第6回 当事者研究とアーキテクチャ

左翼が本来持っていたダイナミズムが失われて久しい。いまや自壊した左翼は「大同団結」を唱え、そのための合言葉を探すだけの存在になってしまった。怠惰な団結をきれいに分離し、硬直した知性に見切りをつけ、横断的なつながりを模索すること。革命の精神を見失った左翼に代わって、別の左翼(オルタナレフト)を生み出すこと。それがヘイト、分断、格差にまみれた世界に生きる我々の急務ではないか。いま起きているあまたの政治的、思想的、社会的事象から、あたらしい左翼の可能性をさぐる連載評論。

(承前)とはいえ、吉本隆明が念頭に置いていたはずのヘーゲルの市民社会論においてすでに「深刻的な道徳的分断」が見られるのである。社会学者の稲葉振一郎が指摘するように、同じく「規範理念」としての「市民社会」の源流となったアダム・スミスに比べて、ヘーゲルの市民社会論は「労働」という「陶冶」を重視したものの、実は「道徳的に分断されている」のである。学者、法律家、軍人、官僚などの「普遍的身分」、農民や土地貴族などの「直接的身分」、商工業者などの「形式的身分」、それぞれの「身分」において「道徳」は異なるのである[1]。すでにヘーゲルの市民社会に「政治的部族主義」の萌芽があったとはいえないか。

みずからの党派に有利になる情報であれば、ひとびとはたとえフェイクニュースであっても簡単に飛びついてしまうし、陣営内部での評判を高めるために信じていない陰謀論を語ってしまう。客観的な判断よりも、みずからのアイデンティティの承認を優先させる「政治的部族主義」は、選挙といった民主主義的な制度でより顕著となる。人類の進歩を楽観的に描いた『21世紀の啓蒙』の著者スティーブン・ピンカーでさえ、選挙は「人間の最も不合理な部分をわざわざ引っ張り出すようにできている」と述べる[2]。みんな政治で馬鹿になる、というわけだ。

しかし、人間は馬鹿で救いようがない、ということがここで言われているわけではない。わたしたちには狩猟採集時代に獲得した「本能」があり、多種多様な人間が暮らす現代社会という「環境」において、その「本能」がうまく働かず、しばしば誤作動を引き起こす、ということなのだ。たとえば、46×49という計算は暗算できなくとも、紙と鉛筆、そろばんを使えば答えが出せる。寝る前に目覚ましのアラームをセットすれば、毎朝決まった時間に起きている。「道具」を使い「環境」さえ整えれば、私たちは適切に判断できるし、行動することができる。つまり、私たちは、あまり賢くない「生物学的な脳」の能力を高めるために「デザイナー環境」を構築している。「人間の思考と理性」は「物質的な脳、物質的な身体、そして複雑な文化的・技術的環境の間のループする相互作用」から生じてきた[3]。私たちは「生まれながらのサイボーグ」[4]であり、「脳・身体・テクノロジーから成るマトリックス」[5]なのである。

このような人間像は認知科学ばかりではなく、フェミニズムやケア、当事者研究といった方面からも現れている。当事者研究はソーシャルワーカーであった向谷地生良らが設立した「浦河べてるの家」で2001年に始まったとされる[6]。これまで治療・研究対象とされてきた当事者みずからが、同じような悩みや障害を持つ当事者とともに、みずからの症状について研究をおこなうものだ。

脳性麻痺の当事者研究をおこなう熊谷晋一郎はこれまで自明視されてきた自律/依存という対立を転倒させようとしている。「自律」できる人々とは従来誰にも依存せず、誰からも強制されない、意志が強いひとびとだと一般的には思われている。しかし、そのような「自律」している人々は、依存できるひとやものを多く持っており、一つ一つの依存先への負担が少ないために「自律」しているように見えるのではないか、と熊谷は指摘している[7]

たいして、依存症の当事者は意志が弱く、自己決定できない人間だと一般的には思われている。しかし、依存症のひとびとは、幼少期に虐待を受けるなどの経験から人間不信に陥っているケースがしばしばある。結果、依存できる人間が周囲にいないために、ギャンブルやアルコールといったひとつのモノに深く依存してしまう。つまり、依存症の当事者は、他者に依存すべきではないという考えが人一倍強い「自律」的なひとびとなのであり、彼らにたいして「意志を強く持て!」といった考えを押し付けることは、治療において逆効果となる。そのため、アルコールの依存症の自助グループでは「自己決定や自己コントロールを行う能動的かつ近代的な主体を降りること」がまず目指されてきたのだという[8]

「自己決定や自己コントロールを行う能動的かつ近代的な主体」はケアに注目したフェミニズムによっても批判されてきた。社会学者の上野千鶴子は、フェミニズムはそもそも女性が「男なみ」の「強者」になることを目指したものではなく、「弱者は弱者のまま尊重される社会」をつくる思想だと述べている[9]。近代社会が想定する市民は「自律的」な主体を理想化され、その担い手はもっぱら男性と見なされてきた。しかし、男性が自律的な「強者」だと見なされたのは、もっぱらケアの役割を女性に押し付け、自らの依存を認めてこなかったからだ。老人や子供をケアする役割を押し付けられてきた女性もまた男性に依存せざるをえない「弱者」とされてきた。しかし、人間は幼い頃は他者に育てられ、老いれば介護なしには生きられなくなる。「わたしたち全ての者が無力な存在として生まれてくることは、否定しえない人間の条件」なのである[10]

当事者研究やフェミニズムは、新自由主義的な「自己責任」に親和的である自律的な強者にたいして、傷つきやすく他者に依存しなければ生きていけない弱者を対置するだけなのではない。傷つきやすく弱いものたちの「つながり」や「共助」を称揚することは、社会福祉の削減を掲げ、民営化を進める新自由主義にとって何ら抵抗とならない。むしろその民営化を推し進めるきっかけになってしまう。ではなく、これまで自明視されてきた「自律/依存」という対立を、「依存先の多さ/少なさ」と書き換え、価値転倒することによって、「弱者は弱者のまま尊重される社会」を生み出すことが目指されている、というべきである。

ところで、ジョセフ・ヒースは認知科学における「二重過程理論」の観点から現代人の肥満について次のように述べているが、熊谷晋一郎が依存症について述べたこととほぼ同じではないだろうか。

セルフコントロールを損なって、もっとたくさん食べさせようと、ありとあらゆる種類の認知バイアスを組織的に利用する環境に、私たちは生きている。残念ながら、与えられる伝統的な助言は、個人の意志の力をひたすら強調する傾向がある。セルフコントロールは「頭の中」のどこかにあるとの誤った考えに基づいたものだ。セルフコントロールされた人物とは、途方もない意志の力を行使する能力をもつ人だと見なされがちだが、実のところ、途方もない意志の力を行使する必要がないように生活を構成できる人のことだ。これは非常に紛らわしい。意志の力と見えるものは往々にして、実際にはその行使が求められる状況を避けることで、意志の力を節約するよう生活を整えた個人の巧みな試みの結果である。(ジョセフ・ヒース『啓蒙思想2.0』栗原百代訳、NTT出版、2014年、p.364)

ヒースは環境を整える試みとして、「認知バイアス」を利用し、正しい選択に誘導しようとする「リバタリアン・パターナリズム」(リチャード・セイラー、キャス・サスティーン)を評価している。

ところで、当事者研究が生まれた2000年代、批評は「ゼロ年代は東浩紀の一人勝ち」(佐々木敦)といわれた時代だった。その評価の当否はおくとして、2000年代にかけて東浩紀が「環境管理型権力」という概念を提起し、「アーキテクチャ」への注目を深めていったことは興味深い。というのも、熊谷晋一郎が綾屋紗月の自閉症スペクトラムの当事者研究を論じるなかで「綾屋の経験は、数多くの物のアフォーダンスに気づいてしまうということが、autonomyの感覚を失わせてしまう可能性」があり、「実際は多くに強制されているのにそれに気づかないときにautonomyを感じられるではないか」と指摘しながら、このような強制を忘れた「autonomy」として、マクドナルドといった飲食店が客の回転率を上げるために硬い椅子を設置するといった良く知られた「アーキテクチャ」のエピソードを紹介するからである[11]。もちろん、両者によってその力点は異なる。当事者研究において「身体」が、アーキテクチャ論において「テクノロジー」がその分析対象となった。しかし、「ゼロ年代」におけるアーキテクチャ論と当事者研究は「脳・身体・テクノロジーから成るマトリックス」という人間像をめぐる同時代的な現象ではないだろうか。そして、「環境管理型権力」=「セキュリティ」の語源がラテン語secura=se(なしで)+cura(care)であることを思い返すならば、フェミニズムや当事者研究は「ケア」を対置することによって、マイノリティによるヘゲモニー闘争を敢行したのかもしれない。

たとえば、自閉症スペクトラムの当事者研究をおこなう綾屋紗月は、身体の感覚や経験を事細かに記述することで、「コミュニケーション障害」と従来判断されてきた自閉症スペクトラムを「たくさんの身体感覚を次々と拾う」ために、「大量の身体感覚を絞り込み、あるひとつの〈身体の自己紹介〉をまとめ上げるまでの作業が、人よりゆっくりである」と捉え直した[12]。綾屋によれば、このような「私たちの身体特性を表す言葉」をうみだす「当事者研究」にくわえて、しばしば「暗黙の了解」とされる「多数派の身体特性をもった者同士が無自覚に作り上げている相互作用パターン」を分析する「ソーシャルマジョリティ研究」をおこなうことで、「どこまでが個人的に変化可能で責任を引き受けられる範囲で、どこからが社会の問題として変化を求めるべき課題なのか」[13]を区別し、当事者自身でさえ気づかなかった新たな対象法やニーズを発掘できる、としている。

私たちが文字を書くときは、手や指を動かす筋肉や神経をいちいち意識しないように、ペンにもほとんど意識を向けることはない。アンディ・クラークは、私たちの生活や行動にうまく適応したために「ほとんど見えなくなるような道具」のことを「透明なテクノロジー」と呼んでいる[14]。クラークが人間を「生まれながらのサイボーグ」と呼ぶ所以だが、しかし、道具、環境や身体が透明化されなかったとしたら、「物質的な脳、物質的な身体、そして複雑な文化的・技術的環境の間のループする相互作用」は十分に機能せず、しばしばそれは「障害」と意識されるだろう。アーキテクチャ論は「透明化」しがちな「文化的・技術的環境」をあらためて言語化することを目指したとすれば、当事者研究は「透明化」しなかった「物質的な身体」を言語化することで、マジョリティによって「透明化」されてしまう「文化的・技術的環境」をもあらためて問い直そうとしたものだった。

ところで、選挙への不信は当事者研究の側からも表明されていると思われる。依存症の当事者研究から着想をえた國分功一郎は、かつてのインド=ヨーロッパ語族には能動態と受動態ではなく、能動態と中動態の対立があったことを指摘している。能動と受動においては「する/される」が問題となるが、能動と中動では「主語が過程の外にあるか内にあるか」が問題となる[15]。注意すべきは、能動態と中動態の対立では「意志が前景化しない」ことである。つまり、ある行為を誰がおこなったのか、ということは重視されず、その行為の責任を問われることもない。たいして、「する/される」という能動態と受動態の対立では、行為者に意志があるとみなされ、行為の責任を問われることになる。しかし、いうまでもなく、現在の政治や法は人々に意志があり、その行為には責任があるという前提で成立している。そして、選挙もまた「自発的」な「意志」の表明とみなされている。

東京都小平市の道路建設に反対する住民運動にコミットした経験を踏まえてか、國分は「実際の投票行為ではなく、住民投票に至る過程」のほうに意義がある、と述べている[16]。住民がビラを受け取ったり、やりとりを重ねるなかで、おのずと世論が形成されることが「自発性に頼らない、能動性に頼らない、意志に頼らない、中動態的な政治のプロセス」[17]である、と。たしかに、小平市の住民運動では、建設の是非をめぐる住民投票はおこなわれたものの、既定の投票率に届かず不成立のため開票されなかったのだった。地域やつながりという「環境」であれば人々は合理的に振る舞えるが、しかし、「自発」的に「意志」することが求められる投票という「環境」においては……ということだろうか。

 

[1] 稲葉振一郎『「公共性」論』NTT出版、2008年、p.27

[2] スティーブン・ピンカー『21世紀の啓蒙(下)』橘明美ほか訳、草思社、2019年、p.287

[3] アンディ・クラーク『生まれながらのサイボーグ』呉羽真ほか訳、春秋社、2015年、p.17

[4] 同上p.39

[5] 同上p.40

[6] 石原浩二編『当事者研究の研究』医学書院、2013年

[7] 熊谷晋一郎「自己決定論、手足論、自立概念の行為論的検討」田島明子編『「存在を肯定する」作業療法へのまなざし』三輪書店、2014年、pp.24-27

[8]熊谷晋一郎「「当事者研究」の視点から見えてくる〈わたしらしさ〉のよりどころ」https://wired.jp/2020/03/20/hints-for-the-futurist-kumagaya/

[9] 上野千鶴子『生き延びるための思想 新版』岩波書店、2012年、p.359

[10] 岡野八代『フェミニズムの政治学』みすず書房、2012年、p.54

[11] 熊谷晋一郎「自己決定論、手足論、自立概念の行為論的検討」田島明子編『「存在を肯定する」作業療法へのまなざし』三輪書店、2014年、pp.27-32

[12] 綾屋紗月×熊谷晋一郎『発達障害当事者研究』医学書院、2008年、p.23

[13] 綾屋紗月×熊谷晋一郎『ソーシャルマジョリティ研究』金子書房、2018年、電子書籍版参照のため頁数割愛

[14] クラーク、前掲書、p.43

[15] 國分功一郎『中動態の世界』医学書院、2017年、p.97

[16] 國分功一郎『中動態の世界』医学書院、2017年、p.306

[17] 國分功一郎×千葉雅也「『中動態の世界』で考える」『幻冬舎plus』https://www.gentosha.jp/article/8414/?page=2

批評家。1988年生まれ。元出版社勤務。詩と批評『子午線』同人。論考に「谷川雁の原子力」(『現代詩手帖』2014年8-10月)「原子力の神―吉本隆明の宮沢賢治」(『メタポゾン』11)など。その他、『週刊読書人』や『現代ビジネス』などに寄稿。新刊『「差別はいけない」とみんないうけれど。』(平凡社)が発売中。twitter

第5回 大衆としてのネット右翼

左翼が本来持っていたダイナミズムが失われて久しい。いまや自壊した左翼は「大同団結」を唱え、そのための合言葉を探すだけの存在になってしまった。怠惰な団結をきれいに分離し、硬直した知性に見切りをつけ、横断的なつながりを模索すること。革命の精神を見失った左翼に代わって、別の左翼(オルタナレフト)を生み出すこと。それがヘイト、分断、格差にまみれた世界に生きる我々の急務ではないか。いま起きているあまたの政治的、思想的、社会的事象から、あたらしい左翼の可能性をさぐる連載評論。

「大衆の原像」という吉本隆明の図式はいまこそ有効である。フェミニズムや歴史修正主義において、知識人がいくら言葉を尽くしても理解をえられないのは、知のあり方が異なるからである。

日本では市民社会の考えが独自のかたちで受容され、「規範的理念としての「市民社会」」が成立したことは知られている[1]。吉本隆明にとって丸山真男はそのような理念を振り回す市民社会論者である。「〔丸山は〕すべての近代主義者とおなじように、「西欧」近代の文物がこの極限のイメージにかなうものとして無意識のうちに根拠となって」[2]おり、「日本の近代化の不足を批判するとき、ありもしない「彼岸」を想定して、駑馬〔どば〕の尻にムチをくわえている馭者の手つきに、類似してくるのはそのためである」[3]と述べている。そして、丸山における「常にそれ自体の生活者である大衆にたいする嫌悪」は「中和的なもの、あいまいなもの、論理により整序できないもの、感覚的なもの、本能的なもの」[4]への嫌悪としてあらわれている。

丸山は兵士として従軍したにもかかわらず、日本の大衆を把握することができなかったと吉本は批判する。吉本が語るのは、第二次世界大戦が終結した直後の「大衆」である。「暴動によって支配層をうちのめして、みずからの力で立つ」のでもなく、「支配層の「終戦」声明を尻目に、徹底的な抗戦を散発的に、ゲリラ的にすすめることによって、「終戦」を「敗戦」にまで転化する」こともない「大衆」である。

大衆は天皇の「終戦」宣言をうなだれて、あるいは嬉しそうにきき、兵士たちは、米軍から無抵抗に武装を解除されて、三三五五、あるいは集団で、あれはてた郷土へ帰って行った。よほどふて腐れたものでないかぎりは、背中にありったけの軍食料や医療をつめこんだ荷作りをかついで![5]

もちろん、大衆が政治に無関心であると言いたいわけではない。このときすでに吉本は1960年の安保闘争を通過しており、知識人の指導を超えて過激化する大衆を目撃している。のちに「愚民」や「B層」として呼ばれ、幾度も変奏される大衆のネガティブなイメージがすでに出揃っていることに注意しよう。デマやフェイクを信じて、とんでもない政権を支持する大衆。アメリカによる属国支配を受け入れ、永続敗戦を打ち破ろうとしない大衆。目先の話題ばかりに熱狂し、そしてなにもかもすぐに忘れてしまう大衆……。

さて、ここで興味深いのは、社会学者の伊藤昌亮が「ネット右翼」を分析するなかで、吉本隆明の「大衆」と「市民」の対立を参照していることだ。「ネット右翼」が複数の「クラスタ」と「アジェンダ」の複合物であることを指摘したうえで、次のように述べる。

「左翼」と「右翼」との、そして「知識人」と「大衆」とのこうした古くからの対立がこの時期、戦後的な枠組みに基づく左右対立の構図から解放され、一方でマルクス主義からリベラル市民主義へという流れのなかで、「市民」と「庶民」「常民」さらに「ネット常民」との対立としてあらためて立ち現れてきたのではないだろうか[6]

具体的に見てみよう。たとえば、小林よしのりや大月隆寛などの「サブカル保守」において重要だったのは、「庶民的・常民的な生のリアリティという観点」から「市民という概念そのものに疑義を突きつけていく」ことだった[7]。当初、それは薬害エイズ問題にコミットした小林よしのりにおいて「市民主義への自己批判という問題意識」程度のものにすぎなかったが、「リベラル市民主義そのものの、さらに戦後民主主義そのものの全否定」と展開していく[8]。その急速な「右旋回」のなかで「従軍慰安婦問題」や「歴史修正主義」というトピックが浮上した、というわけだ。

たしかに、アカデミズムやマスメディアといった「知的権威」にたいするネット右翼の「反権威主義」はある時期までの吉本隆明と共通するものだし、また「暴力的・破壊的で常識はずれの存在」としての「怪物」のイメージと「衝動的・情動的で単細胞の存在」としての「動物」のイメージが「ネット右翼」に与えられてきたことも、丸山真男の大衆への嫌悪を思い起こさせる。そして、伊藤は次のようにまとめている。「ネット右翼」は「戦後民主主義のなかで、そしてリベラル市民主義のなかで暗黙のうちに打ち捨てられてきた人々、疎外されてきた存在を代表しようとするもの」であり、彼らの運動とは「そうした人々によるリベラル市民主義への復讐のための共同作業だった」のではないか、と[9]

しかし、注意すべきなのは伊藤において「ネット右翼」は大衆それ自体ではないことだ。むしろ、「ネット右翼」とは吉本隆明である。正確にいうと、失敗した吉本主義者である。伊藤によれば、「ネット右翼」は、「リベラル市民主義」が大衆を欠いていることに反発し、自らの言説に「大衆の原像」をくりこもうとしたが、「大衆の原像」はその定義上把握できないために、あくまでも「原像」ならぬ「幻像」をつくりあげたとされる[10]

実際、ネット右派言説を通じて描き出されてきた「大衆の原像」の多くは、さまざまな思惑や思い込み、ルサンチマンや対抗意識などを通じて半ば恣意的に、それぞれの立場に都合よく作り上げられた「大衆の幻像」に過ぎなかったと言えるだろう。しかも「土俗的な言語」の性格上、「しばしば表現は、現実にある状態と逆立したり、屈折したりしてあらわれ」(吉本)るため、それらは微妙に捻じ曲げられたり、よじ曲げられたりして描き出されたものだった。さらにそれらの間のさまざまな相互作用と、そこから生じた複雑な化学反応の結果、より奇矯なもの、奇怪なもの、グロテスクなものが生み出されるに至る。その結果、ある種のモンスターとしての言説の体系がそこに作り上げられてしまった[11]

たしかに「ネット右翼」が描いた大衆は「幻想」だったかもしれない。とはいえ、第二次安倍政権の誕生によって、「嫌韓と排外主義」を除いた「ネット右翼」の言説が「体制側に取り込まれた」のだから[12]、「ある種のモンスターとしての言説の体系」は大衆の支持を獲得することに成功したともいえる。だが、伊藤のいうように、大衆と市民の対立が「日本社会にとってのより本源的な対立構造」[13]ではなく、日本特殊的なものではない普遍的な対立構造だとしたら、どうだろうか。

文化人類学者の木村忠正はYahoo!ニュースのコメント投稿を分析するなかで、ネット世論の特徴を「非マイノリティポリティクス」と呼んでいる。「「非マイノリティ」とは「マジョリティ」だが、「マジョリティ」が「マジョリティ」として十分な利益を享受していないと感じている人々」[14]であり、「生活保護」「ベビーカー」「少年法(未成年の保護)」「LGBT」「沖縄」「中韓」「障害者」といった「従来のリベラル的マイノリティポリティクスに対して強烈な批判的、嘲笑的視線を投げかけ、社会的少数派や弱者に対するいら立ちを強く表明したり、愉快犯的にからかう」[15]存在である。いうまでもなく、「ネット右翼」のことである。

木村の分析が興味深いのは、「嫌中、嫌韓、反日、抗日など、政治的態度は強い感情と深く結びついており」、デモや書き込みといった行動に人々を駆り立てるのは「理性よりもむしろ直感的情動と考えた方が適切である」[16]として、ジョナサン・ハイトの道徳基盤理論を援用していることだ。ハイトがあげる「ケア/気概」「公正/欺瞞」「自由/抑圧」「忠誠/背信」「権威/転覆」「神聖/堕落」という6つの道徳基盤のうち、アメリカの保守派は6つの基盤にまんべんなく依拠するが、リベラルは「ケア/気概」「公正/欺瞞」「自由/抑圧」の3つしか依拠しない。リベラル派が劣勢に立たされる原因は、ひとびとの道徳的直観に訴えかけることができないからだとされる。木村によれば、日本の「ネット右翼」もアメリカの保守派と同様の傾向を示している。

この分析からわかるのは、大衆とは、階級や属性、生活様式のことではなく、知そのもののあり方である、ということだ。大衆と市民が対立するのは、そこで異なる認知システムが働いているからだ。前回も言及したように、二重過程理論でいえば、大衆は直観的・情動的、非言語的で自動的な認知システム(システム1)にしたがい、市民は言語的・合理的な判断をおこなう認知システム(システム2)を重視する。そして、「ネット右翼」の言説が大衆の支持を得るために、その情動をかき立てることを目的とするならば、彼らの言説に根拠がなく、単なるフェイクであり、論理的整合性を欠いていると批判したところで、なんの効果もないことは明らかだ。フェミニズムや歴史修正主義の問題において知識人が「ネット論客」にたいして啓蒙を試みても、その多くが無残な結果に終わるのはこのためである。

経済学者の梶谷懐は中国の監視国家化を分析するなかで「私的な経済利益を追求する存在としての「ブルジョワ(bourgeois)」と、より抽象的な人倫的理念を追求する「シトワイヤン(citoyen)」との分裂をいかに克服するか、という古くて新しい問題群に直面している」[17]と述べている。くわえて、マルクスが市民社会において「公民(citoyen)は利己的な人間(homme)の召使だと宣言され〔…〕ついには公民(citoyen)としての人間ではなく、ブルジョア(bourgeois)としての人間が本来の真の人間だとされる」[18]と指摘していたことを考えれば、いまや人間(homme)はその生物学的な特徴をふくめて広くとらえ直されるべきだろう。かつて市民からは「感覚的なもの、本能的なもの」として捉えられた、大衆の非合理な行動も統計的に把握され、進化という観点から合理的に再解釈されるようになっている。「人間」として解剖された「大衆の原像」を利用して成立しつつあるのが、管理社会である。

中国で進む監視・管理社会化の分析のなかで、梶谷は次のような図を作成している。

★梶谷懐・高口康太『幸福な監視国家・中国』NHK新書、2019年、p.185より引用

まず下段には「ヒューリスティックベースの生活世界」[19]があり、中段には「議会や内閣、NGO」などの「メタ合理性ベースのシステム」[20]、上段には「AIが行う功利主義的な判断」といった「道具的合理性ベースのシステム」[21]がある。梶谷の意図を超えて手前勝手に読み解けば、図の上にいくほど、直観的・情動的、非言語的で自動的な認知システム(システム1)から、言語的・合理的な判断をおこなう認知システム(システム2)がベースとなることがわかる。つまり、「ネット右翼」としての大衆は「ヒューリスティックベースの生活世界」に依拠し、「市民的公共性」を重視するリベラルは「共感」という情動を糧にしつつも「ヒューリスティックベースの生活世界」に根ざす割合は少なくなり、功利主義にいたっては「大衆」の直観や情動に反する可能性が大きくなる。

もちろん、図ではそれぞれの合理性のレイヤーが干渉し合うことが理想とされている。しかし、いまや「ブルジョワ」と「シトワイヤン」の分裂が深刻化する。たしかに管理社会において「大衆」と「市民」の対立はひどくなるはずである。西洋近代社会において「人間」を「市民」として教育・啓蒙することが理想とされたが、管理社会において「規律・訓練」(フーコー)はそれほど重視されず、むしろ、バイアスを利用したコントロールが目指されるからである。その結果、「ヒューリスティックベースの生活世界」と「市民的公共性」の対立が、フェイクニュース、歴史修正主義、女性差別……というかたちであらわれることになる。たとえ「リベラル市民主義」が「ネット右翼」の問題を「市民主義への自己批判という問題意識」において自己反省し、「暗黙のうちに打ち捨てられてきた人々、疎外されてきた存在」をあらためて包摂したとしても、そう簡単に解決できないだろう。「大衆」と「市民」は知そのもののあり方によって分断されている。

[1] 植村邦彦『市民社会の系譜』平凡社新書(電子書籍版参照のため頁数は割愛)

[2] 吉本隆明「丸山真男論」『吉本隆明全著作集12』勁草書房、1972年、p.71

[3] 吉本、前掲書、p.72

[4] 吉本、前掲書、pp.76-77

[5] 吉本、前掲書、pp.19-20

[6] 伊藤昌亮『ネット右派の歴史社会学』青弓社、2019年、p.494

[7] 伊藤、前掲書、p.108

[8] 伊藤、前掲書、p.148

[9] 伊藤、前掲書、p.481

[10]伊藤、前掲書、pp.494-495

[11] 伊藤、前掲書、p.495

[12] 伊藤、前掲書、p.487

[13] 伊藤、前掲書、p.493

[14] 木村忠正『ハイブリッド・エスノグラフィー』新曜社、2018年pp.288-289

[15] 木村、前掲書、p.289

[16] 木村、前掲書、p.284

[17] 梶谷懐・高口康太『幸福な監視国家・中国』NHK新書、2019年、p.168

[18] マルクス「ユダヤ人問題に寄せて」『マルクスコレクション1』中山元ほか訳、筑摩書房、2005年、p.215

[19] 梶谷、高口、前掲書、p.184

[20] 梶谷、高口、前掲書、p.184

[21] 梶谷、高口、前掲書、p.183

批評家。1988年生まれ。元出版社勤務。詩と批評『子午線』同人。論考に「谷川雁の原子力」(『現代詩手帖』2014年8-10月)「原子力の神―吉本隆明の宮沢賢治」(『メタポゾン』11)など。その他、『週刊読書人』や『現代ビジネス』などに寄稿。新刊『「差別はいけない」とみんないうけれど。』(平凡社)が発売中。twitter