scrap book スクラップとは、断片、かけら、そして新聞や雑誌の切り抜きのこと。われらが植草甚一さんも、自分の好きなものを集めて、膨大なスクラップ・ブックを作っていた。ここでは、著者の連載から、対談、編集者の雑文など、本になる前の、言葉の数々をスクラップしていこうと思います。(編集部)

第4回 更紗工場の職人(1)

Calico Factory Artisans - 2−①

写真家ほど簡単になれる職業はないと思う。

特別な試験があるわけでも、資格を取得しなければならないわけでもない。ましてや、専門的な学校に行かなきゃなれないわけでもない。カメラさえあれば誰だって写真家を名乗れる。スマホのカメラでも、コンパクトカメラでも、使い捨てカメラでもなんでもいい。とにかくカメラを持って名刺に「写真家」とか「Photographer」とか書けば即席写真家の出来上がりだ。

何を隠そう僕自身もご多分にもれずその中の一人だった。

2010年4月、小学校の教員を辞めて写真家になることにした僕が最初に買ったのは、合わせて10万円程度のデジタル一眼レフカメラのボディとレンズ1本だった。そして「写真家 吉田亮人」と記した名刺を作成して準備完了。小学校教員という社会的な地位と安定を放り投げ、晴れて写真家になった僕は、こののち立ちふさがるさまざまな壁にぶち当たろうとは知る由もなく、名刺に書かれた「写真家」という文字を能天気に眺めてはほくそ笑んでいるのだった。

30歳を目前に控えた、20代最後の歳だった。

こうして写真家として歩みはじめたが、写真でどのように生計を立てていくのかそのノウハウも戦略も、人脈も、そして技術すらもなかった。おまけに自分の撮った写真すら1枚もないという状態。

例えるならば看板に「八百屋」と書いただけで、野菜の知識も、仕入れルートも、売り方も何もわからないばかりか、野菜すら並べられていないようなものである。とりあえず「写真家」という看板を掲げただけで、さあこれからどうしようという有様だった。

本当につくづく能天気なあの頃の僕は(今も大して変わっていないが)、正確に言うと「写真家志望」のただの無職の男に過ぎなかったわけだ。まあ何とかなるだろうという甘い観測で、写真家といういばらの道に足を踏み入れてしまったのである。そしてまあ何とかなるだろうというほど甘くないことは、やってみてはじめて気付くのである。

まず、小学校教師のときのように学校に行けば子どもたちが待っていて、自分に与えられた仕事があるわけでもない。完全に仕事は自分自身で作っていくしかないのである。しかしその作り方がわからない。だけど仕事を作っていくためにはまず写真を撮らなければならない。写真を撮ろうと思ったはいいが、よく考えてみると僕は一体何を撮りたいのかさえもわかっていなかった。

それはつまり自分が何を一番見たいのか、何を知りたいのか、その写真の中に何を見出したいのかという、写真を撮るうえで最も大切な部分がすっかり抜け落ちていたことを意味する。カメラをぶら下げてシャッター切っていれば写真家になれると思っていた僕はあまりにも何も考えていなかった。

「いったい僕は何を撮りたいんだろう」

小学校教師を辞めて3ヶ月後ようやくその重大さに気付くと同時に、写真家という仕事はそう簡単なものではないなと薄々勘付いた瞬間でもあった。

インドに行こうと思いついたのは、それから間もなくのことだった。衝動的に思いついたといってもいい。幾多の写真家が通過儀礼のようにインドに赴いては写真を撮ってきたように、僕も写真家として一度はインドに行くべきなんじゃないかと思ったのである。

何かがあの国にはあるはずだ。いや、ないと困る。頼む、あってくれ。懇願にも似た気持ちでインド行きを決めた。

しかしただ単純に列車やバスを使った移動手段では、ほかの写真家と同じような場所や景色や光景にしか出会えないのではないだろうか。何かそれとは一線を画す僕だけの旅の仕方がないだろうか……。考えたすえ思いついたのが、自転車でインドを旅することだった。

自転車ならば自分で好きな場所に行くことができるうえ、自転車という存在が客寄せパンダの役目を果たし、思いもしない出会いを運んでくれるのではないかと考えたのだ。

そしてさらに己の力だけで旅を切り拓いていく確かな実感と手応えの中にこそ、僕の求めている答えがあるのではないかと、ほぼ衝動的に、直感的に考えたのである。

かくして自転車の旅など一度もしたことのない僕は、京都の自転車屋で店員さんの指南を受けながら、マウンテンバイクを購入し、輪行してインドの首都デリーに降り立った。2010年8月、灼熱のような暑さのインドだった。

その旅は首都デリーからインド最大の都市ムンバイまでの2500kmを2ヶ月間で走り抜けるというものだった。

事前にインドのロードマップを探したが、ロクなものがないので結局Googleマップを使った。それで宿がありそうな町らしきところを探し出し、今日はここからここまで走るというふうに決め、それを印刷し、1枚の地図になるようテープで繋ぎ合わせ、1日分ずつの行程マップを作成し、それを60日分作って持っていった。現地ではそれを片手に方位磁石で方角を確かめながら、ずんずん南に下って行ったのである。

その旅は想像していた以上に過酷で、この旅を計画した自分を呪い殺したくなることが何度もあった。だいたいがすべてにおいて甘い見通しなのだ。

しかし同時に当初の目論みをはるかに超える数々の出会いや発見をもたらしたのも事実である。外国人がはじめて来たという村を訪れたり、世界の最果てかと思うような光景に出会ったりと、つい数ヶ月前まで小学校教員をしていたときとはまったく別物の世界が僕の眼に飛び込んできた。そしてその一つ一つを写真に収めていった。

その中で最も僕の心を揺さぶったのが、サンガネールという町で出会った「更紗」を作る職人たちだった。

(つづく)

Calico Factory Artisans - 2−②

第1回 胸に刻み続ける“官設”話法

「『空気』が支配する国」だった日本の病状がさらに進み、いまや誰もが「気配」を率先して察することで自縛・自爆する時代に? 「事のまずさを感知しない『空気』」を悪用して突き進む政治家たちと、そのメッセージを先取りした「気配」に身をゆだねることに違和感を覚えなくなってしまった私たち。「日本の心情」を“なんとなく”稼働させてしまう「気配」の危うさをめぐる、『紋切型社会』の著者・武田砂鉄さんによるフィールドワーク。

つ づ き を 読 む

第3回 バングラデシュのレンガ工場(3)

第3話①DSC_1262

結局僕はこの工場に4日間滞在した。

エクボルのおかげで顔見知りも増え、彼らと寝食を共にしながらスムーズに撮影することが出来た。

彼らの1日は朝起きて、肉体を酷使しながらレンガを作り、工場内に建てた簡易の小屋で束の間の休息と仲間との語らいで癒し、また陽が昇ると働く。僕はそれをたった4回見ただけだが、彼らの世界を体感できたことで、僕の中の世界が一つ広がった気がした。と、同時にこの世界を前から知っているような懐かしい気持ちにもなるのだった。

この懐かしさの正体は一体何だろう? 思い出せそうで思い出せないそのモヤモヤの正体が分からなくてずっと気になっていたのだが、それは日本に帰国してしばらく経ったある日、実家の宮崎に住む両親と電話で話している時に気付いたのだった。

「どんげやったか、バングラデシュは?」

電話口で父が言った。

「レンガ工場行ったっちゃけど、すごいところやったよ」

「そんなところ行ったとか?」

「うん、全部手作業でレンガ作るとよ。大人も子どももとにかくみんな一生懸命働いてた。すげーところやったわ」

そう言うと感心したように「ほー手作業でか」と驚き、「写真見てみてたいね」とつけ加える父。

その後も父相手にバングラ見聞録を小1時間ほど話し、そろそろ電話を切ろうかというとき父が言った。

「みんな一生懸命働いて生きちょるっちゃなあ。こうやって父さんたちが話してる今もその人たちは働いてるっちゃろうね。父さんもレンガ工場の人たちに負けんごつ頑張らんといかんが」

その後何を話したかは忘れてしまったが、この言葉だけが電話を切った後も妙に残った。そして「あぁそうだった」と思い出したのである。

僕の両親はかれこれ30年以上、実家の宮崎で小さな中華料理店を営んでいる。家は自宅兼店舗を兼ねた住居だったため、いつでも両親がいて、火と格闘しながら中華鍋を振る父と、お客さんに明るく振る舞いながら忙しく動き回る母の姿を幼い頃から見て育った。

忙しい時には、勉強そっちのけで手伝いに駆り出されることもしばしばで、それが嫌でしょうがない時期もあったが、親が何の仕事をしているかわからないという子どもも多い昨今、両親の働く姿を真近で日常的に見ることが出来たのはよかったのかもしれない。

とにかく朝から晩まで厨房に立って料理を作り続け、働いてきた両親の姿は今も鮮明に思い出される。いわば僕の原風景とも言うべきその光景。環境も境遇も違うけれど、レンガ工場で働く彼らを見て、どこか懐かしい気持ちになるのはこの原風景のせいではないだろうか。その日その日を一生懸命働き、眠り、また働くという彼らと両親の姿には一分の差もないような気がするのだ。

「すべては家族のために働くのさ」

そう言っていたレンガ工場の労働者の言葉が思い出される。その言葉は両親が僕たち兄弟を育て上げるために身を粉にして働いていたあの姿とそのまま重なる。

それがわかったとき、妙に自分の中で合点がいったのだった。そして、改めてこう思うのであった。働くのは生きるためなんじゃないかと。

 

「もう帰るのか。次はいつ来る?」

 帰る間際、エクボルをはじめ、皆が別れを惜しむように言ってくれた。

「次は家族連れてこいよ」

ここに家族を連れてくるのはハードルが高いなあと思いながら、必ずまた来ることを約束して彼らと固く手を握り合い工場を後にした。

いつまでも手を振ってくれる彼ら。僕も何度も手を振りながら4日前に来た道を戻る。そして近くの幹線道路に出て、ミニバスを捕まえて乗り込んだ。

座席に着くとゆっくりと出発するミニバス。車窓からさっきまでいた工場が見える。バカでかい煙突の下で、小さな人影が蠢く。あ、あれはあの人だな、今あの作業してるんだなと思いながらその景色を眺める。4日前にここに初めて来てこの景色に立ち会った時とはまったく異なる景色がいま僕の前には広がっていた。

ミニバスが速度を上げる。段々遠ざかっていく煙突群。

“今度は写真持ってくるからなあ”と心の中でつぶやいて、いつまでも外を眺めていた。

(「バングラデシュのレンガ工場」了)

第3話②DSC_1617