ポリアモリー編集見習いの憂鬱な備忘録

scrap book スクラップとは、断片、かけら、そして新聞や雑誌の切り抜きのこと。われらが植草甚一さんも、自分の好きなものを集めて、膨大なスクラップ・ブックを作っていた。ここでは、著者の連載から、対談、編集者の雑文など、本になる前の、言葉の数々をスクラップしていこうと思います。(編集部)

第10回 ちぐはぐな部屋

やさしい夫がいて、かわいい子どもがいて、食卓には笑いがたえなくて。実家の両親はたのしく暮らしているし、おばあちゃんも気丈で元気だ。なのにどうしてこんなに不安で怖いのだろう。明日あの角を曲がると、奈落が待ち構えているのかもしれない……。誰も死んでほしくない。死なれたくない。なにげない日々の出来事から生の光と死の影が交錯する、おだやかで激しい日常の物語。

いま、自分のなかで家の片付けがブームになりつつある。なりつつある、というかすでにものすごい勢いで片付けまくっている。着ない服、使わない雑貨、賞味期限切れの乾物、壊れたおもちゃ、自分のなかで「不要」と思ったものはためらわずにどんどん捨てる。元から物が溢れて収拾がつかないというわけではないが、片付けよう、という心意気がなければ家のなかはそれなりに荒れてゆく。そのまま置いてあったとしてもさほど邪魔ではないが、あったとて使うわけではない、そういうものを片っ端から捨ててゆく。

元々掃除も片付けも苦手で腰が重い。来客があるときに焦ってうわべをどうにか取り繕うだけで、無造作に物が仕舞いこまれた物置きやクローゼットのなかはできるだけ見たくない、という状態だった。それがたまたま、長いことリビングの納戸に置きっぱなしになっていた段ボールが目についた。いまなら片づけられるかも、と引っ張り出してきて整理をはじめた。片づけに火がついたきっかけ、といえばこれがそうかもしれない。

見ないふりをしていたその箱をずるずる出してくる、というところまでが実は一番ハードルが高く、始めてしまえばあとは単なる仕分けの作業だった。段ボールのなかには、大学生の頃の講義や卒論関係のプリント、勤め先の学校の授業関連のもの、研修会や勉強会の資料、そういうものがぎっしり入っていた。けっきょくその箱のなかのほとんどの紙類を処分した。いままで取っておいたのは何の意味があったのか、と思うほど、苦労して作った授業のプリントも、とっくに卒業した生徒のワークシートも、もういまのわたしには必要なかった。全部をびりびりに破きながら、それはなんだかとても爽快だった。片付けてスッキリするってこういうことなのか。これまで段ボールが占めていた場所には収まりの悪かったふたつのスーツケースがすっぽりはまる。そうすると今度はこの場所が空いて、それならこれをまずは処分して、とパズルのように物置きがきちんと片付いてゆく。

そうして各部屋のクローゼット、流しの下、洗面所、靴箱、冷蔵庫など家中のあらゆる収納を見直した。要らないものはいくらでもあった。使えないものは捨てて、まだ使えるけれど不要というものはまとめておいて、フリーマーケットに出品した。メルカリなどのアプリではなくて、じっさいのフリマである。月一で近くの大きな公園で開かれるそれに、よく客として行っていたが久しぶりに出店した。まだ薄暗い朝七時から、そんな早朝にも人はたくさん集まって、あれこれ叩き売りの精神で安く出したこともあってか、品物は飛ぶように売れた。きれいな状態ならそれなりの高値をつけられそうな服やぬいぐるみ、雑貨なども、シミや汚れがあれば安く売る。すると「洗えば取れそう」とか、「このぬいぐるみ、作りがしっかりしてそうだからいいなと思って、うちの犬に」と持ち帰ってくれる人がいるのだった。汚れたぬいぐるみが犬のおもちゃになるとは思わなかった。物って色んな使われ方があるのだな、と思いつつ、早朝にひとりで汗を掻きながら搬入したほとんどの品が手元を離れていった。

どんどん家が片付いてゆく。すっかり味を占めたわたしは、夫の物にまで手を出しはじめた。これはいるの? これはさすがにもう着ないでしょ。あ、こっちは? とあれこれ首を突っ込んで指図する。「いやこれはまたいずれ着るでしょ。だってこれ捨てたらちゃんとしたズボンなくなるもん」「これはまだ使うかもしれないじゃん」夫はなんでも取っておこうとする。そうやっていちいち渋るたびに、読んだこともないくせに「こんまり曰く、捨てられないものってぜーんぶ過去への執着か、未来への不安があるものなんだって」などと言いながら、どんどん捨てるほうへと促した。

長いこと仕舞われていた夫の幼少期からの写真や思い出のものたちも一緒になって整理し、手頃な大きさの箱へ収めることができてわたしは得意だった。一方、夫はむっつりしている。こーゆーのってさぁ、人にお尻叩かれて渋々やるんじゃなくて、本人が捨てようって意志でやらなきゃ意味ないんじゃないの、と言う。半ば強引に「片づけ」に参加させてしまったことをどこかでは後ろめたく思いながら、まあスッキリしたからいいじゃんいいじゃん、とわたしは取り合わなかった。

日中ひとりで家にいると、気づけば「もっと捨てるものはないか」という目で部屋を眺めてしまう。少しでも無駄なものは家に置きたくない。物置きの扉を開けては、買い置きしてあったオムツの袋からすべてのオムツを出し、取り出しやすいように棚に並べる。このほうがすっきりする、ような気がする。そうやってほとんど無意味な片づけまでに手を出す一方で、じつは収納グッズをたくさん買い足している。片づけにはまって以来、インスタグラムをひらくとすぐに「べんりな収納グッズ」みたいな投稿がサジェストされるようになった。なるほど、収納箱を揃えて並べると、たしかに見た目にもいい感じかもしれない。百円ショップにせっせと通ってはそういう箱だの仕切りだのケースだのを買い揃えた。捨てたり買ったり忙しいね、と夫は言う。いつの間にか、インスタのなかに切りとられた、お片づけアカウント勢と同じような部屋に近づいてゆく。

それでも、本棚には手をつけていない。1LDKの広くはない部屋には、大きな本棚があわせて七つある。家に遊びに来たひとは決まって「本がたくさんありますね」と言う。「ここにあるの、全部読んでるの?」と驚かれることもあるが、そんなわけはない。さらっと一読しただけのもの、未読のもの、そういうもので本棚は埋め尽くされている。繰り返し読みつづける本、などというのはほんとうのところ限られていて、だから本にかんしては極端なことを言えば全部いるか全部いらないかのどちらか、なのかもしれない。

もしも「全部いらない」に傾いてしまったら、わたしはすべてを処分してしまうのだろうか。それはさすがにやりすぎなんじゃないか。実家にあった絵本、大学生の頃からこつこつ集めてきた全集、結婚してまぜこぜになったお互いの本たち。全部いらない、なんてことはない。全部いる、全部大事。そう言い聞かせて、あえて手をつけていない。

わたしの本棚こそ、「過去への執着、未来への不安」そのものなのではないか。もうきっと読まない本、いつか読むかもしれない本、買って満足した本。そのように並ぶ本の背表紙はどんどん埃をかぶって傷んでゆく。

箱 という実感だけがこの部屋をたしかなものにする冬の夜/安田茜

けれど、もしも執着も不安もぜんぶなくなってしまったら、いったいどうなるのだろう。わたしのインスタグラムには、片づけの投稿と並んで、ミニマリストの写真がよくおすすめとして上がってくる。がらんとした部屋のなかに、ちいさな座卓があるだけ。物どころか、家具すらほとんどないそのひとの暮らしを眺めながら、部屋って箱なんだなと思う。家具やあふれる本で埋められたわたしの家は、まだまだ「部屋」で、それが「箱」であることを実感することはほとんどない。必要最低限の品以外には何もない箱。あまりにシンプルで、あまりに清潔で、無駄がない。これこそ過去への執着も未来への不安もないひとの暮らしなのかもしれない。

過去への執着も未来への不安もないのなら、あるのはいまである。何もない部屋で、いまをいまのまま、ゆったり過ごす。思考はシンプルかつクリアに、研ぎ澄まされてゆく。けれど何もない部屋に暮らす自分をちょっと想像するだけで、なぜだか圧迫感を覚える。何もない、ということに押しつぶされてしまうような気持ちになる。おそらく、ミニマムな暮らしはポジティブに選択されるものなのだろうけれど、からっぽの箱のような部屋を眺めていると、それはいつこの世を去ってもいい、というメッセージのようで、その写真はどこか、死に近い。

この世への執着だけが生を支えるわけではないが、やっぱり本は要るものもそうでないものも、ごちゃごちゃのままでいいような気がする。思えばうちに長傘は一本しかないのに、水筒はいまも六つもある。一、二本減らせそうなものだが、どれも使っているから捨てがたい。そういうちぐはぐさこそ、ひとつの暮らしという感もある。

SNSで見る似たような部屋の、けれどそこに写らない部分にはきっとそれぞれの暮らしの細部があって、そういうちぐはぐさをわたしたちは生きている。多かれ少なかれ、置かれた物に囲まれた四角い箱に暮らしている。

東京に住んでいた頃、満員電車の車窓に過ぎてゆく団地やマンションを眺めながら、この窓のぜんぶに暮らしがあるんだな、と当たり前のことをよく思った。よく晴れた日に、多くのベランダに布団や洗濯物が陽の光を浴びて揺れているのを見れば、反射的に苦しくなった。だって、この箱のなかにそれぞれの喜怒哀楽が詰まっているってことだ。そう考えて、目をそむけたくなる。けれどはなはだ勝手なことである。勝手にひとさまの暮らしを俯瞰して、勝手に疲弊するなんて。だいたいわたしひとりが背負うようなことではない。わたしが案じようがそうでなかろうが、きっとみんなちぐはぐなまま、暮らしている。わたしはわたしのこの箱のなかで、物を捨てたりまた同じようなものを懲りずに買ったり、そういう暮らしを重ねてゆく。

(了)

 

 

Back Number

    長野生まれ。個人的な体験と政治的な問題を交差させ、あらゆるクィアネスを少しずつでも掬い上げ提示できる表現をすることをモットーに、イラストレーター、コミック作家として活動しつつ、エッセイなどのテキスト作品や、それらをまとめたジン(zine,個人出版物)の創作を行う。