scrap book スクラップとは、断片、かけら、そして新聞や雑誌の切り抜きのこと。われらが植草甚一さんも、自分の好きなものを集めて、膨大なスクラップ・ブックを作っていた。ここでは、著者の連載から、対談、編集者の雑文など、本になる前の、言葉の数々をスクラップしていこうと思います。(編集部)

第2回 アートとデザインの外部を探しに。

2015年からはじまった佐藤直樹さんの連載「絵画の入門」は、絵画とはなにか、そもそもなぜ人は描くのかを、根源的に問うものでした。あらたな連載では、いったんそこを離れ、自身が職業としてきたデザイン、それからアートというものについて、様々な角度から見直してみます。これらの言葉が曖昧なまま使われているのはなぜなのか。またそうでありながらどのように厳然とした線引きは存在しているのか。絵が好きだった少年がかつて胸に抱いた疑問に、大人となった今あらためて向き合う……この二つの連載は2017年春に単行本になります。

 

「異なっていること」と「同じであること」

「表面上異なる様相を呈していても根底的なところに同じ核を持っている」あるいは「同じ核からであっても表面上異なる様相を呈することがある」。今回はその確信がどこからきているのかを書きます。

そのような認識というか、理解の仕方というか、考えは、次の事実と結びついています。「根底的なところでは真逆とも言える相違があるのに表面上は似たものになっている」あるいは「表面上似たものであるのに根底的なところでは真逆とも言える相違がある場合がある」。

皆さんにも覚えがないでしょうか。 まったく異なる立場にあるけれども、根っこに同質な何かを感じ、信じてみようと思える、ということが。逆に、言っていることに対しては同意でき、やり方も正しい、間違ってはいないはずなのに、深いところで違和感が残る、ということが。

たとえば、いわゆるパクリとは「根底的なところでは真逆とも言える相違があるのに表面上似たものになっている」状態をわざわざ引き寄せている状態と言えます。逆に、他者へのリスペクトを持って接したものが自らの仕事の中に混入してきている場合は「同じ核からであっても表面上異なる様相を呈する」ようになっているはずです。

人というのは一人一人が異なるので何をやっても同じには絶対になりません。いくら同じようなことをしようとしても絶対的に異なります。動物であれ植物であれ鉱物であれ、個体とはそういうものです。

しかし、類なり種なりとしてはそれぞれ同じ括りというものがあって、この「同じ」というところには非常に大きな力が備わっています。ただし、それは自然に備わった力ですから、個々がどうにかできるものではありません。

ところが、個としての異質性と類としての同質性を人はたびたび混同するのです。

言葉に先立つもの

最近よくダイバーシティという言葉を聞くようになりました。ある一つの社会の中の多様性のことを言っているようですが、そもそも人以外はそんなお題目を持ち出さなくともうまくやっています。ではなぜ人だけが混同し、個々の存在にまで同質性を被せようとして揉めているのか。人工的な同質性というものがあるからでしょう。そしてそれは言語というものの性質と深く関わっています。

人はものごころつく前から描くことをしています。ということは、言語的な理解の方が後からやってくるということです。文字を覚えさせられるところで、線は言語的な意味に回収されます。それ以外の線は、たとえば絵の一部として「じつにのびのびと描けていてよろしい」といったところにカテゴリー化されていく。

そんなふうに大人達が意味付けにかかってきた時のしらけた気分、いらだちのようなもの、絶望的な齟齬を私は今でもよく覚えています。そうした中、それ以前の自由な描画の衝動がすーっとどこかに消えたかのような者もいれば、異様に執着する者もいる。その分かれ目はどこにあり、何に起因しているのか。そういうことも次第に考えるようになりました。

私は幼少期の記憶が相当あり、その時期に記憶容量のほとんどを使ってしまったのではないかと思うほどなのですが、ひとりひとりの描き方の違いに驚いた記憶がひとつやふたつではありません。人というのはこんなにも異なるのかという認識は、描くこと自体の観察から来ている気がします。自ら没頭していただけではなかったのです。いずれにしろ、描くことの初源を考えようとすれば、異質性と同質性という問題にぶつかることは避けられないんじゃないでしょうか。

しょっちゅう引っ越しをして、友達ができては別れ、つねに疎外感のようなものを抱えていたことも、こうした考えを醸成した要因としてあるのかもしれません。いつも独りで妄想を膨らませながら気がつくと何か描いていたことと、できれば人と変わらぬ楽しい時間を共に過ごしたいという願望の同居。描くか描かないかの分かれ目にはそれぞれの事情があるとしても、孤独な妄想と共有の願望にはかなりの普遍性があるに違いありません。

学校というところ

何をやったところで人と同じにはならない。いいとかわるいとかではなく、ならないのです。個性を伸ばしましょうとか、自己実現しましょうとか、わざわざそんなこと言わなくたって、個性は最初から全員そのとおりのものとしてあるし、自己はそう意識した時点でもう実現しているのでそれ以上の実現なんかありません。

同じようなところもある。それは当然です。類として同じであれば同じでしょう。しかし同じである部分とはいわば自然現象みたいなものですからそれはそれで十分なのであり、わざわざ「同じにする」ようなことではないのです。

ところが学校というところは必要以上に「同じこと」をさせようとします。学校はカテゴリーありきの場所で、教科が分かれている、時間割がある。同質性や集団性は日本人の特質として語られますが、近代になって学校のモデルとなった監獄にしても工場にしても軍隊にしても西洋のものですから、事はより複雑です。近代化に伴う同質性や集団性から来る弊害を別の面から中和させていた西洋の個人主義は、日本にはあまり浸透しなかった。

アートとデザインというのは要するにカテゴリーです。西洋から入って来て、日本独自の発達を遂げた。いや遂げたというのも違うのかもしれません。いずれにしても、個人主義が根付かない社会でのアートやデザインというのはArtなりDesignなりと「似て非なるもの」たらざるを得ない。個々の実践がということではなく、その受容のされ方が。

だから駄目だと言っているのではありません。そうでしかないだろうということが言いたいのです。その上で今はグローバルな視点も獲得しなければならない。なかなか難儀なことです。個々のアーティストなりデザイナーなりは、国内のみで流通するものを送り出す場合であっても、どこかで世界基準の思考を働かさざるを得ません。逆に、どれだけ世界基準を意識するとしても、出自というものの掘り下げを怠れば、いずれ相手にされなくなるでしょう。

それぞれの変化

ではなぜ今、このタイミングで、アートとデザインに股がった話をしようとしているのか。それは単刀直入に言って、両概念が、もう独立しては成立し得ない段階に入ってしまったのではないかという直感というか予感からです。

「もう独立しては成立し得ない」といっても、それは直接的な融合を意味するわけではありません。アートとはつまるところ西洋の階級社会が生んだ個人主義ありきのロマン溢れる制度なわけですから、目先の薄利多売の商取引にうつつをぬかすデザインとの融合などもってのほかで、あくまで独自ルートの価値形成を重視する世界です。デザインはデザインで生き馬の目を抜く勢いでトレンドを追い、成果を素早く現金に変えようとする、そんな習性を持つ世界であり続けて来ました。何しろスピードが要求されます。ですから、今までそうそう混じり合うようなものではなかったし、今も厳然たる線引きが両者の基本路線としてあります。しかし、それぞれがそれぞれに内的に崩れてきているのだとしたら今後は話が変わってくるでしょう。

価値が定まった過去のアートは別として、現在進行形のアートについて言えば、価値=価格の変動の幅はとても大きい。私は世界金融やコレクターの動向に鋭く切り込むジャーナリストではないので、語るべきファクトを持ち合わせてはいません。が、もしもアートというものが、既存の価値から自由であろうとするものならば、そのような現実自体を絶対視するのではなく、相対化する別の足場を持つ必要があるはずです。価値形成の核は常にその外部にあると考えた方が妥当です。

一方のデザインは、アナログからデジタルへと移行したところで、独自には価値を生めなくなりました。コンピュータ上のプログラムとセットになったという言った方がいいかもしれません。こちらはこちらで、もう二十年も前から新しい局面に突入していたのですが、そのことを自覚している者はほとんどいなかった。2020年東京オリンピックのエンブレム決定のプロセスは非常に象徴的な出来事であったと言ってもいいでしょう。

私はこの一件で日本の「デザイン業界」は完全に終焉したという認識を持っています。デザインはいつ誰がどこで始めてもいいのです。ジャッジは自ずと下るわけですから。

「アート業界」がどうなっていくのかはちょっと想像がつきません。メディア環境の変化によって絵画の発達はほぼ止まったので、過去の絵画が辿り着いた到達点は向こう百年や二百年では超えようがないんじゃないでしょうか。本流としては「絵画以外」の試行錯誤が続くはずです。たとえその中に「絵画のようなもの」が含まれていたとしてもです。

アーティストとデザイナーの現在と未来

これまで形成されてきた両業界のフレームは崩れ、人の出入りも激しくなることが予想されます。ただし、すべてがフラットになってしまうことはあり得ないので、それぞれの業界では、簡単に真似のできないものが希求され続けます。

現在、AIによってアートやデザインはどう変わるかという議論があります。

十年後には今ある職業の多くはAIに取って代わられるという予測もなされていますが、それはそのように考えたい人がいてそれをなぞる人もいるという話であって、私なりあなたなりがその予測に沿った未来に備える必然の話ではありません。

「十年後になくなると予測される職業を目指す」者がいても何らおかしなことではありません。そう考えると、アートにしろデザインにしろ、予測することに意味はない。どうするのか。どうしたいのか。それだけになります。

アーティストやデザイナーは十年後にどうなっているのか。今とは随分異なった存在になっているはずです。二十年三十年とスパンを延ばせばなおさら。

今私たちが思い浮かべているようなデザイナーは、かなり早い段階でいなくなるんじゃないでしょうか。アーティストに対しても同じような印象を持っています。そもそも「今私たちが思い浮かべているような」ものの前提が一様でなくなってきているということもあります。

私たちは、数百年とか数千年という単位で残されている絵や像を見て感動したり語り合ったりしている存在です。その絵を描いたのがアーティストであってもなくても、その像を刻んだのがデザイナーであってもなくても、そんなことは何も関係がありません。同じように、この先に残されるものを今つくり上げているのが誰であるかなどまったくわかることではありません。

多くのアーティストは「それをつくるのが自分の仕事だ」と考えているかもしれません。また多くのコレクターは「そのアートはこの中にあるはずだ」と考えているでしょう。しかし私には、そのこと自体どこか病んでいるようにも思えるのです。つまり現在を未来から見た過去として生きていることがです。ナマの価値が何かとの関係によって決められてしまっていることが。何かとの関係、すなわちコンテクストが。

デザインはどうでしょうか。デザイナーの価値は「今を生きているかどうか」で測られると思います。それ自体は肯定すべきところですが、その価値が、現行の経済価値に偏り過ぎていることは否定しようもありません。もっと幅広い創意工夫を掘り起こされなければ、次の時代に繋がって行くものにはならないでしょう。

外からの力

結局のところ、今の世界をどう見て、どう行動するのか、ということになるのですが、直接的な社会的行動こそがアートやデザインにとっては重要だというような話がしたいわけではもちろんありません。

社会への直接のコミットをアートやデザインの達成とする考え方もあっていいのですが、それは非常に危なっかしいことでもあると私は思います。

というよりも、アートやデザインといった言葉を使わずにいられるものならば、その方がずっといいのです。使わないに越したことはないのです。

今はまだ便宜的に使わざるを得ない言葉だろうと思います。また現実として、それぞれのカテゴリーに収まる仕事はあるわけですし、それぞれの成果に水をさすつもりもありません。私もその都度の便宜上、使い分けて行くことでしょう。

それから、人間には物理的な限界というものがありますから「マルチにやっている」なんていうでのは、だいたいが中途半端なことにしかなりません。カテゴリーが大きく組み変わっている時期であることは確かですが、やはりその核には何があるのかを見極めなければなりません。

アートやデザインの名の下に社会的成功を目指しているだけの人も今はいくらだっているでしょう。しかし社会的成功に結びつこうがつくまいがやってしまうことが人にはあって、それによって切り開かれるものもあるのだということは、社会の全成員が知っておいた方がいいことです。

どういう役に立つのか立たないのかもわからないものを抱え続けるだけの余裕が今の社会にあるのか。林立する芸術祭もいずれ徐々に岐路に立たされるようになるでしょう。また、その都度の成果を問われ続けてきたデザインにしても、飽和すればいちいちの成果を示しにくい局面に突入します。そうなった時のデザインはどこに向かうのか。

役に立つか立たないかというのもおかしな話で、長く続いて来た村落社会ではあらゆるものがあるべくしてあったわけです。近代に入って破壊されてしまったそうしたものの多くを発見し直すことが求められている時代なのですから、アートにしろデザインにしろ自省すべきところの方が多いはずです。ある場面では、身動きのとれなくなった地域社会に対して、アートやデザインが外からの力として機能するでしょう。しかし、アートやデザインがそれぞれ制度的に固まって来てしまえば、それ自体が外部を必要とし始めます。それはどこに見出されることになるのか。

アートとデザインのそれぞれにとっての外部とは何か。次回はそれを考えます。

第2回 石鹼体験

精神科医、春日武彦さんによる、きわめて不謹慎な自殺をめぐる論考である。

自殺は私たちに特別な感情をいだかせる。もちろん、近親者が死を選んだならば、「なぜ、止められなかったのか」、深い後悔に苛まれることだろう。でも、どこかで、覗き見的な欲求があることを否定できない。

「自分のことが分からないのと、自殺に至る精神の動きがわからないのとは、ほぼ同じ文脈にある」というように、春日さんの筆は、自殺というものが抱える深い溝へと分け入っていく。自身の患者さんとの体験、さまざまな文学作品などを下敷きに、評論ともエッセイとも小説ともいえない独特の春日ワールドが展開していきます。

つ づ き を 読 む

第1回 アートとデザインの話を同時に始める。 

2015年からはじまった佐藤直樹さんの連載「絵画の入門」は、絵画とはなにか、そもそもなぜ人は描くのかを、根源的に問うものでした。あらたな連載では、いったんそこを離れ、自身が職業としてきたデザイン、それからアートというものについて、様々な角度から見直してみます。これらの言葉が曖昧なまま使われているのはなぜなのか。またそうでありながらどのように厳然とした線引きは存在しているのか。絵が好きだった少年がかつて胸に抱いた疑問に、大人となった今あらためて向き合う……この二つの連載は2017年春に単行本になります。

 

アートとデザインのわからなさ

昨今「アート」という言葉をよく聞くようになった気がします。意味は使っている人それぞれ、わりとバラバラみたいですが。同じく「デザイン」にもそういうところがあるようで、それぞれが思うところに従って使っているように思えます。ことさら意味の摺り合わせをするでもなく、何となく相づちを打ったり首を傾げたりしながら、多くの人が様々な文脈に引きずり込まれている感じでしょうか。

以前ならばそれぞれの専門家に解説してもらって「なるほどそういうものか」と納得していた気もするのですが(いやそれも気のせいだったのかもしれないのですが)、ここ数年でかなり様子が変わってきたように思うのです。アートに関して言えば、インターネットを通して世界的なフェアやマーケットの話題に触れる機会ができたり、国内でも各地で芸術祭が開かれるようになったり、という事情もあるでしょう。デザインにしても、やはりインターネットの一般化に伴って身近な言葉になった面がありますし、デザイン価値を前面に押し出したサービスやプロダクトなどの増加といったことも背景にあると思います。昨年はオリンピックのエンブレム問題もありました(それももう遥か遠い昔の出来事のようではありますが)。

それぞれの業界には一家言ある方も数多おられることと思います。「おまえもそうじゃないのか」と言われてしまうかもしれません。しかし、坂口安吾さんがかつて『一家言を排す』という短文を書いておりましたけれど、それによりますと「人柄とか社会的地位の優位を利用して正当な論理を圧倒し、これを逆にしていへば人柄や地位の優位に論理の役目を果させる」のが一家言だそうです。私としては、こんなところにこんなことを書いても一向に「人柄とか社会的地位の優位」を保つことはできません。むしろ危うくなるのが関の山です。ではいったいどういった理由から私はこのような文章を書いているのでしょうか。

じつのところ、アートやデザインについて、とにかくモヤモヤする、何となく腑に落ちない、そういう人は多いと思うのです。私もその一人で、これらの言葉が現在どのような文脈の中で揺れ動いているのかという点に関して、もうちょっと突っ込んだ、本質的なところで理解したいと素朴に思います。しかし、それぞれの専門家は、一番大事なところの「わからなさ」をなかなか共有してくれません。専門家というのはそもそもそういうものなのかもしれませんが。自らの存立基盤を危うくしてまで足下を堀り返そうとする人間など滅多にいるものではないでしょうから。

じつは私にとって、この問題はずっと感じてきたことなのです。そしていまだにスッキリしません。最初に感じたのは十五歳か十六歳くらいだったでしょうか。かれこれ四十年近くになります。その頃「そっちの世界」に進むにはどうしたらいいのかと考えた時、道はいくつかの枝に分かれていることを知りました。ところがそれぞれの道に進んだ人はその進んだ道筋からの説明しかしてくれません。そもそも油絵は〜とかグラフィックデザインというものは〜とか。それらの説明があまりにも腑に落ちなさ過ぎて、私は「そっちの世界」に進むこと自体をいったん止めたのでした。もっと具体的に書くと、美術大学には行かないことにしたのでした。

もしも「そっちの世界」に進むことが運命ならば、いずれ必ず吸い寄せられるように向かうことだろう。しかし今がその時でないなら悩まないことにしよう。それがその時の感覚でした。

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