ポリアモリー編集見習いの憂鬱な備忘録

scrap book スクラップとは、断片、かけら、そして新聞や雑誌の切り抜きのこと。われらが植草甚一さんも、自分の好きなものを集めて、膨大なスクラップ・ブックを作っていた。ここでは、著者の連載から、対談、編集者の雑文など、本になる前の、言葉の数々をスクラップしていこうと思います。(編集部)

第18回(最終回) だれかが受ける風

「ムーミンはふたつ前の誕生日の前日、とつぜんうちにやってきた。身ひとつで。インターホンを鳴らして」……。水があふれる寸前のコップの如く、あやういバランスで保たれていた日常が、突然の訪問者でさざ波がたちはじめる。歌人にして国語科教員、初の著書『せいいっぱいの悪口』で注目を集める著者による、希望と不安、孤独と安堵が交錯する日々を綴るエッセイ。「カバでも妖精でもなく、今ここにこうして生きているもの」  

今年の正月は二年ぶりに実家に帰った。元旦の朝、夫と子どもが加わった六人で「明けましておめでとう」と言い合って母が作ってくれたお節とお雑煮を食べる。

と、間もなく食卓の上の子機が鳴った。「はい、ええ」と言いながら母が席を離れ、電話口から洩れる声でどうやら大阪の病院からかかってきたらしいと分かる。しばらく隣室で話していた母が戻り、「叔父さんが亡くなったんだって」と言う。その場の誰も驚かなかったのは、明らかに母が落ち着いていたからで、叔父とは八十を過ぎた母の叔父のことだった。身寄りがないもんだから姪である母のところへ掛かってきたらしい。わたしや妹はおろか、母ももう随分と会っていないという。正月の、元旦の朝の遠い親戚の死、というぼんやりとした空気を食卓に残し、母は自分で作ったお節もほとんど手をつけず、慌ただしく喪服や数日分の衣類をスーツケースに詰め込んで大阪へ飛んでいってしまった。

亡くなった名前も知らないその人に会ったことはないが、母の叔父ということは祖父の兄弟である。祖父が亡くなって十年以上になるが、今も祖母が一人で暮らす家のことを所在なく思い起こす。たいてい二階の和室に布団が敷いてあり、祖父はいつも起き上がって出迎えてくれた。玄関には下駄があり、それは祖父が履いていたものだった。長いこと、外を歩く祖父を見なくなってからも玄関には天狗みたいに高い下駄が揃えてあった。祖父は受験を控えた冬に亡くなって、人が焼かれて骨になるのをわたしはそのときはじめて見た。

ほんとうは、電話が掛かってきたときに祖母が亡くなったのではないかと、一瞬間にそう確信して長い電話の最中、トイレに籠ったまま、ずっと緊張でお腹が苦しかった。父の方の祖母には、先月会いに行くことができたが、母方の尼崎に住む祖母にはもう何年も会えていない。それぞれを、神戸のおばあちゃん、尼崎のおばあちゃん、と地名で呼び分けている。コロナを恐れる尼崎のおばあちゃんは、だからひ孫にもまだ会えていない。会えない分、私や母が写真を送る。

亡くなったのが祖母ではないと分かって安堵したのは、自分の後悔やかなしさよりも、母のことを思うからかもしれなかった。祖父が亡くなってしばらく、傍目に母は変わった風ではなかったが、どういうわけか、以来長いこと甘いものを一切食べなくなったのだった。因果があるのかないのか、けれどその禁欲的な何かがわたしには異様に映り、そのようにして現れるかもしれない変化を恐れるように、祖母が亡くなるというわたしのかなしさを先回りして、祖母が亡くなった後の母のことをどうしても、思ってしまう。

でも、みんないつか死ぬのにな。

そんなの、元旦の朝に思うことじゃないかもしれない。窓枠いっぱいの青空を見ながら思う。元旦の、東京の朝はなぜこんなに毎年毎年、快晴なのだろう。風もない、穏やかな空。でもそんな朝に死ぬ人もいる。正月に浮かれるわたしたちは、ほんとうは毎年同じ空をそっくりそのまま渡されていることに気づかない。どんなに薄い雲のかけらさえ、すべてが視界からは払われて、今だけはこんなに成層圏まで突き抜くようにただ青い。母の去ったリビングはなんとなく弛緩して、みんな箱根駅伝をぼんやり眺めている。

去年今年貫く棒の如きもの 高浜虚子

という句を思い出す。冬至までの、どんどん転がるように短くなる一日に、曇天の寒さにそれぞれが鬱々として、そうやって寒さと冴えない天気に翻弄されながら生活だってままならないことばかりで泣きたくなるような、それでもなんとかやり過ごしていたそれもついこの間のこと。今この正月の抜けるような青空を見ると、あの鬱屈としたすべてのものはどこへ行ったのだろうと思う。けれど傍に避けられた机の上のごちゃごちゃしたリモコンやペン、食パンを食べた後のパン屑の散った皿、そういうものは消えてなくなるわけじゃない。ただ地続きの毎日があるだけなのに、わたしたちはつかの間、そういうものを傍へやって正月に浮かれるのだ。朝から酒など飲んだりして。箱根駅伝をぼーっと見たりして。でもほんとうは何も変わっていないのだから、仕事は片づいていないし、人も死ぬ。死は待ってくれない。

死んだら嫌だな、と思う。みんなどうにかやり過ごしながら生きているならば、うっすらと漂う不穏さに見ぬふりをするのなら。わたしたちはほんとうには見えない大きな待合室にいて、ただそれぞれが、順番を待っている。死ぬ順番を待っている。俯いているから隣に誰かいることにたいてい気づかない。

コロナ禍になってすぐ、友人と話したことを思い出す。「死ぬかもしれないってほんとうに思うこと、結構怖い」と言い合った。

この世界は大きな、こんなに大きな待合室だったんだろうか。

椅子に座って待っている。みんな、いつ呼ばれるか分からない。死神みたいに大仰な何かがいて、その大きく長い手で肩を叩いてくれればいっそいいのに、そうじゃなくて現実は、ちょっと風邪を引いて近くの内科にやってきた、そのときに看護師に掛けられる、あののんびりとした声なのだ。次かな、と思って身構えてもなかなか呼ばれない。きっと今じゃない、と緩んだ一瞬に呼ばれるわたしの名前。同じ場にいる人たちに、自分の名前が聞かれるのがいつも少しだけ、恥ずかしい。高らかに、歌うように呼ばないでほしい。

もし今死ぬことがあれば、子どもはまだ一歳だからわたしの記憶を持たないんだな、とぼんやり考える。子どもは、何か理不尽を被ったときに「アンマーー!」と反り返って絶叫することはあるが、それがわたしを指して「ママ」と言っている言葉かどうか定かではなく、はっきりと近くからでも遠くからでもママ、やお母さん、と呼ばれるにはまだ時間がかかりそうだ。自分のことを、覚えていてほしいなと思うことと同じくらい、もし死ぬのなら記憶に残らないほうがさっぱりしているのかもしれない、とも思う。東京の正月の、風のないこの青い空。

ムーミンはほんとうに、雪の降る夜にどこかへ行ってしまった。元々荷物もなかったから、ただ朝起きてみるとムーミンだけがいなかった。もちろん、連絡先などははじめからない。夜の間の雪は積もらずに、それなら多分困らずに、白い身体が雪に埋もれてしまうことはなく、きっとどこかへ行けたのだろうと思う。

この冬は、積もらない雪がよく降る。今日も降ったり止んだりを繰り返して、晴れた日の午後に降る雪にはあまり情緒がない。風がとにかく強いから、雪は真っ直ぐ地面に降りてこず、何度も舞い上がる。地面に触れれば消えるのは雨も同じなのに、雪の意志というよりもっとばらばらででたらめに、下から誰かが大きな団扇で仰ぎまくっているみたいに、ずっと宙を舞っている。見ていると、大きな筒状の透明な箱のなかに手を入れて舞う三角の一枚を取る、あのくじのことを思い出す。

アパートのすぐ向かいの小学校から歓声が聞こえて、ベランダにつづく掃き出し窓から覗けば紅白帽の頭が散らばって、ボールを投げ合い、おそらくドッヂボールをしている。こんなにばらばらと、ときに固まりのようにして降ってくるのに誰も気づいていないのか、子どもたちは雪を気にかけず、ただ寒さだけがここにある。

「わたしたちはなにかを手にしたらなにかを失うのでしょうか」

という言葉をかけられたことが頭に残っている。ムーミンがうちからいなくなったことを受けての、読者の方からの言葉だった。わたしはその人への返事ができないまま、「手に入れた」というのはわたしのもとへ、子どもが生まれたことをもしかすると指すのかもしれない。けれどやっぱり、ムーミンが去ってしまったのは、うちに子どもがやって来たからではない。そのこととは関係なく、ムーミンは突然うちにやって来て、そして去ったのだった。風みたいだ。そう、天気のいい秋の日に、カーテンもみな開けて、ついでに窓も開けてみる。春だっていい、目が痒くなる予感がしてすぐに閉める、うちのベランダからは桜は見えない。季節のめぐりのすべてをこの窓が受け止めて、開ければいつも掃き出し窓をあふれる風。ムーミンはうちへやってきて、つかの間わたしと、夫と子どもと過ごし、そしていったい、どこへ行ったのだろう。通り抜ける風がただ髪を散らしていくように、だからなにも、かなしくはない。

わたしだって、ほんとうは、風みたいであればいいなと思う。正月の東京に、毎年同じ空を映す大きなおおきな手を持つだれかにとって、わたしの人生がひとつのゆっくりとした瞬きならば、ふいに額で受ける一瞬のここちよい風みたいにすぐに忘れられながら、きらめいていたい。だれかには、きらめいて見えるといい。生が瞬きならば、この一日の、この午後の、なんて冴えない怠惰なものだろう。それでもそこに挟まれる、奇跡みたいなだれかとの、絶対に渡せないものを渡し合えたようなその日のことを忘れない。正月の帰省で会えた、二十年来の友人。急に連絡したのに二つ返事で来てくれて、待ち合わせた駅のなかを歩きながらお互い「会えたね」「久しぶりだね」って言い合ううちになんだかどうにも泣けてきて、気づけば泣いている。会えなくたってお互いきっと元気でやっている、と思っていたから会えてこんなうれしいんだと驚いて、多分友人も同じことを思っていたから、同じタイミングでぽろぽろ涙を落として、二人ともメガネだからおんなじようにレンズを曇らせて、おかしくて同じ気持ちで、ああ、と思う。そういうときの涙のことを忘れない。いや、すべてをわたしは忘れない。そしてそう思ったことをすら、忘れるのだろう。

だからやっぱり、生きることはしんそこ寂しい。寂しくて嫌になる。全部死んだらなくなるなんて、そのことに何度でもたじろいで、諦めながらだれかの大きな、世界を見下ろすその大きくて、いやちいさな瞬きのために、ひとつのさやかな風になるために、長い長い自分の頼りない怠惰な生を、いっときだれかとともに過ごすのだ。窓からの風はまぶしい。風とともに、あたたかいものが流れ込んでくる。それを思い出すだけでそのあたたかいもののなかに気持ち良く溺れることができる、一瞬のこと。寝室から、子どもの泣き声が聞こえる。わたしもいつの間にかソファでうたた寝をしていた。ドアはすべて開けてあるから、自分でベッドから降りて、泣きながらこちらへやってくるだろう。そうしたら湿ったおでこを撫でて、お茶を飲ませてから、散歩へ出かける。どこからともなく吹くだれかの風を二人、公園の砂場でしゃがみ込んだまま、受けるのだ。

骨だけがこの世に残るおかしさの掃き出し窓をあふれくる風

 

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    長野生まれ。個人的な体験と政治的な問題を交差させ、あらゆるクィアネスを少しずつでも掬い上げ提示できる表現をすることをモットーに、イラストレーター、コミック作家として活動しつつ、エッセイなどのテキスト作品や、それらをまとめたジン(zine,個人出版物)の創作を行う。