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B面の音盤クロニクル
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第1回 比喩という弱い言葉
メタファーには僕らを解放してくれる力がある。よきメタファーを生み出すことができれば、その分だけ僕らの思考は自由になる。メタファーは人間にしか操ることのできない「世界把握の方法」なのだ。
五感で検知できる世界から転じて、もう一つ別の世界へ。傷が何かの兆しに変わり、その傷によって人がその人らしくなるような生のありかたとは? 『世界は贈与でできている』『利他・ケア・傷の倫理学』の著者が送る、メタファーを軸にすえた哲学的考察。
比喩について僕なりに考えていきたいと思います。
なぜ比喩か?
それは、比喩が言語表現の単なる「飾り」ではなく、極めて人間的なものだからです。というよりも、メタファーは人間だけがもつ認識システムであると言ってもいいかもしれません。言い換えれば、比喩、メタファーは人間にしか操ることのできない「世界把握の方法」なのです。
例えば、「硬い」という性質。
手で触ってみたり、落としてみたり、あるいは自らの身体をその物体に衝突させてみれば、「硬い」かどうかは分かります。だから、この字義通りの意味での「硬い」というのは、人間以外の動物もおそらく認識可能なはずです。猫も犬も、もちろん「硬い」という文字や音声としての記号こそ使うことはありませんが、彼らだって硬い/硬くないという物理的性質は認識しているはずです。噛んでみて、それが噛みとおすことができるエサなのかとか。よく食べるエサとあまり食べないエサの違いに硬さ(あるいは柔らかさ)が示されるということもあるはずです。物理的、科学的に測定することもできます。硬度として。どれくらいの強さの外力によって、どれくらいの傷がつくのかという指標をもって。
問題はここからです。
教えられた通りにしか行動できなかったり、マニュアル通りの振る舞いをする人を見て、僕らは「あなたは頭が硬い」と言ったりする。
「頭が硬い」
これは一体何を意味しているのでしょうか?
もちろん、これがメタファーです。実際の頭蓋骨の硬さとは関係ありません。そしておそらくですが、脳という臓器自体の硬さ(というよりも柔らかさ)とも相関関係はありません。僕らが「頭が硬い」とか「頭が柔らかい」と口にしている時、そこで語られている「硬さ」は抽象的な硬さなのです。
目で見ることも、触ってみることも、測定することもできない「硬さ」のことなのです。
だから、こんな日常的な言語表現においても僕らは、抽象的な頭の、抽象的な硬さについて言及していると言えます。測定はできるのではないか? と思われるかもしれませんが、測定されるのはIQや何か別の具体的な指標(何問中何問正解できたかとか、何秒で処理できたかという数値)であって、硬さそのものではありません。
「それはもちろん、頭蓋骨の実際の硬度を意味していない。そうではなくて、状況に柔軟に対応できるか、という意味に過ぎない」と言いたくなるかもしれませんが、ここにも再びメタファーが入り込んでしまっています。
「柔軟」という語。
「硬い」というメタファーを回避しようとして、「柔らかい」というメタファーを使ってしまっています。
いずれにせよ、だから日常的なメタファーであっても、そこには抽象の世界、言ってみればイメージの世界が開かれているのです。
そしてなぜか状況対応が上手い、下手ということを表そうとして、僕らは頭が硬い/柔らかいという、硬さという物理的性質から転じて生み出されたメタファーを使うのです。
「あなたは頭が明るい」とか「彼は頭が暗い」ではなぜだか分からないけどダメで、あるいは「頭がいっぱい」とか「からっぽ」(もちろんメタファーです、脳はいつだって頭蓋骨の中にあります)だと、なぜだか別の意味になってしまいます。
よいでしょうか?
何が言いたいかというと、僕らは決して、目に見え、聞き、嗅ぎ、味わい、触れたものそのものの世界を生きているのではない、ということです。現実の、物理的世界の把握から転じて、言葉を別の次元、すなわち抽象的なイメージの世界の把握に使用することができるのが人間という動物なのです。
さらには「甘い歌声」というように、味覚と聴覚が混線した表現、つまり共感覚的な表現すら、たやすく使っているのです。
物理的世界の情報だけを単に処理しているのではなく、僕らはそこから転じて生み出されるメタファーの領域、つまりイメージの世界を生きているのです。それはいわば、地表を動き回ることしかできなかった単なる動物(物理的世界のみを生きる動物)から、どこまでも拓かれた天空を飛翔することができる種(メタファーの世界、イメージの世界を生きる動物)になったのが人間だということです。
五感で検知できる世界から転じて、もう一つ別の世界へ。
目に見えないものを言語使用に織り込ませて、しかもそれを他者と共有することができるという、不思議な動物が人間なのです。
メタファーには僕らを解放してくれる力がある。よきメタファーを生み出すことができれば、その分だけ僕らの思考は自由になる。ある対象の見え方が固定化されているときであっても、メタファーはその対象に違った光を当ててくれる。
なぜメタファーにそのような力があるかというと、メタファーは「弱さ」を有しているからです。ここでいう「弱さ」というのは一つには、メタファーは一義的でない、ということです。メタファーと世界は、一対一で対応しているのではない。そしてそれゆえ、メタファーはその聞き手すなわち受取手に開かれています。
メタファーは一義的ではなく、そのメタファーが担う意味は受取手に開かれている。
どういうことか?
例えば、「僕は月であり、彼女が太陽だ」と言ったとします。
さて、これはどのように聞こえるでしょうか? 人によってさまざまな解釈が可能だと思います。それに対し、仮にその意味するところを、この話者が十全に語り切ってしまったとしたらどうでしょう。「それはつまり、僕が輝くことができるのは、彼女の存在があるからだ」とか(さりげないですが、「輝く」というのも比喩ですね。身体が発光するわけではありませんから)。
この場合、月、太陽、そしてそれを見届ける地球の関係性が、僕、彼女、聞き手(あるいは周囲の者たち)の関係性に擬えられているという部分が消えてしまっています。あるいは、そもそも、もしこの意味合いで伝えたかったのならば、最初からこのように字義通り伝えればよかったはずです。にもかかわらず、この話者は「僕は月であり、彼女が太陽だ」というメタフォリカルな表現を使用した。だとすれば、そこには文字通りの意味には回収されない、何かしらのメッセージが含まれているはずです。
なぜ僕らはメタファーを使用するのか?
それは、一義的な意味ではなく、その表現が担う「イメージ」を伝えたいからです。
イメージそれ自体を、意味を経由することなく、ダイレクトに表現したいという欲望が、僕らにメタファーを語らせる。
イメージあるいはモチーフの伝播。風景の提示。
それが比喩の担うメッセージです。
あるいは、それこそが比喩の意義、価値と言ってもいい。
そして、メタファーの機能が一義的な意味の共有ではなく、イメージやモチーフの伝播であるならば、そのメッセージは話者の所有物ではない、ということになります。なぜなら、話者がその比喩の作者 authorとしてその意味を一義的に語り直す権限 authorityを持たないからです。一義的な語り直しによって、そのメタファーはメタファーとして機能しなくなります。
一義的な意味を有した瞬間、メタファーはメタファーとしての死を迎える。
「死んだメタファー dead metaphor」という概念があります。
死んでしまったメタファー。
これは例えば、先に書いた「頭が硬い」であったり、「スター」や「台風の目」というようなものです。頭の実際の硬さとは関係がないのに、硬いとか柔らかいと言い、華があり、聴衆を魅了する歌手はもちろん人間であり星ではないのですが「スター」と呼ばれ、視力があるわけでもないのに台風には「目」がある。だから、メタファーではあります。
では、これらがなぜ死んだメタファーかというと、多義的な色彩を失い、その語の「使用法」が固定されるからです。
生き生きとしたメタファーはこの表現の使用法はこれこれである、と述べることができないが、死んだメタファーは「我々はこのように使用している」と規定することができる。言い換えれば、死んだメタファーには「正しい使用法」と「間違った使用法」があり、間違った使用をしている者には注意し、訂正を促すこともできます。その意味において、この言語使用には権威authorityが存在しています。なぜなら、死んだメタファーはもはや多義的な使用を許容しないからです。多義的に使うことができないから辞書にもきちんと語釈が載っていて、常套句としての人々の間で流通します。注意したり、訂正を促すことができる権威性があるということは、「強い」ということです。ですが、メタファーにはそういった権威性がありません。したがって、その意味において、メタファーは弱いのです。
まとめればこうなります。
抽象的であり使用法がいまここで生成されるのが生き生きとしたメタファーであり、抽象的ではあるけれど使用法が固定化された常套句が死んだメタファーです。
抽象的で、多義的な、生き生きとしたメタファー。
これに関連して、宗教学者ミルチャ・エリアーデはこう記しています。
イメージはその構造上「多価的」なのである。もし精神がイメージを用いて事象の究極の実在を把握するとすれば、それはまさしくその実在が矛盾した仕方で顕現するからであり、したがって諸々の概念によっては表現されえないからである。(…)イメージとはそのようなものであってみれば、それが「真なもの」となるのは、もろもろの意味の束としてでのかぎりであって、「その意味作用のどれかひとつ」、あるいは「多くの関係づけの枠組の中の唯ひとつ」のものとしてでのかぎりではないのである。(『エリアーデ著作集 第4巻 イメージとシンボル』、せりか書房、1988年、20頁)
エリアーデの指摘の中で、イメージ(それゆえ比喩)のもう一つの性質が語られています。
それは「矛盾」です。
確かに、メタファーには矛盾が含まれています。先ほどの「僕は月であり、彼女が太陽だ」という言葉もよくよく考えてみると、矛盾を内包しています。当たり前の指摘ですが、僕は月ではないし、彼女も太陽でなく人間です。スター、台風の目も死んだメタファーではありますが、同様に矛盾は含んでいます。星ではないのにスターであり、目ではないのに目だからです。矛盾とはAであり、かつ、Aでないと満たしてしまうもののことです。
さて、エリアーデの記述と絡めて、ここまでの議論をまとめます。
エリアーデはイメージというものは多価的(=「意味の束」、多義的)であり、イメージと概念の間の一対一の関係性は成立しない、と指摘しています。また、究極の実在は矛盾した形で出現するがゆえに、明示的な言葉(=概念、論理)では表現することはできず、したがってそのとき僕らはイメージを使用する。すなわち言語としては、メタファーを使用する。
僕らはソリッドな言葉、すなわち意味の明確な言葉を使用することに日々勤しんでいる。学問の場でもビジネスの場でも新たな概念をどんどん生み出し、またそれにキャッチアップし、流暢に語れるようになることを嘉する。ある言葉を相手が理解できないときは、すかさず平易な言葉に置き換え、言い換える。端的に語り、ときに一言で要約する。
それは強い言葉と言える。
そこは理性や論理、計算的思考が活躍する舞台である。
しかし、そのようなスマートで鋭い言葉で、僕らのこころが語れるだろうか?
そんな足取りの軽やかな演者たちが舞う舞台に、僕らのこころは位置付けられるだろうか?
僕らに必要なのは、もっと弱い言葉ではないか。
要約できない言葉、他の言葉では言い換えられない言葉、情報に変換できない言葉ではないか。
エリアーデの言葉の中にあった、「多価的であり、意味の束として矛盾した形で顕現する究極の実在」と言われると想像もつかない代物に思われるかもしれないが、これを満たす身近な存在がある。
それは、僕らのこころである。
多義的で、矛盾し、その意味するところを明確に語ることのできる権威 authorityが存在しない言葉。意味を確定できる権威不在であるがゆえに、受取手に開かれた言葉。差出人と受取人の合作によって成立する言葉。
それこそが、僕らのこころを表現できる。
怒りと悲哀がマーブル模様のように入り混じったこころ、大きな喜びと同時に正体のわからないもの寂しさをはらんだこころ。そもそもこころという実在があるとすれば、それは本来的に矛盾した形で存在している。そんなこころを一義的な、文字通りの意味で表現できるはずがない。
しかし、メタファーによって同じイメージを、それぞれ異なった仕方で共有できる。意味するところは異なっているかもしれないが、同じイメージ、同じモチーフ、同じ風景を共有できる。それは、多義的で矛盾した言葉、すなわち弱い言葉を語ることで初めて可能になる。
排除するべきと思っていたものが祝福へ転じる契機。そんな一見、あり得ないと思われる事態ですら、メタファー、イメージ、詩であれば表現できる。台湾の政治家オードリー・タンがしばしば引用する詩がある。カナダのシンガー・ソングライターであるレナード・コーエンの「Anthem」という詩の一部を引用してみたい。
There is a crack in everything (すべてのものにはヒビがある)
That's how the light gets in (光はそこから入るのだ)
僕はこれを読んだとき、金継ぎを思い浮かべた。
大切にしていたうつわがある。しかし、あるときその陶器を割ってしまった。
しかし、金継ぎすることで、そのヒビ割れがそのうつわの個性となる。
人間も同じように生きることができないだろうか。傷が何かの兆しに変わり、その傷によって私は私になる。
すべてのものにはヒビがある。
光はそこから入るのだ。
あなたにはこれがどう響くだろうか。
この言葉は、論理の彼岸にある。
論理は矛盾を許容しない。
しかし、メタファーは矛盾しているからこそ言語として機能する。
かくして、メタファーは論理を補完する。論理だけでは足りないところを、メタファーが埋めてくれる。