scrap book スクラップとは、断片、かけら、そして新聞や雑誌の切り抜きのこと。われらが植草甚一さんも、自分の好きなものを集めて、膨大なスクラップ・ブックを作っていた。ここでは、著者の連載から、対談、編集者の雑文など、本になる前の、言葉の数々をスクラップしていこうと思います。(編集部)

第8回 2月の日記(後半)

『空芯手帳』『休館日の彼女たち』、ユニークな小説2作を発表し、国内外で注目を集める作家・八木詠美。本書は著者初のエッセイ連載。現実と空想が入り混じる、奇妙で自由な(隠れ)レジスタンス・エッセイ。

2月15日
会社の同僚たちとオンラインで打ち合わせ。本題の話をしつつ、お互いの近況も少しずつ報告。わたしは時短勤務だけど、同僚たちはフルタイム勤務。勤務時間が2倍なのでストレスも2倍、ではなく2乗しても到底足りないくらいで、話の端々に疲れと怒りがにじみ出ている。
「この話、いつか小説にしてね」と彼らは言う。まだ形になっていなくて申し訳ないけれど、どうか待っていてほしい。今頭の中で発酵させているから。

 

2月16日
会社の仕事のため外出。社外の方と打ち合わせ。すごくエネルギッシュな人で、会った後は元気になる。この2、3年はオンラインでときどき話していたけれど、対面で会うのは久しぶりだった。
コロナ禍で最初の緊急事態宣言が明けたあと、用事があって新宿の伊勢丹に行った。たくさんの生身の人が行き交う中、人ににおいがある、と驚いたことを覚えている。バターたっぷりの何かの箱を持ち歩く人、木工ボンドっぽいにおいがする人、お揃いのコーディネートだけどまったく異なるにおいがする2人組。オンラインの画面からは伝わってこないにおいの情報量に圧倒された。外見や声よりも、においにこそ隠し切れないその人の性質が出るような気がした。
生身の人間はスパイスが効いている。

 

2月17日
気になっていたギャラリーに行く。かつて歯科医院だったという建物のドアを開けて靴を脱ぎ、二階に上がると古い器や調度がゆったりと並んでいた。
明治時代に灯明皿として使われていたという銅の器を買う。ところどころに入った緑青が冬の池の水面に射す光のようにも、岩間に息づく苔のようにも見えて、家でずっと眺めている。

 

2月18日
一日中家にいた日。小説の続きを書く。

 

2月19日
小説の続きを書くものの、自分が主人公についてあまりに知らないことに呆れる。この人は、誰?

 

2月20日
編集者の方と小説について打ち合わせ。汗ばむほど暖かい日で、帰りは少し遠回りをして歩く。通りかかった公園で花を眺める。濃いピンクの蕾。
いつのまにか消えてしまったけれど、以前は花の種類を調べられるアプリをインストールしていた。カメラを向けるとその花の種類や分類が推定され、表示される。夫がわたしにカメラを向けると、画面には「イネ科」と表示されていた。

 

2月21日
近くに住む作家と編集者の方々と食事。こうした年上の方々が集まる、でも仕事ではない場所に、何を着ていけばいいか未だによくわからない。場所にもよるし、変に畏まっていてもおかしいし、でもあまりにラフでは失礼な気がして、結局いつも「強そうな後輩」というテーマで洋服を選ぶ。「強そうな後輩」に明確な定義はないが、何かトラブルが起きたときに意外な能力や武器で助けてくれそうなイメージ。アイテムとしてはヒールが鋭利なパンプスなどが該当する。お花見ではアクセサリーの代わりとして胸ポケットに栓抜きを入れていった。スワロフスキーからメリケンサックみたいな指輪が出ていると知ったときは思わず買いそうになった。
今日お邪魔したのは川魚のお料理を出すお店でどのお料理もおいしかったけれど、悪天候のせいか他にお客さんが誰もいなかった。

 

2月22日
ネットやラジオで「今日はにゃんにゃんにゃんの日ですね」と猫の話題を多く見聞きする。
家の猫は普段「むるむるっ」と鳴く。「にゃん」「にゃー」と鳴くと、こちらがびっくりして「どうしたの、猫みたいに」と尋ねてしまう。

 

2月23日
『夜明けのすべて』を観る。観終わった後、世界が透明に、明るく見える映画だった。

 

2月24日
ウクライナへの侵攻開始から2年。終わらないまま報道を目にすることが少なくなってきた戦争や紛争と、世界のどこかで誰かが血を流していることと、わたしはどのように向き合い続けることができるんだろう。

 

2月25日
スヌーピーミュージアムに行く。PEANUTSは昔から好きだけど、決定的に好きになったのはスヌーピーの言葉は人間のセリフとは吹き出しの形が異なり、スヌーピーの考えていることが目の前の人間に伝わっていないという設定を知ったときだったと思う。その設定におかしさと切なさが漂いながら、けれどときどき見せるチャーリー・ブラウンとスヌーピーの結びつきが愛おしく、『完全版 ピーナッツ全集 全25巻』が出たときは迷わず全巻予約した。
会社に行ったりSNSを見ていると、人間同士で同じ言語を話していても唖然とするほど会話が成立していない場面を目にする。スヌーピーの吹き出しに入れられればいいのに。

 

2月26日
ハンガリー語の翻訳者の方から、自著について質問のメールが来ていたのでお返事をする。ハンガリーでは日本語に精通した編集者の方が少ないので、日本の小説は英語版やドイツ語版と照らし合わせながら編集されているとのこと。翻訳者と編集者で解釈が異なる箇所もあるそうで、いくつかの質問にお答えする。
こうして翻訳者の方とやりとりをしていると、主語や目的語を頻繁に省略する日本語というのは翻訳する際厄介なんだろうなと想像する。海外からの書面でのインタビューが来たときは、わたしが日本語で答えたものを翻訳していただくことになるので、なるべく言葉を省略せず、時制などもわかりやすくと心がけるが、それを続けていると、いざ小説を書こうとしたときにリズムが狂って書けなくなる。わたしは何によって文章を書いているんだろうか。

 

2月27日
ホタルイカを買う。食材としても好きだけど、その姿がスーパーで買える宇宙人という感じがして、見かけるとつい買ってしまう。ジャガイモと空豆と炒めるべく、ひとりで黙々と下処理をする。ホタルイカの目玉とくちばしが台所を転がる音を聞いた日が、春の始まり。

 

2月28日
確定申告の書類を税理士さんに送る。去年から税理士さんにお願いするようになり、すっかり楽になった。
思えばわたしは確定申告というものを過剰に恐れていて(小説を書くまで年末調整しかしたことがなかった)、新人賞に応募した作品が最終候補に残ったと知ったときも、受賞したときは賞金を、受賞しなくても最終候補作として冊子は掲載した場合は原稿料をお支払いします、と編集者の方から説明を受けてまず「それって確定申告をしないといけないのでしょうか……?」と質問していた。憧れていた作家の方にお会いしても「この人からあの作品が生まれたんだ」という感動に加えて、「この人も確定申告をしているんだ」という妙な感慨が湧き、何をどこまで経費に入れていいのか尋ねたくなる場違いな衝動と戦わなければならなかった。税理士さんにきちんと相談できるようになって本当に良かったと思う。

 

2月29日
4年に一度の日。こうして日にちを書くだけでも、幻の日に迷い込んでしまったような気分になる。この日に生まれた人は「閏年以外の年はいつが誕生日なの?」「4年に一度しか年をとらないの?(笑)」ときっとうんざりするほどよく質問されているだろうから、せめてわたしは尋ねないようにしようと思うのだけど、わたしにはこの日に生まれた知人がいない。

 

 

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    長野生まれ。個人的な体験と政治的な問題を交差させ、あらゆるクィアネスを少しずつでも掬い上げ提示できる表現をすることをモットーに、イラストレーター、コミック作家として活動しつつ、エッセイなどのテキスト作品や、それらをまとめたジン(zine,個人出版物)の創作を行う。