scrap book スクラップとは、断片、かけら、そして新聞や雑誌の切り抜きのこと。われらが植草甚一さんも、自分の好きなものを集めて、膨大なスクラップ・ブックを作っていた。ここでは、著者の連載から、対談、編集者の雑文など、本になる前の、言葉の数々をスクラップしていこうと思います。(編集部)

第17回 東京:1995(離別)

フリーランスのライター&インタビュアー、尹雄大さんによる、土地と記憶を巡る紀行文。

すでに失ってしまったもの、もうすぐ失われるもの、これから生まれるもの。人は、移動しながら生きている。そして、その局面のあちこちで、そうした消滅と誕生に出会い続ける。また、それが歴史というものなのかもしれない。

私たちは近代化(メディア化)によって与えられた、共通イメージの「日本」を現実として過ごしている。しかし、それが覆い切れなかった“日本”がどこかにある。いや、僕らがこれまで営んできた生活の中に“日本”があったはずだ。神戸、京都、大阪、東京、福岡、熊本、鹿児島、沖縄、そして北海道。土地に眠る記憶を掘り起こし、そこに住まう人々の息づかいを感じ、イメージの裂け目から生まれてくるものを再発見する旅へ。

 

夜勤明けから大山のアパートに戻ると、あらかじめ私のいない間に荷物を運び出すとは聞いていたものの、改めて部屋の中から彼女の買い揃えた冷蔵庫、トースター、テレビデオとどれも金のない私に代わって、いずれ同棲するからと彼女がボーナス一括払いで買ったものがすっかり運び出されていたため、狭い5畳ほどの部屋もだだっ広い伽藍堂に感じられた。

大手町駅前の東京国際郵便局での勤務時間は夕方から朝まで。合間の仮眠の数時間と15分程度の休憩を何度か挟むほかは、国内外から運ばれる手紙と荷物をひたすら分けて、まとめる。大量に運ばれてくる荷は二人で持つほどではないが、一人で持つにはいささか重いものが多い。機械化できないところを人間の消耗で補うしかない労働だ。
 どういうわけか、この職場で長らく働く人の面相は前歯がなく、酒灼けなのか鼻が赤らんでいることが多い。自分もいずれそうなるのではないかという予感に身震いし、この先にいったいどういう暮らしが待っているのかまるで見当もつかなかった。
 仕事が終わると体の芯が痺れ、手足が怠く、視界がぼんやりと霞むような疲労を感じる。部屋に帰って横になってもしばらくは寝付けない。

空っぽになった部屋をこれ以上眺めたところで、とうに決まった別れが妙に感傷的な気分で演出されるだけだ。ただでさえ頭に鈍い痛みを感じている。今さら別れの原因について考え直したところで、何度も辿る羽目になった自己嫌悪に陥る道筋をまた往復するだけだ。
 もう長い間、くつろいだ気持ちになったことがない気がするし、どうすればゆったりできるのかもわからない。ともかく畳に腰を下ろそうと座ってみて不意に気づいたのは、電灯から垂れ下がる紐――あれの正式の名はなんというのだろうか――スイッチ代わりの紐の先に今まで見た中で一番大きな、黄色のポストイットが貼り付けられていたことだ。中腰になり右手を伸ばして剥がしてみると、そこに「報われませんでした」と書かれていた。ギョッとして、まじまじと文面を見つめる。見慣れた彼女のちんまりとした字だ。

ポストイットに書きつけられた走り書きが眼の底に腰を据え、ひたと彼女がこちらを見ている姿が浮かんだ気がして、そこから慌てて逃れようと目が泳ぐと、注意の散った先が隅の壁で、そこに紐の先に貼られたよりもふた回りほど小さなポストイットが貼られていた。膝行ってそれを見ると「このゴミは処理しておいてください」と書かれ、脇には小さなゴミ袋が置いてあった。彼女が立ち去って空っぽに思えた部屋だったが、ちゃんと見れば彼女はここに来ていて、そして立ち去った痕跡が確かにあった。
 もう一度、掌中の「報われませんでした」を見る。胸の虚ろさを満たすものを悲しみにしてしまえば、嗚咽は漏れるかもしれないが、そうなると私は本当にエゴイストになりそうな気がして、咳き込むのを堪えるように体を曲げてしばらく耐えると、喉元から込み上げてきたのは笑いだった。ポストイットで貼りつけることといい、最後に残した文面といい「センスがあるな」とひとりごちて、呵々と笑いそのままひっくり返って寝た。夜半に首筋から胸元にかけて蕁麻疹が出た。

彼女と知り合ったのは大学を卒業する半年前で、東京に出てくる直前に付き合うことになった。最初は互いに神戸と東京を行き来したが、私がパチンコ店での仕事を辞めたのちは往復の新幹線代を捻出するのも難しく、以来彼女に東京まで来て貰っていた。
 「オリーブ少女」を地でいくような人でオシャレに余念がなく、小沢健二が好きで可愛いものがとにかく好きだった。私はそれまでの付き合いにおいて「可愛い」という語を多用しての、終始ふんわりとした雰囲気の話などしたことがない。
 それもそのはずで、「なんとなくそう思う」とか「そういう感じがする」といった浮遊した言い回しに対しては、「なんとなくってどういうこと?」と半端な答えと思ったのなら、とことん詰めてしまっていたからだ。気軽に話を始めることも切り上げることもできず、「なぜ」「どうして」とギリギリと絞り上げて、ノリだけで流れていく会話を許さないところがあった。もうとっくに締まっているネジを、穴が潰れてもなおギリギリと締め上げるような余裕のなさがあった。
 偏執的な気質がそうさせるのと同時に、「本当のことが知りたい」という思いがコミュニケーションに働きかけていたのは間違いない。探究心が強いと言えなくもないが、今にして思えば、なんとなくの気分で言ったに過ぎない言葉に「本当」も何もあったものではない。そこにひどくこだわるのは、言葉を額面通りに受け取ってしまうからで、相手がどのように感じて、その発言に至ったか。何気ない言葉を発した意図への想像などまるでなかった。だからコミュニケーションは常に空中分解しがちだった。

ただ、世の中はよくできているもので同じような傾向のある、どちらかと言えば不穏で不安定な人との付き合いだけは絶えることはなかった。
 互いに惹かれ合う様を世間は恋愛と呼んでいるが、明るく、優しい気持ちになれるといったポジティブさからすべての恋情が始まるわけではなく、偏りと重さが生み出す引力を惚れた腫れたと呼んでいるだけのことも案外多いのではないか。若い時分の私はそうだった。
 しかもギリギリと締め上げる間柄を、互いを高め合うと言えば聞こえはいいが、常に自分が刷新されるような刺激と緊張を相手に求めるという一方的なもので、交わされる会話にラブリーもスイートもなかった。

ここらでひとつダッフルコートを着て原宿あたりを風を切って歩いたりしたいし、ロマンスのビッグヒッターになりたい。そうライフ・イズ・カミングバックだ。生きていくことはもっと軽やかで楽しいものではないのか?そう思っていた矢先に彼女と出会った。これからは社会に出ることだし、今までの路線とすっぱり手を切って、人生を明るく前向きに、そして生活を楽しんでいくのだと決意した。可愛いもの上等。そういうもので生活世界を埋め尽くしてやるとすら思った。
 遅くとも2年後には彼女は仕事を辞めて、東京で職を探すから一緒に住もうという話になり、私は脳裏に可愛い雑貨やインテリアで部屋を飾り、互いに料理を作りといった、“きゃっきゃうふふ”の明け暮れ、フリル付きの暮らしを思い浮かべた。そう、きっと、今度こそは。

24年かけて育ててきた自分の気質や振る舞いが俄かに変わるわけもないのに、その縁取りを甘くしたところで、付け焼き刃にしか過ぎないことは、自分自身にはわかっていたことだった。嘘は人に吐く前にまず自分にバレてしまう。半年を過ぎると心の中に暗雲が立ち込めるようになってきた。発端は私の世を拗ねる態度だった。
 給与は良いがまるでこれからの展望を描けないし、興味もない。そんなパチンコ店の仕事を辞めることに彼女は反対はしなかった。付き合いたての相手がすぐに退職するなどきっと不安を感じたろうが、「本を読んだりするのが好きなのにパチンコは向いていないだろう」と理解してくれ、「何か合う仕事があるといいね」と言い、編集者なりもの書きになろうかというぼんやりした考えを口にすれば、励ましてくれた。思えば、携帯がまだ普及しておらず、固定電話の権利が7万円もした時代であったから、自室に電話はない。こういう会話すらも彼女の送ってくれたテレホンカードを使って公衆電話で話していたのだった。

それにしても彼女に「文字を書く周辺のことをしたい」と口にしてみて、自分がそういう行為に希望を託しているのは、10代半ばくらいからずっと抱えてきた鬱屈が影響していているのだと改めて知った。生きるということが職業名から選んだ仕事をしていくことにすり替わってしまう。それが果たして人生に値するのか?という疑問を長らく持っていた。
 では、世間と自分の生き方は違うのだと自負したのならば、それを覚悟に牙を研いだかと言えば、そういうわけでもなかった。半人前が大言壮語する期間が許されるのを中二病、青春ノイローゼという。そのみっともなさを重々知ってはいても、今見ている現実が世界のすべてではない。「ここではないどこかに何か確かなものがあるはずだ」という思いの熾火は消えはしなかった。
 その矛盾がもたらした足掻きだろうか。私はフリル付きの日常を必死で乞い願い、「ロッキング・オン・ジャパン」の小沢健二が表紙を飾った号を美容室に持ち込んで「こんな風に切ってください」と言って、なるべくボーダーが似合うような格好になり、彼女との会話も弾み、手に入れられなかった感情の交流が生まれ、ウキウキと浮上した生活をすれば、まともな大の大人の振る舞いになると、すがり付きたいような思いでいた。

私がつまづいたのはその生活とやらだった。
 当面の稼ぎを得るためのアルバイトは国籍を理由に断られることが続き、現実のまったくラブリーではない事態に直面した。ただ食うために生きねばならない。それが掛け値無しの生活であり、ラブリーさはおまけのようなものだ。大過なく生きていくには、この社会と上手く折り合いをつけなければならない。だから韓国名ではなく日本名で応募するのもひとつの手だった。面子よりも生きていくことを優先すべきだ。そう思いはしても、それをどこかで恥じ入っていた。今ならわかる。プライドの問題にしたのは、生活能力のなさを認めたくなかったからだ。
 こうした苛立ちや悩みを彼女に打ち明けたとしても、その場で解決できるようなものではない。だが私はおざなりの励ましではない言葉を激しく欲していた。

生活の憂さと無聊を描き、それでも生きるのだと背中をそっと押してくれるような、なにがしか思想めいた言葉。有り体に言えば、いい感じの慰めと励ましを欲した。自分の置かれている状況を確認し、その上でわざわざ後押ししてくれるような思想という能書きがないと活力も希望も見出せないのだとしたら、生き物としてあまりに脆弱だ。だが、その頃の私は言葉で別の現実を描き出すことを高尚だと錯覚していた。
 私の飢餓感に対し、彼女は答えてはくれなかった。というよりも、私が自分の望む言葉を手に入れられなかっただけで、彼女はとつとつと、この社会でマイノリティが生きていくことの困難さについて想像した上で言葉をかけてくれていた。

私は次第に不機嫌な顔を隠さなくなった。「怒っているのか?」と尋ねられたら、「怒っていない」と不機嫌な調子で答えた。怒っているならそうと言ってもいいにもかかわらず、なぜ憮然とした表情を隠そうともしなかったのか。私は自分の不機嫌さで彼女をコントロールし、私の気の済むように気持ちを宥めさせようとしていた。
 かつての恋人たちは先述したように不穏で不安定な人が多く、彼女らは言葉のニュアンスに敏感だった。何に対する敏感さかと言えば、相手が何を欲しているのか?への感知においてだ。それは互いをコントロールしあう関係に陥ることを容易にする。

彼女は言葉に対してビビッドではないと思っていた。時折小包が届き、それを開けると靴下や下着が入っていた。それらを目にするとため息が出た。生きるために生きるという生活に殴られていると被害感情を募らせていた私には、向き合いたくない現実を突きつけられているように感じ、荷物が届くたびにそれが彼女の鈍感さとして映った。しかし、それは傲慢さのもたらすまったくの見当違いだった。
 今ならわかる。意外と下着や靴下の消耗は早い。お金がないときは優先順位として後回しになるが、それがないことで地味に困るという最たるものだ。彼女は短大から奨学金を得て、四年制大学に編入していた。自分の暮らしを支えることを早くからしていた。思想よりも生きることを体でわかっている人だった。彼女が送ってきてくれた衣類の意味をまるでわかっていなかった。
 言葉を巧みに紡ぐことの得意ではない彼女は贈与や具体的な行為によって、私に対する愛情を表現していた。私はそれを受け取らなかった。

私は日々生きづらいと感じていた。「ここではないどこかに」と別の現実を思い描いていた。いま、ここの目の前にいる彼女に生きづらさを与えていると知る由もなかった。だから彼女は私と付き合う限り、絶えず虚しさしか手に入れることはなかった。

「何をすれば、あなたは気に入るのか?」と仮に彼女が真正面から問うたとしたら、私はまともに返答できなかったと思う。なぜなら「気に入らない」という不機嫌さを軸にした関係性を必要としていたからだ。それを彼女の無理解として位置付けること。それがこの世間の鈍感さの象徴であり、それによって私は拒まれている。それが私の抱えた屈託を正当化させるからだ。
 会社をやめるといった、自ら選んだ生き方によってもたらされた不遇さを私は負わなかった。なんであれ生き抜いてみせるという気概がなかった。

1年半もそうした関係が続いた後、彼女がとうとう「報われませんでした」と書き置いたのは、本当に何も得られなかったからだ。
 けれども、別れを切り出したことで彼女はきっと理解したのだと思う。人から支配されること、顔色を伺うことで自分らしさを失ってしまうことの虚しさ。自分の人生を能動的に生きなくてはならないと。
 甘い生活など嘘と本当の間にしか存在しないくらいのことは、とうの昔に彼女は知っていただろう。生活のための生活くらい、ひとりで切り抜いて見せなくては、可愛いもので生活を飾るなど叶うはずもない。
 可愛いとは「愛す可き」を意味する。思うようにはいかない現実の中で、それでも愛す可きものを見つけていく。その意気地もない私にただ「報われませんでした」と告げ、決して責める言葉を連ねなかったのは、彼女の最後の優しさだったのかもしれない。