ポリアモリー編集見習いの憂鬱な備忘録

scrap book スクラップとは、断片、かけら、そして新聞や雑誌の切り抜きのこと。われらが植草甚一さんも、自分の好きなものを集めて、膨大なスクラップ・ブックを作っていた。ここでは、著者の連載から、対談、編集者の雑文など、本になる前の、言葉の数々をスクラップしていこうと思います。(編集部)

II-9 弱者男性のための正義論(後編)

いまわたしたちが直面している社会的諸問題の裏には、「心理学や進化生物学から見た、動物としての人間」と「哲学や社会や経済の担い手としての人間」のあいだにある「乖離」の存在がある。そこに横たわるギャップを埋めるにはどうしたらよいのか? ポリティカル・コレクトネス、優生思想、道徳、人種、ジェンダーなどにかかわる様々な難問に対する回答を、アカデミアや論壇で埋もれがちで、ときに不愉快で不都合でもある書物を紹介しながら探る論考、そのシーズン2の開始です。  

6:「あてがえ論」と「上昇婚」

6-1:「女をあてがえ論」とはなにか

ここまでの議論を整理しよう。従来のリベラリズムやフェミニズム、幸福度に注目する議論などでは弱者男性の問題を適切に捉えることはできなかった。しかし、潜在能力アプローチを用いれば、それらを求めているのに恋人がいなかったり結婚できなかったりする人がいる状況は不正義であり、公的な対処が必要な問題だと見なされる、と論じることができた。

では、この不正義には、具体的にはどのように対処できるだろうか?

ここからが、弱者男性論のなかでも最も厄介なところだ。

経済的な不平等や自由・権利に対する制度的な制限など、リベラリズムで問題視される事柄については、財の分配を調整したり制度を変更したりするなどの方法で対処することが理論的には可能である。センが問題視していたような車椅子に乗った人や妊婦が直面するハンディキャップについても、社会の物理的な環境とともに制度や文化を変えることで対処できるだろう。そして、弱者男性の問題についても、問題の片側である「経済力の欠如」については、経済的な再分配の施策を行うことで直接的に対処できるはずだ。

しかし、「恋人がいないこと」や「配偶者がいないこと」について男性たちが直面する不利益……孤独により病気や自殺のリスクが上がることや、人間らしさのある善い人生を過ごせないこと……とくに後者は、お金をはじめとした基本財がいくら分配されたところで、直接的な補償にはならない。これまでは「お金がなくて恋人もいなかった人」が、単に「恋人のいない人」になったところで、やはり本人は「自分は他の人たちが得られているような経験ができておらず、重要な価値を欠いた人生を過ごしている」と思うかもしれない。

恋人や配偶者がいないことへの対処法として、弱者男性論においては、しばしば直接的な「分配」が唱えられることがある。

それは、女性を分配すべき財であるかのように扱いながら、政策によって男性たちに女性を供給することを求めたり、女性たちに「弱者男性と付き合え」「女は男と結婚しろ」と直接的に要求したりするような主張だ。これらの主張は「女をあてがえ論」とも呼ばれる。

「あてがえ論」ほど露骨でなくても、弱者男性論者たちの唱える主張は、男性の問題を解決するために女性の権利や自由を直接的・間接的に制限することを要求するものである場合が多い。たとえば、「女性が男性に依存せずにひとりで生きていくのに充分なくらいお金を稼げるようになると、経済的な理由に基づいて男性と結婚したいと思う女性が減る」と論じたうえで「男女の賃金格差は維持しなければならない」「女性の収入は低く抑えるべきだ」という主張がされる。

また、高収入な男性は自分よりも収入の低い女性と結婚することが多い一方で、女性はいくら収入が高くても自分と同じかさらに高い収入の男性と結婚する場合が多いという「上昇婚」の傾向はアカデミックな調査や研究でもたびたび指摘されている。この指摘をふまえたうえで、弱者男性論では「女性も男性と同じように収入の低い相手と結婚(下方婚)するべきだ」と要求されることがあるのだ。

6-2:「あてがえ論」が否定される理由

「あてがえ論」は本気で唱えられているとは限らず、フェミニズムの主張を相対化・無効化するためにあえて持ち出されている場合もある。つまり、女性を男性に分配したり女性の権利を制限するという政策が本当に実現することがないのを承知でいながら、「男性たちが自分たちの権利や利益のために行う主張が支持されたりすることはないのに、女性たちが自分たちの権利や利益のために行う主張は受け入れられて政策にも反映されるのは不公平だ」と抗議するために行われているのだ。

とはいえ、実際問題として、「あてがえ論」はフェミニズムの主張と並び立つようなレベルにない。歴史的に女性たちが様々な権利や自由を奪われてきたことは疑いなく、それらを取り戻すためには制度や文化を変える必要がある、という主張は妥当なものだ。女性のみならず男性であっても理性的に思考すればフェミニズムの主張に同意できるだろうし、現に多くの男性が女性たちのために制度・文化の変革に協力している。

また、穏当なフェミニズムであれば、男性たちの権利や自由を直接的に制限しようとする主張が唱えられることはほぼない。これまで女性に不利であり続けた状況を改善するためのアファーマティブ・アクションやクォータ制が主張されて「女性枠」が設けられることにより、結果的に男性が特定の学校・学部に入学したり特定の職業や職種に就いたりするためのハードルが上がることはあるかもしれないが、それで男性が被る不利益はあくまで間接的なものである。

アファーマティブ・アクションを正当化する理路は、男性は「目に見えない下駄」を履かされているために受験やキャリアにおいて不当に有利であり続けてきたのであるから、女性枠を設けることではじめて平等や公正が達成される、というものだ。この理路の前提を問うことはできるけれど(「目に見えない下駄はほんとうに存在したのか?」など)、理路自体は妥当なものだと判断できる。女性と男性それぞれの権利や自由や利益を公平に配慮したうえでも、フェミニズムの主張に同意できる場合とは多いものだ。

対して「あてがえ論」やその他の弱者男性論においては、男性の権利や利益ばかりに目を向けて女性のそれは蔑ろにされていることが多い。

ある男性に恋人や配偶者がいないことが不利益であるとしても、その不利益を解消するために女性の権利や自由を制限することは正当化できない。男性に「恋愛したり結婚したりしたい」という希望があるのと同じように、女性にも「キャリアの道を歩んで他人に依存することなく生活したい」「恋愛や結婚の相手は自分で選びたい」という希望がある。そして、女性は男性と対等な人間であり、男性のために分配される財ではない。ある属性の人々が自分たちの不利益を解決するために、他の属性の人々を自分たちに分配しろと求めたり他の属性の人々の権利や自由を直接的に制限しろと論じたりするのは、どう考えても理に適っていない。

正義や倫理に関して主張をするなら、他の人たちは自分と対等な尊厳を持つと認めること、自分にも利害があるのと同じように他の人たちにも利害があるのを認めることが前提になる。他人の利害を無視して自分たちの利害だけを考慮した主張が人々を説得できなかったり社会に受け入れられなかったりするのは、当然のことなのだ。

6-3:女性の「上昇婚志向」は非難できるか?

女性たちの間に「上昇婚」の志向が存在しているとしても、それを理由にして、女性たちの賃金や収入を制限したり、女性たちの行動や選択をコントロールしたりすることは認められない。

上昇婚に関する議論には、「そもそも上昇婚志向はほんとうに女性たちの間に存在するかどうか」「存在するとすればその理由は何であるのか」「特定の地域や時代に限定されたものであるのか、文化を超えて存在する普遍的なものであるのか」といった様々な論点が存在する。

進化心理学のように人間の普遍性を強調するタイプの学問であれば「生存と繁殖の都合から、パートナーとする男性に対して資源を集める能力や集団内での地位を求める傾向が女性には生得的に備わっており、現代ではそれが上昇婚というかたちで表れている」と論じられるだろう。一方で、女性が上昇婚を求める傾向の強さは現代の先進国の間でも差があることから、この志向は文化や社会の制度によって影響されるということが強調される場合も多い。

なお、「女性が上昇婚を望まざるを得ないのは男女間の賃金格差が原因であり、賃金が男女平等である場合には上昇婚志向は消滅する」と反論される場合もあるが、すくなくとも日本においては学歴や年収の高い女性であっても自分よりも同等以上の学歴や年収の男性と結婚したがる傾向が存在することは、様々な調査によって指摘されている。

しかし、その理由がなんであろうと、「女性は(高収入であっても)自分より収入の高い男性と結婚したがる」という傾向はあくまで統計的なものだ。おそらく、女性の上昇婚志向は低収入な男性が結婚できないという状況を生み出す原因のひとつではあるだろう。しかし、個人としての女性たちが、自分たちの性別の統計的な傾向が原因で生じている問題の責任を負うべきだとは限らない。

また、統計に注目すれば「女性は高収入の男性を望んでいる」と見えるとしても、個々の女性の選択においては収入以外の点に魅力を感じて結婚している可能性がある点に留意すべきだ。

たとえば、高学歴な女性が同じく高学歴な男性に魅力を感じるのは、会話の内容や価値観が合うからかもしれない(一般に学歴と収入は比例していることを考慮すると、結果として「高収入の女性は高収入の男性を求める」ということになる)。あるいは、高収入な男性はコミュニケーションやユーモアや気配りの能力も高く(これらの能力が高い人は営業や世渡りがうまく収入も上がるだろう)、女性は収入ではなくそちらに魅力を感じているかもしれない。各々の女性たちが魅力を感じた相手と結婚した結果、統計的には「女性は高収入の男性と結婚する」という傾向が表れるかもしれないが、それは女性たちの選択を一面的に解釈したものだという可能性がある。

さらに、女性が男性を配偶者として選択する際に収入や経済力を直接的に重視しているとしても、その背景には複合的な要因が存在する。社会学者の山田昌弘の著書『日本の少子化対策はなぜ失敗したのか? 結婚・出産が回避される本当の原因』では、日本の女性の多くは「仕事での自己実現」よりも「豊かな消費生活を過ごすこと」、そして「子どもを立派に育てること」を人生の目標に定めている点が、彼女たちが男性に収入や経済力を求める理由であると指摘されている。日本の女性たちが仕事での実現を重視しないことには、労働環境そのものの悪さや「やりがい」のなさに、第4節で指摘したような女性にとってのキャリアの不利も影響しているだろう。また、単に子どもを産み育てるだけでなく、「子どもはよい学校に通わせなければならない」という意識から将来的に必要とされる教育費を高く見積もる(そのために配偶者に高収入を求める)ことは、日本人に顕著なリスク回避志向や「世間体」意識に影響されている一方で、将来に生まれてくる子どもに対する母親としての愛情や義務感に基づくものでもある。

男性たちは、上昇婚を求める女性たちについて「稼いでいる男性と異なり、稼いでいる女性は自分よりも収入の低い異性を扶養しない」という点を強調したり、「夫だけに稼がせて、自分は主婦やパートタイマーとして気楽な生活を過ごしたがっている」という風に表現したりすることが多い。このような表現を見聞したら、「女性は男性に比べてワガママで自己中心的な存在だ」という印象はどうしても強くなってしまう。……だが、その解釈は、統計に表れた傾向から一面を切り取ったものであるだけでなく、異性に対する悪意や軽蔑の気持ちを増幅してしまうものでもある。

原因や程度がどうであれ上昇婚志向が存在するとすればそれについての研究はなされるべきだが、このトピックについて男性同士が日常での会話やネット上で行う議論は、歪んでいて不毛なものになりがちだ。

恋愛や結婚に関して女性たちがとる選択は男性たちの人生にも大きな影響を与えるからこそ、男性たちのほうも女性の上昇婚志向という問題について冷静・中立に考えることは難しい、という点は意識しておいたほうがよいだろう。

6-4:恋愛や結婚の自由を制限することは認められない

そもそも、とくに恋愛や結婚という事象においては、だれと恋愛してだれと結婚するかを選択する自由は、個人が有意義な人生を過ごしたり幸福を感じたりするうえで核心的なものとなり得る。「意に沿わない相手と結婚するくらいなら独身であるほうがマシだ」という信念は女性にとっても男性にとっても一般的なものであるはずだ。

高い収入や高学歴、あるいは社会的地位を異性に求める女性がいるという事実は、多くの男性にとっては不愉快なものである。しかし、男性が異性に対して行う「選り好み」も、多くの女性にとっては不愉快に感じられるだろう。

たとえば、わたしは恋愛対象とする女性にある程度の条件を求めている。それなり以上に顔が整っていることや太り過ぎていないこと、年上であり過ぎないこと、映画などの共通する趣味があること、情緒が不安定であり過ぎないこと、分別があることなどだ。これら全ての条件を満たすことは期待していないが、複数の条件を満たしていたり、または条件を満たさないことを補って余るほどの魅力がある女性でないと、わたしにとっては付き合ったり結婚したりするのは難しい。そして、これらは多かれ少なかれ男性が女性に求める条件として一般的なものでもある。

女性からすればわたしの基準は「ワガママだ」とか「傲慢だ」とか感じられるかもしれないし、それは仕方のないことだと思う。しかし、たとえば「太っていて年齢を重ねた女性は結婚できないリスクが高く、孤独になって不利益を被っているから、男性には太っていて年齢を重ねた女性と積極的に結婚する義務がある」などと主張されたら、わたしは断固として反論するだろう。わたしにとっては恋愛や結婚の相手を選ぶ自由は、「どんなキャリアを選択するか」という自由や「どんな場所に住むか」という自由よりも重要なものであるからだ。

仮に「太っていて年齢を重ねた女性が孤独になりがちであり、不利益を被っている」ということが事実であるなら、それが不公正であったり不正義であったりすることはわたしも認めるし、公的に対処がなされるべきだとは同意する。そのために税金などが使われることで、社会の一員としてわたしも間接的になんらかの負担をする、ということも受け入れるだろう。……しかし、わたしは彼女たちを直接的に助ける義務を負っているわけではない。ある属性の人々を助けるためという理由で別の属性の人々の重大な自由が直接的・強制的に制限される社会は、どう考えても望ましくないのだ。

さらに、太っていて年齢を重ねた女性と嫌々ながらに結婚したとしても、わたしは相手に愛情を感じられず、相手にもそのことが伝わって、結婚生活は悲惨なものとなるはずだ。通常の婚姻関係に存在するような親密性も生じず、そもそも結婚を強制する目的であった「孤独という不利益を解消すること」すらも達成されない可能性が高い。……だからこそ、「あてがえ論」や「上昇婚」を非難する議論は、理に適っていないだけでなく不毛でもある。本人の意思に反して女性に付き合ってもらったり結婚してもらったりしたとしても、弱者男性の孤独がほんとうに解消されるとは限らない。

本節で述べたような理由から、弱者男性たちに「恋人がいない」や「結婚できない」という不利益が生じていることは不正義であると認めたとしても、女性を「あてがう」という直接的な対処方法や、その他のかたちで女性の自由を制限したり不利益を負わせたりすることで対処する方法は不正義であり、とうてい認められない。したがって、対処方法は間接的なものにならざるを得ない。

本稿の目的は、弱者男性が直面している問題について解決策を提示することよりも、「弱者男性の問題は不正義であり、公的な対処が必要な問題である」という主張を、女性を含めた人々一般の理性に訴えるかたちで論じることのほうにある。したがって、「弱者男性の問題はこのように対処されるべきだ」という具体的な政策を提言することまでは、本稿の本来の目的ではない。

とはいえ、本節で「あてがえ論」という提言を否定した以上、対案は示しておいたほうがいいだろう。本稿の締めくくりとして、次節では、弱者男性が経験する「恋愛や結婚が得られない」という問題について社会は具体的にどのように対応することができるか、わたしのアイデアを述べることにする。

7:弱者男性の問題に社会はどのように対応できるか

7-1:経済格差と性別役割分業の是正

これまでに論じてきたように、弱者男性は「経済力が欠如していること」と「親密性が欠如していること」の二重苦に苛まれている。とすれば、まず考えられるのは、低収入や経済的な格差を是正することだ。

第4節で述べた通り、弱者男性の問題について経済だけに注目するのは片手落ちではある。とはいえ、経済的な問題が解決すれば、自動的に、苦しみの片側が解消されることになる。また、経済的な格差が是正されることで、恋愛や結婚もしやすくなるだろう。極端に言えば、すべての人の収入が同じであれば「上昇婚」は原理的に発生しなくなる。そこまで行かずとも、だれもがある程度豊かである社会や最低限以上の収入が補償されており生活に不安がない社会では、経済的な原因で恋愛や結婚が阻害されることは減るはずだ。

実際のところ、「あてがえ論」などを唱えていないまともな論客が弱者男性論について言及するときにも、「経済的な格差が問題なのだ」という結論になることが多い。「経済的な問題を解決せよ」という主張は「恋愛や結婚ができるようにせよ」という主張に比べてずっと穏当であり、同意も得られやすい。収入や格差の問題は基本財の分配や「公」の領域に入るからリベラリストも支持するし、フェミニストであろうと帰結主義者であろうと低収入や経済格差を是とする人はほとんどいない。「低収入の女性は放っておいて低収入の男性だけを救済すべきだ」という主張はもちろん受け入れられないが、「社会に存在する経済的な格差を是正せよ」というかたちの主張であれば、弱者男性の問題に関心のない人からも支持を得られる。

もちろん、わたしとしても、低収入の問題や経済的な格差は是正されるべきだと思う。政府や社会はこの問題を真剣に捉えて、できる限りの対策を実施するべきだ。

……とはいえ、そんなことはいまここでわたしが書かずとも、何十年も前からきわめて多数の人が繰り返し主張し続けてきた。だけれども、近年の日本では実質賃金が低下したり格差が悪化し続けたりしている。この状況は政治家や資本家が意図的にもたらしたものだと主張する人もいれば、だれかの悪意ではなく政策の失敗や日本を取り巻く様々な時代的・環境的な要因によって訪れたものだと主張する人もいる。どちらか正しいかはわからないが、明白なのは、経済的な問題はこの先しばらくの間は解決しないだろうということだ。したがって、「経済的な問題を解決せよ」という主張は唱えるべきだとしても、それだけでは現状の問題に対する有意義な提言だとは見なせない。

また、弱者男性論に対しては「女性を憎むのではなく、資本家や政治家などの強者男性に対して怒りを向けよ」というクリシェが向けられることが多い。もちろん女性を憎むべきではないが、「資本家や政治家に対して怒ればよい」というのも、左派的・マルクス主義的な社会運動のスローガンに過ぎない。

そもそも、弱者男性論が行おうとしているのは、従来のリベラリズムや社会運動では日の当たらなかった問題を言語化して公衆に問いかけることである。左派の社会運動家たちは「経済的な問題を解決せよ」と言うことで弱者男性たちを自分たちの運動に引き込むことができると考えるかもしれないが、弱者男性論者たちはむしろ左派の社会運動に対する不満のうえに登場している可能性も高い。

したがって、親密性の欠如をはじめとした弱者男性が経験している(だが、女性や他の社会的弱者は経験していないかもしれない)困難に注目せずに経済的な面だけを問題視する主張は、議論を進展させるというよりかは退行させるおそれがあり、有意義な提言にはならないのだ。

「経済的な問題を解決せよ」と並び立つものとして「性別役割分業を解決せよ」という提言も考えられる。

この提言も、それ自体は妥当なものだ。性別役割分業が無くなったり希薄化したりした社会では、男性は長時間労働や残業をしてでも金を稼ぐというプレッシャーから解放されるだろうし、男女に対するジェンダー規範がニュートラルなものになって、男性は「公」から解放されて「私」の領域に進出することができる。同時に、女性の社会進出が進んだり男女の賃金格差がなくなったりして、「私」から解放された女性が「公」の領域に進出することができる。「性別役割分業を解決せよ」という主張を唱えるなら、弱者男性はフェミニストとも共闘することができるかもれない。

……とはいえ、「性別役割分業を解決せよ」という提言にも「経済的な問題を解決せよ」と同じような問題が存在する。単純に言って、社会における性別役割分業がいつか解決されるとしても、それには非常に時間がかかるだろう。

また、男女の行動や選択の傾向のどこまでが社会制度やジェンダー規範に影響されたものであり、どこまでが生物学的なものであったり自発的なものであったりするかは常に曖昧だ。「弱者男性を苦しめている真の要因は家父長制的だ」といった主張がされることもあるが、これも「弱者男性の真の敵は強者男性だ」という主張と同じように、わたしにはクリシェやスローガンに過ぎないように思える。

以上のことから、政治家・資本家や家父長制という共通の敵を定めたうえで弱者男性と左派やフェミニストとの「共闘」を図ろうとすることは、無難で耳心地が良いし社会運動の戦略としては妥当であるかもしれないが、問題に対する適切な理解や対処からは遠ざかるものであると考えられる。

以下では、より地に足のついた具体的な政策について検討してみよう。

7-2:男性の恋愛・結婚に対する間接的な支援

上述したように、「経済力が欠如していること」だけについて注目することは不充分である。

では、弱者男性の二重苦のもう片側、「親密性が欠如していること」という問題に対処することはできるだろうか?

「あてがえ論」はこちらの問題を解決することを目指す主張ではあったが、第6節で指摘したように女性の尊厳や自由を考慮しない自己中心的な議論であるので、受け入れることはできない。

しかし、女性の自発的な意思を尊重しながらも、男性の恋愛や結婚を間接的に支援することは可能かもしれない。

具体的な政策としては、官製の「街コン」や「婚活パーティー」を無料・低価格で実施すること、または恋愛やパートナー探しを直接の目的にはしないが男女が交流するイベントを政府や自治体が積極的に開催すること、などが考えられる。

また、ハローワークのような施設では求職者に職を紹介するだけでなく面接対策や就活指導が行われており、各自治体では住民向けに「健康教室」を開催している。それと同じように、異性とのコミュニケーションや恋愛のアプローチ方法に関する知識やノウハウに関する講習会や相談・指導サービスを公的に提供することも検討できるだろう。

本稿で何度か指摘したように、ある男性の経済力が欠如していることは、その男性を恋愛や結婚から遠ざけることにもつながる場合がある。……とはいえ、実際のところ、経済力が欠如していることが必ず恋愛・結婚を得られないことに結び付くわけでもない。女性のなかには相手に対して経済力を(あまり)求めない人もいる。したがって、たとえ経済力の欠如という問題が解決しないままであっても、男性が恋愛や結婚の相手を見つける機会を増やすことや異性とコミュニケーションする能力を身につけるのを支援することは、多かれ少なかれ効果をもたらすはずだ(もちろん、経済的な問題も解決されたほうが、その効果は大きくなるであろうが)。

なお、弱者男性を直接の対象としているわけではないが、街コンをはじめとして、恋愛・結婚を支援すること自体は政府・自治体が長らく行ってきたことではある。

ただし、それらの取り組みは批判の対象になることが多い。たとえば、内閣府では2021年より様々な学者をゲストスピーカーとしながら「人生100年時代の結婚と家族に関する研究会」を開催しているが、2022年に社会学者の小林盾が配布した資料では「結婚支援事業に恋愛支援を組みこむ」「教育に[恋愛支援を]組みこむ」ことが提案されていた[1]。しかし、その具体的な内容が「「壁ドン・告白・プロポーズの練習」であったために、デートDVや教育現場におけるハラスメントに発展する可能性が指摘されて、多数の批判を受けることになったのである[2]

「人生100年時代の結婚と家族に関する研究会」に限らず、リベラリストやフェミニストは、政府が結婚や恋愛について取り組むことを批判してきた。彼らの問題意識は、これらの取り組みは「少子化対策」を主眼としていることが多い点にあるだろう。

結婚することだけでなく子どもを作ることまでをゴールと定めた取り組みからは同性愛者やその他の性的少数者などは排除される可能性が高く、政府による(保守的な)価値観の押し付けにもつながるために、リベラリズムとは相容れない。また、少子化対策は家父長制的な発想に基づいている場合があり、人口を維持するための女性の権利・自由を制限するという発想につながることも多いために、フェミニズムによる批判の対象となる。……実際、女性や性的少数者の権利・自由に対する一般的な日本人の意識や与党議員の発言、家族主義的な宗教組織が政治にもたらす影響力などを考慮すると、リベラリストやフェミニストが抱く危惧はもっともなものであるようにも思える。

とはいえ、目的を少子化対策や人口の維持ではなくあくまで個人の利益に置いて、人権や自由を重視しながら政策を実施するのであれば、政府や自治体による恋愛・結婚支援は正義に適ったものとなるかもしれない。

本稿で主張してきたように、恋人や配偶者がおらず親密性が欠如することは多くの人にとっては不利益であり、病気や自殺という具体的なリスクももたらす。一般に、政府は国民の健康を支援したり自殺を予防したりするための政策を行うべきだとされているし、現にそれらの政策は実施されている。とすれば、健康支援を正当化するのと同じ理路で、政府による恋愛・結婚支援も正当化できるはずだ。

また、少子化対策とは異なり、個人の利益を重視する視点であれば、同性愛者やその他の性的少数者は排除されないことにも留意してほしい。たとえば同性愛者たちが出会える場が充分に存在せず、そのためにパートナーが得られずに親密性を欠如している人たちがいるとすれば、政府はそのような人たちの恋愛や結婚も支援するべきなのだ[3]

7-3:孤独の問題にはどう対処できるか

最後に、「いくら支援しても、恋人や配偶者が得られない人は一定数必ず存在する」という問題にも目を向けておこう。

本項の議論によれば、本人が恋愛したり結婚したりしたいと思っているのに、それらの経験が得られないことは、(潜在能力アプローチの観点に基づけば)不正義であり、公的な対処が必要な問題であった。

とはいえ、正義論とは、あくまで理想を掲げるものである。社会で起こっている問題の大半は、分配できる財の希少性や物理的・環境的な条件などの様々な要因から、完全に解決することはできない。弱者男性の恋愛や結婚についても、支援を通じてできる限り解決すべきではあるが、それでも恋人や配偶者が得られない人たちは残るだろう。

このような人たちについても、次善策として、親密性が欠如することによる不利益に対処するための様々な支援がなされるべきだ。

まず、独身男性は病気や自殺のリスクが高いことは現に判明しているのだから、独身男性の健康支援や自殺予防は現在よりもさらに積極的に行われるべきだといえる。

また、第2節で行った議論によれば、男性は女性に比べて友人関係や親子関係が希薄なものになるために、恋人や配偶者がいない場合の孤独が深刻なものとなるのであった。さらに、孤独な男性はセルフケアに対する意欲も下がり、不健康な生活を過ごす可能性が高い。

これらは、日々の意識や行動や習慣を変えることである程度は対処できる。わたし自身、ジョイナーやカシオポの本を読んでからは自分の意識や行動を改めて、友人への連絡や不特定多数の人が集まる(新しい知人を見つけられる可能性のある)イベントへの参加を以前よりも積極的に行うようになった。

とはいえ、現状では、「孤独は健康や自殺のリスクをもたらす」という情報を全ての人が理解しているとは言い難い。そのため、多くの男性は、それが自分の健康を害するとは知らずに、孤独になる行動を選んでいるかもしれない。とすれば、行政には、市民に対して孤独のリスクを積極的に周知することが求められるかもしれない。リベラルな社会では飲酒や喫煙を禁止すること自体はできないが、喫煙や飲酒のリスクを周知することで、あくまで本人の意志に基づかせながら不健康な行動を間接的に予防させることは認められている。孤独に対しても、同様の対策を取ることができるだろう。

また、禁酒や禁煙は簡単に行えるものではない。同じように、孤独の問題も、本人が「孤独であるのを止めよう」いう意志を抱いたり「新しい友人関係を築いたり、交流の場を見つけたりしよう」という具体的な目標を抱いたりしたところで、それが簡単に実現できるというものではない。厚生労働省では、禁煙支援対策やアルコール健康障害対策に取り組んでいる[4]。同じように、孤独についても、省庁や自治体による支援や対策がなされるべきかもしれない。たとえば、「孤独であるのを止めたい」と思った人同士が交流できる機会や場所を公的に提供することだ。

さらに、孤独な男性はセルフケア能力も欠如しているとすれば、これについても支援すべきだろう。学校教育や講習会などを通じてセルフケアの重要性を周知して、具体的なテクニックも教授するべきだ。これらを通じて、孤独によって生じる苦痛や不健康にも、個人のレベルである程度の対処を取ることが可能になる。

なお、本稿では「親密性の欠如」は男性に顕著な問題であるという前提に立ちながら、あくまで弱者男性に関する問題を論じてきた。とはいえ、もちろん、孤独な女性も少なからず存在する。上述したような孤独対策が公的に実施されることは、女性にとっても有益であるだろう。

7-4:結論

第2節で論じたように、男性にとって友人関係はカップル関係ほどには安定しておらず、その密度も薄い。いくら支援しても、恋人や配偶者がいない人は、そうでない人に比べて不安定で希薄な親密性しか得られない可能性は高い。

また、第5節で示したように、恋愛や結婚は「人間らしい生活」を構成する要素でもある。恋人や配偶者が得られない人がいるという状況は、「潜在能力」を剥奪されている人がいるという観点からすると、不正義であり続けるのだ。

男性学などにおいては、「男性同士の交流」や「恋愛や結婚以外の人間関係」が、弱者男性の問題に対する解決策として提示されることが多い。しかし、わたしは、これらはあくまで次善策であると見なすべきだと考える。

求めているのに恋愛や結婚ができなかった男性のなかには「自分は他の人が得られた経験に欠如しており、不利益を受けている」という感覚を抱き続ける人もいるだろう。「自分は不利益を受けている」という感覚を強くし過ぎることや、不利益を受けているという事実に拘泥してしまうことは、当人をさらに不幸にさせることになるので、避けるべきだ。その一方で、その感覚自体は、正当な認識に基づいているとも言える。

「男性にも「ことば」が必要だ」でも記したように、男性学やジェンダー論においては「「恋愛や結婚を経験できないのは不利益だ」というのは社会のジェンダー規範に思い込まされていることであり、実際には女性と恋愛したり結婚したりできないことは損ではない」という主張がされることは多い。しかし、このような主張は弱者男性の経験している困難から目を逸らしており、不誠実なものであると批判できるだろう。

以上、本稿では、弱者男性の経験している困難はどのようなものであるか具体的に分析したうえで、弱者男性の問題を正義の対象とするべきかどうか、正義の対象であるとして公的にはどのような対処をすることができるか、という点について検討した。そして、弱者男性の問題は従来のリベラリズムで扱うことは難しいが潜在能力アプローチであれば適切に捉えられること、女性の権利や自由を制限しない範囲内で問題に対処することも可能であることを論じてきた。

問題の分析、問題について考えるための規範、問題への対処策。これらのいずれについても本稿とは異なる主張ができるだろうし、より適切でより正確な議論が提出されるかもしれない。……とはいえ、すくなくとも弱者男性の問題を正面から取り上げて、政治哲学的な理念に基づきながら、人々の理性に訴えるような議論ができたとは思いたい。


<参考文献>
アマルティア・セン、池本幸生・野上裕生・佐藤仁(訳)、『不平等の再検討 潜在能力と自由』、岩波書店、1997年。
マーサ・ヌスバウム、池本幸生・田口さつき・坪井ひろみ(訳)、『女性と人間開発』、岩波書店、2005年。
マーサ・ヌスバウム、神島裕子(訳)、『正義のフロンティア: 障碍者・外国人・動物という境界を越えて』、法政大学出版局、2012年。
ウィル・キムリッカ、『新版 現代政治理論』、千葉眞・岡崎晴輝 (監訳)、日本経済評論社、2005年。
ジョン・T・カシオポ、ウィリアム・パトリック、柴田裕之(訳)、『孤独の科学 人はなぜ寂しくなるのか』、河出書房新社、2010年。
筒井淳也、『結婚と家族のこれから 共働き社会の限界』、光文社、2016年。
金野美奈子、『ロールズと自由な社会のジェンダー』、勁草書房、2016年。
山田昌弘、『日本の少子化対策はなぜ失敗したのか? 結婚・出産が回避される本当の原因』、光文社、2020年。
大沢真知子、『21世紀の女性と仕事』、左右社、2018年。
神島裕子、『ポスト・ロールズの正義論 ポッゲ・セン・ヌスバウム』、ミネルヴァ書房、2015年。
Joiner, Thomas. Lonely at the Top: The High Cost of Men's Success. Palgrave Macmillan.2011.

 

[1] https://www.gender.go.jp/kaigi/kento/Marriage-Family/index.html
[2] https://www.businessinsider.jp/post-253000
[3] 前提として、同性婚を法的に認めることも必要とされるだろう。
[4]https://www.mhlw.go.jp/topics/tobacco/kin-en-sien/index.html
https://www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/bunya/0000176279.html

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    長野生まれ。個人的な体験と政治的な問題を交差させ、あらゆるクィアネスを少しずつでも掬い上げ提示できる表現をすることをモットーに、イラストレーター、コミック作家として活動しつつ、エッセイなどのテキスト作品や、それらをまとめたジン(zine,個人出版物)の創作を行う。