第7回 京都:1976(1)

フリーランスのライター&インタビュアー、尹雄大さんによる、土地と記憶を巡る紀行文。

すでに失ってしまったもの、もうすぐ失われるもの、これから生まれるもの。人は、移動しながら生きている。そして、その局面のあちこちで、そうした消滅と誕生に出会い続ける。また、それが歴史というものなのかもしれない。

私たちは近代化(メディア化)によって与えられた、共通イメージの「日本」を現実として過ごしている。しかし、それが覆い切れなかった“日本”がどこかにある。いや、僕らがこれまで営んできた生活の中に“日本”があったはずだ。神戸、京都、大阪、東京、福岡、熊本、鹿児島、沖縄、そして北海道。土地に眠る記憶を掘り起こし、そこに住まう人々の息づかいを感じ、イメージの裂け目から生まれてくるものを再発見する旅へ。

 

清水寺の貫主に取材するため何度か京都を訪れていたことがある。仕事の後は、いつもそそくさと東京に戻っていた。最後のインタビューを終えた日はちょうど昼どきだったこともあり、好物のニシン蕎麦を食べて帰ることにした。
 関西で麺と言えばあくまで饂飩が主役であり、蕎麦のレベルは関東ほど高くはないというのが20数年東京に住んでの感想だ。
 ただし、ニシン蕎麦だけはやはり関西だろうという思い込みがある。しかも発祥の地、京都に来たのであれば、あの甘辛く煮たニシンと出汁とが一体となった蕎麦を味わわずに帰るのはもったいない。店を求めてタクシーで河原町まで出ることにした。

車窓から町を眺めつつ改めて気づいたのは、京都のランドマークである清水寺から見て繁華街はどの方角で、どれくらい離れているかについて自分がまるで把握していないことだった。我ながら不思議だった。
 両親ともに京都出身であり、祖父母を筆頭に親戚一同も住んでいるため、盆と正月には必ず訪れる。また神戸から気軽に足を伸ばせるため、紅葉狩りに寺社巡りと行楽に訪れる機会も多かった。それにもかかわらず、一向に「勝手知ったる」とはならない。
 思えば洛中の移動は車がほとんどで、いつも人と車でごった返す街の様子を書き割りのように眺めているうちに目的地に着いた。自分なりのマーキングをしなかったせいで、町の様相を直感で把握しづらくなっているのかもしれない。

タクシーを降り、目星をつけた店に向かう。足で歩き、目の高さで町を捉え始めた途端に方向感覚がうまく働かなくなるのは、都心に来た際に起きるいつものことだ。いま自分がどこにいるのかわからなくなり、ナビにガイドされても感覚のズレは埋められないままで居心地の悪さを感じる。ただ奇妙なことに洛中を離れるとその違和感は薄くなる。
 
 近代以前に完璧に都市化された町は方形をしており、街路は碁盤の目に走っているのだから、これほど容易に地理を把握しやすい土地もないはずだ。
「四条大橋東入ル」や「大和大路四条上ル」といった古都の表記に馴染みがなく、これを空間に置き直して把握できないせいもあるかもしれない。番地のようなすらりとした数の羅列に合理性を覚える感性を育んだ身からは、洛中に限って用いられる記号に過剰さを覚え、つっかえてしまうのだ。

決まって不調に陥る訳について自分にそう言い聞かせはしても、「果たしてそれだけだろうか」と疑ってしまうのは、目的地に進んでいても自分の歩みは見当違いな方角に向いているという感覚が抜きがたくあるからだ。この生理的な反応は土地に不慣れだからではなく、「慣れてはいけない」という懐疑から生じているのではないか。そう思わざるを得ないような胸騒ぎを伴っている。すきっ腹からの催促と胸のつかえを覚え、歩みは不信感に満ちても、ナビの案内は正確に目当ての蕎麦屋に導いてくれた。

暖簾をくぐり、ニシン蕎麦を注文する。店内のテレビにしばらく見入っていると、八十路と思しき着物姿の女性が店に入って来て、同じくニシン蕎麦を頼んだ。胸元のくつろぎ具合からして普段から着物を着ていると伺えた。艶めいた雰囲気に花柳界に関わる人だろうかとあれこれ想像しているうちに、こちらの前にも蕎麦がコトリと置かれた。ニシンの甘露煮を半ば食べた頃合いで、老女も運ばれた蕎麦をすすり始める。
 蕎麦を食べ終え、茶を飲んで一服していると老女はつと箸を止め、長らく勤めていると思しき貫禄を漂わせる年配の女性店員の、そのテレビに向けた顔の横あいから話しかけた。

「このお店もずいぶん変わりはりましたな」
店員はスッと向き直ると顔色ひとつ変えず「そうですかぁ?」とすぐさま返した。

きな臭さの予兆もなく、そこに高度な神経戦の火蓋が切られていた。老女の言葉のうちに「味が落ちてまずくなった」という意図は見え見えではあっても、「変わった」という言葉自体には良いも悪いもない。だから、それに対し「まずくなったと言うことですか」と、今時のコミュニケーションで重視される言葉の意味を確認するような「お気に召しませんでしたか?」といった正攻法で迫れば、「そないなことは言うてまへんえ」と返されるのが落ちだ。そこには罠が潜んでいる。しかし、店員はとぼけることで間合いを外した。

老女の老練さをうかがわせる仕掛け方と店員の電光石火のあしらいに感心した。と同時に21世紀にもなって、いまだに飽きもせずこういうコミュニケーションが行われていることに驚きもした。
 両者とも互いの本音はわかっている。だが、それはあくまでも裏のことであり、表にはおくびにも出さない。
 明確に意味を手繰り寄せることを拒む言葉のやりとりを「文化」と名付ることはできても、真摯さに欠いているように思えてならない。自分はそんな空気を共有したくはなかった。成り行きの一切を見届ける前に帳場で勘定を済ませると、「おおきに」という件の店員の声を背に受け、そそくさと店を後にした。

意味があることを言いながら、それをぼかして意味がないかのような外見を装う。意味がないわけではないのは、それを無視して踏み込んだ途端、目に見えない壁が立ちはだかるからで、その按配がわからないのは「もっさい」「どんくさい」ということになる。そういうところに京都ならではの粘着した煩わしさを感じる。
 そうして京都に抱く違和感の正体について思案しているうちに、なぜ洛外では方向感覚の狂いが薄まるのかわかった。何事も明白にはしないが、やりとりされている内容は暗黙のうちに明らかであるといった、煩瑣な文化の束縛が緩くなるからだ。
 それは一方で化外[けがい]の地と目される視線を受け止めることでもあると気づくと、にわかに脳裏に鮮やかに蘇ったのは、小学生時分、母方の祖父の家を訪ねた際、タクシーに目的地まで行くのを拒否されたことだった。

祖父はAという町で大手電機メーカーの下請けの工場を経営していた。羽振りが良かったと見え、フォード・マスタングを乗り回すような派手好きな人だった。Aは工場とくすんだ壁を見せる公団住宅が立ち並び、全体が灰色がかっていた。道路は広いものの窪みがところどころに残り、雨が降れば水溜りはしつこく残った。後年、Aは「竹田の子守唄」の元唄に登場すると知った。

冬のある日、太秦に屋敷を構える叔母と従姉妹、母とともに祖父の住むAを訪ねることになった。叔母も祖父に似て華美を好む人で、いつもは彼女の運転するベンツで出かけるところ、事情があってかタクシーを利用することになった。
「Aまでお願いします」と運転手に声をかけた後は、おしゃべり好きな叔母のリードで4人が乗り込んだ狭い車内もそうとは感じないままに過ごし、車が大通りから街区に入る道にハンドルを切り、もうしばらくで着くと思った途端、運転手は路肩に車を止めた。「これ以上、行きたくないからここで降りてくれ」とぞんざいな口の利き方で、悪びれることもなく言い放った。予想もしなかった言い様に不意の平手打ちを見舞われたような格好となった。あまりの有無を言わせぬ彼の口ぶりに、最前まで花を咲かせていた話は接ぎ穂を見つけられず、興ざめの雰囲気の中に置き去りにされた。

手をあげても素通りされるといった、乗車拒否をされることはあっても、告げた場所まで行きたくないと言われたのは初めてのことだった。叔母と母は顔を見合わせたものの仕方ないとでもいうように頷き、黙って運転手に金を払った。
 タクシーはUターンしていった。それは早々にここから離れたい気持ちの表れのようにも見え、走り去る車を目の端に置きながら、私は叔母と母に交互に「なんでタクシー降りないといけないの?」と尋ねた。

「降りてくれ」と言った時の後部座席から見た運転手の横顔を思い出せば、理由は聞くまでもないことだった。ただ「あの人はここを嫌いなのだ」とはわかっても、なぜそうまでして忌々しげな表情を隠すこともなく、この町のことを見るのかわからなかった。
 子供に説明するには、込み入った事情があるのだという雰囲気を察してか、従姉妹は「あの人、いけずや」と言い、その言葉を待っていたかのように叔母は祖父の家に向けて歩き出した。ヒールの音が閑散とした界隈に響いた。
 少し遅れてついていったのは、心がまだタクシーの去った場所に残っていたからだろう。いまだ毛皮を着ることが非難めいた目で見られることもなかった時代ではあっても、叔母の格好は明らかにこの町で浮いていた。
 
 神戸で体得した「川の向こう」と同じ問題が京都にもあるのだと知った。タクシー運転手の反応からわかる通り、地図に記されることのない化外と都を分ける切れ目は不文律でありながら明確でもあった。
 あちらとこちらについて、嗜みの上から誰もはっきりとは言わない。ただ何とはなしに了解されているのは、「千年の都」や「雅な風情」という文言を疑いもせず、それを文化や誇りの源泉として扱う人の手際が「明確に意味を手繰り寄せることを拒む言葉のやりとり」を行う暮らしの中で育まれ、洗練されてもいるからだ。
 境界は無形ではあっても確かに存在する。だから、それを踏み越えるとたちまち「ここで降りてくれ」と、あちらに追いやられる。
 いつしか京都を旧蹟や由緒、伝統から測るのではなく、こちらの在所を超えた先の向こうに見える風景として捉えるようになった。私が洛中に感じる生理的な相容れなさは、これらの体験と深く関わっている。

さらに長じて気づいたのは、古都の優美とされる文化はある不在を前提に成り立っていることだった。生まれながらにして貴い「人ならぬ人」が京都の中心にいたのならば、その周縁には生まれながらにして賤しい「人とされぬ人」が配置されたということだ。思えば半島から流れ着いた一族も京都の化外の地から生活を始めたのだった。

Profile

1970年4月16日生まれ。フリーランサーのインタビュアー&ライター。これまでに生物学者の池田清彦氏、漫才師の千原Jr氏、脳科学者の茂木健一郎氏や作家の川上弘美氏、保坂和志氏、ダンサーの田中泯氏、ミュージシャンの七尾旅人氏、川本真琴氏、大川興業の大川豊総裁、元ジャイアンツの桑田真澄氏など学術研究者や文化人、アーティスト、アスリート、ヤクザに政治家など、約800人にインタビューを行って来た。著作に『体の知性を取り戻す』(講談社現代新書)、『やわらかな言葉と体のレッスン』(春秋社)など多数。

第6回 神戸:1975(5)

フリーランスのライター&インタビュアー、尹雄大さんによる、土地と記憶を巡る紀行文。

すでに失ってしまったもの、もうすぐ失われるもの、これから生まれるもの。人は、移動しながら生きている。そして、その局面のあちこちで、そうした消滅と誕生に出会い続ける。また、それが歴史というものなのかもしれない。

私たちは近代化(メディア化)によって与えられた、共通イメージの「日本」を現実として過ごしている。しかし、それが覆い切れなかった“日本”がどこかにある。いや、僕らがこれまで営んできた生活の中に“日本”があったはずだ。神戸、京都、大阪、東京、福岡、熊本、鹿児島、沖縄、そして北海道。土地に眠る記憶を掘り起こし、そこに住まう人々の息づかいを感じ、イメージの裂け目から生まれてくるものを再発見する旅へ。

 

神戸を離れて随分経つ。
 その間、北海道から先島諸島まであちらこちらをめぐった。そのうち気づいたのは、私が何かを感じるにあたっての規矩[きく]が身のうちに備わっていることだった。すっきりと晴れ渡らない冬空や起伏の乏しい平野、周囲ぐるりを山に囲まれている盆地にいると、どうも不穏な心持ちになる。なだらかな坂はありつつも、海に向けて開けた地形と瀬戸内の気候はやはりしっくり来る。

 

感性は、草木と同じくいつのまにか萌え出ずる。意図して芽生えさせるものではなく、根本は生まれた土地によって養われる。そこで話される言葉、食べられるもの、生きる人との関わりも含めた地力がその人の感覚の経験を可能にする。
 そう思うと、アイデンティティをわざわざ口にしなくてはならないのは、とても不幸なことだ。私好みの伝統や歴史、文化を取り上げ、それを身につけることで何者かになろうとする。その試みは、感性を育てる根が暮らしの中から失われたのだと自ら告白するのに他ならない。
 今はなくなってしまったものを概念として取り返すことがアイデンティティの確立であるならば、それを求め、しっかりさせようとするほどに、実際は己の立つ拠り所のなさを知ることになる。

その空疎な感覚を「神戸ブランド」という文言を目にするたびに味わう。プリンに餃子にチョコレートとわざわざ神戸の名を冠した商品を見かける機会も帰省のごとに増えた。そのような自己言及がいつから始まったのかと振り返ると、少なくとも私が神戸に住んでいた1990年代初頭までは、プリンにまで「神戸」を騙らせることはなかったはずだ。
 とはいえ、その時代、何も人々の品がことさら良かったわけではない。ただ金銭に余裕があると、人も街もアイデンティティについてわざわざ考えることに関心を払わないのだ。その頃は世に言うバブル経済の絶頂期だった。

 

神戸市民に限らず、多くの人々の興味を引いたのは、活況という名の乱痴気騒ぎがもたらす蜜の分け前に預かることだった。家業について言えば、菓子業界も好況でケーキと名がつけばともかく売れた。クリスマスやバレンタインともなれば高いものでも飛ぶように売れた。
 思い返すだに苦々しさを感じるのは、毎日のようにかかってくる証券会社からの電話であり、郵便ポストに投げ込まれたゴルフ会員権の案内だ。世の流れに逆らうことなく、父は株とゴルフ会員権、それに土地を買った。
 当時、私は三宮の繁華街にある居酒屋でバイトをしていた。働き始めて驚いたのは、店の提供する食べ物や飲み物の料金と見合わない質の低さだった。他店で働いていた人によれば、どこも似たようないい加減なものだと言う。
 味わうに足るものではないと客もわかっていたのか。食べ散らして残された料理は多く、それでいて学生であってもひとり5,000円程度支払うことはざらだった。
 アルコールでしまりのない表情をした大人たちや一気飲みではしゃぐ学生を見るにつけ、「こんな浮かれた時代が長く続くはずがない。偽りの快楽だけを求める世など滅びればよい」と世間の体たらくに呪いを浴びせていた。
 右肩上がりの暮らしはこれからも続くというまるで根拠のない未来を誰もが信じていた。ともかく普通に働いておれば、物質的に憂いのない暮らしができる。そんな一本調子の音色しか奏でない人生が標準であるかのような考えがさほど疑われもしなかった。

街にいると社会の寸法はあらかじめ決まっていて、そこには新鮮な空気が流れない、息詰まる感覚を覚えた。けれども、柔らかい陽光が木々を照らし、緑を含んだ六甲からの風が街中を抜けていくのをふと感じるとき、わずかでも土地の呼吸と同調できたような気がして、人工物に囲まれながらも気持ちが活性した。
 しかし、なんのために金銭を求めているかわからない狂騒が辺りを浸すにつれ、誰もが気づかないうちに少しずつ街から気力が失われていった。活況はあっても、それは作り物の木偶[でく]の演じる賑やかしさにも似ていた。

 

神戸には近代以前の遺構は少ない。影も形もない福原の都をはじめ、一ノ谷の戦いで死んだ平敦盛の悲話。湊川の戦いで敗れた楠木正成と、栄耀栄華は続かないことにまつわる逸話は多い。それらの無形の記憶は土地に宿っているはずだと思っていた。
 伏流[ふくりゅう]している時間の連なりから見ると、現世の振る舞いがことごとく愚かに感じた。そう言ったところで、それはまず己に対する呪詛でもあったのは、親の経済力ひいては神戸の活況のおかげで自分も贅沢な暮らしができているからであった。この浮薄な時代に加勢していることになおさら苛立ちは募った。
 自活する能力はないものの、何もかもがデタラメに見えてしまう。生きて行く上で本当のことが隠されているという思いは強かった。

遅くやってきた思春期は、自分が何者であり、何ができるのか。その答えを早急に求めていた。アイデンティティを確固とすることを願うあまり、海外放浪という使い古された手近な解決策をとることにした。行き先はこれまたインドという定番ぶりだ。
 海の向こうに行けばなんとかなるのではないか。その期待の根っこには死なない程度の穏当な、冒険めいたスリルの体験によって生まれ変わりたいという、非常に都合のいい考えがあった。
 幸い、その望みは叶うことはなかった。パキスタン国境の紛争に巻き込まれ、次いで警察に脅迫され、挙げ句の果てには髄膜炎で入院するといった、アイデンティティを求めての彷徨どころではない右往左往の珍道中に旅は終始したからだ。

ただし、インドに旅してよかったことがひとつある。アイデンティティの確立に答えを求めなくなったことだ。私は出国の際、保険に加入しなかったため、10日あまりの入院費用として日本円で15万程度請求された。大金の持ち合わせはなく、親に用立てて貰う必要があった。国際電話をかけられる電話局は病院からは遠い。ベッドから起き上がるにも難儀し、サンダルの重さで足が前へ進まない衰弱ぶりだった。そんな体で局にたどり着き、実家に電話をして窮状を話した。
 父の第一声はこうだった。
「それどころではない。株価の暴落で家が差し押さえられるかもしれない」。

なんとも絶妙のタイミングで電話をしたものだと感心のあまり、以後の父の話はまるで覚えていない。
その日は我が家が迎えたバブル崩壊の日だった。
 記憶に今なお鮮やかなのは、電話局を出たすぐ後に目に映った、やたらと青く澄んだデリーの空だ。インドを旅している間、曇天であれ快晴であれ不安や焦慮は常に心を覆っていた。しかし、あの青を見上げた時、そうした憂鬱な気持ちは一挙に吹き飛んでいた。
 自分や家族がのっぴきならないところにいるのはわかっていても、「それ見たことか」という言葉が口を吐いて出るのをやめられない。やはり現世のことは「ひとえに風の前の塵」なのだと思うと無性に楽しくなり、足取りも快活になった。この日を境に憑き物が落ちたようにアイデンティティなど求めなくなった。

「何者であるか」など構築するものではない。何者であるかを決定するのは、それについてあれこれ考える私の意識の外にある。
 特別に装われた出来事や羽目を外したお祭り騒ぎでもなく、生まれてこの方いつものように見ている景色、馴染みの人とのいつも交わす会話、ありふれたなんの変哲もないが故に名付けられない何か。
 つまりは現に私の生きている土地にまつわるあらゆる平常さが何者であるかの証しだてなのだ。だがしかし、そのことが身に染みたのは、ありふれた光景が私の知る神戸から消え去った後だった。

 

インド放浪から4年後、私は上京し、テレビ制作会社で働いていた。
徹夜明けにオフィスでニュースをぼんやり見ていると、そこに映し出されたのは、白煙に包まれている見慣れた場だった。1995年1月17日、神戸を大地震が襲った。
 実家に電話をかけてもまったく繋がらない。翌朝、京都までは新幹線が運行していることがわかり、飛び乗った。そこから阪急線で神戸に向かったが、西宮北口から向こうの線路は飴のように曲がりくねっており、それ以上進むことはできなかった。午後3時頃、岡本までの10キロあまりを国道2号線沿いに歩き始めた。幹線道路沿いの家は捩れ潰れ、臓物を撒き散らすように家財道具や瓦を吐き出し、ことごとく倒壊していた。
 冬とはいえ日没にはまだ早い。けれども西の空を赤黒い煙が覆い、天空の半ばが暗く閉ざされていた。ザクロの実が爆ぜるような格好で破裂し、土を覗かせたアスファルトは救急車と消防車の行く手を阻み、けたたましいサイレン音は虚しく鳴り響いていた。その耳をつんざく音にも避難者は眉根をひそめることはなく、また一言も話すこともなく、私とは反対の東を目指し、表情の見えない顔つきで黙々と歩いていた。万を数える人の足の運びが埃と灰を舞わせ、鼻をついた。不吉で不穏な臭いがした。
 麓でこの惨状なら山頂にある実家は山崩れでとてもダメだろうと家族の死を想った。どんな結果も素直に受け入れられそうな気がした。が、案に相違して家族は無傷だった。
 その夜、まんじりともせず眼下の町のあちらこちらに火柱が立つ様を見た。いっこうに消火される様子もない炎の広がりを、ただじっと見ていた。

今はもう聞かれることもなくなったが、震災直後は被害の実情について尋ねられることが多かった。聞かれても 「警官は道路をバイクが逆走しても何もいわなかった。あれはいつから注意するようになったのだろう」 「大阪に食料の買い出しにいったら、震災募金を迫られた」 「東京での暮らしは貧乏だったので救援物資のおかげで太った」 といった、茶化す話しかしなかった。
 定型の「お話」にするのがいやだったのだ。相手の聞きたいことに呼応したくなかったのもさることながら、 自分の中にあるノスタルジーを明らかにしたくなかったのだろう。

震災後、「がんばろうKOBE」の掛け声とともに神戸は再生に向けて歩んで来た。10年も経つと、あれほどコンクリートの建物が倒壊した体験があるにもかかわらず、タワーマンションが建ち並ぶようになった。再開発された街にチェーン店が軒を並べるようになり、どこかで見たようなキラキラしたセレクトショップが増えるごとに、どうにも場末の匂いが漂うようになった。
 その時節から「神戸ブランド」という自己言及が盛んに行われるようになったと睨んでいる。

かつては地元に根ざした喫茶店とケーキ屋、パン屋がやたらとあった。そうしたありふれた光景が実は、私の情感を育ててくれていたのだ。バブル期と震災を経て、大半は一掃された。
 記憶の源泉を断たれることがこれほど辛いものだとはそれまで知らなかった。体の一部がもがれる感覚を味わったとき、はじめて故郷を失った祖父母の世代の痛みがわかったような気がした。
 同時に、人は覚えた痛みを忘れるため、理想のアイデンティティを伝統や歴史、国や民族に託してしまえることも知った。それがどれだけいびつな虚像であってもいい。贋物であっても本当らしくありさえすればいいのだ。

 

戦前の阪神間モダニズムと戦後の高度経済成長での伸長により、神戸は繁栄を謳歌してきた。それを「コンテンツ」扱いしたところで、もう賞味期限の切れた、追憶としてしか語られない物語なのだ。愛着は過去へのこだわりにすり替わり、かつての栄華がブランドイメージとして宣布される。しかしこだわるべきものが今はもう存在しない。

神戸に帰るたびに侘しい思いをする。風を運んでいた見慣れた山は削られ、建売住宅が空気の通り道を塞いだ。
 故郷の風景がすっかり変貌したことに耐え難い気持ちになる。神戸が必死に喧伝する己の姿は、もう私の知っているそれではない。
 けれども郷愁にかられそうになる時、私の違和感や寂しさの出どころは、かつてはあったが、今はもうなくなってしまったものへの執着だと知る。私は自分の弱さに気づかされる。そして、中世フランスの神秘主義思想家サン=ヴィクトールのユーグの言葉を思い出すのだ。

「世界のあらゆる場所を故郷と思えるようになった人間はそれなりの人物である。だが、それにもまして完璧なのは、全世界のいたるところが異郷であると悟った人間なのである」

Profile

1970年4月16日生まれ。フリーランサーのインタビュアー&ライター。これまでに生物学者の池田清彦氏、漫才師の千原Jr氏、脳科学者の茂木健一郎氏や作家の川上弘美氏、保坂和志氏、ダンサーの田中泯氏、ミュージシャンの七尾旅人氏、川本真琴氏、大川興業の大川豊総裁、元ジャイアンツの桑田真澄氏など学術研究者や文化人、アーティスト、アスリート、ヤクザに政治家など、約800人にインタビューを行って来た。著作に『体の知性を取り戻す』(講談社現代新書)、『やわらかな言葉と体のレッスン』(春秋社)など多数。