ポリアモリー編集見習いの憂鬱な備忘録

scrap book スクラップとは、断片、かけら、そして新聞や雑誌の切り抜きのこと。われらが植草甚一さんも、自分の好きなものを集めて、膨大なスクラップ・ブックを作っていた。ここでは、著者の連載から、対談、編集者の雑文など、本になる前の、言葉の数々をスクラップしていこうと思います。(編集部)
モヤモヤの日々

第250回 高級な蜜柑(3)

浜の真砂は尽きるとも世にモヤモヤの種は尽きまじ。日々の暮らしで生まれるモヤモヤを見つめる夕刊コラム。平日17時、毎日更新。

昨日は久しぶりにお気に入りのアパレルショップ「R for D」に行った。この連載ではあまり触れてこなかったが、僕はファッションが大好きなのである。コロナ禍になって以来、外出する機会が減り、服を買うことが極端に減っていた。店に入ると馴染みのショップ店員が声をかけてくれ、近況報告や育児の話で盛り上がった。彼には赤子(息子)がいて、マイ赤子(1歳7か月、息子)とは数日しか生まれた日が変わらない。周りに同年代の赤子を育てる父親が少ないからか、いろいろと詳しく話してくれた。赤子のことを語る彼の目は、以前と変わらずに優しいままだった。

コートとカバンを買いご機嫌になりながら、家に帰って再び出掛ける準備をした。斎藤哲也さん山本貴光さん、そしてこの連載の担当編集・吉川浩満さんが五反田のゲンロンカフェで開催するイベント「『人文的、あまりに人文的』な、2021年人文書めった斬り!」にうかがうためである。連載の最後の最後になって、僕が活発に動き始めた。新しいカバンに荷物を入れ替え、紙袋に入れた蜜柑を大切に収めた。そう、この連載が始まるきっかけになったと僕が勝手に決め付けている、あの「高級な蜜柑」である。

つい先日、東京の郊外に住む母から高級な蜜柑こと、「紅まどんな」が送られてきた。「紅まどんな」は、亡くなった父の故郷である愛媛県のブランド蜜柑で、それはもうこの世のものとは思えないほど美味しい高級な蜜柑なのである。連載が始まる前の別の仕事で吉川さんと会った際に「紅まどんな」をプレゼントしたのが功を奏し、しがない一介のフリーライターである僕に「平日毎日公開」というこの連載を託してくれたのだと踏んでいる。そしてなんと、連載の書籍化まで決まったのだ。僕は愛媛に足を向けて寝ることができない。

しかし、なぜか吉川さんから「紅まどんな」の味の感想を一度も訊いたことがない。会うたびに訊こうとして、忘れてしまうのである。「紅まどんな」を以前、プレゼントしたのが僕の記憶違いだったらどうしよう。吉川さんが覚えていなかったらどうしよう。もしくは、三島由紀夫『豊穣の海』シリーズのラストのような展開になっているのかもしれない。一抹の不安を抱えながら、僕は「紅まどんな」を3つ、会場に持って行くことにした。

なんてことを考えつつ何気なくチケットサイトを確認してみたら、イベント開始が19時だという事実に気がついた。その時点で18時55分。てっきり20時からだと思っていたのである。僕は急いで身支度をし、タクシーに乗った。住んでいるマンションから五反田へは、電車よりタクシーを使ったほうが圧倒的に早く着くのだ。19時30分には会場に着いた。段取りが悪くドタバタしてしまう癖は、連載をとおしてずっとなおらないままだった。

前半は聴き逃したものの、とても充実した内容の楽しいイベントだった。僕はこのイベントを毎年楽しみにしていた。2年ぶりの有観客開催で、昨年はオンラインで視聴した。知り合いにもたくさん会えて感慨深くなった。

イベントが終わり、吉川さんに話しかけた。少しお酒に酔っているようだった。僕は日頃のお礼を言い、新しく買ったカバンの中から「紅まどんな」の紙袋を取り出した。吉川さんは「これはうれしい!」と大喜びしていた。

「ところで、以前にプレゼントした『紅まどんな』の味はどうでしたか?」と訊いてみた。「もちろん美味しかったですよ。伝えそびれてしまっていましたけど、もちろん美味しかったです!!」と吉川さんは興奮気味に話した。よかった。夢でも幻でもなかったのだ。「3つあるので登壇者の方々と……」と言おうとしたその瞬間、吉川さんは「しかも3つも! いや〜、本当にうれしいなあ」と顔をほころばせた。吉川さんを止めることは、もう誰にもできなかった。まあ、吉川さんもご満悦なようだし、結果オーライにしよう。3つもあげたのだから、それはさぞかし立派な本が、たくさん刷られるに違いない。まだお酒を飲みながらの談笑は続いていたが、久しぶりに活発に動いて疲れていた僕は、会場のみなさんに挨拶をして家路に着いた。

つい先ほどツイッターを見たら、吉川さんが家の鍵をなくして七転八倒していた。まさか「紅まどんな」までなくしたのではあるまいか。いやこの際、高級な蜜柑はなくなってもいいから、なんとか鍵だけでも出てきてほしい。「吉川さんには生涯の貸しをつくっておきたい」と、僕はふと思ったのであった。

 

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    長野生まれ。個人的な体験と政治的な問題を交差させ、あらゆるクィアネスを少しずつでも掬い上げ提示できる表現をすることをモットーに、イラストレーター、コミック作家として活動しつつ、エッセイなどのテキスト作品や、それらをまとめたジン(zine,個人出版物)の創作を行う。