ポリアモリー編集見習いの憂鬱な備忘録

scrap book スクラップとは、断片、かけら、そして新聞や雑誌の切り抜きのこと。われらが植草甚一さんも、自分の好きなものを集めて、膨大なスクラップ・ブックを作っていた。ここでは、著者の連載から、対談、編集者の雑文など、本になる前の、言葉の数々をスクラップしていこうと思います。(編集部)
モヤモヤの日々

第245回 手紙

浜の真砂は尽きるとも世にモヤモヤの種は尽きまじ。日々の暮らしで生まれるモヤモヤを見つめる夕刊コラム。平日17時、毎日更新。

数年前から年賀状を送るのをやめてしまった。喪中が続いたという理由もあるが、住所を記入するなどの作業が苦手な僕には、どうも億劫すぎたのである。以来、年賀状をいただいた人に返事を書いて送るのみになってしまった。なんという不義理だろうか。かわりに毎年、妻に描いてもらった年賀イラストをSNSにアップしている。例年よりは時間があるものの、今年も年賀状を書く時間が確保できそうにない。妻が楽しんでやってくれていることだけが心の救いである。僕の顔はイラストにし甲斐があるのだそうだ。

中原中也は手紙魔で有名だった。詩や散文、日記のほかに、たくさんの書簡が遺っている。大岡昇平が「(生前の中也が)一番頼りにした友人」と称した安原喜弘は、『中原中也の手紙』(青土社)を出版している(一時は公開を躊躇していたらしい)。それによると、中也は、「いつもかなりの切手をポケットに入れて歩いていた」という。どこからでも手紙を出すのが詩人の癖だった。しかし、現金がないときなどには、その切手を煙草や電車賃、昼飯代にしていた。

安原への手紙(昭和5年5月9日、封書)に、

煙草が吸へないことを観念して、月があむまりよかったし、夜気と埃は青猫のやうに感じられる江戸河沿ひの道を、随分歩いた。そのうち切手を持ってることに気がついて、三銭切手を五枚出してエアシップ一つ貰った。煙草が手に入ると随分嬉しかった。ひとしほ悠然と歩いたものだった。

と、中也は書いている。同年5月21日の手紙にも「近頃の夜歩きは好い。月が出てゐたりすると僕は何時まででも歩いてゐたい。実にゆっくり、何時までも歩いてゐたいよう!」と綴っていて、6月15日には「ポッカリ月が出ましたら、」ではじまる有名な詩「湖上」(『在りし日の歌』)を書いた。23歳だった。さらに手紙の末尾に、「さよなら 中也」「センチメンタル 中原中也」「一人でカーニバルをやってた男 中也」などと記しているところが、自己演出が好きだった詩人らしくてなんともカッコいい。

現在では、小説家も詩人も評論家も編集者も、手紙を書く人は以前より少なくなっているはずだ。僕は文学館などに展示されている手紙を見るのが大好きである。そこからその人となりが読み取れるだけではなく、直筆の文字を見られるという意味でも、手紙は第一級の資料だと思う。しかし、現在を生きるデジタル世代の作家の手紙は、どれだけ後世に遺されるのか。おそらく普段のやりとりは、Eメールやメッセージアプリを使ってなされているだろう。デジタルデータは、現物の紙よりも実は消失しやすい。

先日、僕の中原中也についての論考が載った文芸誌『しししし 4』(双子のライオン堂発行)を献本したある人から、ハガキで丁寧なお礼の返事をいただいた。とてもうれしかった。文章や筆遣いから、その人の人柄が伝わってくるようだった。僕も切手をポケットに入れて持ち運ぼうかと一瞬思ったけど、だらしない僕は、きっと汚してぼろぼろにしてしまうに違いない。電車賃や昼飯代にかえることもできないだろう。

僕の手紙がのちの時代に資料的価値を持つことはないと思うが、せっかく小説家や詩人、評論家、編集者と交流があるのだから、いただいたものは大切に保管しておかなければならない。その手紙のなかに、貴重な資料となるものがあるかもしれないからだ。汚く保管して、後世の人から呆れられませんように。資料を読解する研究者にご迷惑をおかけすることだけは、なんとか避けたいものである。

 

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    長野生まれ。個人的な体験と政治的な問題を交差させ、あらゆるクィアネスを少しずつでも掬い上げ提示できる表現をすることをモットーに、イラストレーター、コミック作家として活動しつつ、エッセイなどのテキスト作品や、それらをまとめたジン(zine,個人出版物)の創作を行う。