scrap book スクラップとは、断片、かけら、そして新聞や雑誌の切り抜きのこと。われらが植草甚一さんも、自分の好きなものを集めて、膨大なスクラップ・ブックを作っていた。ここでは、著者の連載から、対談、編集者の雑文など、本になる前の、言葉の数々をスクラップしていこうと思います。(編集部)
モヤモヤの日々

第224回 僕が走った

浜の真砂は尽きるとも世にモヤモヤの種は尽きまじ。日々の暮らしで生まれるモヤモヤを見つめる夕刊コラム。平日17時、毎日更新。

赤子がやった。僕が走った。赤子(1歳6か月、息子)はとにかく悪戯が好きで目が離せない。今日も朝から活発に動いていた。僕と妻はリビングで赤子を見守りながら、いろいろと作業していた。

ほんの一瞬だった。僕と妻が目を離した隙に、赤子が椅子によじ登ろうとして転けた。たまにあることなので気をつけてはいた。しかし今回は打ちどころが悪かったようで出血した。どうやら口の中を切ってしまったらしい。慌てて確認したが、歯が折れたり、大きな傷口ができたりしている形跡はなかった。赤子は大音量で叫び、泣き止まなかった。僕と妻はパニック状態になってしまった。

僕が赤子の状態を再確認し、その間に妻が近くの小児科に電話をかけた。すぐに来院してほしいとのことだった。家から徒歩10分の病院である。僕と妻はほとんどパジャマ姿のまま病院へと急いだ。

念のため用意した赤子グッズ(保険証やおむつや飲み物など)を妻が持ち、僕は赤子を抱きかかえた。小走りで病院までの道を先導する妻、それを追う僕。そのときはとても言い出せなかったが、僕は倒れそうだった。赤子が重い。すでに12キロ近くあるのだ。一方、赤子はというと、いつのまにか泣き止み、「あぷあぷあぷ」と僕の腕の中ではしゃいでいた。マスクをしていて息がうまく吸えない。

赤信号に引っかかった。妻は焦り、僕も焦っていたが、倒れたら赤子も危ないので僕はしゃがみ込んで待った。まもなく病院に着き、妻と赤子は診察室に入った。僕は待合室の椅子に座った。息が上がって苦しかった。予備運動もしないまま赤子を抱えて走ったため、貧血っぽい症状を起こしていた。僕はたまらず椅子のうえに横たわった。親切な受付の女性が「大丈夫ですか?」と声を掛けてくれた。

結果、赤子は口の中を少し切っただけで無事だった。本当によかった。あまり無事ではなかった僕は血の気が戻ったあと、「マスクを取り、外の空気を吸ってきたほうがいい」と助言され、その通りにした。医師は「これから成長すると、もっと活発に動くようになるので注意してあげてください。帰ってから様子がおかしかったら、またすぐに来てくださいね」と言った。むろん赤子のことである。

帰り道は「よかった、よかった」と夫婦で言い合いながらゆっくり歩いた。「◯◯君、しっかり見ていなくてごめんね」と謝る妻に、赤子は「あぷあぷあぷ」と答えていた。その後、赤子は元気である。家で心配そうにして待っていた愛犬ニコルに、「体力をつけるために、散歩を長めにさせてね」と僕は言った。

 

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    長野生まれ。個人的な体験と政治的な問題を交差させ、あらゆるクィアネスを少しずつでも掬い上げ提示できる表現をすることをモットーに、イラストレーター、コミック作家として活動しつつ、エッセイなどのテキスト作品や、それらをまとめたジン(zine,個人出版物)の創作を行う。