scrap book スクラップとは、断片、かけら、そして新聞や雑誌の切り抜きのこと。われらが植草甚一さんも、自分の好きなものを集めて、膨大なスクラップ・ブックを作っていた。ここでは、著者の連載から、対談、編集者の雑文など、本になる前の、言葉の数々をスクラップしていこうと思います。(編集部)

第7回 おろおろ

海の中での潜水のごとく、ひとつのテーマについて皆が深く考え込み話し合う哲学対話。小学校、会社、お寺、路上、カフェ……様々な場で哲学対話のファシリテーターを務める著者は、自らも深く潜りつつ「もっと普遍的で、美しくて、圧倒的な何か」を追いかけてきた。当たり前のものだった世界が、当たり前でなくなる瞬間、哲学現在進行中。「え? どういう意味? もっかい言って。どういうこと、どういう意味?」……世界の訳のわからなさを、わからないまま伝える、前のめりの哲学エッセイ。

別にうらやましいとか取って代わりたいとかじゃなくて、でも、友だちは結婚して子ども育てていたりして、わたしは仕事してて、そんなのを考えて、なんか、自分が友だちの人生だったらどうだったんだろう、とか、なんでわたしはこうなんだろうな、とか、別にそれは今が嫌とかじゃないんですけど、そういうことを考えたりします。

打ち合わせと称したおしゃべりで編集者さんが、ジンジャーエールの入ったグラスをカラカラとさせながらそう言った。カフェは水の中のように静かで、彼女はささやくように話した。長い指とまっすぐ伸びた背筋がうつくしいこのひとは、いつもどこか遠くを見つめている。遠くを見る目がどんどん遠のき、彼女がついに問いそのものになってしまったような気がして、目が離せなくなる。

なんでわたしはこうなんだろうな、そういうことを考えたりします。

彼女と別れたあとも、その問いがわたしの隣に黙って座っている。彼女のものであり、わたしのものであるその問いが。

ある小学校で哲学の授業をしたとき子どもたちに、考えてみたい問いを紙に書いてもらった。全国どこでも相変わらず小学生に人気なのは「なぜ人は生きているのか?」「死んだらどうなるのか」「人間とはなにか」で、年齢が上がっていくと「本当の友だちとは何か」「なぜ目上の人は敬わなければならないのか」など人間関係の問いに入っていくのが面白い。高校生や大学生になると「責任とはなにか」「平等であることは可能か」など社会正義の問題へ集中し、社会人になれば「なぜ人間関係はつらいのか」など、人生に対する疲労が見え隠れする。

家に帰って、回収した紙を眺める。小さな枠内に、子どもたちが鉛筆で問いを書きなぐっている。「なぜ うんこというと へんたいといわれるのか」という問いを見つける。ふざけているように見えて、いい問いだ。人間、動物、宇宙、神。彼らの問いは万物をかけめぐる。その中で、誰よりもかぼそい字で、ささやかに書かれている問いが目に入る。

友だちの人生を歩めないのはなぜ。

どきりとする。名前を見ると、いつもにこにこと穏やかに授業に参加していた、おとなしい女の子だった。思わず振り返る。彼女に、耳元でささやかれたような気がしたからだ。同じように問いを書いてもらった先週の紙を引き寄せ、その子の問いを見てみる。

そこには、またかぼそい字で「自己とはなにか」と書かれていた。

幼稚園から小学生にかけて「わたしわたしゲーム」という遊びをよくやった。これは自分で開発した遊びで、午後の日が差さなくなり、部屋がうすい青がかかった空気で充満したころに、ひとりで行う秘密の遊びだった。

午後の気だるさに身体が重くなると、ベッドに仰向けに寝転がる。遠くで、車のタイヤが道路を擦る音や、見知らぬ小学生が争う声、工事現場で何かが当たるカーンという響き、木々が風でざわめく音がする。天井を見つめながら、世界と自分をなるべく溶け合わせるようにして、力を抜く。わたし、と心の中でつぶやき、何度もわたし、わたし、わたし、と唱えると、自分に焦点があたってくるような気がして身震いする。他者の視点で自分を見ようとするが、もちろん見ることはできない、そのもどかしさ。それと同時に、ここに今存在するこの「わたし」が意識されるという驚異と快感。

気がついたらわたしはここにいて、わたしはわたしであり、他の誰でもない。わたしはわたしを見ることができず、わたしはこの視点でしか世界を見ることはできない。わたしは生を知らないうちに与えられ、どこかでそれを閉じる。それを体験するのはこの紛れもないわたし、わたし、わたし、わたし…

こうした畏怖と快感に心を揺さぶられる経験が「わたしわたしゲーム」だった。当時のわたしは「自意識」という言葉も知らず、この「わたし」というものをよくわからないままに、奇妙な仕方で味わっていた。

 

特に選んだわけではないのにもかかわらず、わたしはわたしであることを引き受けねばならない。

この数奇な事実を飲み込むのに、わたしたちは長い時間をかけて、たくさんの回り道をする。これは、ただ単にわたしがわたしであることを超えて、わたしに降り掛かってくるさまざまなことを引き受けることも含まれる。わたしがこの紛れもないわたしであることに加えて、この時代のこの日のこの場でのわたしであること、そういったわたしに付け加わるものも、何とか引き受けたりこなしたりしながら、わたしたちは生きている。

そんな中、ふと問いがよみがえる。友だちの人生を歩めないのはなぜ。誰かがわたしにささやきかける。わたしの人生を捨ててしまいたいわけではない。友だちの人生が心の底から妬ましく、入れ替わりたいわけでもない。にもかかわらず、小さな少女がわたしの袖をつかんで離さない。

 

もしかしたらこれは、わたしはわたしをいつ選んだのか、という問いであるのかもしれない。選んでいないこれを、どうやって引き受ければいいのか、と。

ひとが生きていて、息をしていて、わたしはなぜだかわたしで、あの子もなぜだかあの子であることを引き受けざるをえなくて、色々あって、わたしたちはおろおろしている。

 

深夜、ソファに腰掛けて天井を見ながら、あれ?と思う。もう始まっているのか?気がついたら、猛スピードで進むトロッコに自分は乗っている。これは確かにわたしの人生なのか?好む好まざるにかかわらず、様々な出来事がどんどんわたしに降りかかる。トロッコは止まらない。ものすごい風が顔に当たり、目を開けていられないほどだ。だが、わたしは何も感じない。トロッコに乗る自分を、ひとりアパートのソファでぼんやりと眺めているからだ。わたしはどちらでもない、どちらにもわたしがいない、わたしはわたしを互いにぼんやりと眺めて、夜が更けていく。

 

サルトルという哲学者は「身に起こることを引き受けろ」と繰り返し言う。この言葉は、第一次世界大戦中の日記の中に多く出てくるから驚きだ。彼の不透明な言葉に、高校生だったわたしは魅了された。身に起こることどころか、わたしがわたしであることすら引き受け忘れたような子どもだったのに。

だが、サルトルの言葉は一見すると、身に受けることがたとえ不正義であっても、それに従順になることや、迎合することを奨励するように感じられる。まるで、不正な政治に対して沈黙をつらぬき「そういうものだ」と自分自身を納得させるかのようだ。いいからのみ込め、そうサルトルに居酒屋でビールを注がれているような気にもなる。

突然おそろしくなる。家中の本をめくって、世界の中にわたしを探す。わたしの見る世界の中にわたしはどこにもいない。友だちの出した本の謝辞に載るわたしの名前を見つける。永井玲衣。これはただのインクの染みで、わたしではない。

それなのに、わたしはいる。自分がよく見えないのに、色々なものがべたべたと貼り付いていたり、背中に何かを背負わされていたりする。周りの人々はせわしなく動いているのに、自分だけが静止しているような気がする。友だちの人生を歩めないのはなぜ。公園を歩くあのひとの人生を生きられないのはなぜ。通り過ぎる人々の目、息遣い、汗のにおい。ほとんど誰もいなくなった町の片隅にある中華料理屋で、背中を丸めてラーメンをすするあのひとになれないのはなぜ。

今日もただ、おろおろ、おろおろする。

世界はすっかり変わってしまって、小学校に哲学の授業をしに行くこともできなくなった。あの少女に再び会うことはできない。答えがすぐに見つからなくても、あの子と一緒に、問いを見つめていたかった。こわいね、ふしぎだね、とつぶやきながら。そして、あの子の考えを聞かせてほしかった。わたしわたしゲームを教えて、一緒に遊びたかった。

哲学対話はうるさいけど静かだ。ことばがぐちゃぐちゃに交差しながら、わたしの奥底は水中のようにしんとしている。どこからか射し込む光をぼうっと眺めて、余計なことは考えなくなる。体全体に水が触れているのを感じて、わたしというものが、普段とは違うような仕方で確かめられる。あの子と一緒に水中に深く潜りたかった。

対話はことばを交わすこと、考えを交わすことでもあるが、同時にわたしを眺めることでもある。余計な飾り付けを外して、わたしの手触りを確かめること。それがもしかしたら、わたしを「引き受けること」なのかもしれない。引き受けることは、黙って飲み込むこととは違う。わたしがわたしであること、なぜだかわたしに降りかかっている何かを、目の前におき、できるだけ生のままで、手触りを確かめることだ。口の中で、飴の形を確かめるみたいに、舌の上で転がしてみることだ。戸惑うべきじゃない、と自分を制限したり、性急に「答え」を急いだりせずに。

今は小学校に行けない。編集者の彼女と会うこともできない。でもきっと、二人ともどこかの水中にいるだろう。おろおろ、おろおろ、しているだろうか。これがわたしの人生だ、これがわたしなのだ、とまだ無理に胸を張って宣言しなくてもいい。ただ、おろおろ、おろおろして、止まらないトロッコに乗っている自分を、トロッコに乗ったまま感じること。どこか超越的な立場から判断するのでもなく、感じないふりをするのでもなく。色んな判断を一度宙吊りにして、ただ眺めたい。水中で、ゆっくりと力を抜いていくあの時のように。

わたしの人生と、友だちの人生と、知らない誰かを行きつ戻りつして、水の中でまた今日も眠る。