scrap book スクラップとは、断片、かけら、そして新聞や雑誌の切り抜きのこと。われらが植草甚一さんも、自分の好きなものを集めて、膨大なスクラップ・ブックを作っていた。ここでは、著者の連載から、対談、編集者の雑文など、本になる前の、言葉の数々をスクラップしていこうと思います。(編集部)
モヤモヤの日々

第134回 あるひとつの日常

浜の真砂は尽きるとも世にモヤモヤの種は尽きまじ。日々の暮らしで生まれるモヤモヤを見つめる夕刊コラム。平日17時、毎日更新。

また東京都に「緊急事態宣言」が発令されるそうだ。「緊急」だらけで、もうなにがなんだかわからない。調べてみたら4度目だという。感染拡大防止の対策は急務であるとはいえ、政治や行政の対応には不満だらけだし、このままでは経済が、生活がもたない。僕は、人命を最優先に考える社会になってほしいと思っている。しかし、足元の生活が崩れてしまっては人命も危うい。当然ながら、五輪開催と感染拡大防止対策との整合性も見いだせない。

息子(1歳1か月)は、1度目の緊急事態宣言下で生まれた。東京都心部での深刻な感染拡大が明らかになり、外出自粛が叫ばれる直前の3月に、妻は当初の予定どおり里帰り出産のため大阪に帰省した。それ以来、臨月、出産、産後に至る2か月半、妻と息子に一度も会えなかった。東京の自宅で一緒に生活し始めることができたのは、7月に入ってからだった。

東京郊外に住む僕の母をはじめとした親族に、いまだ息子を十分に会わせてあげられていない。最初の混乱期(当時は本当に先行きが不透明だった)に出産したこともあり、「親族に会いに行くこと」「普段の外出のこと(会合出席など)」等について、親族間でさまざまな基準を設けた。そのほとんどが暗黙のものだが、基準がなければその都度、話し合わなければいけなくなり、刻々と変化する複雑な状況に対して精神的な負荷が重くなり過ぎるからだ。

僕がプライベートでの外出を極端に制限しているのもそのひとつ。体が弱く、喘息持ちのうえ(喘息が感染や重症化リスクを高めるかどうかには諸説ある)、30代は今のところ3回入院した。なのでこの連載は、普通では考えられないほど狭い行動範囲でしか生活していない人間の記録として書かれている。僕の母はまだ2回目のワクチン接種が終わっていない。僕は明々後日の7月11日(日)に、1回目のワクチン接種を予約している。親族内でワクチン接種が順調に進めば、昨年5月から運用していた「基準」が変わる。と思っていたら、また緊急事態宣言だ。

昨年5月の妻の出産時、僕はこの世界の複雑さに目眩を起こすことしかできなかった。自分の行動や決断が、周囲や社会に対してどのような影響を及ぼすのか。「あなたはこういう状況で、こういう事情も考慮された結果、こういう行動を取るべきである」と誰かに決めてほしかった。世界を単純化してほしかった。一年以上経った今、親族間の「基準」が(若干の変化は生じているものの)ほとんどそのままで運用されているのは、その延長線上にある葛藤の痕跡である。

だがそんななかでも、僕なりに成長した部分はあると思っている。息子と愛犬ニコルという、コントロール(説得)がほぼ不可能な相手と対峙しながら、それでも生活の彩や豊かな精神性を家族のなか、そして大切な友人たちとの間で維持しようと努力してきた。仕事をなんとか続け、自分の手の届く範囲にはなってしまっているものの、周囲や社会に対して出来る限りベターな選択を心掛けてきたつもりである。

つらいときは音をあげてもいい。決めたことでもやめてしまっていい。勝ち負けなんて、なおさらどうでもいい。弱くていい。それでも絶対に譲れない「あるひとつの日常」を、これからも綴っていく。

 

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    長野生まれ。個人的な体験と政治的な問題を交差させ、あらゆるクィアネスを少しずつでも掬い上げ提示できる表現をすることをモットーに、イラストレーター、コミック作家として活動しつつ、エッセイなどのテキスト作品や、それらをまとめたジン(zine,個人出版物)の創作を行う。