scrap book スクラップとは、断片、かけら、そして新聞や雑誌の切り抜きのこと。われらが植草甚一さんも、自分の好きなものを集めて、膨大なスクラップ・ブックを作っていた。ここでは、著者の連載から、対談、編集者の雑文など、本になる前の、言葉の数々をスクラップしていこうと思います。(編集部)

第3回 神戸:1975 (2)

フリーランスのライター&インタビュアー、尹雄大さんによる、土地と記憶を巡る紀行文。

すでに失ってしまったもの、もうすぐ失われるもの、これから生まれるもの。人は、移動しながら生きている。そして、その局面のあちこちで、そうした消滅と誕生に出会い続ける。また、それが歴史というものなのかもしれない。

私たちは近代化(メディア化)によって与えられた、共通イメージの「日本」を現実として過ごしている。しかし、それが覆い切れなかった“日本”がどこかにある。いや、僕らがこれまで営んできた生活の中に“日本”があったはずだ。神戸、京都、大阪、東京、福岡、熊本、鹿児島、沖縄、そして北海道。土地に眠る記憶を掘り起こし、そこに住まう人々の息づかいを感じ、イメージの裂け目から生まれてくるものを再発見する旅へ。

 

幼稚園に向かう道すがら私の手を引く母は、時折「今日はあの道を通ってみようか」といたずらっぽい笑みを浮かべて言うことがあった。そう言われると不安と不穏が掻き立てられ、気の弱い私はもうそれだけで縮み上がってしまったものだ。だからといって嫌な気持ちばかりでもなく、小心者ではあっても、怖いもの見たさに小鼻が膨らむような興奮を覚えもした。

川を少し下ると高い黒塀から鬱蒼と茂る松が覗く屋敷の立ち並ぶ一帯がある。その瀟洒な宅地を抜けて幼稚園へと至る道を選ぶと、ドーベルマンに吠えられながら白亜の邸宅を横切ることになる。ジェラルミンの盾を持った機動隊が屋敷の鉄門を見据えていた。家主は山口組系S組組長だった。ピリリと張り付いた空気が流れる路地を過ぎるのが通園の際のひとつのイベントだった。ただし、抗争が起きた後はしばらくそのルートは通らない。

機動隊が陣取る前を息を詰めて小走りに抜ける。厳しい顔つきしかこの場では選択しようがないからそうしているといった表情の、仁王立ちした機動隊員を左に見上げ、今度は繋いだ手の側を見やる。その時間は決まって青々とした坊主頭の若い衆が掃除をしていた。濃紺の戦闘服を着、竹箒で熱心に落ち葉を掃いており、私たちを認めると、「おはようございます」と挨拶した。

威嚇には慣れているきつい目つきとガニ股のなりからもたらされるのは、爽やかとは程遠い声音で、私はビクッとしたままこわばり、ぎゅっと握った手に力を入れた。軽く会釈する母の横顔は心なしかスリルを楽しむようにほころんで見えた。

昨冬、かつての通園路を辿ってみた。黒塀の屋敷もS組組長の家もすっかり失せ、いまは企業の社宅に変わっていた。坂を上ると冬の神戸の淡い青の下、六甲山系を背後に控えた川沿いに松が走っており、それを目で追うと向こう岸にかかる小さな橋に気づく。母に「川の向こうの子と遊んではいけない」と言われたことを突然思い出した。かつて負った怪我の傷が疼くような痛みとともに、大した幅もないあの橋が、こちらとあちらを分ける境界だったことを思い出した。

 

引っ込み思案の私には珍しく、今まで行ったことのない川の向こうに探検のつもりで出かけたことがある。橋のこちら側は日当たりのよい宅地とマンションが連なり、カジュアルなフレンチを出す店もあった。そこで私は初めて食べたエスカルゴが気に入り、1ダースも食べ、鼻血を出したことがある。松の並木が続く、静かな印象のこちら側がその頃の私の境界だった。

それを踏み越えた先のあちら側は高い建物や高架もなかったはずだが、日中にも関わらず、なぜか薄暗い印象を受けた。狭い道が入り組み、辺りの陰気な様子に次第に心細くなり始めた頃、「何してんの?」と路地から飛び出し、親しげに声をかけてきた子がいた。

本のことを「ご本」というような当時の私にとって、その一言はとても乱暴な調子の上、語尾がどうも聞きなれない言い回しに聞こえる。不思議に思いはしたものの、その子たちが以前からの知り合いであるかのように間合いを詰めてくる親しげな話し方に抗いがたい魅力を覚えた。しばらく他愛もない会話を交わした。おしゃべり上手ではないため、どうしてももつれてしまう話しぶりを気にせず、彼らは私が話し終えるのをちゃんと待ってくれた。そのためか別れ際に思わず「またね」と言い、橋を越えて家に帰った。再会を口にした自分に驚いた。

その日の冒険譚を台所で料理している母の背に向け興奮気味に話すと、母は振り返りもせず「川の向こうの子と遊んではいけない」と硬い声音で釘をさすように言った。取り付く島もない態度に「なんで?」と尋ねると、「あの子たちは育ちが悪いから」といった趣旨の返事がかえってきた。具体的な内容ではなく、会話のニュアンスのみ覚えているのは、「何かをぼやかしている」ということだけがこちらにはっきり伝わったからだろう。母の説明の歯切れの悪さがどうにも引っかかった。

向こうに行ってはいけない本当の理由がとても理不尽で惨いことだということは直感していた。後年、川の向こうの人たちは世の中が右肩上がりに豊かになろうが、これまでと同じく光の当たらない生き方を強いられているのだと知った。

 

神戸はおしゃれでエキゾチック、港町らしく開放的だというイメージがあった。

いまとなっては、もはや神戸市民だけがその印象の出がらしを反芻しているとしか思えないのだが、かつてにしたところで、「おしゃれでエキゾチックな街」「開放的」というよそ行きとは異なる相貌をそこら中で目にすることができた。

そもそも山口組が伸長したのは、神戸港の港湾荷役が振り出しだった。港は全国から荒くれ者や来歴定かではない者の蝟集する吹き溜まりでもあった。1970年代になっても、港近辺はおしゃれどころか小便臭く、灰色がかった色合いをした地域として記憶に残っている。港町神戸の暮らしには暴力と貧困と差別はつきものだった。

母はその世界をちゃんと知っていた。

しかし、子供服はファミリアで求め、ウェッジウッドのティーカップとソーサーで茶器を揃えるといった、小綺麗な格好とそれなりにスタイリッシュな暮らしを希求し、市民としての体裁を整えることに力を入れる人でもあった。母の望みは、社会の階梯を上がることにあった。社会の底の暮らしなど振り返ってはならず、常に前へ、上へと歩む。それが彼女なりの信念だったのだろう。

だからこそ「川の向こう」に広がる世界と我が子が縁を結ぶことを忌避したのかもしれない。馴染みがあるからこそ忌む気持ちが募りもしたのか。

たしかに、出自が明らかになった途端、平手打ちを食らう経験を母はしていた。

彼女が小学生の頃、どういうわけか通学していた学校では在日韓国人の子弟に韓国語を教える時間を設けていた時期があったらしい。担任はクラスメイトの前で母にその旨を伝えたのだという。授業が始まってしばらく、後ろの男子が母の編んだ髪を引っ張り、背中を小突いて「朝鮮人」と言った。彼女はすぐさま振り返ると、彼の頬を張ったという。

他人への蔑みをあからさまにする人は今日日、街頭にもインターネットにも溢れている。有象無象がこの世にいるのは、昭和の時代といたって変わりはない。ただし、いまと異なるのは、侮蔑を剥き出しにする側も、一方的に暴力を振るって無傷で終われるものではなかったことだ。悪意と侮蔑を相手にぶつけるならば、被差別者の「己の存在を実力で確保する」構えからの反撃――当然その中には暴力も含まれている――を受けざるを得ない。それが暗黙裡に許されていた。時には法を超えて実力を行使することも厭わない。私はかつての時代の感触をそういうものとして覚えている。

ヤクザと機動隊の「あいだ」を抜ける時、母は「己の存在を実力で確保する」ことが暴力と直結せざるを得ない、そうせざるを得ない時があり、そのような生き方もあることをヒリヒリと感じていたのかもしれない。世の中で上昇を目指す心持ちを抱え、見切ったはずの生き方に出会うと、思わず笑うしかなかったのかもしれない。彼女のいたずらっぽい笑顔が再び浮かび上がる。

すべての人が日の当たる場所で生きられるわけではないことが、あからさまな時代だった。貧困にあえぐ人を間近に見る暮らしをしていれば、見ないようにしたところで必ず視野に入ってくる。生きていれば弱い者や貧しい者を下に見るという、割り切った態度など取れるものではなかった。

 

三宮駅のそごうへ向かう陸橋に、ムシロに座り、脇に空き缶を置いた複数の物乞いをよく見かけた。今時の缶詰は個食を念頭に置いているせいか、とても小さい。当時は白桃や黄桃の絵が描かれた大きな缶詰が通常サイズとして売られており、物乞いはその空き缶を置いていた。

そごうの正面玄関を入ると吹き抜けに大きなシャンデリアが吊るされており、大理石の内装とあいまって絵に描いたような大仰な高級感が演出されていた。デパートは普段着で出かけることが憚られるような、日常と地続きにはないハレの空間であった。

普段から、公園での砂遊びや外を駆け回るには適していない服を母は私に与えた。お出かけの日はさらに特別な格好をさせたがった。身につけている華美な服と同様、心持ちもどことなく浮わついている時に、行き交う人々の前にただただ首を垂れ、襤褸と呼ぶほかない身なりをした人を認めると、私はデパートに行く弾んだ気持ちとの釣り合いが取れなくなり、ひどく狼狽した。いったいどういった着方をすれば、そのような煮しめた色になるのか。元々の色も形もわからない服をまとう姿には、直視し難いものがあった。しかし蓬髪垢面の男から目を逸らすことはできなかった。意を決して尋ねた。「あの人は何をしているの」。

すると、母は「お乞食さんよ」と答えた。私は小銭を与えられ、空き缶にそっと入れた。缶の底には小銭がいくつか見えた。

「お乞食さん」という言い方は何か胸に染みるものがあった。それは遠く離れた人ではなく、すぐ近くにいる人という感じがした。この社会の外ではなく、内に彼もまた生きているのだというような。

「川の向こうの子供」とは付き合うなというのであれば、乞食をぞんざいに扱ってもよさそうなものだ。気まぐれの同情だったろうか。

だが、今ならわかるのは、彼女がぶれた態度をとっていたのは、躊躇いがあったからだ。生きていくというのは誰しも明るい道だけを歩めるものではなく、陰影の中をどうにかこうにか踏み渡っていかざるを得ないものなのだ。

駅前に限らず、正月や祭事には寺社近辺で、決まって白装束に軍帽、松葉杖を付いた人がアコーディオンを抱え、喜捨を乞うていた。傷痍軍人たちだった。彼らが戦争で怪我をして働けない人たちだということはなんとなく知ってはいた。ただ、戦争というものは遥か昔に終わったはずで、だから目の前にいる傷ついた元軍人が物乞いをしていることがうまく繋がらなかった。今にして思うと「遥か昔」とは、ほんの30年前のことで、戦争は終わっても無くなった腕や足が返ってくるわけではなく、戦争に区切りがつくことなど彼らにとってはなかったのだ。

父は傷痍軍人について「あの人たちはな、本物ではないんや。でもな」と、そういうと口を噤んだ。その父の口ぶりはどこかで母の「お乞食さん」という言葉の選び方にも似ている気がした。

「でもな」の後には何が続いたろう。「生きるためにはそうせざるを得ない人がいる」だろうか。

 

空襲で焼け払われながらも復興を遂げた神戸という街は、戦後日本の経済発展を象徴する都市であった。行政の手腕は「株式会社神戸市」といわれ、街のあり方が開発や経済といった視点で捉えられることを疑いもしなかった。「山、海へ行く」のスローガンのもと、山を削り、宅地開発し、土砂を全長13キロのベルトコンベアで運び、海を埋め立てポートアイランドを作った。その人工島で1981年、博覧会が開かれた。

三宮にいた「お乞食さん」は博覧会を前に三宮から一掃された。矛盾した態度も、「でもな」という躊躇いをどうしても持たざるを得ない景色も、神戸から消え始めていた。