあと、だんだん身体があちこち傷んできたり、頭の働きが悪くなってきて、これまでできていたことができなくなったり、これまで言えたことが言えなくなったりすると、それはそれでまた独特な感懐が生じて来るんだろうと思います。そういうものもすべて「感情が豊かになる」過程である考えることにしています。

でも、不思議なもので、そういう自分の「感情のカタログ」を増やしているわけですけれども、それを誰かと共有したいとか、共感して欲しいとかは思わないんです。「オレのこの感情をわかってくれ」とは特に思わない。でも、それを記述することにはとても興味があるのです。自分の中にあって、うまく分節できない星雲状態の感情を記号的に表象する作業はすごく面白い。でも、それは理解や共感を求めてしているのではないようです。

子どもの頃に、「プロ野球ゲーム」を自作して、一人でいくつかの球団の試合をサイコロで再演して、こつこつとスコアブックをつけるということをしていたことがあります。サイコロ試合ですから、もちろん現実のリーグ戦とは順位が違い、現実の打率や防御率とは違う数値が出て来るのですが、それを克明にノートにとっていました。そのノートは誰にも見せませんでした。というか、誰ひとり見たがらなかった。僕の脳内妄想野球なんか、誰にとっても面白くないですからね。

僕の「感情カタログ」も、その脳内野球に類するものではないかと思います。僕にとっては時を忘れるほどに面白い作業なんですけれど、誰かに理解してもらうためにしているわけではない。

性教育って、僕は娘にはしたことがありません。たぶん別れた妻のところに行って、彼女から教わったのだろうと思います。家族の間では宗教とセックスのことはあまり話題にしない方がいいと僕も思います。それがタブーだということではなく、三砂先生もお書きになっている通り、それを子どもにうまく伝えることができるような言葉を持っていないからです。宗教もセックスも、できあいの言葉で簡単に言い切ってよいことではありません。「超越者とは何か?」とか「欲望とは何か?」というような根源的な問いにできあいの答えはありません。何を言っても、きわめて不完全な表現にしかならず、たぶんその不完全性ゆえに、聴いた人はそれを誤解する。黒と白と灰色しか色相を区別できない人に、オレンジとか空色を説明するようなものですから。

だから、さいわい、娘にそんなことを訊かれなくてほんとうに助かりました。世の中には「うまく言葉にできないことがある」「あまり簡単に言葉にしてはいけないことがある」という事実を、そういう親の「腰が引けた態度」から娘が学んでくれたのであれば、それが性について、親が子どもに伝えることのできるたいせつなメッセージの一つではないかと思います。

三砂先生のご子息たちへの国語教育、すばらしいですね。こんなやり方を思いついた人を僕は知りません。でも、すごくよいと思います。コロキアルな日本語を母親と交わしたことしかない彼らでも、その経験を入り口に「日本語のアーカイブ」にはアクセスできます。それは彼らにとって「あまりたくさんの語彙を持たない母語」なんだと思います。それでも母語であることに変わりはない。母語では、「はじめて聞いたんだけれど、なんとなく意味がわかってしまう」ということが経験できます。これは外国語ではたぶん無理です。

僕は小学生低学年の頃、大人たちの話を横で聴いているだけで、大量の語彙を獲得したことがありますまだ。辞書というものを引くことを知らない年齢だったのに、聴いていると意味がわかるんです。現代文だけでなく、古語でも漢語でも、それが日本語のアーカイブから取り出して使われている限り、なんとなく意味がわかりました。

そんなことができたのは、わずか10年弱くらいの母語経験だけで、僕の中のどこかに「母語のアーカイブへアクセスする回路」が開いたからだと思います。

そこにはこれまで日本列島に暮らしていた人たちがかつて口にしたり、書いたりしたすべての語、すべての文、すべての音韻が堆積している。そのほとんどは現代ではもう使われないものですけれども、現代語がその堆積から生まれ出てきたものである以上、「根っこはつながっている」。

前に、池澤夏樹さんの個人編集『日本文学全集』で、『徒然草』の現代語をしたことがありました。どうして池澤さんが『徒然草』に僕を指名したのか、よくわかりませんでしたけれど、きっと何か思うところがあっての人選だろうと思って、快諾して、二年ほどかけて訳しました。

『徒然草』なんて高校生の頃に古文の教科書で部分を読んだのが最後で、50年近く見たこともなかった。ところが、古語辞典片手に訳し始めたら、これがすらすら訳せるんです。意味がわかる。かなり微妙なニュアンスまでわかる。へえ、母語だとこういうことができるのか…とちょっと感動しました。

その後、「『徒然草』を訳して」という演題で講演した時に、フロアから「『徒然草』の専門家で、その研究で学位を取りました」という人が手を挙げたので、慌てたことがありました。でも、その人が「たいへんよい訳でした」と言ってくださったので、さらにびっくりしました。その理由が「係り結びの訳が適切」だということでした。

僕は「係り結び」という文法的な約束事があるのは知っていましたけれど(「ぞなむやかこそ」ですよね)、そこに何種類か訳し分けしないといけないほどにニュアンスの差があることは知りませんでした。僕はそれと気がつかぬままに、そのニュアンスを訳し分けていたらしい。なるほど、母語とはこういうものなんだと思い知りました。

三砂先生のお子さんたちは複数の言語について「母語的入り口」を持っているんだと思います。だから、たぶんそれらの言語については「はじめて聴いたけれど、なんとなく意味がわかる」ということがよくあるんだろうと思います。

それから三砂先生ご自身が漢文的なものが好きだというのは意外でした。そう聞いてうれしくなりました。僕も大好きなんです。

80年代の脱構築とかポストモダンとかいって浮かれていた時代の空気が僕は嫌いで、世間に背を向けて、反時代的なものばかり読んでいました。とくに好きだったのが、吉川幸次郎、白川静、石川淳、森銑三といった同時代の「漢語使い」たちの文章でした。現代語と漢籍の教養が入り混じった独特の乾いた論理性に、べたついた温帯モンスーンの知的風土を吹き抜ける一陣の涼風のようなものを感じました。あれが、僕にとって文章の一種の理想なんです。ぜんぜん実現できていませんけれどね。

さて、今回はこれくらいにしておきます。なかなか本題に入らないでいるのか、いま話していることが問題の核心に触れているのか、それは「これから」の持ってゆきかたですね。武道では「残心」ということをたいせつにします。技が終わったあとに、それまでの動きをすべて「調える」ことです。文章の最後に句点を打つみたいなものです。それによって、「なるほど、ここまでの逸脱と見えたものは実はすべてここに至る伏線だったのか・・・」と得心するということがあります。そういうふうになるといいですね!

内田樹 拝

内田樹(うちだ・たつる)
1950年東京生まれ。凱風館館長。神戸女学院大学文学部教授。専門はフランス現代思想、映画論、武道論。著書に『「おじさん」的思考』『こんな日本でよかったね』『コモンの再生』『日本習合論』など多数。『私家版・ユダヤ文化論』で第六回小林秀雄賞を、『日本辺境論』で2009年新書大賞を受賞。

三砂ちづる(みさご・ちづる)
1958年山口県生まれ。京都薬科大学卒業。ロンドン大学Ph.D.(疫学)。津田塾大学多文化・国際協力学科教授。著書に『女たちが、なにか、おかしい おせっかい宣言』『自分と他人の許し方、あるいは愛し方』『オニババ化する女たち』『死にゆく人のかたわらで』『自分と他人の許し方、あるいは愛し方』『少女のための性の話』など多数。

第2回 感情とのつきあい方

内田樹先生と三砂ちづる先生の往復書簡による、旧くてあたらしい子育て論。ともに離婚により、男手で女の子を育てあげた内田先生と、女手で男の子を育てあげた三砂先生。その経験知をふまえた、一見保守的に見えるけれども、実はいまの時代にあわせてアップデートされた、これから男の子・女の子の育て方。あたらしい世代を育てる親たちへのあたたかなエール。

第2便・A

なぜすべてにそう悲観的なのか?

 

内田先生

 

お便りありがとうございます。

ご多用な中、往復書簡企画をお受けくださいまして、あらためてお礼申し上げます。便箋を取り出してペンを取っているわけではありませんが、こうして落ち着いてパソコンに向かって内田先生にお便りを書く、ということに喜びを感じます。どうぞよろしくお願いいたします。

お便りっていいですよね。メールもSNSもなかったころ、って、誰かに親しく文章を送る方法は手紙しかありませんでした。それって、2021年の今からさかのぼること、だいたい30年ほど前のことですから、私たちの世代にとっては、ついこのあいだのことですね。30年前にはすでに固定電話は十分に普及していましたから、電話は通じるけど、その頃電話代は結構高かったから延々と話すことなんできなかったし、ファックスはすでにありましたが、ファックスは誰の目に触れるものですから、あんまり個人的なことを書いて出すわけにはいかない。手紙しかなかった。

手紙は、書こう、と思って便箋を取り出して、ペンをとって書き始める、いやいや、これは違う、と思って便箋を破り捨てる、そして書き上げて、読み直して、封筒に入れる。読み直すと送れないだろうから、読み直さないで封筒に入れたこともありますが、とにかく、封筒に入れて封をして、宛名を書いて切手を貼って・・・といろいろな段取りがあり、あんまり感情的なことなんかは、その段取りの途中で思い直したりして、お便りを出すに至らなかったり、なんていうこともあったと思います。そして、その切手を貼った封筒を、ポストまで運んで行って、はい、とポストに入れる。その前に、やっぱり考えましたよね。これ、出していいのか、出したらもう終わりじゃないか、そんな手紙だったらやっぱり、ポストの前でたたずんだり、たたずんだ後、出さずに部屋に戻ったり、なんていうこともあった。

出した後、ああ、やっぱりこれはまずい、本人に読んでほしくない、と思えば、取り返すこともできた。日本郵便はいまもこのサービスをやっていて、そんなに高くない手数料を払うと、一旦出した郵便も、相手側の配送郵便局に近いところに連絡して、手紙を取り返してくれます。実は最近、別に出しちゃいけない手紙ではなかったのですが、単純な間違いに気づいて、このサービスを使ったことがあるのですが、実に手際よく、私の出した書簡が家のポストに戻ってきて、感心したことがあります。ともあれ、手紙って、出した後にでも、取り返すこともできる。すごいですよね。何が言いたいか、というと手紙って感情を言葉にして相手に届けるまでに、「ためらう」時間がいっぱいあったな、ということです。やり直しがきいたし、感情というのは、ためらって、自分の中で醸成して、それから相手に開示していくようなものだった。

電子メールが普及し始め、私自身が使い始めたのは1993年くらいではなかったか、と記憶します。よく覚えているのは、「長男が生まれた時に電子メールを使っていなかった」、「次男が生まれた時にも電子メールを使っていなかった」ことを記憶しているからです。

長男は1990年にブラジルの北東部セアラ州という辺境で生まれました。辺境と言いましても、住んでいた州都のフォルタレザは海岸部に位置する200万都市ではあるのですが、ブラジルの中心、サンパウロ、リオデジャネイロから何千キロも離れたところで、州都を出ると、延々とかわいた内陸部が広がります。

19世紀の終わり、ブラジルが共和国になった直後、宗教的指導者に率いられて2万5000人が最後まで最後まで共和国軍に抵抗したという、カヌードスの乱が起こったのは、この北東ブラジルの内陸部でした。かのマリオ・ヴァルガス・リョサが「世界終末戦争」で題材にしています。このタイトル、スペイン語の原文は”La Guerra del fin del mundo“で、直訳すると「世界の果ての戦争」です。もう、辺境中の辺境の、世界の果て。原文がスペイン語なのは、リョサがペルーの人だからです。ブラジルの人ではない。ブラジルの人ではないリョサが、ブラジルという国の根っこに関わるようなカヌードスの乱について大長編小説を書ける、というところがラテン・アメリカというところの大変興味深いところなんですが、今回のお便りでは深入りしないことにします。

ともあれ長男はブラジルの辺境で生まれました。そのときは、もちろんSkypeもLINEもWhatsAppもなく、国際電話はものすごく高かったから、とにかく日本にひとこと「子どもが生まれた」と電話をするくらいしかできません。もちろん、メールは、なかった。親しい友人でも、わたしに子どもが生まれたことを半年くらい知らなかったんじゃないかと思います。地球の裏から、気楽に、ふっとメッセージを送る手段はありませんでした。

次男は1992年にロンドンで生まれました。こちら、ラテン・アメリカの辺境ではなく、世界のロンドン、です。海外に出かけるたびに入国の際に「Place of birth」すなわち「生地」を書類に記入することが多いですけど、その書類に長男は、あまり知る人もないブラジルの辺境の地を記し、次男は、世界のロンドン、を書くのだよなあ、それってなんらかの影響を人に及ぼすものかしら、と、うらうらと思うようになったのは、だいぶあとのことです。

そのころ私はロンドン大学熱帯衛生医学校という大英博物館の裏の古い建物にある学校で働いていました。当時のイギリス式の産前産後休暇は、産前でも産後でも通算して六週間とれることになっていまして、いつとるか、は、自由に選ぶことができた。二歳になる前の長男がいたこともあり、自分自身が基本的に元気だったこともあり、産後に休みを取りたいと思っていたこともあり、お産をする予定の病院はイギリスの公立ヘルスサービスでは住んでいるところの指定でされることになっていて、私の場合は、職場の目と鼻の先にあるユニヴァーシティ・カレッジの産院、ということもあり、ぎりぎりまで職場で働いていたのです。ほんと、こういうこと、やってはいけません。働きすぎで結構たいへんなお産になり、ユニヴァーシティ・カレッジ産院の先生方に大変お世話になることになってしまいました。日本はお産の前に休暇を取ることが制度化されていますし、妊娠初期からもいろいろな制度を使えますから、妊婦の皆様は早めに産休とってもらいたいものです。

その時のお知らせも、長男のときと同じく、「また男の子、生まれた」と日本に一言電話したことだけ覚えています。

一般にメールが使えるようになることに先んじて、大学などのアカデミック組織でメールが使えるようになり、私が実際に初めて日本の大学に勤める友人にローマ字を使った電子メールを使ったのは、だから、このブラジルとイギリスでの出産の後だったと記憶します。ローマ字を使ったメールを送ったのは、当時すでに日本を離れてだいぶ経っていて、日本語と関係ないところで仕事していた(せざるを得なかった)ため、パソコンは日本製のものではなく、当時の日本製じゃないパソコンでは日本語入力ができなかったからです。そのあとは、あれよあれよという間に電子メールの時代が到来し、いまのSNSの時代へと続くのです。

なんと言っても私は地球の裏におりましたから、一瞬で自分のメッセージが日本に届いている、というのは誠に驚愕すべき事実でありました。でも一瞬で自分が書いたことが、それも結構長文が、相手に届くって、おお、怖い、と思ったことをよく覚えています。

これ、電話じゃない。文章だ。残ってしまうことだ。読み直されてしまうことだ。こんなものができちゃって、壊れなくてもいい人間関係が壊れちゃうだろうなあ・・・。瞬時に感情のやりとりをする方法なんてもともと相手を前にしてしかなかったはずだし、電話が発明されて、声だけでできるようになったとはいえ、まだまだ値段も高いから長電話できなかったし、どっちにせよ、電話の声って残りはしない。こんな長文の文章によるやりとり、しかも手紙のように一対一のパーソナルなやりとり・・・。

悲劇はそこにあらかじめ内包されている、と思っていたところ、職場(ロンドン大学衛生熱帯医学校)では、保健関係の国連組織(といえばどこかわかっちゃうと思いますけど)にエラい人として赴任していたなんとか先生が不倫相手の同僚に送るべきメールを、職場全員allあてに送っちゃった、後で必死の弁明をしていたけど、もう遅かった・・・みたいなことがティータイムの話題になっていたりして、おお、やっぱり恐ろしい、と思いましたが、こういう不倫話題は内田先生、苦手だそうですから、この話はここまでにします。

ともあれ私は電子メールの普及する直前に、父親がブラジル人の男の子二人の母親となりました。安藤さんからいただいた、この往復書簡のお題は「子育て」、しかも「男の子の子育て」でありますから、自分自身を語ることから逃れられないのは覚悟しているところではありますが、いろいろな意味でとても特殊な環境で子どもたちを育ててきたので、あんまり汎用性のある話はできそうにありませんが、お相手くださるのが、内田先生ですから、ゆっくりやっていきたいです。あらためてどうぞよろしくお願いいたします。

 

お書きくださっていた、「感情教育(éducation sentimetale)」、フランス語ですね。フランス語文脈ではよく使う言葉なのでしょうか。フランスはもちろん特別なところで、スペイン語、イタリア語、ポルトガル語、ルーマニア語を話すほかのラテンのみなさまとはちょっと違うと思いはしますが、共通するところも、やはりあると思う。「感情」ということ、感情を表すということ、感情と付き合っていくこと、についてラテンの皆様の人類への貢献はすごく大きいように思います。この上記の男の子二人(もう30と28で男の子じゃないですけど)の父親がイタリア、スペイン、ポルトガルのオリジンを持つブラジル人であったこと、長男のゴッドマザーになってくれた親友がスペイン人女性であったこと、実際にブラジルでブラジルの親戚と深く関わりながら10年ほどブラジルでブラジル人家族として暮らしてきたこと、などから、子どもを育てることにおいて感情を大切にする、感情を育てる、ということをずいぶん学ぶことができたような気がします。

世界の様々な文化や民族は、得意分野があるように思います。それぞれ、人類としての発展のための得意な分野。やっぱりアカデミックな分野はアングロサクソンの皆様の貢献が大きいのは、イギリス、アメリカという国の覇権のみでなく英語という言葉のアカデミックな分野にぴったりの論理性を備えているからだ、と思います。論文、という形のものを書くとき、英語だとごまかしがきかない。日本語で書いているとなんとなく、ちゃんとしたことを書いているように見えても、英語にどうしてもできない、というときは、論理的に書けていない、ということだったりします。これって日本語だからかな、と思っていましたが、少なくともポルトガル語ユーザー、スペイン語ユーザー、フランス語ユーザーから似たようなことを聞きました。ポルトガル語で書いていると、なんだかぐるぐるおんなじこと書いちゃうんだよね、うん、フランス語もなんとなく勢いで書いちゃってるけど、論理的じゃなくなるんだよな、とか。でもこれ、私が医学系の分野で論文を書いてきたからかもしれず、人文科学の分野ではフランス語で書く、というのは特別な意味のあることらしいのは、キラ星のようなフランス思想、哲学のお名前を見てもわかります。内田先生のまさにご専門の世界ですね。

世界のいろいろな人たちの得意分野、の話でした。で、ラテン系の人たちは、というかラテンの言葉で豊かに表すことができることは、「感情」だと思います。感情と人間関係について語ることも好きだし、語る言葉もたくさんあるし、とても洗練された言い回しも多い。外国語を学ぶ、ということは、自分の中のあまり前に出ることがなかった部分が耕されると言いましょうか、言葉を与えられる、と言いましょうか、私自身は、関西弁ネイティブの日本人ですが、10年ブラジルに家族として住んだので、ポルトガル語スピーカーですし、イギリスの大学にも長く勤めたので、発音とかめちゃくちゃですけど、なんとか英語使って生きていくこともできる英語スピーカーでもある。英語を使っている私とポルトガル語を使っている私と日本語を使っている私では、同じ自分ですけど、前に出している部分が違います。ポルトガル語を話している私は、他の言葉を話しているときより、明らかに感情を前に出しています。

ブラジル人家族として暮らしていた頃、「なぜすべてにそう悲観的なのか」と言われたことがあります。「なぜ、悪いことばかり、困ったことが起こったことばかり、考えるのか?悪いことが起こった時は、全力で対処しなければならない。その時はどうせ、全力で対処しなければならないのだから、起こる前にあれこれ悪いことを考えてないで全てうまくいく、と楽観的に考えていた方がいい」としみじみと言われました。これ、よく言われる、日本人は悪いことばかり考えて、今を十二分に楽しめない、という、あれ、です。この悲観的なこと、物事の最悪ばかりを考えてしまうこと・・・しみじみとなんでかな、と考えましたね。そんな悪いことばかりなぜ考えるのか。災害の多い国で育ったからか、備えよ常に、というメンタリティで育ったからか。

しかし、内田先生の「平時から非常時へのモードの切り替えが恐ろしく下手というだけではなく、常日頃から「最悪の事態」を想定して、それに対する備えをしておくということができない」私たち、というのを読んで、あらためて、思いました。私たち、あれこれ悲観的に考えているように見えて、実は考えていないんじゃないのか。むしろ、考えることをシャットアウトしているのではないか。考えないで、起こったらどうしよう、どうしよう、と、ただの取り越し苦労、をしているだけじゃないのか。取り越し苦労のなにがいけないのか、は、今が楽しい、と思えなくなる。今を楽しい、幸せ、と思うと、「そんな幸せでいていいはずがない」になる。ひたすら低い自己肯定感。そういうのって、本当の意味で、「最悪の事態」を想定して、しっかり備えをする、という綿密な作業を妨げるものです。

「感情」とうまく付き合いながら、モードを鮮やかに切り替えつつ、冷静に綿密に現状を読み、備えを積み重ねる。この辺りのマインドセットの基礎は、どのあたりで、どう作られるのか、この辺りは「子育て」と深く関わりますね。

パンデミックのことも書きたかったのですが、長くなりますので、今日はこのくらいにしておきます。

どうかご自愛くださいませ。

三砂ちづる 拝

第2便・B

親子関係で決定的に重要なこと

 

三砂先生

 

こんにちは。内田樹です。

第二信拝受しました。ありがとうございます。

三砂先生って、ほんとうにすごいですよね。ブラジルとイギリスで子ども産んで、育てるなんて。僕にはとても無理です。

僕は外見とはうらはらにきわめて「安全運転」の人なんです。

もう半世紀も前のことですけど、隣に乗っていた女の人(前の妻です)が僕の運転を見ながらしみじみと「樹ってほんとうにつまらない男ね」と呟いたことがありました。スピード制限守ったり、一時停止で停止したりするくらいのことで「つまらない男」呼ばわりされるのもあんまりじゃないかとは思いますけれど、たしかに僕は同乗していて「わくわくする」ようなドライバーではないんです。冒険心というものが構造的に欠落しているんです。ほんとに。

クロード・レヴィ=ストロースの『悲しき熱帯』は「私は旅と冒険家が嫌いだ。」という一行から始まります。僕も「旅と冒険が苦手」なんです。「ビバ、おれんち」の男で、家から一歩も出ないで一日を過ごすことがまったく苦にならない。ですから、60歳になって、一階に道場、二階に自宅という家を建てて長年の夢を実現しました。書斎で仕事していて、稽古の時間が来たら階段を降りるだけという究極の職住近接です。コロナ禍で家に逼塞させられて息が詰まるという話をあちこちで伺いましたけれど、僕には正直言ってぴんと来ませんでした。「ステイホーム」が僕の場合は日常ですから。

ですから、海外で生活するということが実はものすごく苦手なんです。

若い頃はきっといずれは海外を旅する人生を送るんだろうと漠然と思っていました。「青年は荒野をめざす」がデフォルトの時代でしたからね。シベリア鉄道でヨーロッパに向かったり、長距離バスでインドに向かったりということを周りの人たちは当たり前のようにやってました。僕もその流れに乗って、大学四年生のとき、一夏をフランスで過ごしました。1974年で、『日本列島改造論』のおかげで土木機械を扱っていた父親の会社も急成長して、金回りがよくなった父親がポンとおこずかいをくれて、「これでフランスでも行ってこい」って言ってくれたんですよ。すごいですね。でも、円がまだ弱い時代でしたから、航空券購入だけで半分消えて、一月7万円(当時のレートで1000フランちょっと)で暮らすという超貧乏生活を余儀なくされました。

三か月間フランス各地を旅したので、たしかに見聞はずいぶん広まったんですけれども、最後の1週間は所持金がほぼゼロになり、帰りの飛行機のアエロフロートの機内食のまずいチキンが極上の美味に思えたくらいに痩せこけて帰国しました。

そのせいもあって、なかなか海外に行く気になれず。その次に海外旅行に出かける決意がついたのはその13年後でした(これはレヴィナス先生にどうしてもお会いしたくて、清水の舞台から飛び降りるつもりでフランスに行ったのです)。そのあともフランス人の友人に「一緒に夏休みを過ごそう」と誘われて、娘と二人で2月ほどを南仏とパリで過ごしたことがあり、神戸女学院に行ってからは定期的にフランス語の語学研修のつきそいでブザンソンに行ってました。でも、だいたいいつも憔悴し果てて帰国していました。滞在も後半になると「はやくうちに帰って、冷奴とぬか漬けとカマスの干物に大根おろし添えたのでビール飲みながら小津安二郎の映画を見たい」というようなことばかり妄想していました。

僕は留学生試験を受けたことがないんです。仏文の院生は博士課程になるとほぼ全員が給費留学生試験を受けるんですけど、僕は受けなかった。当時は週に三日ほど予備校や大学で非常勤講師をするほかは終日レヴィナスの翻訳をして、夕方からは自由が丘道場で合気道の稽古をするという「判で捺したような日々」を過ごしていました。僕はその生活に100パーセント満足していたので、その生活から離れたくなかったのです。

神戸女学院大学でも、サバティカルを僕は申請しませんでした。赴任して7年目からは1年間の休暇をとって海外で過ごす資格があったんですけれど、どうしても行く気になれなかった。娘がいるので家を離れられないということもあったし、合気道部の学生たちやゼミの学生を1年間置き去りにはできないということもありましたけど、そんなの理由にならないですよね。実際、同僚たちの中に「娘の弁当を作らなくちゃいけないから」とか「部活の指導があるから」とかいうような理由でサバティカルに行かないという人はいませんでしたから。

僕はほんとうに内向きの人間なんです。散歩をするとか、ドライブをするとか、そういうことさえしたことがないんです。春風に誘われてあてもなく歩き回るとか、ふと思い立って夕日に向かってバイクを走らせるとか、そういうことを一度もしたことがないんです。ほんとうに。用事があるところに向かって、最短時間、最短距離で移動するだけです。用事がなければずっと家にいる。

よく考えると、かなり異常な性格だとは思いますけれど、いまさら治しようもありません。

ですから、三砂先生みたいな生き方には、ほんとうに「ぜんぜん違うなあ」と素直に感心してしまうんです。そういう冒険的な生き方は僕には絶対に真似ができません。なにしろ「冷奴と小津」ですからね。海外で学位をとったり、子育てするなんて、絶対無理です。

 

なんでこんな話をしているかと言いますと、僕が育児にずいぶん熱心に取り組んだのは、別に「意識が高い」とかいうことではなくて、男にしては異常に内向きな人間だったからではないかと思うんです。旅と冒険が苦手で、うちにいるのが大好きだから、育児が少しも苦にならなかった。

離婚したあとは父子家庭で12年間男手ひとつで子育てをしたわけですけれど、実際にはその前の6年間も、嬉々として育児をしていました。保育園の卒園式の時には「保護者代表」に指名されて、謝辞を述べました。父親が「保護者代表」をしたのは僕が園創立以来はじめてだったそうです。まあ、毎日子どもを送迎して、保育園の行事にはフルエントリーするというような「変な父親」は僕の他にいませんでしたから。

ですから、僕が語る育児についての論には実はぜんぜん一般性がないのではないかと思うのです。世の男親たちが僕の書いたものを読んで「ぜんぜんオレと違う。こいつ変だよ」という印象を持ったとしても、そう思う方が圧倒的多数派で、僕は例外的少数派に過ぎないんだと思います。

僕は小さい頃は女の子とばかり遊んでいました。学校が終わると、クラスの仲よしの女の子たち数人と手を繋いで帰り、誰かのうちに上がり込んで夕方まで遊んでいました。僕が風邪をひいて学校を休んだときに女の子たち5人がお見舞いに来てくれて、父親に「樹には女の子しか友だちがいないのか?」と驚かれたことがありました。

もちろんそんなことはなくて、男の子のともだちもいたんですけれど、僕は6歳のときにリウマチ性の心臓疾患に罹って、心臓の弁膜に異常が残り、外で走り回るタイプの遊びについてはかなり制約がきびしかったのです。だから、どうしても室内で女の子としずかに遊ぶしかなかった。

男の子よりも女の子と仲良しという状態は10歳くらいまで続きました。それが11歳のときに平川克美君と同じクラスになって「男の子の親友」というものができて、それから急に男の子たちと遊ぶ方が楽しくなり、以後「ふつうの男子」になりました。

でも、僕の場合、ジェンダー意識の形成の最初期に刷り込まれたのが「女の子たちと一緒にいるのはほんとうに楽しいなあ」というほんわかした原体験だったんです。その経験が大人になって、人の親になったときに影響しなかったわけはないと思います。

父子家庭で子どもを育てたことについて、「よく、そんなことができたな」という驚きの声は何度も向けられましたけれど、よく考えると、「オレにはとても真似できない」というのは「それができたのは、内田が『変』だからだよ」という暗黙のメッセージも同時に発信していたのかも知れません。でも、僕はそれには気がつかなかった。

まあ、いいんですけどね。人はみんなそれぞれの仕方で「変」なんですから。

ただ、そういう自分のジェンダー的な偏りを勘定に入れておかないと、育児について僕の個人的経験を過度に一般化するリスクがあるかも知れないと思います。そのことを三砂先生に返信を書き始めているうちにふっと思ったのでした。

 

まとまらない話で済みません。でも、これは別に雑談に逸脱しているわけではなくて、前便で書いたように、「感情」が育児における中核的な問題ではないかという気がするからです。

子育てというのは何か「こうすればうまくゆく」というような万人向けのマニュアルがあるわけではありません(それについては三砂先生も同意してくださると思います)。そうではなくて、ひとりの子どもとひとりの親の間で営まれる感情と感情の「すり合わせ」という一回的な、追試不能な経験ではないかと思うんです。

だから、両者それぞれの感情の熟成度の差とか、感情の肌理の精粗とか、とても言葉にしにくいことが親子関係では決定的に重要になるんじゃないか。なんだか、そんな気がするんです。

すごく言葉にしにくい話なので、そんな面倒な話はふつうはあまりしません。でも、子育てというのは、「とても言葉にしにくいこと」を必死になって言葉に置き換えてゆくのだけれど、どの言葉も「言い足りない」か「言い過ぎ」かであって、言い終わってもぜんぜんすっきりしない…というオープンエンドな営みじゃないかと思うんです。

例えば、子どもは親とのかかわりを通じて母語を習得するわけですけれど、コミュニケーションが開始する時点では、赤ちゃんは母語を知らないわけですよね。「母語を習得しておくと親とのコミュニケーションにも便利だし、将来的な就職にも有利」というようなことを赤ちゃんは考えません。でも、母語運用者である親との「理解できない言語」のやりとりを通じて、赤ちゃんは短期間のうちにすぐれた母語運用者になる。この母語の習得のメカニズムが子育てのいちばん基本にある営みではないかと僕は思うんです。非常にプリミティヴな、「原始スープ」のような赤ちゃんの感情組成が、親の感情との接触を通じて、しだいに分節されて、複雑化してゆく。だから、親の感情的な熟成度が子どもの感情生活形成には決定的な影響をもたらす。母語習得と同じです。響きの良い音韻で赤ちゃんに語りかける親に育てられた子どもは響きの良い母語話者になる。それと同じで、親が豊かな感情の語彙を持っており、自分の感情を抑制したり、解発したり、表情やみぶりや声質で表象する技術に熟達していると、子どもの感情生活もそれだけ奥行きのある、厚みのあるものになる。そういうことってあるんじゃないかと思うんです。

そのメカニズムを解明するためには、まず親の側が自分の感情生活形成の行程を回顧的に分析してみる、ということが必要なのではあるまいか、と。そんなふうに思うんです。

「人間の感情は誰も似たようなものだ」と断定するより、「ひとりひとりの感情の形成過程はかなり違っている(だから、自分の感情生活を十分な吟味抜きに他者に適用してはならない)」ということを前提にしておいた方が、少なくとも親子関係で傷つけ合うリスクはずいぶん回避できるんじゃないかと思うのです。

この往復書簡は「男の子を育てること」という以外には特にテーマを定めないで、なんとなく始まりました。「なんとなく」始まったおかげで、三砂先生と僕が「なんとなく」とっかかりのトピックを選ぶことができた。その無作為な選択を決定づけているのは、おそらく三砂先生と僕のそれぞれの感情生活ではないかという気がするのです。

今日もまとまりのない話でごめんなさい。でも、こうやって「下手な鉄砲も数撃ちゃ当たる」的にトピックを転々としているうちに、だんだん核心に迫ってゆくことができるんじゃないかと僕は思っています。ではまた。

内田樹 拝

 

内田樹(うちだ・たつる)
1950年東京生まれ。凱風館館長。神戸女学院大学文学部教授。専門はフランス現代思想、映画論、武道論。著書に『「おじさん」的思考』『こんな日本でよかったね』『コモンの再生』『日本習合論』など多数。『私家版・ユダヤ文化論』で第六回小林秀雄賞を、『日本辺境論』で2009年新書大賞を受賞。

三砂ちづる(みさご・ちづる)
1958年山口県生まれ。京都薬科大学卒業。ロンドン大学Ph.D.(疫学)。津田塾大学多文化・国際協力学科教授。著書に『女たちが、なにか、おかしい おせっかい宣言』『自分と他人の許し方、あるいは愛し方』『オニババ化する女たち』『死にゆく人のかたわらで』『自分と他人の許し方、あるいは愛し方』『少女のための性の話』など多数。