scrap book スクラップとは、断片、かけら、そして新聞や雑誌の切り抜きのこと。われらが植草甚一さんも、自分の好きなものを集めて、膨大なスクラップ・ブックを作っていた。ここでは、著者の連載から、対談、編集者の雑文など、本になる前の、言葉の数々をスクラップしていこうと思います。(編集部)

第3回 なぜ歌うのか? なぜ踊るのか? なぜ戦うのか?

ロックとはなんだったのか? 情熱的に語られがちなロックを、冷静に、理性的に、「縁側で渋茶をすするお爺さんのように」語る連作エッセイ。ロックの時代が終わったいま、ロックの正体が明かされる!?

人間がなぜ歌を唄うのか? という話はかなり根源的で、単に唄うだけではなくゴリラのパント・フートのように仲間と集まって皆で我を忘れてノリノリになるという点が重要である。ロックコンサートに行ったことのある人なら体験的に知っていると思うけれども、皆でノリノリになると一体感が生まれますね。そして、大勢でノリノリになった時にヒトは、個人の力ではできないようなことを達成してしまう力がある。基本的に道徳心のあるヒトが、戦争とか暴力革命、クーデターみたいな野蛮なことをやれてしまうのは、集団でノリノリになるからだろう。

ヒトはチンパンジーやゴリラと同じように集団生活する動物だが、ヒトが作る集団はチンパンジーやゴリラとは違って人数制限がない。チンパンジーやゴリラの集団は人数が増え過ぎると分裂したり、他の集団に移籍する個体がいたりして、どこまでいっても「村」くらいの規模におさまる。ヒトだけがやたらと人数の多い「国家」みたいな集団を作ることができる。逆に言うと国家間の戦争は規模が大きいから凄惨な事態を引き起こすけれども、客観的に見ると類人猿の縄張り争いみたいなものだし、フランス革命だってボス猿の地位を争う闘争と変わらない。フランス革命というのは歴史上、割と扱いにくい出来事で、高邁な理想を掲げて市民革命を行った結果、理想は達成されたかに見えたけれども実はナポレオンという凶悪なボス猿が誕生してしまった、みたいな話である。昔はフランス革命というのは良い出来事だと言われていた。それに対して、いやいや、フランス革命って大惨事ですがな!と批判したのがイギリスのエドマンド・バークという人だ。それから幾星霜、今ではフランスサイドからもフランス革命はやり過ぎた、あれは大惨事だったという見方が定着している。これはつまり理想と現実の乖離ですね。この、理想と現実の乖離という現象は、幾度となくヒトを悩ませてきた。産業革命が起きて社会全体を工業化したら、皆が幸せになれる、と思ったら、工業化が公害を運んできたわけです。

理想と現実の乖離はおそらく、何かにつけヒトという動物がアクセルを踏みすぎ、ラチェットを回しすぎるから頻繁に起きる。これに対しては落ち着いて軌道修正するしかない。我々は頻繁に問題を起こす動物であると同時に、根気よく問題に対処しようとする動物でもある。三歩進んでは二歩下がる、という感じのトライ&エラーを繰り返し、何か失敗する度に軌道修正を重ねて巨大な文明を築いた。

ヒトの文化がここまで進歩した理由は何かというと、直立二足歩行にしたからだとか、脳が巨大化したからだとか、言葉を生み出したからだとか、諸説あるわけだが『火の賜物』という本で霊長類学者のリチャード・ランガムが着目したのは肉食と火の使用だった。つまり、肉を加熱調理したから人類は進歩したのだという説です。生の肉の塊をかじるのと、薄く切って焼いたり煮込んだりした肉を食べるのでは、どちらが消化しやすいだろうか。考えるまでもないですね。基本的に雑食であるチンパンジーも、時々は肉を食べる。主にアカコロブスという小型の猿を狩って食べるのだが、素手で殺して引き裂いて食べるわけだから食事にかける時間がめちゃくちゃに長い。それに比べて我々ヒトは調理されたハンバーガーをあっという間に食べてしまう。当たり前の話だが、一つのハンバーガーやカツサンドを生み出すためには、膨大なプロセスが必要となる。小麦の栽培、牛を育ててミンチにするまでの作業、ケチャップを作るためのトマトの栽培、ピクルスを漬けるための酢の醸造、細かく分けていくと気が遠くなるくらいのプロセスを経てハンバーガーは作られている。ミンチにした上に焼いてあるお肉は、チンパンジーが何時間もかけて咀嚼するアカコロブスの活け造りよりもずっと食べやすく消化しやすい。ヒトやチンパンジーが肉を食べる理由は簡単で、脂肪分のある肉は栄養価が高いからだ。だからこそチンパンジーは一日がかりでアカコロブスを捕まえ、素手と牙を使って引き裂き時間をたっぷりかけてクチャクチャと噛んで食べる。つまりチンパンジーと我々とでは、食事にかける時間が、言い替えれば食事に割くリソースが全然違うわけだ。この違いがどこから派生したかというと、ホモ・サピエンスが分業制度を確立したからである。集団で生活する生物としては蜂や蟻といった昆虫がよく知られているが、ヒトやチンパンジーといった霊長類は昆虫よりも個体差が激しい。大柄で力持ちな人もいれば、小柄で手先が器用な人もいる。つまり人によって得意分野が違うわけで、我々はそれをよく知っており、生きていく上で職業を選ぶ際にはできるだけ自分に向いた仕事を探そうとする。

たとえばロックバンドというのは、ヒトが作る職能集団の中で最もチームプレイに特化した、最小人数で構成される集まりだろう。ギターが上手い個体がギターを、ベースが上手い個体がベースを、ドラムが上手い個体がドラムを担当する。最低限で3人いればロックバンドは成立し、彼らが奏でる音楽には大勢のホモ・サピエンスをノリノリにさせる力がある。もちろん、アコースティックギター一本で大勢のヒトをノリノリにさせることができるアーティストもいるのだが、アンプラグドで音が届くのは数十人が限界だろう。スピーカーやアンプといった文明の利器を使うと、野球場に詰めかけた数万人のホモ・サピエンスをノリノリにできる。また、人類は録音機や映画といった記録メディアを発明したから、その光景を記録して再生することができる。バンドのメンバー以外にも音響スタッフであるとか会場の警備であるとか、様々な職種の人達が集まってスタジアムでの公演が可能となる。つまり全体を動かしているのは分業制度である。

集団で生活する哺乳類においては、各々の得意分野をはっきりさせて、各々の得意分野に専念した方が全体としての効率は高まる。チンパンジーがアカコロブスを狩る際にも集団で襲いかかるのだが、チンパンジーの狩りにはチームプレイの要素が少ない。個々のプレイヤーは優秀なのだが、チームとしての合同練習をしていないサッカーチームみたいなのだ。それに比べると初期のホモ・サピエンスが行っていた狩猟はかなり優れたチームプレイであったと考えられている。何しろ、我々の祖先は地上では最大の動物である象を狩って食べていたのだ。自分よりも大きな動物を狩って食べることのないチンパンジーから見たら、巨大な象に襲いかかるヒトの群れは狂気の集団に見えたのではないか。象のように巨大な動物を狩るためには、高度なチームワークと細かい役割分担が必要となる。また、狩った象を解体する際にも役割分担が必要だ。ヒトには個人差があり、得手不得手があるので足の速い個体がチームを組んで象を追いかけ、肩に自信のある個体がまたチームを組んで槍を投げつけたのだろう。獲物の皮を剥いで肉を切り出したり、皮をなめして衣服に加工するのにも専門的な知識と技能が必要になるから、歳老いた専門家は若者に自分の技能を伝授しただろう。ネアンデルタール人が使っていた石器は、かなり高度な技術がないと作れないもので、師匠から弟子に時間をかけてノウハウを伝授するための教育システムが既に確立されていたらしい。分業と学習教育、この2つの制度がヒトの先祖の文化を大いに躍進させたと考えてよいだろう。

たとえば家を建てる時には大工さん、電気屋さん、ガス屋さん、水道屋さんといった専門職が集まってきてユニットを結成する。それぞれの専門職ユニットも、棟梁と呼ばれるリーダーがいて熟練の職人がいて、見習いがいて、という風に複数の人間で構成されている。この、専門職の分業化と細かいユニットを結成する能力というのは凄いもので、個人では絶対になし得ないような大きな仕事を可能にする。ご存知のように、ビートルズは組織構成員が4人しかいないのに、世界的な成功をおさめた。ロックバンドは、ヒトが生み出した分業制ユニットの中でも最も効率の良いシステムの一つだろう。最小限ギター、ベース、ドラムの3人がいれば成立して、たった3人で世界的な知名度と財産を手に入れることができる……かもしれない。ただし、平均的な成功率は大工や電気屋よりも遥かに低い。

考古学者のスティーヴン・ミズンは『歌うネアンデルタール』という著作の中で、言語を持たなかったネアンデルタール人がHmmmmmという言語のプロトタイプのようなコミュニケーション方法を使っていたのではないか? という仮説を論じている。Hmmmmmを簡単に説明するとですね、赤ちゃんや子猫に話しかける時に、どういう語り口になるかを想像してください。我々は赤ちゃんに話しかける時にはナチュラルに、あばばばば〜とか言ってしまうわけだが、ミズンの言うHmmmmmコミュニケーションはそれに近いものだ。ネアンデルタール人は、進化したあばばばば〜とジェスチャーの組み合わせで、高度な石器の作り方を師匠から弟子へと伝授していたらしいのだ。そして高度な技術を持った個体は、年老いてからも教え子となる若者たちから尊敬されるから、集団の中に秩序が生まれる。

そしてヒトには大型の動物を狩る以外にも、チームを組んで戦う必要があった。我々の先祖が住んでいたと思われるサバンナ地方には、ライオンの先祖も住んでいたからだ。ヒトとライオンが戦えばか弱いヒトに勝ち目はないし、短距離走に関してもライオンの方が圧倒的に早い。飢えたライオンを、たとえば現代社会のオフィスや電車の中に放したら、ライオンによる一方的なお食事会が始まるだろう。我々の祖先がライオンの祖先からどうやって身を守ったかについては、ジョージア出身の音楽学者ジョーゼフ・ジョルダーニアが『人間はなぜ歌うのか?』という本の中で面白い仮説を唱えている。ヒトの先祖は、集団で横並びになってライオンの祖先を大声で威嚇したというのだ。そこにあったのは戦いのための叫び、シャウトである。顔や体にはペインティングをほどこし、毛皮の服を着ていたかもしれない。両手には石を持ち、石と石とをリズミカルにぶつけて音を出し、襲いかかってくるライオンには石をぶつけた。あまり知られていないようだが、ヒトには他の哺乳類よりも極端に秀でた能力があって、それは物を遠くまで投げる能力とマラソン的な長距離走の能力だ。短距離走でヒトよりも速い動物はいくらでもいるが、そういった動物の多くはトップスピードを長時間維持するような芸当ができない。多くの哺乳類は獲物に襲いかかる瞬間だけ、もしくは自分が獲物になりそうな瞬間だけトップスピードで移動する能力に特化しているのだ。

投擲能力に関していうと、ヒトは文句なしに化け物である。ゴリラやチンパンジーも物を投げることがあるけれども、彼らに野球のボールを渡して投げさせたとしても5メートルくらいしか飛ばないのだ。それに対してヒトがボールを投げた場合、子供でも20メートルくらい投げてしまうしプロのアスリートなら軽々と100メートル以上遠くまでボールを投げる。ヒトは進化の過程で、その手につかんだ物体を遠くまで投げるための骨格や筋肉を獲得したのだ。ゴリラやチンパンジーは何かを投げる時に手しか使わないから遠投ができない。ヒトは肩から背中の筋肉、更に全身の骨格を使って物を投げるから驚異的な遠投が可能になるのだ。

ヒトはライオンよりも華奢な動物だが、二足歩行をするから顔の位置はライオンよりも高い。だから集団で横並びになると巨大な化け物に見えた。確かに、こんな動物は他にはいない。また、ヒトは投擲能力が発達していたので、投石によってライオンに大きなダメージを与えることもできた。この仮説を読んだ時は、そこに描かれるヒトの姿があまりにも珍妙なので笑ってしまった。ジーン・シモンズ率いるKISSみたいではないか。しかし、考えれば考えるほど、この仮説には説得力を感じる。これくらいのことはやらないと、ヒトがライオンに立ち向かうのは不可能ではないか。ジョルダーニアは、こうやってライオンと対峙したヒトの集団は「戦闘的トランス状態」になっていただろうと言う。そう、集団で忘我の状態になるパント・フートと似たような現象です。集団で我を忘れると、仲間同士の間に隔たりがなくなるから何らかの敵と戦う時には都合が良いのだ。現代においても、軍隊で訓練を行う際にはリズムが重視される。ドラミング自体は、同じ祖先を持つゴリラやチンパンジーも日常的に使うコミュニケーションツールなのだが、ヒトはそれを戦闘にも使ったのである。

パント・フートは、集団が一体化するための平和なツールだけれども、ヒトはそれを軍事利用したともいえる。ヤバいなホモ・サピエンス。とはいえ、そうしなければヒトの祖先は生き残ることができなかったのである。ゴリラとボノボは、チンパンジーやヒトと比べるとかなり平和的な動物なのだが、彼らがそういう風に進化したのはどうやら環境のおかげらしいのだ。ボノボはコンゴ盆地の熱帯雨林にしか住んでいない。そこはある意味楽園で、チンパンジーや野生のヒトと比べると、ネコ科の肉食動物に襲われることが少ないのだ。あくまで例え話になりますが、チンパンジーやヒトはボノボよりも治安の悪い土地で育ったので、いささか暴力的なのだ。

少し整理しよう。集団で生活するゴリラ、チンパンジー、そしてヒトはリズミカルなジャムセッション=パント・フートを行うことによって仲間たちと一体化することができた。その中で、ヒトは自分たちよりも大きな動物を狩ったり、ライオンと戦ったりする必要があったので、パント・フートで一体化する機能を、戦闘的に使用するようになったわけだ。だからヒトという動物においては、平和と戦争が背中合わせなのですね。

輪島裕介の『踊る昭和歌謡』によると、西欧の先進国では、19世紀に真面目な音楽会を開くコンサートホールと、娯楽的な音楽施設が分離していったという。クラシック音楽は貴族的な人たちの鑑賞に特化し、大衆のための音楽はパリならばキャバレー、ニューヨークならミンストレル、と分化していった。何のことはない、大衆はずっと踊っていたのだ。こういった音楽の細分化は、アフリカにいた類人猿がゴリラやチンパンジー、そしてホモ・サピエンスへと分岐した進化の系統樹に似ている。文化もまた進化するのである。ただしヒトが作る文化の進化は、遺伝子によってゴリラの先祖がマウンテンゴリラとローランドゴリラに分岐するよりもずっと速いスピードで分岐が行われる。そして進化というのは基本的に良い方向に向かうわけではない、ただひたすら分岐するだけだ。

文化というのは継続しているうちに洗練される傾向がある。西欧音楽がクラシックという洗練された芸術になったのはある意味必然的なことだろう。これも一種の文化進化だ。そして、自分たちのやっている音楽を高尚な芸術として認められたいと思うのは人情である。20世紀に誕生したジャズやロックの中からも、芸術化する流れが生まれた。ジャズからはモダンジャズが生まれ、ロックンロールからはアート・ロックやプログレッシブ・ロックが出現した。

ただし、クラシック音楽であっても、ベートーベンの交響曲第九番を大勢で合唱すると、一体感が生まれ、パント・フート的な集団的な高揚感が生じることは御存知の通り。音楽というのは物理的な振動であり常に肉体的な体験なので、文化的に洗練されて芸術的になっていったとしても、本能に根ざしたパント・フート的なノリは消え去らないようだ。そして音楽においては、芸術的な洗練に向かうベクトルとプリミティブでポピュラーな方向を目指すベクトルとが真逆になるとは限らない。ロックに先立ってポピュラーな、大衆が踊れる音楽として誕生したジャズは、わりと早い段階で芸術的なイノベーションが起きたジャンルである。チャーリー・パーカーやマイルス・デイヴィスといった人たちのモダンジャズと呼ばれる音楽を聞くと、すぐには良さがわからない。芸術なので敷居が高く感じられるのですね。良さげなのはわかるけれども、なんだか難しい。ところが、マイルスのアルバムを聞いていくと、明らかにパント・フート的な集団でノリノリになるようなアルバムに出くわす。具体的に言うと1975年から翌年にかけて発表された『アガルタ』『パンゲア』というアルバムだ。これらは芸術性を追求したモダンジャズが、プリミティブでズンドコ踊るパント・フート的な境地にたどり着いた作品であるように思われる。これらのアルバムが発表された1970年代の半ばは、紛れもなくロックの全盛時代だったわけだが、同じ時代を制覇したロックバンド、レッド・ツェッペリンは初期から芸術性は高かったが、それと同時にプリミティブなパント・フート性が高い。ツェッペリンの曲はバラエティに富んでいるが、その要はリズムで、ジョン・ボーナムのドラムソロを電気的に加工した「モントルーのボンゾ」はどこか架空の国の民族音楽のようだ。つまり、マイルスとレッド・ツェッペリンは、それぞれ違うルートで音楽を突き詰めた結果、洗練されたアート的な音楽でありつつパント・フートのようなプリミティブな表現にたどり着いたのである。

モダンジャズもロックも、源流にあるものは同じ、アメリカの黒人奴隷の音楽である。ロックの正体を探るためには、歴史をさかのぼって奴隷貿易に目を向ける必要がありそうだ。


〈参考文献〉
リチャード・ランガム『火の賜物――ヒトは料理で進化した』依田卓巳訳、NTT出版、2010
スティーヴン・ミズン『歌うネアンデルタール――音楽と言語から見るヒトの進化』熊谷淳子訳、早川書房、2006
ジョーゼフ・ジョルダーニア『人間はなぜ歌うのか?――人類の進化における「うた」の起源』森田稔訳、アルク出版企画、2017
輪島裕介『踊る昭和歌謡――リズムからみる大衆音楽』NHK出版新書、2015

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    長野生まれ。個人的な体験と政治的な問題を交差させ、あらゆるクィアネスを少しずつでも掬い上げ提示できる表現をすることをモットーに、イラストレーター、コミック作家として活動しつつ、エッセイなどのテキスト作品や、それらをまとめたジン(zine,個人出版物)の創作を行う。