あたらしい比喩をつくるように

わかった気になる――反差別の手立てとしてのアート鑑賞

羽生結弦、其は「時代の子」

scrap book スクラップとは、断片、かけら、そして新聞や雑誌の切り抜きのこと。われらが植草甚一さんも、自分の好きなものを集めて、膨大なスクラップ・ブックを作っていた。ここでは、著者の連載から、対談、編集者の雑文など、本になる前の、言葉の数々をスクラップしていこうと思います。(編集部)

第9回 鳥葬とナイフの男(3)

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「お〜い、お前もこっち来て飲め」

つい今しがた鳥葬をしていたすぐ近くで、遺族の男たちが円座になって、食べ物や飲み物を広げ宴会をしていた。その中の一人が僕とKさんに向かって手招きをしている。

「さあさあ、飲め飲め」

鳥葬の時とは打って変わって陽気な表情を浮かべた遺族たちが僕たちに杯をかたむけてきた。そこに男が白い液体を注ぐ。チベット人たちが好んで飲むバター茶だった。ヤクのミルクに塩を混ぜて作るそれをコップいっぱいになみなみと注ぎ終えると男が「さあ飲め」という視線を送ってきた。

顔を近づけるとヤクの野性的な匂いが鼻腔をつく。内心、飲みたくないと思った。というか、つい今しがた起こった出来事を思い出すと、飲めなかった。しかし男たちの視線が痛い。僕はバター茶をしばらく見つめ、意を決するように一気に飲み干した。ヤクの匂いと混ざって、死臭の味がした。

 

「宴会」はしばらくした後、お開きとなった。

僕とKさんは宴会を今いち楽しめず、もと来た道を歩いて宿を目指した。

草原に緩やかな風が吹き抜け、雲がゆっくりと流れていく。あんなに鳥葬を見たがっていたKさんはさっきからずっと無言のままだ。

「この道やったよなあ」

僕がKさんに話しかけると、「多分この道から来たと思いますよ」と、顔を上げ草原の轍を指差して言った。

その時だった。後方から4駆車がクラクションを鳴らしながら近づいてきて、僕たちを追い越すと少し前方で停まった。そして運転席のドアの窓から男が顔を出し、中国語で話しかけてきた。宴会に居た遺族の中の一人の男だった。

「吉田さん、彼が街まで一緒に乗っていかないかですって。どうします?」

Kさんが中国語を訳してくれる。

「じゃあ、お言葉に甘えて乗せてもらおうか」

僕たちは車に駆け寄って、後部座席に乗り込んだ。乗り込むと、運転手とは別に助手席にもう一人乗っていた。バタンとドアを閉めるとその人は僕たちのほうをくるりと向いた。

あのナイフの男だった。ぎょろりとした目で僕たちをじっと見ると、何も言わずにすぐにまた前を向いた。Kさんの方を向くと僕と同じ気持ちだったのか、びっくりして固まっていた。車内にはナイフの男が纏った強烈な死臭が漂っていた。さっき草原で嫌というほど嗅いだあの匂い。それは僕の脳を刺激し、あの光景をありありと蘇らせた。

運転手とナイフの男と僕たち二人を乗せた車はすぐに動き出し、街へ向かって走り出した。車内では運転手がKさんにときどき話しかけている。中国語で何を言っているのか分からない僕は会話に入ることはなく、ぼんやりと窓の外を眺めた。

同じような風景が左から右へと流れていく。ナイフの男はさっきから黙ったままで、ずっと前を向いている。彼はいったいどんな気持ちであの鳥葬を取り仕切っていたのだろうか。肉を断ち切り、骨を砕く感触を彼はどう感じていたのだろう。今夜どんなことを考えて眠りにつくのだろう。目の前にいる彼のことを考えれば考えるほどまるで暗い淵をのぞくように分からなくなっていった。

車は草原を抜け、街へとたどり着いた。そして大通りへ出ると、停車して運転手が僕たちにここで降りるよう促した。僕とKさんはお礼を言って車から降り、運転手と握手を交わした。何度もお礼を言った。

すると助手席からナイフの男が降りてきて、僕たちのほうへ近づいてきた。そして僕たちの前に立つと、にっこりと笑って手を差し出してきたのだった。僕は反射的に手を出してナイフの男の手に触れた。その瞬間、彼はぎゅっと力強く僕の手を握り、僕の顔を見てニコニコと笑っていた。肉厚でゴツゴツした大きな手だった。

握られている間、実に不思議な気持ちだった。痛いほど強く握られているにも関わらず、握られていないような気分だったのだ。実体があるのかないのか、一体この人はこの世の人なのかそうでないのか、僕の目の前にいるこの人は果たして実在している人なのか。まるで空を漂う雲のように掴めそうで掴めない、そんな感じだった。本当に不思議だった。

ナイフの男は僕の手を離すと、今度はKさんと握手して、ニッコリと笑って車に乗り込み、砂煙を巻き上げながら走り去っていった。僕とKさんはそれを見えなくなるまでずっと見ていた。

車が小さな点ほどになってからやっと、僕とKさんは宿に向かって歩き出した。歩きながら僕はさっきナイフの男と握手した右手をじっと見て、鼻に近付けた。鼻の奥が濃い死臭でいっぱいになった。まるでナイフの男が目の前にいるかのようだった。

死臭を纏った自分の右手を見ながら、僕は今日実にいい経験をしたと思った。今日のことを一生忘れないようにしようと思った。いや、きっと忘れることができないだろう。

ここへ連れてきてくれたKさんに感謝しながら、僕は宿に向かって歩いた。

(「鳥葬とナイフの男」了)

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