第5回 更紗工場の職人(2)

Calico Factory Artisans - 2−①

インド北西部に位置するラジャスタン州にサンガネールという小さな町がある。デリーを出発して2週間ほどが経った頃、偶然この町を通りかかった。

町に入った瞬間から一見して、ほかの町とは様相が違うことがわかった。町のあちらこちらにカラフルな布が干されているのである。建物の屋上、庭、空き地など、あらゆる場所に色鮮やかな布が広げられ、気持ち良さそうに風にたなびいている。赤に青に緑に黄色と、そこは色の洪水だった。

あとになってわかったことだが、この町は「更紗」の生産地として有名な地だった。

「更紗」とは木綿地に複雑な文様を施した染織工芸品で、その歴史は古い。約2000年以上前にインドで誕生したこの更紗は、海を越え日本にも室町時代に伝わったと言われている。そして日本で独自の発展を遂げた更紗は、「和更紗」と呼ばれるようになり、現在までその技術は脈々と受け継がれている。

日本だけでなく、中東、ヨーロッパ、アジア諸地域にも広がった更紗はその国の文化と融合し、改良され、いまもなお人々を惹きつけてやまない。

そのインドが誇る更紗。僕が偶然訪れたサンガネールはそんな歴史深い更紗の生産地であり、町の至るところに生産工場が軒を連ねていた。

 

 僕は町の中をあてもなく自転車でフラフラと走り回り、中へ中へと入っていった。そして一つの古びた工場を見つけた。僕はそこへ目星をつけると自転車を工場脇へ停め、勝手にズカズカと入り込んでいった。古びた工場内は蛍光灯がいくつかあるだけでとても薄暗く、足元がおぼつかない。幸い、外の容赦ない太陽の光が入口から入ってきて、うっすらと工場内を照らし出している。

 その外光に照らし出されるように、赤色の更紗が所狭しと並べられているのが目に飛び込んできた。ファンの風にあおられて、吊り下げられた赤い布が波のようにゆらゆら揺れている。まさにそこは赤色の海のようだった。そしてそれはまるで暗闇の中に浮かぶ宝石のように儚く、怪しく、美しかった。その美しさにしばし呆然としながら、こんな世界があるのかと一人感動していた。

しかし、よく考えてみると工場内に人の姿をまったく見ない。ファンの音だけが鳴り響いているだけで音らしき音もなく、人の気配もないので呼びかけてみた。

「ハロー、ハロー」

僕の声が工場内に響き渡る。すると、僕のすぐ側で男がムクッと起きあがった。薄暗いせいと、更紗に目を奪われて足元をよく見てなかったせいで気付かなかったのだが、男が地べたで寝ていたのだ。

「おおっ!」。びっくりしていると男は不信感たっぷりに僕の顔を怪訝そうに見つめている。

じーっと僕をしばらく見つめ、「カントリー?」と、聞いてきた。

何のことかわからずきょとんとしていると、もう一度彼が、「ワッツ ユア カントリー?」と聞く。

なるほどと思い僕は、「ジャパニーズ、ジャパニーズ!」と答えた。

するとしばらくの間を空けて、

「お〜ジャパニーズ! ジャパニーズ、知ってるよ〜ジャパーン! お前、ジャパニーズか〜。トヨタ、ホンダ、ヤマハだろ? アイライク・ジャパーン! あそこはいい国だ〜。エレクトロニクスカントリーだよな。で、ここに何の用だ? え? 俺たちの仕事を見たいって? よーし、じゃあこっち来い、見せてやる。ところでお前は結婚してるのか? ふーん、で、お前のその家族はここに来てないのか?え!? お前一人で来たのか?何で家族と来ないんだ。よーし、ちょうどいま休憩時間だからみんなにお前を紹介しよう。チャーイ飲むか?あ、そうそう俺の名前はシンだ。で、お前は?」

と、機関銃のように喋る陽気なシンさんは僕をまるで旧知の友のように温かく迎え入れてくれた。そして彼は、ちょうど休憩中だという仲間たちのもとへ案内してくれて、紹介してくれた。

職人さんたちは20人ほどはいただろうか、その全員が男だった。みんな染料まみれのくたびれたランニングシャツを着て、チャイを飲みながら僕を好奇心いっぱいの目で見ていた。その20人が好奇心の赴くままあらゆる質問(結婚はいつした? 奥さんの名前は? 日本のどこから来た? インドは何回目だ? 何で自転車で来たんだ? インドの料理はどうだ? 今夜はどこに泊まるんだ? 日本の金見せてくれとか本当にあらゆる質問)を投げてきてはゲラゲラ笑い、その好奇心がようやく収まったところで彼らは仕事に取りかかった。

(つづく)

Calico Factory Artisans - 2-②

SIGN_05YOSHIDA1980年宮崎県生まれ。京都市在住。滋賀大学教育学部卒業後、タイで日本語教師として現地の大学に1年間勤務。帰国後京都市で小学校教員として6年間勤務し退職。2010年より写真家として活動開始。「働くとはなにか」をテーマに国内外問わず撮影し、様々な媒体に写真・文章を掲載するほか、美術館やギャラリーで写真展を開催。14年度コニカミノルタフォトプレミオ年度大賞。Paris Photo - Aperture Foundation Photobook Award 2015にノミネート。他受賞多数。15年に写真集『BRICK YARD』刊行。16年春に第2弾写真集『Tannery』発行予定。http://akihito-yoshida.com

第4回 更紗工場の職人(1)

Calico Factory Artisans - 2−①

写真家ほど簡単になれる職業はないと思う。

特別な試験があるわけでも、資格を取得しなければならないわけでもない。ましてや、専門的な学校に行かなきゃなれないわけでもない。カメラさえあれば誰だって写真家を名乗れる。スマホのカメラでも、コンパクトカメラでも、使い捨てカメラでもなんでもいい。とにかくカメラを持って名刺に「写真家」とか「Photographer」とか書けば即席写真家の出来上がりだ。

何を隠そう僕自身もご多分にもれずその中の一人だった。

2010年4月、小学校の教員を辞めて写真家になることにした僕が最初に買ったのは、合わせて10万円程度のデジタル一眼レフカメラのボディとレンズ1本だった。そして「写真家 吉田亮人」と記した名刺を作成して準備完了。小学校教員という社会的な地位と安定を放り投げ、晴れて写真家になった僕は、こののち立ちふさがるさまざまな壁にぶち当たろうとは知る由もなく、名刺に書かれた「写真家」という文字を能天気に眺めてはほくそ笑んでいるのだった。

30歳を目前に控えた、20代最後の歳だった。

こうして写真家として歩みはじめたが、写真でどのように生計を立てていくのかそのノウハウも戦略も、人脈も、そして技術すらもなかった。おまけに自分の撮った写真すら1枚もないという状態。

例えるならば看板に「八百屋」と書いただけで、野菜の知識も、仕入れルートも、売り方も何もわからないばかりか、野菜すら並べられていないようなものである。とりあえず「写真家」という看板を掲げただけで、さあこれからどうしようという有様だった。

本当につくづく能天気なあの頃の僕は(今も大して変わっていないが)、正確に言うと「写真家志望」のただの無職の男に過ぎなかったわけだ。まあ何とかなるだろうという甘い観測で、写真家といういばらの道に足を踏み入れてしまったのである。そしてまあ何とかなるだろうというほど甘くないことは、やってみてはじめて気付くのである。

まず、小学校教師のときのように学校に行けば子どもたちが待っていて、自分に与えられた仕事があるわけでもない。完全に仕事は自分自身で作っていくしかないのである。しかしその作り方がわからない。だけど仕事を作っていくためにはまず写真を撮らなければならない。写真を撮ろうと思ったはいいが、よく考えてみると僕は一体何を撮りたいのかさえもわかっていなかった。

それはつまり自分が何を一番見たいのか、何を知りたいのか、その写真の中に何を見出したいのかという、写真を撮るうえで最も大切な部分がすっかり抜け落ちていたことを意味する。カメラをぶら下げてシャッター切っていれば写真家になれると思っていた僕はあまりにも何も考えていなかった。

「いったい僕は何を撮りたいんだろう」

小学校教師を辞めて3ヶ月後ようやくその重大さに気付くと同時に、写真家という仕事はそう簡単なものではないなと薄々勘付いた瞬間でもあった。

インドに行こうと思いついたのは、それから間もなくのことだった。衝動的に思いついたといってもいい。幾多の写真家が通過儀礼のようにインドに赴いては写真を撮ってきたように、僕も写真家として一度はインドに行くべきなんじゃないかと思ったのである。

何かがあの国にはあるはずだ。いや、ないと困る。頼む、あってくれ。懇願にも似た気持ちでインド行きを決めた。

しかしただ単純に列車やバスを使った移動手段では、ほかの写真家と同じような場所や景色や光景にしか出会えないのではないだろうか。何かそれとは一線を画す僕だけの旅の仕方がないだろうか……。考えたすえ思いついたのが、自転車でインドを旅することだった。

自転車ならば自分で好きな場所に行くことができるうえ、自転車という存在が客寄せパンダの役目を果たし、思いもしない出会いを運んでくれるのではないかと考えたのだ。

そしてさらに己の力だけで旅を切り拓いていく確かな実感と手応えの中にこそ、僕の求めている答えがあるのではないかと、ほぼ衝動的に、直感的に考えたのである。

かくして自転車の旅など一度もしたことのない僕は、京都の自転車屋で店員さんの指南を受けながら、マウンテンバイクを購入し、輪行してインドの首都デリーに降り立った。2010年8月、灼熱のような暑さのインドだった。

その旅は首都デリーからインド最大の都市ムンバイまでの2500kmを2ヶ月間で走り抜けるというものだった。

事前にインドのロードマップを探したが、ロクなものがないので結局Googleマップを使った。それで宿がありそうな町らしきところを探し出し、今日はここからここまで走るというふうに決め、それを印刷し、1枚の地図になるようテープで繋ぎ合わせ、1日分ずつの行程マップを作成し、それを60日分作って持っていった。現地ではそれを片手に方位磁石で方角を確かめながら、ずんずん南に下って行ったのである。

その旅は想像していた以上に過酷で、この旅を計画した自分を呪い殺したくなることが何度もあった。だいたいがすべてにおいて甘い見通しなのだ。

しかし同時に当初の目論みをはるかに超える数々の出会いや発見をもたらしたのも事実である。外国人がはじめて来たという村を訪れたり、世界の最果てかと思うような光景に出会ったりと、つい数ヶ月前まで小学校教員をしていたときとはまったく別物の世界が僕の眼に飛び込んできた。そしてその一つ一つを写真に収めていった。

その中で最も僕の心を揺さぶったのが、サンガネールという町で出会った「更紗」を作る職人たちだった。

(つづく)

Calico Factory Artisans - 2−②

SIGN_05YOSHIDA1980年宮崎県生まれ。京都市在住。滋賀大学教育学部卒業後、タイで日本語教師として現地の大学に1年間勤務。帰国後京都市で小学校教員として6年間勤務し退職。2010年より写真家として活動開始。「働くとはなにか」をテーマに国内外問わず撮影し、様々な媒体に写真・文章を掲載するほか、美術館やギャラリーで写真展を開催。14年度コニカミノルタフォトプレミオ年度大賞。Paris Photo - Aperture Foundation Photobook Award 2015にノミネート。他受賞多数。15年に写真集『BRICK YARD』刊行。16年春に第2弾写真集『Tannery』発行予定。http://akihito-yoshida.com