第2回 世界の終わりとすばらしい新世界

左翼が本来持っていたダイナミズムが失われて久しい。いまや自壊した左翼は「大同団結」を唱え、そのための合言葉を探すだけの存在になってしまった。怠惰な団結をきれいに分離し、硬直した知性に見切りをつけ、横断的なつながりを模索すること。革命の精神を見失った左翼に代わって、別の左翼(オルタナレフト)を生み出すこと。それがヘイト、分断、格差にまみれた世界に生きる我々の急務ではないか。いま起きているあまたの政治的、思想的、社会的事象から、あたらしい左翼の可能性をさぐる連載評論。

ニック・ランドとその教え子であるマーク・フィッシャーは、資本主義にたいして真逆の態度を取りながらも、「世界の終わり」という終末観を共有している。そして、新反動主義者らはその終末観を受け継ぎつつ、「世界の終わり」から「脱出Exit」することを思想的な課題としていた。たとえば、PayPalの創業者として知られるピーター・ティールは、「自由と民主主義はもはや両立しない」という考えのもと、リバタリアン的な「自由」を選択し、「世界の終わり」からの「脱出」先の候補として、シーステッドといった洋上人工都市や、税制が優遇されるニュージーランドを考えているようだ。しかし、万能感と無能感がしばしば反転するように、「世界の終わり」を煽るものは「外部」を安易に見出してしまうのではないか。

フランクフルト学派の記念碑的著作である『啓蒙の弁証法』で、アドルノとホルクハイマーは「プロパガンダ」と題した草稿の末尾に次のように書いている。

もちろん、疑わしいのは現実を地獄として描くことではない。そこからの脱出を勧めるありきたりの誘いが疑わしいのである。今日語りかけることのできる誰かがいるとすれば、それはいわゆる大衆でも無力な個人でもなくて、むしろ架空の証人であり、彼にわれわれは言い遺してゆく。われわれとともにすべてが無に帰してしまわないように[1]。(下線、引用者)

「脱出」という言葉の連想だけで、この文章を引用したのではない。アドルノやホルクハイマーもまた「世界の終わり」のもとで思想を形成したからである。

ドイツ哲学研究者の細見和之は、第一次世界大戦が終結した1918年に刊行されたシュペングラーの『西洋の没落』を「フランクフルト学派が成立した時代背景を示すもの」として紹介し、「西洋の文化・文明そのものが崩壊していく危機意識」[2]があったとしている。ここで興味深いのは、著述家の木澤佐登志もまた、ピーター・ティールの思想遍歴を紹介するなかで『西洋の没落』に言及していることだ。世紀末的な雰囲気を背景に国民国家の崩壊を説いた『主権ある個人』(ジェームズ・デビッドソン、ウィリアム・リース=モッグ、1997年)はティールの「生涯の愛読書のひとつ」であるらしいが、木澤はこれを「シュペングラーの『西洋の没落』をリバタリアン好みにアレンジしたもの」[3]と評している。

「西洋の没落」という主題はなんども変奏され、反復されてきた。その背景にはリベラル・デモクラシーの機能不全があることは明らかだろう。「自由と民主主義はもはや両立しない」と「自由にとって民主主義は悪である」という新反動主義者の昨今の発言はあげるまでもないし、リベラル・デモクラシーが自由主義と民主主義という異なる政治システムの混合物であり、両者が克服できない対立関係にあることを示したカール・シュミット『現代議会主義の精神的状況』は1923年に刊行された。『啓蒙の弁証法』でもシュミットと同じ認識が示される。メディア論の観点から電話とラジオを比較し、「電話の場合には、通話者はまだ主体の役割を自由主義的に演じている」のにたいして、「ラジオの場合には、すべての人は民主主義的に一律に聴衆と化し、放送局が流す代り映えのしない番組に、有無を言わせず引き渡されることになる」[4]と述べられる。ファシズムにおいてラジオが重要なメディアであったことは知られるとおりである。

フランクフルト学派と新反動主義者のちがいが最もあらわれるのは、「西洋の没落」=「世界の終わり」から見出される「外部」の扱いである。アメリカはその一部でありながら西洋の「外部」だとしばしばみなされてきた。新反動主義者らが依拠するリバタリアニズムが、「ジョージ・ワシントンやトーマス・ジェファーソンなどの「建国の父」たちまで遡ること」もできる「最もアメリカ的なイデオロギー」[5]と言われるのは、アメリカがあらゆる権力や権威が及ばない自由な「フロンティア」としてイメージされたからである。だが、「西洋の没落」=「世界の終わり」を前にして、ピーター・ティールらがアメリカ建国以来の「フロンティア」精神にのっとって、「外部」へと「脱出」を計画するのにたいして、ユダヤ系の出自をもつアドルノらは、ナチス台頭によってアメリカに亡命=「脱出」をせざるをえなかった。もちろん、彼らの背後には、スペイン国境で服毒自殺したヴァルター・ベンヤミンをはじめ、「脱出」できないままナチスの犠牲になった多数のユダヤ人が存在したわけである。

亡命者たちにとってアメリカは西洋の「外部」ではあったが、可能性にあふれた「フロンティア」では決してなかった。アドルノは、「ヨーロッパの破局」によって「知的亡命者」という新しいタイプの知識人が誕生したと指摘する[6]。「知的亡命者」たちが見たアメリカは、「パイオニアが精神的にも開拓し、それに照らして自己自身を刷新するつもりだった荒野」ではなく、「システムとして生全体を捉える文明」[7]であった。そして、アメリカにたいする「知的亡命者」の「狼狽の堆積」と「その合理化」[8]として、オルダス・ハクスリーの小説『すばらしい新世界』(1932)をあげている。

『すばらしい新世界』はアメリカをモデルとしている。作者のハクスリーは1925年に旅行記を執筆するために、インド、ビルマ、日本などを回り、アメリカを訪れた。そのときの「新鮮な印象」によって『すばらしい新世界』が執筆されたという[9]。「西洋の没落」=「世界の終わり」から描かれたアメリカが『すばらしい新世界』なのである。アドルノもまた『すばらしい新世界』を「パロディー化されたアメリカニズム」[10]と呼び、「ベンサム流の自由主義者と同様に、ハックスリーは最大多数者の最大幸福へと向かう発展を予測する。違うのは、ただそれが彼の気に入らないことだけである」[11]と指摘している。

『すばらしい新世界』で描かれる世界では、人工授精によって人類の繁殖がおこなわれ、胎児は誕生前に「アルファ」「ベータ」「デルタ」「エプシロン」と階級に振り分けられ、その階級に見合った知性や肉体を持つように科学的な操作を受ける。そして、誕生後は集団生活を営み、プロパガンダを徹底的に刷り込まれる。当局と異なる考えをもつことは禁じられ、精神的な動揺や不安を感じたときは「ゾーマ」という精神安定剤を服用する。このような人間の生に関与するテクノロジーを構想したことで、『すばらしい新世界』は現代の管理社会を予言したディストピア小説の傑作と評されてきた。

アドルノもまた「コンディショニング」という言葉に注目し、次のように述べる。「コンディショニング」は「生物学と行動心理学からアメリカの日常語に移された翻訳しにくい言葉」であり、もともとは「環境を任意に変化させること」「「諸条件」の制御によって特定の反射ないし振る舞い方を呼び起こすこと」[12]を意味したが、「生活条件を科学的にコントロールするあらゆるやり方」を指すようになった。そして、「コンディショニング」によって、「社会的圧力と強迫を、あらゆるプロテスタント的規範をはるかに超えて内面化し、自己獲得させること」が可能となり、「人間は自分がなすべきことを愛するのを断念するが、それでいて自分が断念したことすらも知らない」[13]状態になった、と。

『すばらしい新世界』の登場人物たちは、幼少期から就寝中にプロパガンダを繰り返し聴かされたために、反射的にプロパガンタを口にしてしまう。ここで描かれるのは、「規律・訓練」(ミシェル・フーコー)の究極的なあり方である。しかし、アドルノが指摘しているのは、むしろ「管理社会」(ジル・ドゥルーズ)だ。アドルノがアメリカに見た「システムとして生全体を捉える文明」とは、「自分が断念したことすらも知らない」ように、「環境を任意に変化させ」、「特定の反射ないし振る舞い方を呼び起こ」そうとするという点で、いま私たちが「アーキテクチュア」と呼ぶ権力にほかならない。アーキテクチュアとはある意味で最も成功したプロパガンダである。なぜなら、プロパガンダがもはやプロパガンタとして認識されず、私たちの日常や生活の一部になった状態だからだ。

アメリカは西洋の願望や不安が投影される「外部」であった。あらゆる権力から自由な「ユートピア」としてイメージされるいっぽうで、周囲の権力にさえ気づくことができない不自由な「ディストピア」として描かれる。万能感と無能感。ピーター・ティールがかつて「世界の終わり」からの「脱出」先とした「サイバースペース」も、アメリカ=「外部」をめぐる言説と同じ展開をたどっている。「サイバースペース」はあらゆる権力が及ばないリバタリアン的自由が実現可能な領域としてみなされた。東浩紀が指摘するように、1996年にジョン・ペリー・バーロウが発表した「サイバースペース独立宣言」からは、「情報技術というフロンティアに挑戦し、個人の自由を肯定するその姿は、彼ら自身には、むしろ、建国以来の伝統に忠実な「アメリカ的」存在に映っている」[14]ことが読み取れる。しかし、「特定のアーキテクチャを選べば、その条件下で可能な自由や競争しか実現されない」[15]という「環境管理型権力」によって、「サイバーリバタリアン」の理想はあっけなく裏切られた。ちなみに「情報自由論」の最終回でハクスリー『すばらしい新世界』が「「環境管理型」あるいは「生権力型」と呼ばれるポストモダンの権力の特徴をすでに見通していた」と言及されている[16]

「西洋の没落」=「世界の終わり」が変奏されるように、「外部」もまたその都度発見され、そして、ユートピア(万能感)とディストピア(無能感)のあいだで揺れ動く。実際、『すばらしい新世界』には、アメリカ以外の西洋の「外部」が投影されている。最初期の著作『アメリカの哲学』(1950)でハクスリーの神秘主義への転回を紹介し[17]、のちにハクスリー研究会にも所属した思想家の鶴見俊輔は、「『すばらしい新世界』は、第二次大戦後の高度成長下の日本によくあてはまる」[18]と述べている。注意すべきは、この指摘がバブル経済直前の1985年にされていることだ。そして、いまや『すばらしい新世界』は中国とともに言及される。中国経済学者の梶谷懐は、「芝麻信用」などの信用スコアの普及といった中国の監視社会化・管理社会化を指摘しつつ、「人々のより幸福な状態を求める欲望が、結果として監視と管理を強める方向に働いているという点では、現代中国で生じている現象と先進国で生じている現象、さらには『すばらしい新世界』のようなSF作品が暗示する未来像の間に本質的な違いはない」[19]と述べている。つまり、私たちは『すばらしき新世界』に世界資本主義の覇権国家を見出してしまうのだ。アメリカ、日本、中国といった西洋とは異なる政治体制や風俗習慣を持ちながら、西洋以上の高度な資本主義経済を達成した国家である。

資本主義にはいくつかの「外部」があるとされてきた。資本だけでは再生産できない人間や自然などである。マルクス経済学者の宇野弘蔵が「労働力商品化の無理」によって、資本主義が周期的な恐慌に陥ると定式化したことは知られている。しかし、長原豊は「労働力商品化の無理」が「通る」のが資本主義であると批判するように[20]、資本主義はみずからの危機を糧にして、その危機を乗り越えていくわけである。結局のところ、人間にしても自然にしても資本の「外部」でありながら、その内部に包摂された擬似的な「外部」にすぎないのかもしれない。左派は階級闘争やエコロジー運動などで、この「外部」に依拠するかたちで反資本主義闘争を組織してきたが、ニック・ランドはそのような擬似的な「外部」に飽きたらず、資本主義のまったきの「外部outside」をもとめたといえる。資本主義をさらに加速させることで、人間や自然をすべて食い尽くした果ての「世界の終わり」? しかし、その資本主義のまったきの「外部」が、西洋の不安と羨望を投影される「外部」へといつのまにかすり替わってしまう。

「資本主義によって世界を終わらせてしまえ」というニック・ランドが1998年に上海に移住し、すでに中国が「加速主義社会」に突入していると認識のもと、「親中国政府プロパガンダ」的な文章を発表したことは[21]、「西洋社会の不安や羨望が「中華」に投影された発想」[22]にすぎないと批判されている。これもまた「世界の終わり」の「外部」をめぐる「ユートピア」と「ディストピア」の反転のひとつだろう(ニック・ランドに影響を与えたとされる『ブレードランナー』(リドリー・スコット、1982)や『ニューロマンサー』(ウィリアム・ギブスン、1984)が異国情緒あふれる日本を舞台にしていたのは、この意味で興味深い)。もちろん、「ディストピア」としての中国を強調することでニック・ランドを批判することは簡単だが、アドルノはハクスリーを次のように批判している。

文明は文化の名の下に野蛮状態に入っている。ところが、ハックスリーはそこに敵対関係を幻視する代わりに、技術的理性の、自己の内に矛盾をもたない全体的主体のようなものを幻視し、それにふさわしく単純な全体的発展を幻視する[23]

「外部」をディストピアとして描くこともまた、投影のひとつにほかならない。では、アドルノがいう「敵対関係」をいまどこに引くことができるのか。先の引用文で梶谷が注意深く指摘したように、『すばらしき新世界』は異国の出来事なのではなく、目の前で進行中の出来事なのである。たしかに新反動主義者らは人種や男女間の生物学的特性を「啓蒙」しながら、その実「野蛮」に突き進んでいっている。

さて、『啓蒙の弁証法』はアメリカのカリフォルニアで執筆されたが、細見和之は先の引用文に「亡命者としての暗い意志」[24]を見てとっている。そして、『啓蒙の弁証法』とは「架空の証人」に宛てた「投瓶通信」(アドルノが好んで用いた比喩)ではないか、と指摘している[25]。たしかにそう読み込むことは十分に可能だろう。しかし、注意すべきなのは、語りかけるべき対象として、民主主義的な「大衆」も、自由主義的な「個人」も、ともに否定したうえでの、「架空の証人」に宛てた「投瓶通信」である、ということである。すでに自由主義にも民主主義にも希望は見失われている。

 

[1] ホルクハイマー、アドルノ「プロパガンダ」『啓蒙の弁証法』徳永恂訳、岩波文庫、p.526

[2] 細見和之『フランクフルト学派』中公新書、2014年、p.9

[3] 木澤佐登志『ニック・ランドと新反動主義――現代世界を覆う〈ダーク〉な思想』星海社新書、2019年、p.35

[4] 「文化産業――大衆欺瞞としての啓蒙」『啓蒙の弁証法』徳永恂訳、岩波文庫、p.254

[5] 渡辺靖『リバタリアニズム――アメリカを揺るがす自由至上主義』中公新書、2019年、p.21

[6] アドルノ「オルダス・ハックスリーとユートピア」『プリズメン』渡辺祐邦ほか訳、ちくま学芸文庫、p.137

[7] 同上、p.138

[8] 同上、p.138

[9] 「著作解題」『オルダス・ハクスリー――橋を架ける』片桐ユズル編、人文書院、1985年、p.203

[10] アドルノ「オルダス・ハックスリーとユートピア」『プリズメン』、p.140

[11] 同上、p.168

[12] 同上、p.141

[13] 同上、p.142

[14] 東浩紀「情報自由論第5回 サイバーリバタリアニズムの限界」『情報自由論

html version index』http://www.hajou.org/infoliberalism/5.html

[15] 同上

[16] 東浩紀「情報自由論第14回 不安のインフレスパイラル(後編)」『情報自由論

html version index』http://www.hajou.org/infoliberalism/14.html

[17] 鶴見俊輔「ハクスリー――非人間主義」『アメリカの哲学』講談社学術文庫、1986年、pp.265-281

[18] 鶴見俊輔「ハクスリーの日本文化」『オルダス・ハクスリー――橋を架ける』片桐ユズル編、人文書院、1985年、p.122

[19] 梶谷懐「中国の「監視社会化」を考える(5)──道具的合理性が暴走するとき」Newsweek、 https://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2019/02/post-11750.php

[20] 長原豊『われら瑕疵ある者たち──反「資本」論のために』青土社、2008年

[21] 水嶋一憲「中国の「爆速成長」に憧れる〈中華未来主義〉という奇怪な思想」『現代ビジネス』19年3月8日https://gendai.ismedia.jp/articles/-/60262?page=2

[22] 同上

[23] 「オルダス・ハックスリーとユートピア」『プリズメン』p.168

[24] 細見、前掲書、p.109

[25] 同上

批評家。1988年生まれ。元出版社勤務。詩と批評『子午線』同人。論考に「谷川雁の原子力」(『現代詩手帖』2014年8-10月)「原子力の神―吉本隆明の宮沢賢治」(『メタポゾン』11)など。その他、『週刊読書人』や『現代ビジネス』などに寄稿。新刊『「差別はいけない」とみんないうけれど。』(平凡社)が発売中。twitter

第1回 躁転したマーク・フィッシャーとしてのオルタナライト

左翼が本来持っていたダイナミズムが失われて久しい。いまや自壊した左翼は「大同団結」を唱え、そのための合言葉を探すだけの存在になってしまった。怠惰な団結をきれいに分離し、硬直した知性に見切りをつけ、横断的なつながりを模索すること。革命の精神を見失った左翼に代わって、別の左翼(オルタナレフト)を生み出すこと。それがヘイト、分断、格差にまみれた世界に生きる我々の急務ではないか。いま起きているあまたの政治的、思想的、社会的事象から、あたらしい左翼の可能性をさぐる連載評論。

「資本主義の終わりより、世界の終わりを想像する方がたやすい」[1]とマーク・フィッシャーは書いた。

いまや資本主義だけが唯一可能な政治・経済的制度だとみなされ、それに代わるオルタナティブは想像することすらできない。そのために深刻な無力感と文化・政治的な不毛さが広がり、わたしたちは「再帰的無能感」[2]に襲われている。うつ病をはじめとしたメンタルヘルスの蔓延は、資本主義が本質的に機能不全であることの証しである。左翼は資本主義そのものを撃たなければならない、というのが『資本主義リアリズム』で書かれたことだった。

しかし、「歴史の終わりというこの長くて暗い闇の時代を、絶好のチャンスとして捉えなければならない」[3]と語ったフィッシャーだったが、フィッシャーじしんもうつ病を患っており、2017年に自殺してしまった。フィッシャーが自殺した事実によって、「資本主義の終わりより、世界の終わりを想像する方がたやすい」という言葉がふたたび確かめられてしまった。再帰的無能感……。

『資本主義リアリズム』の翻訳は昨年刊行された。論壇時評でもあつかったが、実はそれほど感心はしなかった。しばしば指摘されるが、フィッシャーの主張の多くがスラヴォイ・ジジェクと重なっていたからである。とはいえ、自分よりやや年下のひとたちがつくった雑誌『Rhetorica#04』で『資本主義リアリズム』が大きく扱われていて[4]、ある種の時代の「気分」はつかんでいた、と思い直した。つい先日も、ミュージシャンで小説家の中原昌也が「泣いたよ。この居ごこちの悪さを、ここまで冷静に分析できる著者が、何故自殺せねばならなかったのか…」とツイートしているのが目に入った[5]

『資本主義リアリズム』はリーマンショック直後の2009年に刊行されている。しかし、西周研究者の石井雅巳が指摘するように[6]、リアルタイムで翻訳されたとしても、それほど反響はなかっただろう。日本も年越し派遣村など世界的な不況の影響を受けていたが、民主党の政権交代によって希望めいたものが語られていた時期だったからだ。政権交代を「革命」と呼んだ人もいたが、その結果は惨憺たるものだった。再帰的無能感……。

ところで、資本主義のオルタナティブを想像すらできないという無能感が、トランプ大統領を誕生させたのだとしたら、どうだろうか?

トランプ大統領の誕生でオルタナライトと呼ばれる集団に注目が集まったが、オルタナライトに影響をあたえた思想家にニック・ランドがいる。『ダークウェブ・アンダーグラウンド』の木澤佐登志はランドの「加速主義」について次のように紹介している。「加速主義」とは「資本主義のプロセスを際限なく加速させることで、あらゆる既存の体制や価値観を転倒させる技術的特異点=シンギュラリティを志向する思想」[7]である。しかし、シンギラリティ=特異点にいたったとしても、なにが起こるかは誰にもわからない。ランドによれば、「特異点の向こう側の「外部(outside)」から到来する「全き未知のもの」、それをただ受け容れ、歓待することしか我々にはできないのだ」[8]という。

資本主義の果てに黙示録的世界を待望するランドにたいして、フィッシャーは「際立って楽天的なものを提示している」[9]と批判している。フィッシャーの批判を敷衍すると次のようになるだろう。

ランドの思想はドゥルーズ=ガタリ『アンチ・オイディプス』を下敷きにしている。ドゥルーズ=ガタリは現代資本主義において「脱領土化」という「解体」のプロセスと、「再領土化」という「統合」のプロセスを指摘したが、「加速主義は、前者の脱領土化のプロセスのみを徹底的――「特異点」――に至るまで推し進めようとする」[10]

しかし、とフィッシャーはいう。ランドが想定する「脱領土化」だけの「「純粋」な資本主義」など存在するのだろうか[11]。ドゥルーズ=ガタリも脱領土化と再領土化の区別は不可能であり、同じひとつのプロセスの裏表のようなものなのである、と言っていたはずだ。ランドは資本主義によって国家など「反生産の装置」を解体しようとしているが、しかし、資本主義は国家とワンセットではじめて成立するシステムではなかったか、と。フィッシャーのランド批判はおおむね正しいように思う。

ところで「加速主義」は左翼にとっておなじみのものだ。たとえば、マルクスの『資本論』の次の一節は有名である。マルクスの勢いある筆致が翻訳でも感じられると思うので、少し長いが引用しよう。

この集中とならんで、すなわち少数の資本家による多数の資本家の収奪とならんで、ますます大規模となる労働過程の協業的形態、科学の意識的技術的応用、土地の計画的利用、共同的にのみ使用されうる労働手段への労働手段の転化、結合された社会的労働の生産手段として使用されることによるあらゆる生産手段の節約、世界市場網への世界各国民の組入れ、およびそれとともに資本主義体制の国際的性格が、発展する。この転形過程のあらゆる利益を横領し独占する大資本家の数の不断の減少とともに、窮乏、抑圧、隷従、堕落、搾取の度が増大するのであるが、また、たえず膨張しつつ資本主義的生産過程そのものの機構によって訓練され結集され組織される労働者階級の反抗も、増大する。資本独占は、それとともに、かつそれのもとで開花した生産様式の桎梏となる。生産手段の集中と労働の社会化とは、それらの資本主義的外被とは調和しえなくなる一点に到達する。外被は爆破される。資本主義的私有の最期を告げる鐘が鳴る。収奪者が収奪される[12]

資本主義を加速させれば、資本主義は終わることになる。ゴーン、と鐘が鳴るわけだ。マルクスの資本に対するアンビヴァレントな態度はドゥルーズ=ガタリにも受け継がれている。ドゥルーズ=ガタリもニーチェに倣って「過程を加速すること」[13]と述べていたし、ふたりの思想を紹介した浅田彰も「加速する資本主義への、鮮やかな褒め殺し」[14]をせざるをえなかった。しかし、マルクスが予言したように鐘は鳴らなかった。次に来たのは帝国主義の時代だった。国家をエージェントとすることで資本主義は延命したわけである。その意味で、ランドにたいして国家の問題を指摘したフィッシャーの批判は正しい。

だが、フィッシャーの批判にもかかわらず、最終的に自殺してしまったフィッシャーと、楽天的にアポカリプスを待望するランドは、同じコインの両面のように見える。フィッシャーはランドの教えを受けていたそうだが、資本主義に対する無能感が両者には共有されている。つまり、「資本主義の終わりより世界の終わりを想像する方がたやすい」とフィッシャーは述べるが、「ならば、資本主義によって世界を終わらせてしまえ」というのが、ニック・ランドではないだろうか。加速主義のイケイケドンドン感は「再帰的無能感」ならぬ「再帰的万能感」なのであり、ニック・ランドとは躁転したマーク・フィッシャーなのである。一時期はアンフェタミン中毒だったというランドは、思想的にもハイなのだ。しかし、「資本主義の最期を告げる鐘が鳴る」ことを信じられないランド的加速主義は、「世界の最期を告げる鐘が鳴る」ことを待望してしまう。オルタナライトには資本主義のオルタナティブを想像できない無能感が隠されているわけだ。

しかし、ランドが待望した「外部」は「脱出」として「矮小化」されているようだ[15]。ランドの影響を受けたとされるオルタナライトは世界が終わるまえにせっせと「脱出」を図っているらしい。PayPalの創業者のピーター・ティールは50万ドルを出資して、南太平洋に「シーステッド」という海上自治都市を構想する研究所をつくったという。2020年までに約1億6700万ドルをかけて300人分の住居やホテル、オフィスなどを建設する計画で、2050年頃までに独自の統治モデルを掲げるシーステッドを1000島ほどつくることを目指しているようだ[16]。しかもその研究所の所長は、新自由主義の経済学者として知られるミルトン・フリードマンの孫であるらしい。

「自由と民主主義はもはや両立しない」[17]というピーター・ティールの言葉ほど、オルタナライトの立場を象徴するものはないだろう。しかし、戦後民主主義(リベラル・デモクラシー)の夢を捨てきれず、「デフレ脱却手当」として月一万円をばらまーくというリベラルよりは[18]、オルタナライトの開き直った階級的な態度のほうが、左翼にとって学ぶべきことが多いのではないか。新反動主義者のカーティス・ヤーヴィンが言うように、「自由にとって民主主義は悪である」[19]ならば、その悪役を買って出るのが左翼というものだ。しょせん、オルタナライトがいう「自由」なんて富める者の「自由」でしかない。どうせ世界が終わっても貧乏人は「脱出」できはしないのだ。それがオルタナレフトとして正しい態度ではないか。もちろん、それは万能感と無能感から遠く離れて、である。

[1]マーク・フィッシャー『資本主義リアリズム』セバスチャン・ブロイほか訳、堀之内出版、2018年、p.10
[2]フィッシャー、前掲書、p.30
[3]フィッシャー、前掲書、p.198
[4]瀬下翔太ほか「生き延び(サバイブ)ってしまった一〇年」『Rhetorica#04 棲家 ver.0.0』、team:Rhetorica、2018年
[5]https://twitter.com/sexybboy_re/status/1092157273139363840
[6]石井雅巳、松本友也「私家版一〇年代文学部小史」『Rhetorica#04 棲家 ver.0.0』、pp.30-31
[7]木澤佐登志『ダークウェブ・アンダーグラウンド』イーストプレス、2019年、p.184
[8]木澤、前掲書、p.185
[9]フィッシャー、前掲書、pp.117
[10]木澤、前掲書、p.185
[11]フィッシャー、前掲書、pp.118
[12]カール・マルクス『資本論 第3巻』向坂逸郎訳、岩波文庫、1969年、pp.414-415
[13]ジル・ドゥルーズ+フェリックス・ガタリ『アンチ・オイディプス』市倉宏祐訳、河出書房新社、1986年、P.287
[14]千葉雅也『動きすぎてはいけない』河出書房新社、2013年、p.17
[15]木澤、前掲書、p.217
[16]渡辺靖『リバタリアニズム』中公新書、2019年、pp.24-29
[17]木澤、前掲書、p.197
[18]https://rosemark.jp/wp-content/uploads/2019/01/manifesto2019ver.1a.pdf
[19]木澤、前掲書、p.197

批評家。1988年生まれ。元出版社勤務。詩と批評『子午線』同人。論考に「谷川雁の原子力」(『現代詩手帖』2014年8-10月)「原子力の神―吉本隆明の宮沢賢治」(『メタポゾン』11)など。その他、『週刊読書人』や『現代ビジネス』などに寄稿。新刊『「差別はいけない」とみんないうけれど。』(平凡社)が発売中。twitter