scrap book スクラップとは、断片、かけら、そして新聞や雑誌の切り抜きのこと。われらが植草甚一さんも、自分の好きなものを集めて、膨大なスクラップ・ブックを作っていた。ここでは、著者の連載から、対談、編集者の雑文など、本になる前の、言葉の数々をスクラップしていこうと思います。(編集部)
モヤモヤの日々

第248回 コーヒーの香り

浜の真砂は尽きるとも世にモヤモヤの種は尽きまじ。日々の暮らしで生まれるモヤモヤを見つめる夕刊コラム。平日17時、毎日更新。

昨日の正午過ぎに、妻と赤子(1歳7か月、息子)と愛犬ニコルが、妻の実家に帰省した。東京に住んでいる親戚が帰省するタイミングに合わせたため、昨日の出発となった。年明け締め切りの仕事を若干と私用を残した僕は、まだチケットを取っていないものの、少なくともこの連載が終了する12月30日頃までは東京にいる。なんか、ひとりになってしまった。

僕の実家には帰省したばかりなので、この年末年始は妻の実家にお邪魔することになった。赤子と犬の成長に、義父母は驚いているだろう。狭いと思っていたマンションの部屋は、3人(1匹含む)がいなくなると広々としている。そしてなにより静かである。静かすぎて師走の喧騒が窓に響いてくる。

普段はまったく気付かなかったけど、赤子と犬の臭いが部屋には充満している。ひとりになり、自分の体臭が嗅ぎ分けられるようになって、部屋の臭いを意識するようになった。赤子はミルクと汗が混じり合ったような臭い。犬は雨の日の草むらみたいな獣臭さ。臭可愛い(くさかわいい)ニコルの独特の臭いである。

もちろん、赤子と犬は排泄の世話が必要だから、言葉そのままの意味でも臭いときがある。しかし、犬はドッグフードしか食べないため実際にはそんなに臭くなく、最初はなかなか気づいてあげられなかった。ニコルは一部界隈から“姫”と呼ばれているだけあって、大きなほうの排泄をした場合、すぐに片付けてもらいたがる。早く片付けて、と懇願したような目をしてその場に座っているのだ。なんて可愛い犬だろうか。

35歳のとき、僕は慢性副鼻腔炎(蓄膿症)と鼻中隔弯曲症などの手術をした。以来、はじめて松茸が美味しいと思うくらいに嗅覚が回復した。ただのキノコが秋の香りがするキノコになった。だから一緒に暮らすのに慣れていくにつれ、ニコルの排泄にも気付いてあげられるようになった。

部屋に赤子と犬の臭いはまだ残っているが、数日後には消えてしまうのだろうか。今朝、起床してお湯を沸かし、インスタントコーヒーを淹れた。赤子と犬がいないから、いつもより強くコーヒーの香りが鼻を刺激した。ひとり暮らしをしていた頃を思い出して、若返った気がした。コーヒーの朝の香りはその苦さが心地よかったけど、僕はちょっとだけ寂しくなった。なるべく早く仕事を終わらせようと、ひとりで呟いたりしてみた。

 

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    長野生まれ。個人的な体験と政治的な問題を交差させ、あらゆるクィアネスを少しずつでも掬い上げ提示できる表現をすることをモットーに、イラストレーター、コミック作家として活動しつつ、エッセイなどのテキスト作品や、それらをまとめたジン(zine,個人出版物)の創作を行う。