第5回 神戸:1975(4) コスモポリタン

フリーランスのライター&インタビュアー、尹雄大さんによる、土地と記憶を巡る紀行文。

すでに失ってしまったもの、もうすぐ失われるもの、これから生まれるもの。人は、移動しながら生きている。そして、その局面のあちこちで、そうした消滅と誕生に出会い続ける。また、それが歴史というものなのかもしれない。

私たちは近代化(メディア化)によって与えられた、共通イメージの「日本」を現実として過ごしている。しかし、それが覆い切れなかった“日本”がどこかにある。いや、僕らがこれまで営んできた生活の中に“日本”があったはずだ。神戸、京都、大阪、東京、福岡、熊本、鹿児島、沖縄、そして北海道。土地に眠る記憶を掘り起こし、そこに住まう人々の息づかいを感じ、イメージの裂け目から生まれてくるものを再発見する旅へ。

 

 岡本の後背にある山頂近く、戦中は高射砲が据えられていたという切り立った崖のそばに新宅は建てられた。

山を崩し整地した結果、補強のコンクリート壁の高さが10メートル近くになり、周囲に威圧感を与えていた。岩を積み上げた階段の先の、銅を拭いた屋根をいただく檜の門を押し開け、さらに階段を進むと高さ2メートルくらいの木の扉が待ち構える。家屋は太い梁の通った、木造の二階建てで外観はあくまでも和風だ。屋根は門扉と同様、瓦と銅板で葺かれていた。

 

重い扉を開けると大きな石を敷き詰めた玄関が広がる。脇にはイタリア製のベンチのようなシューズボックスが置かれ、吹き抜けの天井にはフランスから取り寄せたという2メートルほどのシャンデリアが吊り下げられていた。

客間にロココ調のソファが置かれるなど、外観と異なり内装はヨーロッパ風ですべて整えたと思いきや、間仕切りの分厚い引き戸を開けるとそこは15畳くらいの和室になっていた。父は天井が数寄屋造にみられるような、船底天井であることを自慢気に語った。和室は他にもう一部屋あり、掘りごたつがしつらえられていた。

私に与えられた二階の部屋からは眼下に町並みと海を一望できた。据付のクローゼットと書棚といった建具も立派なもので、父が贅を尽くして家を建てたことはわかった。和風モダンというよりも煮詰め方の足りない和洋折衷で、立派なつくりであるとわかっても、なんとなく落ち着かない心地がした。

 

阪神間モダニズムを牽引した阪急電鉄の経営者、小林一三が初期に売り出した住宅は洋館で、完全に欧米調に造作されていた。さぞかしモダン好みの新興階層に受けが良かろうと思ったものの当ては外れ、小林は「さっぱり売れなかった」とこぼしている。住宅が好調に売れ出したのは、そこに畳の部屋をこしらえるようになってからだった。

モダンなものを好み、従来の価値観と断絶したかに見えた新しい世代であっても、身体性はいまだに前時代の慣習、文化を引きずっていた。彼らはテーブルとイスだけではしっくり来ず、畳に座る、しゃがむという姿勢に安堵を覚えたものと見える。その振る舞いの尾は少し手繰れば近世につながっていた。では、父が志向した和洋のそれぞれの尾はどこに結びついていたのだろう。

 

生まれも育ちも京都の北大路の外れ。雨が降ればぬかるむ、始終湿気ていた朝鮮人部落の長屋は、父の記憶によればまともな壁はなく、障子で四方が仕切られていただけだという。6畳一間に家族8人が住んだ。千年の都に住みながらも、何ひとつその地の文化、風習にルーツを持ってはおらず、また染まることもなかった。

趣味らしい趣味を持たなかった父ではあったが、唯一関心を見せたのは住宅の造作と建具選びであった。その凝りようがキメラめいたデザインをもたらしたとしても、父の和洋への関心はどこからやってきたものか。

あばら屋とはまったく異なりながらも、遠目に眺めるしかなかった京都の人並みの暮らしが、彼にとっての「和」であったのは間違いない。そしてどうやら、モダンな都市文化の香りをまだ残していた戦後の神戸が「洋」の代表となったようだ。大人になるまでケーキを食べたことがなく、神戸で初めて食べたバタークリームを使ったケーキに「世の中にこれほどうまいものがあるのか」と驚いたという。その衝撃と「今後はもっと洋菓子が大衆に広まる」との予測から、神戸で立ち上げた事業が洋菓子の包装紙の卸であった。父の社会階層を上昇せんとする挑戦はここから始まった。

 

阪神間モダニズムが花開いた1930年代に父方の両親はそれぞれ半島を出た。その時期の多くの韓国人がそうであったように、廉価な労働力を必要とする帝国に吸い寄せられ、玄界灘を渡った。父が物心ついたとき、日本は戦時下にあり、皇国少年になる暇もなく6歳で敗戦を迎えた。帝国に包摂された二流の臣民は、こんどは異民族として放逐された。

その後の成り行きは、父が喧嘩であれ勉強であれ商売であれ、それらについて語る時「戦う」という語を多用したことからもわかるだろう。「人に先んじよ。我々がこの社会で生きることは戦いに他ならないのだ」と折に触れて覚悟を説いた。

だが、得心がいったためしがない。なぜ戦わねばならないのか、さっぱり見当がつかなかったからだ。まして岡本に家を新築した時節は、じきにバブル経済を迎えようとする頃であった。ユーハイムにハイジ、フーケ、エーデルワイス、アンリシャルパンティエとケーキ店も多く、どこの店もともかく菓子を作れば売れた時代だった。そんな太平楽の世に臨戦態勢で身構えている人を私は彼の他に知らなかった。父は歯を食いしばりすぎて、奥歯がすり減っているような人間だった。

 

父の鼓舞する日本社会における戦いは、富と力と名誉の獲得に向かっており、直接的でなくとも「韓国人として」という自覚を迫った。しかし私は「国籍は韓国である」という事実以上に何か付け加えることに意義を持てなかった。「韓国人だから頑張らねばならない」という発想がまるでなかった。

生まれた時から裕福な環境に育ったせいで、父のような強烈な飢餓感からくるバイタリティを持ち合わせておらず、争うことが不得手だった。そのせいか民族やナショナリズムという言葉の響きに勇ましさは感じても、その容赦のなさが気になってしまい、口にすることはなるべく避けたかった。闘争よりも引かれ者の小唄に聞こえるかもしれない夢想に魅力を覚え、とりわけコスモポリタンとその語が醸し出す世界に魅かれた。

それなりの文化資本を得られた、坊ちゃん育ちであればこその余裕がそのような考えを育んだとはわかっている。だからこそ持てる視点もあるとすれば、かつて自分も属していたプチブルジョアの、阪神間モダニズムの残滓を満喫する暮らしについて振り返ると、どうしても見落とせないことがある。

それは、1930年代のモダニズムの勃興は、第一次世界大戦による特需と満州事変による景況という、帝国の勢威の拡張と共にあったという事実だ。その結果、流民としてこの地に流れ着いたのが私たちである。そうでありながら帝国の伸長の名残を追うべく戦い、勝ち取る人生を歩まねばならないというのは、皮肉に思えてならない。

 

岡本に越したあたりから、私は戦うことは、果たして生きるに値する人生かと悩むようになった。下校の中途、遠回りしては山麓から南北に走る天井川沿いを歩いた。かつて川沿いに神戸市民には馴染み深い、老舗洋菓子店のモロゾフの支店があった。当時の私は知る由もなかったが、身近にあったモロゾフは、ここ神戸岡本でコスモポリタンを考察するには、うってつけの存在だった。

製菓会社「モロゾフ」の創始者、フョードル・ドミトリエヴィチ・モロゾフは1924年、ロシア革命で混乱する祖国を離れ、アメリカを経て日本に移住した。フョードルは1926年、「モロゾフ」を創業。1932年、日本で初めてバレンタインにチョコレートを送る習慣を導入し、成功を収めた。この商法はやがて全国に広まることになる。

 

「モロゾフ」の売れ行きは好調だったにもかかわらず、共同経営者との悶着によりフョードルと息子のヴァレンティン・フョードロヴィチ・モロゾフは「モロゾフ」と袂を分かった。その後、ヴァレンティンは「コスモポリタン」を創業する。

いまは廃業してしまった「コスモポリタン」だが、往時は高級菓子として神戸市民に馴染みがあった。コスモポリタンは世界市民であり、異国情緒を思わせる言葉の響きとチョコレートの甘い記憶として私の傍らにある。

コスモポリタンはコスモポリタニズムを掲げる。モロゾフ一家にとっての世界主義は何を意味したろう。

親子ともども革命後に誕生したソビエトには思い入れのひとつもなかった。かといって日本国籍を取得することもなかった。帰化するには日本風に改名する必要があり、それに抵抗を感じたからだという。ヴァレンティンは生涯、無国籍だった。どこにも根を持たず生やさない。

 

モロゾフという出自を明らかにする名を冠した会社が共同経営者に掠め取られた後、立ち上げた会社がコスモポリタンだ。社を追い出されたのであるから、同じ名をつけることはできないにしても、モロゾフからコスモポリタンといった、一族の名から世界をひとつの共同体と見る立場を名として取ったわけだ。

固有名を失い世界市民へ、と言わんばかりの白系ロシア人の道行きは、ある種の物語を感じさせないではいられない。失うことで世界市民の地平に立つことが初めて許されるとでも言うような。では何を失ったのか?

言うまでもなく国を、帰るべき故郷を、よすがにする根を彼らは失った。そうした喪失の痛みが身に刻まれたのだと想像すると、どれほどの時間が経とうとも心に覚えた痛苦は消え去らないと思わずにいられない。私は勝手にモロゾフ一家の足跡を読み替えてしまっているのかもしれない。そうであっても、痛みの記憶に関する教訓を与えてくれたのは確かだ。

 

痛みの記憶は厄介だ。疼きのあまり「どうしてこのような憂き目に遭わなければならないのか」と思い、「自分は被害者だ」という感覚が生じてしまう。それが高まれば「こんな人生ではなかったはずだ」と「ありえたかもしれない現実」という名の幻想に自己を沈めていきもする。

痛みはやがて生々しさを失う。喪失の体験は喪失感に移ろい、痛みの記憶はそれを思い起こすことで自分を確認する手段になり始める。忘れたい痛みにすがりつつ、ありえたかもしれない夢想の実現に向けて努力する。

人はそれをハングリー精神と呼ぶ。抱え込んだ痛みは直視したくないが手放したくもない。そんな葛藤と被害者としての意識を原動力としている。その力動を自己憐憫と嘲笑って済ませられないのは、葛藤は強烈なバイタリティとして発揮されもするからだ。エネルギッシュといってもよいかもしれない。しかし、それが人生を充実させるかどうかは別だ。

 

私がコスモポリタニズムに直感的に魅せられたのは、ハングリー精神や国家、アイデンティティといった、とかく熱を帯びて語られたがる言葉の群れに自己憐憫という湿気の高さを感じたからだろう。何せ世界主義は乾いている。

コスモポリタンは現実に存在しない。ありえたかもしれない現実ではなく、ありえない現実だった。だからこそ、どこまでも根拠がなく、足の置き場がない。私にとってはロマンを遠ざけ、自己憐憫の物語が人生を駆動させるという思いを中和するには、ちょうどよかったのだ。

 

コスモポリタンの創始者、ヴァレンティンは生涯、無国籍だった。かつての祖国はもう存在しないのだから、国家を選び取れない無/国籍なのか。あるいは国家に信奉を持たない無国/籍だったか。乾いたコスモポリタニズムは国籍の刻印すら否定する後者を取るだろうか。

「失うことで世界市民の地平に立つことが初めて許されるとでも言うような。では何を失ったのか?」と先に問うた。何を本当に失ったのかといえば痛みを、過去を失ったのではないか。

失うとは喪失感に道を開いているとは限らない、それは喪失感という足跡も残さず、痛みも過去も憐憫すら手放すことにもつながっている。その乾いた、手応えのない少し寂しい感じは孤独ではあるかもしれない。だが、存外悪くないと思う。

Profile

1970年4月16日生まれ。フリーランサーのインタビュアー&ライター。これまでに生物学者の池田清彦氏、漫才師の千原Jr氏、脳科学者の茂木健一郎氏や作家の川上弘美氏、保坂和志氏、ダンサーの田中泯氏、ミュージシャンの七尾旅人氏、川本真琴氏、大川興業の大川豊総裁、元ジャイアンツの桑田真澄氏など学術研究者や文化人、アーティスト、アスリート、ヤクザに政治家など、約800人にインタビューを行って来た。著作に『体の知性を取り戻す』(講談社現代新書)、『やわらかな言葉と体のレッスン』(春秋社)など多数。

第4回 神戸:1975(3)

フリーランスのライター&インタビュアー、尹雄大さんによる、土地と記憶を巡る紀行文。

すでに失ってしまったもの、もうすぐ失われるもの、これから生まれるもの。人は、移動しながら生きている。そして、その局面のあちこちで、そうした消滅と誕生に出会い続ける。また、それが歴史というものなのかもしれない。

私たちは近代化(メディア化)によって与えられた、共通イメージの「日本」を現実として過ごしている。しかし、それが覆い切れなかった“日本”がどこかにある。いや、僕らがこれまで営んできた生活の中に“日本”があったはずだ。神戸、京都、大阪、東京、福岡、熊本、鹿児島、沖縄、そして北海道。土地に眠る記憶を掘り起こし、そこに住まう人々の息づかいを感じ、イメージの裂け目から生まれてくるものを再発見する旅へ。

 

「なんや今日はプリンアラモード、食べたい気分やわ」

「おばあちゃん、そんなんここにあらへんわ。モカペアにしといたら」

「私はアイスコーヒー」

「ほんなら私もそれ。あとケーキも。お母さんはいらん?」

「遠慮しとく。それにしても今日はぎょうさんの人やわ」

「人もすごいけど、えらい暑い。のど渇いたわ」

 

隣席に座った祖母、娘、孫の三人連れは、世代ごとに着る服は違っても、流行そのままでもなく、かといって遅れるでもなく、「品のある女たちの装い」というところでぴったり共通していた。神戸の山手の住民にみられる、決してとがらない、そつなく鈍く華美な出で立ちだ。

休日の昼下がり、三宮センター街にあるジュンク堂で本を買った後、にしむら珈琲に立ち寄ってページをめくる決まりは実家を離れて、たまの帰省であっても続いていた。にしむら珈琲と言えば、ヨーロッパ調のクラシカルな内装と落ち着いた雰囲気、丁寧なサービスで定評のある老舗の喫茶店だ。神戸の人間なら知らないものはいない。

隣に居合わせた三人組の格好に既視感を覚えたせいか、聞くともなしに会話が耳に入る。話題は大丸での買い物を皮切りに、知り合いの結婚式についての「あそこのお嬢さん、ええとこにいきはったわ」から、この前行ったフレンチの味「喫茶店の娘さんがやっているとこのランチ、美味しかったな。また行こ」に引き続いて、今度の旅の予定「お父さんも一緒に行ったらええのに」へと次々と移り変わった。

 

大学生と思しき孫のかたわらに置かれたハイブランドのバッグは、デザインからして母親に譲られたものだろう。三人ともきっとファストファッションを身につけることはないはずだ。といって忌避することもない。ただそれとは縁のない暮らしなのだ、と勝手に想像した。

彼女たちのおしゃべりは終始ドラジェのように糖衣で覆われていて、どことなく谷崎潤一郎『細雪』のひとくだりを思い起こさせる。浮世のことはともかくといった調子の会話は、かつての自分にとっては馴染み深いものだったが、今となってはあまりに現実離れしているように感じた。三人の話を聞いているうちに、ぼんやりと思い浮かべたのは「阪神間モダニズム」という語だった。

 

関西圏以外の人には馴染みのない「阪神間モダニズム」であるが、手短に言えば、大阪から神戸へと郊外に都市が広がる中で生まれた、新たな生活様式と消費活動の勃興ということになるだろう。モデルとされたのはイギリスに生まれた「田園都市」であった。彼の国においては工業化による大気汚染、労働者の都市流入による住環境の悪化といった問題から都市設計が構想されたように、こちらも発端は大阪の住環境の悪化にあった。

大阪は近世から1930年代にかけて経済の中心地であった。明治以降は近代産業の花形である紡績や鉄鋼業が盛んになったこともあり、人口は首都の東京を追い抜いた。しかしながら、急激な産業化によりイギリス同様の問題が起きた。そこに目をつけたのが阪神や阪急といった電鉄会社で、どちらも沿線の宅地開発に勤しんだ。阪急電鉄はパンフレットを通じ、こう喧伝した。

 

「美しき水の都は昔の夢と消えて、空暗き煙の都に住む不幸なる我が大阪市民諸君よ!」

 

やがて住友家を筆頭に東洋紡や大林組の社長をはじめ企業の重鎮、重役たちが続々と阪神間に転出し、富豪たちの邸宅が郊外に建ち並び始めた。とりわけ阪神電鉄の通る住吉村は1920年代には「富豪村」として知られることになる。郊外転出は勢いづき、日本生命、伊藤忠、丸紅など商社の社長宅、財閥、製薬会社、不動産業を営む大阪船場の富商たちが、芦屋や御影など「阪神間」にこぞって私邸を構えた。 

宅地開発のかたわら、小林一三率いる阪急電鉄は斬新な策をとった。ターミナル駅にデパートを設け、閑散とした農村地帯に敷いた路線に乗客を誘致するため、娯楽施設をつくったのだ。それが宝塚に開場した温泉であり、一環の娯楽として立ち上げたのが宝塚歌劇団だった。こうした開発の手法はのちに東急の創始者、五島慶太の模倣するところとなる。

 

阪急電鉄はいまでこそ芦屋、岡本、御影といった高級住宅街を抜ける路線として有名だが、神戸線が開通した1920年には、人家もまばらな山麓を直行するだけの路線でしかなかった。神戸線の宅地開発でまず着手されたのは岡本駅付近であった。

岡本や御影は神戸の典型と言える地形をしており、北に山を背負い、南の間近に海を臨むことができる、景観の良い地であった。外国人も多く住む付近について、1929年に書かれた「阪神風景漫歩」はその風景をこう描写している。

 

「御影あたりに住んでゐる西洋人の細君たちは、神戸の市場で求めた食糧品をバスケツトにつめ込んで、この電車で帰つて行った。何とかいふ露西亜の美しいダンサーの顔もしばしば見受けた。御影=岡本=芦屋川では阪神間における、最もモダーンな色彩を乗せる。それは大概、ブルヂヨアの家族たちで、目のさめるやうな振袖か、でなければ、スマートな洋装である。(略)若い細君たちは、長いクラブを抱へて、よく、その日のゴルフゲームの話をした」

 

この年、芦屋の六麓荘の造成が始まる。いまでも高級住宅地として知られる六麓荘では、電柱が景観を損なうことから地下埋設とし、道路はすべて舗装され、テニスコートや運動場も作られた。

阪神間に分譲地が増えるにつれ、購買層もまた広がり、企業の社長や重役、大阪の船場の富商だけでなく、第一次大戦の戦争特需によって潤った商社や銀行、また官庁に勤める中産階級が居を構えるようになる。都市の勤め人が中流階級の中心となる時代に入っていた。

田畑の宅地化が進み、街が広がるにつれ、消費行動も盛んになった。神戸の元居留地や元町、南京町では「外国図書、ファッション、雑貨からマンゴスチン、マンゴ、シュークリーム、バウムクーヘン等がなんでも買えた。(略)いくらでもうまい西洋料理や中華料理が食べられた」(『関西モダニズム再考』)。

1927年、帝国キネマ撮影所の芦屋撮影所が発足した。1933年、日本最初のファッション誌『ファッション』が芦屋で創刊。そして1937年、本山に洋裁研究所が創立するなど文学、音楽、衣装の領域において新しい文化が花開いた。そうした新しい風俗や地域住民の振る舞いをよく反映しているのが先述した『細雪』であろう。

 

先ほどから私は幾度か谷崎の名に触れている。というのは、谷崎が住んだ魚崎や岡本、住吉は私たち一家が住んだ場所であり、また父の創業した会社のあった地でもあり、そういう意味では、私たちは阪神間モダニズムが価値を置いた土地の後追いをしていたのだなと思うからだ。肝心の阪神間モダニズムは、やがて日中戦争が泥沼にはまり込み、統制経済が強化され、国粋主義に傾く世相の中で終わりを迎えることとなった。

しかし、かつてのセレブリティの暮らしぶりは多くの記憶に残ったと見え、戦後になっても山手で上品な暮らしを送ることをアガリとする考えは、我が家がそうであったように、神戸の住民に間に根付いた。

 

食べるものもなく、水を飲んで腹を満たす。そんな底辺の暮らしから父の人生は始まった。

印刷会社勤務を振り出しに、ケーキの包装紙やリボンの卸売会社を創業。ケーキやパンといった洋風の食事の広がりと共に、売り上げは拡大していった。裸一貫から始めた事業で社会階層の上昇を成し遂げたられたのは、誰もがなりふり構わず、己の存在を確保することに血道をあげていたからだとも言える。

やがて社会が安定していくにつれ、システムに則ったやり方で手にした財の現状維持、拡張が図られることになる。そのひとつが教育への投資だ。私は阪神間モダニズムの担い手の子弟を育てた甲南小学校への小学校受験を課せられることになった。あいにく不合格となったものの、世は進学塾ブームの真っ盛りであり、メディアでは「受験戦争」という語を多見する時代だ。次は中学受験が当然とされ、私には選択の余地はなかった。日本社会で異民族がサバイブするならば、「他を圧倒する実力をつけなければいけない」という父の考えは折に触れて示されており、事業が成功し続ける限り、それは揺らぐことはなかった。

 

1984年、我が家は住みなれた魚崎を離れた。これまで仰ぎ見ていた、岡本の梅林という海抜150メートルほどの山の頂き近くに越した。新しい家からは大阪の泉南、麓の市街が一望できた。私たちは正しく阪神間モダニズムの足跡を追っていた。

Profile

1970年4月16日生まれ。フリーランサーのインタビュアー&ライター。これまでに生物学者の池田清彦氏、漫才師の千原Jr氏、脳科学者の茂木健一郎氏や作家の川上弘美氏、保坂和志氏、ダンサーの田中泯氏、ミュージシャンの七尾旅人氏、川本真琴氏、大川興業の大川豊総裁、元ジャイアンツの桑田真澄氏など学術研究者や文化人、アーティスト、アスリート、ヤクザに政治家など、約800人にインタビューを行って来た。著作に『体の知性を取り戻す』(講談社現代新書)、『やわらかな言葉と体のレッスン』(春秋社)など多数。