あたらしい比喩をつくるように

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scrap book スクラップとは、断片、かけら、そして新聞や雑誌の切り抜きのこと。われらが植草甚一さんも、自分の好きなものを集めて、膨大なスクラップ・ブックを作っていた。ここでは、著者の連載から、対談、編集者の雑文など、本になる前の、言葉の数々をスクラップしていこうと思います。(編集部)

第2回 現代人にとって「人とのつながり」はどの程度必要なのか——「孤独」から考える

何か・誰かを好きになることは、この世界への希望を持つことに似ている。ひとを好きになること=恋愛には、様々な可能性が秘められているにもかかわらず、恋愛はジェンダー的な下位に置かれていないだろうか? 恋愛にジェンダー平等の視点を取り入れることで、見渡しの良い社会像が見えてこないだろうか? ジェンダー平等な恋愛ははたして可能か? 恋愛をめぐる既存の慣習の何が問題なのか、社会学、心理学、文学、哲学などの成果を手がかりにしながら考えていく新連載。より親密な世界の構築のために。

「そもそも恋愛はする必要があるのか」とか「人間にとって愛はどれくらい必要なのか」など考えたいことは色々あるが、まずは、現代社会で人が生きるのに、人とのつながりはどれくらい必要なのかという、基盤になりそうなことから議論を始めてみよう。

ぶっちゃけコンビニとネットさえあればある程度楽しく生きられる現代で、対面的な人とのかかわりは無くても生きていけそうな気もする。現代において社会的つながり(ソーシャルコネクション)はどの程度必要なのだろうか。とくに「孤独」という観点から考えてみたい。

孤独の社会問題化

孤独感とは「自分は独りぼっちだな」とか、「自分のことを本当に理解してくれる人なんていないんだな」という主観的な感じ(フィーリング)のことである。統計調査では「付き合いがない」「取り残されていると感じる」「孤立している」といった質問文や「あなたはどの程度、孤独であると感じることがありますか」という直接、主観的な感覚を聞く質問文で測定されている。

このような孤独感は健康に実害を及ぼしており、なんと寿命を縮めている。そういう実証結果が1980年代頃から蓄積され続けてきた。その結果、「孤独」は近年、公衆衛生上の問題になった。「孤独感」の増大や「社会的孤立(こちらは客観的に測定されるもの)」の増加は、いまや適切な社会的サポートが求められる社会問題である。

イギリスは2016 年に孤独省(ministry of loneliness)を創設し、独居高齢者、移民、母子家庭、独身といった多様なルートで「孤独」に陥りがちな人々をサポートする体制を作ろうとしてきた(☆1)

私はこのニュースを見た時、SFの世界が現実に侵入してきたと思った。だって、伊藤計劃の『ハーモニー』とかに出てきそうじゃないか、「孤独省」。しかし、現実の話だ。日本でもコロナ禍中の2021年に「孤独・孤立対策担当室」が創設された。現在、日本の各地の社会福祉協議会は、「孤独は、1日にタバコを15本吸うことやアルコール依存と同じくらい寿命を縮めている」といったチラシを作って、各地で啓発活動に努めている。

さて、気になるのは、孤独が寿命を縮めるプロセスだろう。ジョン・T・カシオポの『孤独の科学』の議論をもとにまとめると、次のようになる。

人は「孤独」を感じると、身体的な恐怖や脅威を感じた時と同様の緊張状態になり、不安感が高まる。社会生活のいたる所に危険を見いだすようになり周囲の人々が自分に対して不愛想で、批判的で、悪意に満ちているように見えるという認知の歪みが生じる。認知の歪みとは、現実にはそうではないが、本人はどうにもそうとしか見えないという歪んだ認識を持つ状況のことを指す。

認知の歪みは「予期の歪み」も、もたらす。つまり、周囲の人は自分に対して否定的だから自分はどうせ拒絶されるだろうとか、どうせ頑張っても無駄だよなという予想を持ちがちになる。そのような予想をしているので、当然のことながら、他者による否定的反応に備えるため、自己防衛型の行動(他者の批判から自分を守るような行動)をする。だから余計に他人はその人から遠ざかっていき、さらに孤独感が深まる……という悪循環に陥る。

私が個人的に「なるほど」と思ったのは、人が孤独感に陥っているときには、自分の予想に合致したネガティブな他者の反応にばかり注目しがちであり、また他者のネガティブ反応は記憶に残りやすいので(厳密にいうとこれは「ネガティビティ・バイアス」と呼ばれるまた別のバイアスだ)人とのつながりから得られる喜びや、「心慰められるような高揚感」を経験しにくくなるという話だ。孤独感に陥っている時には「友人からの慈愛に満ちた援助を受けても、その交流を期待外れだと感じやすい」(第6章)とカシオポが書いており、……うわぁー、個人的に思い当たる節が多すぎる、昔の友人たちごめん、という気持ちになった。

このように、孤独感が慢性化すると、他者恐怖と自己否定が高まり、他人と自分からの自分への攻撃に備えようとして身体の緊張状態が続くことになる。

社会的からの孤立や孤独感が慢性化している人ほど、飲酒・喫煙率が高く、脂質摂取率が高く、野菜や果物を食べておらず、運動していない傾向が統計上確認できる。孤独による身体的緊張というストレス状態が続くことで心臓・血管への負担が高まり、脳卒中死亡率が高い。

さらに、孤独感が強い人ほど、ストレス要因に直面したときに積極的に物事に取り組まなくなり、人に情動的支援や実際的支援を求めないという傾向も確認されているとのこと。このあたりは学習性無力感と貧困がからみ合って、ときほぐすのが難しい生きづらさをもたらしている。

「自分でハンドリング可能な孤独感」と「自分一人の手には負えない孤独感」を区別しよう

だから、「私たちが健康で幸せであるためには、他者とのつながりに満足し安心していること、つまり孤独でない状態が求められる」というのがカシオポの結論だ。

ただし、カシオポは「孤独が深刻な問題となるのは、それが慢性化し、ネガティブな思考や感覚や行動の執拗な悪循環を生み出した場合に限られる」とも述べている。

そう、全ての孤独が悪いわけではない。「ネガティブ思考」からの「人間関係を自ら壊していくような関係破壊的行動」による、さらなる「孤独感の高まり」という悪循環をもたらす限りで、孤独は問題なのだ。逆に言えば、過剰な不安や認知の歪みをもたらさないような、自分でハンドリングできるような孤独はとくに問題ではない。

つまり、最近の孤独を問題視する科学的研究は、なにも全ての「孤独」を無くすことを目指しているわけではない。

突然、強烈な孤独を感じるという経験はおそらく誰もがしたことがあると思う。大勢の人の輪の中にいても、一人で部屋にいても、「自分のことを本当に理解してくれる人なんて誰もいないんだな」という気持ちが湧いてきて、なぜか涙が出てくるといったことは、たぶんよくあることだと思う。そういう気持ちが積み重なってくると、ある日突然、「自分の存在意義って何だろう」という空虚感に襲われ、「この世界から自分が消えても、とくに問題がないのではないだろうか」という啓示(ひらめき)が天から降ってきたりする。これらの空虚感もたぶん孤独感の派生形なのだろう。でも、このような「人間存在の空虚さ」みたいな地点からしか始まらない思想もある。実存主義哲学とか。だから、人類のウェルビーイングを高めるために「孤独」を一掃しようという社会政策は現実的ではないし、たぶん望ましい方向でもない。

ただ、自分の中の「空虚感」が高まりすぎてあやうく自死しそうになったり、「孤独感」が高まりすぎて自暴自棄になったり、自傷的な性行為に走ったりといった自分の手には負えない孤独感になってしまった時には、孤独をいやすような「社会的つながり」を確保する必要がある。そういう話だ。

必要なのは、社会への恐怖感を自分でハンドリングすることができる程度の「社会的つながり」

ということで、「人間にとって社会的つながりはどの程度必要なのか?」という問いには、こう答えることができる。必要なのは、世界への恐怖感を自分でハンドリングすることができる程度の「社会的つながり」である。

ちなみに、孤独をどれくらい感じるかにはかなりの個人差があることが分かっている。長い間、全く誰とも喋らなくても、とくに不安や対人恐怖が起こらず平静に生きられる人もいる一方で、つねに誰かと密着していないと不安に陥ってしまう人もいる。

だから、それぞれが抱える孤独の形によって、必要な社会的つながりの形も異なっている。コンビニの店員さんとちょっと喋るだけで癒されるような孤独の形もあれば、定期的に友人と集まることでメンタル・バランスが保てるという孤独の形もあるし、行きずりの人とのセックスでこそ満たされる孤独の形を持っている人もいるし、特定の人との長期的な共同生活の中で癒される孤独の形もある。

このように基本的には孤独の形もその癒し方も個人によって多様なのだが、このラインを越えると「多くの人が健康を害しがち」という閾値のようなものもあり、それは「困った時に頼れる人がいるか」(例えば「孤独・孤立の実態把握に関する全国調査」内閣府など)である。「困った時」というのは、病気や借金などの深刻なものから、不安や悩みを抱えたときにちょっと相談できるというものまで、色々あるが、必要な時に相談できる人や頼れる人がいるということが、個人化した社会における個人のメンタルを支えるものになっているようだ。

まとめると、個人化が進んだ現代社会でなお必要となるのは、第一に、つねに連絡を取り合っているわけではないが、自分が必要になった時には自分のために時間や労力を割いてくれる人がいるという安心感である。それがあると、精神的に健康に生きられる。

第二に、「いざ」というときに、実際に人に頼るという行動をすることができる行動力である。これもリストアップしておくべきだろう。

自分にとって必要な「社会的つながり」を安定的に調達しやすくするのが「愛」

今回の話を踏まえると、人は「いざというときに頼れる人」を安定的に調達するために「愛情によって結ばれた関係」とされている「家族」や「恋人」、「友人」などの関係を結ぶのだと、さしあたり考えることができる。

日常生活で気が緩んだ時などに突然襲われる「自分は独りぼっちだな」とか、「自分のことを本当に理解してくれる人なんていないんだな」という孤独感を回避し、誰かとつながっていることによる安心感を得るために、人は恋愛するのだという「仮説1」が得られた(これはあくまでも仮説1なので、他にもいろいろある。これらの仮説については後ほどまとめて検討しよう)

よく考えてみると、仕事上の人間関係や趣味でつながった友人関係も、いざというときに相談できる間柄なのであれば、「頼れる人」に相当する。むしろ、同じ状況に置かれている仕事仲間の方が、家族よりも、そのつらさやしんどさをより良く理解してくれることで、孤独感を癒してくれることもある。

それに、自分が高齢になったら、自分の親も友人も死んでいる可能性が高いから(そして子どもがいたとしても、子どもとの関係が良好であるという保証はどこにもないわけだがから)、結局のところ、近くに住んでいるご近所さんとか、身の回りのサポートをしてくれる介護職の方、高齢者心理などの専門的知識を備えたカウンセラーなどが「頼れる人」になりそうな気がする。この意味で「頼れる人」は、たぶん実際の人生においてどんどん変化する

たしかに、恋人とかパートナーとか家族とかの愛で結ばれた長期的な関係性には、利点はある。長く一緒に生きてきたことで、「私」に関する情報をたくさん持っているので、「私」が何が好きで嫌いなのか、何をしてほしいと思っているのかを、「私」と同等かそれ以上によく知っていることもありうる。だから、「私」のことを全く知らない人よりも適切な精神的サポートや物理的サポートを与えることができるかもしれない。

また、誰かと深く理解し合える関係のなかで日々を過ごすことができたという記憶が、その後の人生を支えるものになることもある。

だから、人生のいつどの時点であろうと、誰かと深く緊密な関係を築くことは「無駄」なことではない。

しかし、家族がいれば「絶対安心」で、どんな孤独からも逃れられるというわけでもない。家族関係も含めてすべての人間関係は、日頃の小さなケア(思いやり)の贈与交換を通したメンテナンスが必要だし、それは実はそんなに簡単なことではない。けっこう大変なことだ。

そういうことを考えあわせてみると、誰かが苦悩していることに気づいたとき、その気づいた「あなた」、その人の目の前にいる「あなた」が、ベストタイミングで居合わせた最善の「孤独を癒せる友人」たりうるということになるのではないだろうか。そういう楽観的な信念——いつどこで出会うか分からないけれども人生の色々な段階でこれから出会う人たち(すなわちこの世界を共に生きる人たち)に対する楽観的な信念——を持つことが、孤独を手なづける方法なのかもしれない。

人間にとって「社会的つながり」はどの程度必要なのか? というのが、今回のテーマだった。「孤独感を自分でハンドリングできる程度の社会的つながりが必要だ」というのがその答えである。

孤独感にはかなりの個人差があって多様なのだが、たしかに言えるのは、本人が寂しいなと思ったらそれは「孤独感」と呼ばれるものだということ。そして、本人が安心できるような、しっくりくる人間とともに過ごす時間を持つことができると、それは健康にも良いらしいということである。

 

☆1:極右的な排外思想を持つ男性に射殺された労働党女性議員ジョー・コックス(オックスファムの活動家で、労働党議員)が尽力していたのが、孤独省の創設であった。この点でも孤独省はフェミニスト的には重要な論点だ。
【おススメ文献】
▪ジョン・T・カシオポ&ウィリアム・パトリック, 2018, 『孤独の科学』河出文庫.
ロバート・ウォールディンガー &マーク・シュルツ, 2023, 『グッド・ライフ——幸せになるのに、遅すぎることはない』辰巳出版.