膝の皿を金継ぎ
- 第8回 2月の日記(後半) 2024-03-28
- 第7回 2月の日記(前半) 2024-02-27
- 第6回 わからなさとの付き合い方 2024-01-29
- 第5回 サバイバル煮物 2023-12-28
- 第4回 ところでペットって飼ってます? 2023-11-30
- 第3回 喋る猫はいなくても 2023-10-31
- 第2回 夢のPDCA 2023-09-29
- 第1回 ここではない、青い丸 2023-08-31
アワヨンベは大丈夫
- 第8回 ウサギ小屋の主人 2024-03-17
- 第7回 竹下通りの女王 2024-02-15
- 第6回 ママの恋人 2024-01-11
- 第5回 Nogi 2023-12-11
- 第4回 セイン・もんた 2023-11-15
- 第3回 私を怒鳴るパパの目は黄色だった 2023-10-13
- 第2回 宇宙人とその娘 2023-09-11
- 第1回 オール・アイズ・オン・ミー 2023-08-11
旅をしても僕はそのまま
- 第5回 アシジと僕の不完全さ 2024-01-27
- 第4回 ハバナのアルセニオス 2023-11-15
- 第3回 スリランカの教会にて 2023-09-16
- 第2回 クレタ島のメネラオス 2023-06-23
- 第1回 バリ島のゲストハウス 2023-05-31
おだやかな激情
- 第10回 ちぐはぐな部屋 2024-03-05
- 第9回 この世の影を 2024-02-02
- 第8回 映したりしない 2024-01-11
- 第7回 とばされそうな 2023-12-04
- 第6回 はらはら落ちる 2023-11-01
- 第5回 もしもぶつかれば 2023-10-02
- 第4回 つややかな舌 2023-09-02
- 第3回 鴨になりたい 2023-08-01
- 第2回 かがやくばかり 2023-07-04
- 第1回 いまこのからだで目に映るもの 2023-05-31
- 第4回 うまくいかなくても生きていく──『十二月の十日』ジョージ・ソーンダーズ 2023-09-25
- 第3回 元恋人の結婚式を回避するために海外逃亡──『レス』アンドリュー・ショーン・グリア 2023-04-21
- 第2回 とにかく尽くし暴走する、エクストリーム片思い──『愛がなんだ』角田光代 2023-01-17
B面の音盤クロニクル
- 第8回 その日はあいにく空いてなくてね──Bobby Charles, “Save Me Jesus” 2024-03-08
- 第7回 クリスマスのレコードはボイコットする 2023-12-22
- 第6回 とうとう会得した自由が通底している 2023-05-06
- 第5回 あれからジャズを聴いている理由──”Seven Steps to Heaven” Feat. Herbie Hancock 2023-04-04
- 第4回 「本質的な簡素さ」の歌声──Mavis Staples “We’ll Never Turn Back” 2023-03-01
- 第3回 我が家にレコードプレイヤーがやってきた──Leon Redbone “Double Time” 2023-01-08
- 第2回 手に届きそうな三日月が空に浮かんでいる──Ry Cooder “Paradise and Lunch” 2022-12-07
- 第1回 きっと私たちが会うことはもうないだろう Allen Toussaint “Life, Love, and Faith” 2022-11-04
- 第16回(最終回) 「本物の詐欺を見せてやるぜ」@ジョン・ライドン 2022-07-04
- 第15回 文明化と道徳化のロックンロール 2022-06-10
- 第14回 ミスマッチにより青年は荒野を目指す 2022-06-02
- 10 もうひとつの現実世界――ポスト・トゥルース時代の共同幻想(後編) 2021-07-06
- 9 もうひとつの現実世界──ポスト・トゥルース時代の共同幻想(前編) 2021-05-03
- 8 あるいはハーシュノイズでいっぱいの未来 2020-05-05
第233回 吾輩は僕である
吾輩は僕である。僕は文章を、一人称単数の主語で書くことにこだわっている。昔はそうでもなかったのだが、たとえば「僕たち」「私たち」「我々」といった主語はその範囲が明確ではない限り使わないよう、あるときから決めた。前著では「ぼく」という主語を用いた。「ぼく」がすべての責任を負いたいと思ったからだ。しらじらしく、恣意的な文章にはしたくなかった。
もちろん、文章の種類によっては一人称複数を使うのが作法の場合もあるし、表現によってはそっちのほうが馴染むケースもある。しかし、とくにエッセイやコラムでは、気を抜くと一人称複数の主語を無意識に使ってしまう。「たち」を特定しないまま使ってしまいがちになる。そうすると、なんだか人ごとのように感じてきてしまい、思ってもいないことを書いたり、文章の精度が下がったりすると気が付いた。人それぞれ考え方の違いがあるから、一人称複数を使っている文章がダメなわけではない。好みの問題であると同時に、ただ単に僕が愚鈍で無責任な人間なので気を付けているというだけのことである。レトリックとして「我々人類は」などと、大きな主語をわざと使ったりもする。
書評する際も、同様に気を付けている。自分の評は自分で責任を持ちたい。ところが、これは掲載される媒体にもよるのだが、「僕」や「私」という主語が馴染まない場合がある。だから、最近では「評者」という主語を使っている。「筆者」と書くのが一番しっくりくる一方、「著者」と見分けがつきにくいため(あくまで字面の問題だ)、今のところは「評者」に落ち着いている。最終的には、編集者の判断をあおぐことになる。
僕がなぜこんな原稿を書いたのかというと、「僕」「ぼく」はいつまで使っていいのかと、ふと思ったからだ。もうすぐ40歳なのだから、よりしっかりしたイメージがある「私」をそろそろ使うべきだろうか。この連載の主語は「僕」のわけだが、「私は犬と赤子が好きである」だったらどうだろう。ちょっと印象が変わってくる。「吾輩は犬と赤子が好きである」だと、それこそ夏目漱石の小説みたいになってしまう。
小生は筋トレが大嫌いだ。拙者の朝顔が、ついに咲いた。儂(わし)はこの前、ラジオ番組に出演したのだが……。どれもこの連載に出てきそうな文章である。どうもしっくりこない。僕は普段、親しい友人には、「俺」という一人称を使っている。最近、俺がモヤモヤするのは、と書いてみたものの、やっぱり「らしく」ないなと思った。僕は僕のままでいいのだろうか。80歳になっても僕でいいのだろうか。
なんとも悩ましい。80歳まで生きることができてから考えればいいのかもしれない。しかし、すでにもういい年齢である。僕は僕であり続けていいのだろうか。哲学問答のような話にもなってきてしまった。ちなみに、愛犬ニコルは「あたし」という主語を使っているのではないかと、僕は勝手に思っている。なんとなく、「わたし」ではなく、「あたし」という感じがしている。夏目漱石の猫は「吾輩」だったけど、ニコルは絶対に違う。でも犬だから、「ワン」とか「ワゥッ」とか「クゥン」としか言わない。