あたらしい比喩をつくるように

わかった気になる――反差別の手立てとしてのアート鑑賞

羽生結弦、其は「時代の子」

scrap book スクラップとは、断片、かけら、そして新聞や雑誌の切り抜きのこと。われらが植草甚一さんも、自分の好きなものを集めて、膨大なスクラップ・ブックを作っていた。ここでは、著者の連載から、対談、編集者の雑文など、本になる前の、言葉の数々をスクラップしていこうと思います。(編集部)

第3回 バングラデシュのレンガ工場(3)

第3話①DSC_1262

結局僕はこの工場に4日間滞在した。

エクボルのおかげで顔見知りも増え、彼らと寝食を共にしながらスムーズに撮影することが出来た。

彼らの1日は朝起きて、肉体を酷使しながらレンガを作り、工場内に建てた簡易の小屋で束の間の休息と仲間との語らいで癒し、また陽が昇ると働く。僕はそれをたった4回見ただけだが、彼らの世界を体感できたことで、僕の中の世界が一つ広がった気がした。と、同時にこの世界を前から知っているような懐かしい気持ちにもなるのだった。

この懐かしさの正体は一体何だろう? 思い出せそうで思い出せないそのモヤモヤの正体が分からなくてずっと気になっていたのだが、それは日本に帰国してしばらく経ったある日、実家の宮崎に住む両親と電話で話している時に気付いたのだった。

「どんげやったか、バングラデシュは?」

電話口で父が言った。

「レンガ工場行ったっちゃけど、すごいところやったよ」

「そんなところ行ったとか?」

「うん、全部手作業でレンガ作るとよ。大人も子どももとにかくみんな一生懸命働いてた。すげーところやったわ」

そう言うと感心したように「ほー手作業でか」と驚き、「写真見てみてたいね」とつけ加える父。

その後も父相手にバングラ見聞録を小1時間ほど話し、そろそろ電話を切ろうかというとき父が言った。

「みんな一生懸命働いて生きちょるっちゃなあ。こうやって父さんたちが話してる今もその人たちは働いてるっちゃろうね。父さんもレンガ工場の人たちに負けんごつ頑張らんといかんが」

その後何を話したかは忘れてしまったが、この言葉だけが電話を切った後も妙に残った。そして「あぁそうだった」と思い出したのである。

僕の両親はかれこれ30年以上、実家の宮崎で小さな中華料理店を営んでいる。家は自宅兼店舗を兼ねた住居だったため、いつでも両親がいて、火と格闘しながら中華鍋を振る父と、お客さんに明るく振る舞いながら忙しく動き回る母の姿を幼い頃から見て育った。

忙しい時には、勉強そっちのけで手伝いに駆り出されることもしばしばで、それが嫌でしょうがない時期もあったが、親が何の仕事をしているかわからないという子どもも多い昨今、両親の働く姿を真近で日常的に見ることが出来たのはよかったのかもしれない。

とにかく朝から晩まで厨房に立って料理を作り続け、働いてきた両親の姿は今も鮮明に思い出される。いわば僕の原風景とも言うべきその光景。環境も境遇も違うけれど、レンガ工場で働く彼らを見て、どこか懐かしい気持ちになるのはこの原風景のせいではないだろうか。その日その日を一生懸命働き、眠り、また働くという彼らと両親の姿には一分の差もないような気がするのだ。

「すべては家族のために働くのさ」

そう言っていたレンガ工場の労働者の言葉が思い出される。その言葉は両親が僕たち兄弟を育て上げるために身を粉にして働いていたあの姿とそのまま重なる。

それがわかったとき、妙に自分の中で合点がいったのだった。そして、改めてこう思うのであった。働くのは生きるためなんじゃないかと。

 

「もう帰るのか。次はいつ来る?」

 帰る間際、エクボルをはじめ、皆が別れを惜しむように言ってくれた。

「次は家族連れてこいよ」

ここに家族を連れてくるのはハードルが高いなあと思いながら、必ずまた来ることを約束して彼らと固く手を握り合い工場を後にした。

いつまでも手を振ってくれる彼ら。僕も何度も手を振りながら4日前に来た道を戻る。そして近くの幹線道路に出て、ミニバスを捕まえて乗り込んだ。

座席に着くとゆっくりと出発するミニバス。車窓からさっきまでいた工場が見える。バカでかい煙突の下で、小さな人影が蠢く。あ、あれはあの人だな、今あの作業してるんだなと思いながらその景色を眺める。4日前にここに初めて来てこの景色に立ち会った時とはまったく異なる景色がいま僕の前には広がっていた。

ミニバスが速度を上げる。段々遠ざかっていく煙突群。

“今度は写真持ってくるからなあ”と心の中でつぶやいて、いつまでも外を眺めていた。

(「バングラデシュのレンガ工場」了)

第3話②DSC_1617