批判的日常美学について
倫理的なものの背後にはつねに美的なものが見え隠れしていて、その美的なものを見逃すと、倫理的な議論は他人事になってしまう。人は正しさだけではなく、美しさでも生きている。そして、両者はいつも私達の願うようには重なっておらず、ずれている。そのずれを見逃しがちなのは、わたしたちが美学的な視点を身につけていないからだ。
「批判的日常美学」の視点から、日常生活を検証し、日常の中に潜む倫理と美の不幸なカップリングを切断し、再接続することが、人がよりわがままに生きるきっかけになる。社会が要請する「こうしなければならない」に対して、あなたがあなたの理由で反抗し、受け入れ、譲歩し、交渉するために、批判的日常美学の「道具」を追求する試み。
労働、暮らし、自炊、恋愛、病気、失敗、外出、趣味などにわたるスケール大きな論考。
第6回

被害者サディズムの吹き荒れる時代に、スピリチュアリティにできること?

2025.05.01
批判的日常美学について
難波優輝
  • 1 被害者サディズム

    スピリチュアルであることは愚かなことだとみなされている。

    スピリチュアルであるということは、信頼すべき科学的知識を信頼しないことかもしれない。スピリチュアルであることは、信頼すべき常識を信頼しないことかもしれない。

    そう考えると、スピリチュアルなことにも愚かさがある。しかし、それは合理的であることの愚かさと同じくらいの量でしかない。合理的であることを履き違えることはいつでも可能だ。目先の利益に眩んで怪しい商売をしたり信頼を切り売りしたりもできる。いや、そういうのは合理とは言わずに悪い合理性だ、と擁護する人もいるかもしれない。その通りだ。同様に、スピリチュアルであることも悪いスピリチュアルもあればよいスピリチュアルもある。

    私は、本稿で、よいスピリチュアリティの可能性を考えたい。今の時代に必要なことの一つだからだ。いまは悪しきサディズムの時代だ。悪しき人々は、弱い者を助けようとするのではなく、むしろせせら笑い、苦しい状況をその当人のせいだ、と非難して悦に浸る。かといってそういう人々が幸福の絶頂にいるとは思えない。自分自身もつらい状況にいながら、よりつらい状況にいる者を笑ったりしているようだ。

    とりわけ、アメリカの政治状況を観察していると、私は興味深い態度に気づく。トランプをはじめとする彼らは、被害者意識に満ちた悪しきサディストというほとんど矛盾した存在として暴力を振る舞っている。

    哲学者のジュディス・バトラーは、「トランプは世界に冷酷さ(サディズム)を解き放っている。しかし、私たちは圧倒されてはならない」というタイトルの印象的な記事を書いている(Butler 2025)。

    「トランプの挑発とサディズムを称賛する者たちも、それに激しい怒りを抱いて麻痺する者たちも、彼の論理に取り込まれている」とバトラーは言う。

    どういうことか。バトラーは、まず、トランプが生み出すサディズムの興奮の祝祭性を指摘する。「……この恥知らずなサディズムの興奮は、単なる彼一人のものではない。それは広く共有され、楽しむ者がいてこそ成立する——つまり、これは残虐性の共同体的、感染的な祝祭なのだ」。

    メディアがサディスティックな狂乱を報告する。それによって人々は恐怖する。あるいは狂喜する。とにかく、トランプのサディズムが成立するために「それは知られ、見られ、聞かれなければならない」。トランプを非難することは燃料にすらなる。「もはや偽善を暴くことは十分な対抗策にはなり得ない。ここには剥ぎ取るべき「道徳の仮面」すら存在しない。むしろ、道徳的な体裁を求める公衆の期待は逆転し、トランプの支持者たちは彼の道徳への侮蔑に熱狂する。そして、その侮蔑を自らも共有するのだ」。だから、「毎日のように発せられる声明に驚愕し、怒りに囚われ続けることは、むしろ彼の狙い通りなのだ」。テロリズムがそうであるように、「私たちが彼の言動に取り込まれ、思考が麻痺することこそが、彼の目的である。怒りを抱くべき理由は十分にある。だが、その怒りに飲み込まれてはならない」。そうではなく、トランプのサディズムを支え、エンジンとなる「ファシズムの情動」を分析しなければならない。そうでなければ、「トランプの挑発とサディズムを称賛する者たちも、それに激しい怒りを抱いて麻痺する者たちも、彼の論理に取り込まれて」しまうのだ。こうした分析に加えて、「私たちは、私たち自身の情熱を見出す必要がある」という。トランプの論理を超えて「すべての人が等しく享受できる自由への渇望を、民主主義の約束を果たすための平等への願いを、地球の生態系を修復し再生するという責任を——そして、恐れることなく生きられる世界を想像する力を」。

    バトラーのこの言葉に勇気づけられる者は多いだろう。私もその一人だ。バトラーの分析を言い換えれば、トランプたちは、自分たちが政治的なエリートたちやアカデミックなエリートたちによって罠に嵌められ、騙されてきた、だから、もう一度白人の偉大な国を作るのだ、と息巻いている。自分たちは被害者なのだ、と彼らは紛れもなく信じていることだろう。それゆえ、彼らがアカデミックなプロジェクトの予算をカットしたり、多様性を推進する活動への抑圧を行うとき、彼らは暗い復讐の炎を燃やしている。同時に、彼らは自分たちこそが合理的な側だと考えているのだろう。多様性などアメリカを弱くするものだ、と信じているように思われる。

    この悪しきサディズム、合理性の名の下に自由と平等と地球を破壊しようとする欲望に対して、スピリチュアルなものは何ができるのだろうか?

    2 崇高とスピリチュアリティ

    人がスピリチュアルな経験をするとき、何を経験しているのか。ここで、スピリチュアルについてはそれほど明確な定義を行おうとは思わない。そもそもこれはあいまいな概念であろうし、本稿ではスピリチュアルなものを特定の経験から分析しようとするからだ。

    スピリチュアルの経験には、何らかの回心的な、変容的な経験がしばしば伴っている。

    ある瞬間に偉大なものに出会う。ある瞬間に啓示を得る。ある瞬間にいままでのことにどんな意味があったかを知る。この変容的な経験を特徴づけるのは、「崇高(sublime)」である。崇高さとは、自分の認知の限界を超えたものとの遭遇によって、自分の認知の限界を知り、そして、それを超える可能性を秘めたものである。それゆえ、スピリチュアルな経験とほとんどいつもセットになって現れるものだ。

    哲学者のアンドリュー・チンネルとマシュー・ハルトマンは、宗教的な実践にまつわる崇高を大きく4つに区分しており、崇高を論じるうえで非常に参考になる(Chignell & Halteman 2012)。

    第一に、神学的崇高では、体験の結果として「神が存在する」「神は正義で慈悲深い」といった明示的な神学的命題が現れる。第二に、スピリチュアルな崇高は、個別の神(パーソナルな神)ではなく、全体性や宇宙との一体感、または内面的な霊性に基づく体験として理解される。第三に、神話解体的崇高は、従来の宗教的神話の枠組みに縛られず、崇高体験そのものを宗教的体験のアナロジーとして活用する立場を示す。第四に、非神学的崇高は、体験が従来の神の存在を否定する方向に働く場合(例えば、極度の悪や苦悩による体験)を扱い、「悪の欠如」や「忌避」といった視点から分類される。

    私がいま関心をもっているのは、第一の神学的崇高、そして、第二のスピリチュアルな崇高である。前者は、何かしらの神——伝統的宗教であれ、新興宗教であれ——を感じるような崇高である。後者は、個別の神というよりも、より広く世界全体に対する崇高的経験を指している。

    日本においてポピュラリティとスピリチュアリティを兼ね備えた興味深いアーティストとして藤井風がいる。藤井は、仏教的世界観にインスピレーションを得ていると思われる歌詞と、しばしば日本の祭り囃子を彷彿とさせる太鼓やリズムを多用しつつ、スピリチュアルな世界を歌っている。とりわけ、2024年のNHK紅白歌合戦においての「満ちていく」という曲のパフォーマンスは、現代におけるスピリチュアルなポップミュージックの最先端を私たちに提示している。朝のニューヨークを歩きながら、不必要なものを手放すことで軽くなり、よりよき存在になることを歌いながら、藤井がストリートミュージシャンに扮するバンドメンバーにお金を投げ銭をしたり、子どもにマフラーを与えたりする。そして、曲のクライマックスとなり、歌いながら目を手で覆い、おもむろに離すと、まるで神をみたかのような呆然とした表情となり、震える。カメラが藤井の目線の先を追うと、そこには、朝日に照らされて黄金色に染まるニューヨークのビル群が現れる。この一連の映像は観るものに崇高のヴィヴィッドな経験を与えるだろう。そして、藤井の楽曲に深い説得力を与える——その説得力には危険な香りもする。

    こうした崇高的経験が、既存の常識的道徳に対する異議申し立てのレバレッジとして機能する。すなわち、既存の常識的道徳は、それに従って通常業務が行われる道徳であり、それは特段批判の対象にならないような安定性をもっている。もちろん、それに対する学問的な批判は可能だが、それは理性的な響きを持ちすぎており、人を動機づける力はそこまで強くはない。「何かをえらそうに言っている」くらいのものだろう。あるいはこういう例も出せる。肉食が倫理的に悪いことは多くの倫理学者は同意するだろうが、その中でまじめに肉食をしないヴィーガニズムに取り組んでいる倫理学者の数は、少なくないが、そう多くはない。これは倫理的な動機づけ、とりわけ理論的な説得が人々を強くは動機づけないことの証左だ。それゆえ、常識的道徳は、理論的な攻撃からも強く身を守ることができる。

    しかし、崇高経験というレバレッジによって、スピリチュアルな信念は、常識的道徳の抜本的な改革を個人において可能にする。なぜなら、それは、常識的道徳を理性的に批判するのではなく、美的に批判するのであり、一度崇高によって何らかの「真実」に遭遇した者にとっては、もはや以前の生活に戻ることは不可能ではないが難しいからだ。

    スピリチュアルな崇高経験はこういう意味で強力である。人々の動機づけを動かし、変容する可能性を持つ。それゆえ、宗教的実践の多くが典礼や儀式を多用し、そこではつねに崇高さが基調になっていることはよく理解できる。宗教が常識的道徳を批判し、オルタナティブな動機づけに人々を誘うために、崇高経験はもっとも優れた美的経験の一つとなるということだ。

    ポストコロニアル批判を先導する、ゴウリ・ウィッシュワナータンは、宗教的実践における改宗にフォーカスを当てている。

    異議申し立てがもっとも力強く表現されるのが改宗、ことに少数派宗教への改宗であるならば、その理由を理解するのはそれほどむずかしいことではない。改宗は、変更不能な固定されたアイデンティティという概念を反故にすることによって、自己であること、市民・国民であること、共同体をなすこと、といったことがらを定義づけるさまざまな境界を動揺させ〔unsettle〕、それらの境界壁が穴だらけであることを暴露するのだ。(Viswanathan 1998, 16)

    異議申し立てができる崇高経験。崇高の力によって常識的道徳の批判が可能になる。バトラーの言葉もまた、崇高経験に私たちを誘っているように思われる。では、崇高経験は頼りになるのだろうか。崇高を感じるならば、その感覚の導きに従って進めばうまくいくのだろうか。問題は、常識道徳を批判した先の着地点だ。

    3 伝統ではなくクィアなスピリチュアルへ

    スピリチュアルな経験、崇高経験によって常識道徳は批判された。ではその先に人々はどこに向かうのだろうか。人々がとるもっとも多い選択肢、それは「より伝統的なものへの回帰」である。なぜなら、多くの人々が常識的道徳のオルタナティブとして持っているのは、より伝統的な道徳しかないからである。それゆえ、人々が現在の常識的道徳から脱して、新たな道徳規範に着陸しようとするとき、それは古い土地でしかありえないのだ。それゆえ、スピリチュアルなものは、たいてい伝統的なのである。

    その伝統性がかいまみえる最たるものは、スピリチュアルなものにおけるセクシュアリティの理解だろう。しばしば、男女二元論的なセクシュアリティ観がスピリチュアルなものでは採用されてしまう。女性は「出生」的なもの、「生殖」的なものと結びつけられて、「しなやかさ」や「生産性」などの美名を帰属される。男性は、強さや硬さが帰属される。なぜこのような伝統的なものがオルタナティブとなるのだろうか。それはむしろ、現代の常識道徳が否定してきたものではないか。その通り。まさに常識道徳が排除してきたからこそ、人々は伝統的なものをオルタナティブな道徳として活用する。そうした道徳は現在批判されたり、批判されつつあり、現時点で実行可能な道徳としての地位から退けられつつある。それゆえ、いま実行されていない道徳をオルタナティブな道徳の基準点として用いることができるようになる。

    それは例えば、ファンタジー作品が、存在しない世界の論理を用いることで私たちを魅了するように、現在批判されつつある道徳は、エキゾチックで、魅力的なものにみえるのだと説明できる。例えば、ファンタジー研究において、現在の中世風味のファンタジーは、ヨーロッパ中世の習俗に対する関心はそれほどなく、異なる世界を描き出すフレーバーとして「中世的なもの」を用いる「新中世主義」と呼ばれている(岡本 2019)。人々は過去をファンタジーのように使って、崇高の先の着地点として用いることができる。できてしまう。

    スピリチュアルなものが、とりわけリベラルな人々からみて評判が悪いのは、この伝統性だろう。こう言い換えてもいい。現在の常識的道徳とは、すでに進歩的で、少なくない人にとって違和感のあるものなのだ。それゆえ、そこから脱し、批判したいと願っても、その先はより伝統的な方へと帰らざるを得ないのである。なぜなら、それ以外の想像力の資源というものを多くの人は持たないからだ。

    このように、スピリチュアルなものは、伝統的なものと結びつけて考えられがちだ。だが、別の方向でスピリチュアルなものを考えることができる。それは、「クィア・スピリチュアリティ(queer spirituality)」だ。

    クィア・スピリチュアルとは何か。まず、クィアとは何だろうか。クィアとは、根本的には動きである。クィアリング=クィアすること、それは、常識的なジェンダー規範を脱し、それからずれていることを意味する。例えば、男性だとみなされる私が、男性ならこうあって欲しい、という他人の願いを叶えないこと、男性なら私たちの仲間である、という男性たちの要請に答えないこと、あるいは、男性であればこのように振る舞ってほしい、という女性たちの願いを叶えないこと。これらが私にとってクィアすることの日常的な一場面である。それゆえ、クィアである、と自分を呼ぶことよりは、クィアをしている人、として自らを呼んだほうが心地がよい。

    クィアすること、それは、規範に抵抗すること、台無しにすること、干渉すること、自分たちを(そしてもしかすると他の人も)解放すること。クィアは、アイデンティティというわけでもない、と私は理解する。「異性愛者」といった特定のセクシュアルアイデンティティとは異なり、クィアはあらゆる非規範的な性的主体を包含するメタカテゴリーだ。それゆえ、「この人は手が4つあるからクィア」「この人は誰々を好きだからクィア」というふうにカテゴライズできるわけではない。むしろ、クィアは、挙動であり、挙動不審であることだ。

    さて、クィア・スピリチュアルとは、だから、クィアするスピリチュアルである。つまり、これまで話してきた伝統スピリチュアルとは真逆の方向へと崇高を進めようとする態度だ。現在の常識的道徳を崇高的経験を通して脱して着地するのは伝統的道徳であった。しかし、クィア・スピリチュアルは、常識的道徳を崇高のゲートをくぐって脱して、どこにも着地しない、あるいは不時着する。それは未知の場所であり、馴染のない場所であることは確かだが、何か明確な前例があるわけではない。その土地は自分たちで塩梅していかなければならない。

    クィア神学、というものがある。これは、神が従来の異性愛中心的枠組みによって「隠蔽」されていたという考えに基づく、クィアな神性の肯定的再発見の実践を意味する(工藤 2022)。神がクローゼットから出られる。宗教がしばしば、一定の規律や制度と結びついたスピリチュアルな実践だとすれば、スピリチュアリティとは、規律や制度からは(ある程度)自由なスピリチュアルな実践だ、と区別できる。

    レズビアン・ラビであるエリザベス・ティクヴァ・サラは、こう語っている——とされる(だが、引用元はどこにも見当たらない)。

    宗教というと、制度やヒエラルキー、固定されたもの、コントロールしようとするものを思い浮かべる。 スピリチュアリティという言葉は、より自律的で、人々が自分自身の人生においてどこから来ているのかということを表している。 人間であること、生きていること、創造の一部であることが何であるかということだ。(引用元不明)

    この言葉は、誰が語っているにせよ、説得的な区別かもしれない。制度とそうではないものの違いがまとめられている。

    クィアスピリチュアルは、伝統的スピリチュアルの道徳的な問題を回避しようとしている。そして、より広い人々とともに、制度を含めた世界を変えていきたい、現状に対する異議申し立てを実践する行いなのである。現状の常識道徳に問題があることが分かる。しかし、その先にどこに進むべきかは、私たちはつねに分からず、互いに語り合うしかない。

    4 スピリチュアルなんていらない?

    でも、スピリチュアルである必要はあるのか。正義に向かって、理性的な議論と説得を介して、進んでいけばそれで十分ではないだろうか、と言われるかもしれない。

    しかし、理性的な態度というものは、それはそれで世界への一つのとてもユニークな態度なのである。理性的な態度は、問題に自分を勘定に入れないことをモットーとする。だが、自分を勘定に入れない態度というのは奇妙な態度だ。そのとき、自分を勘定に入れないで済むというのはどういうことかよく考えなければならない。いままさに抑圧されている人。アメリカで公民権を奪われたトランスジェンダーを生きる人が、自分を勘定に入れずに、この決定は正しいのかを理性的に考えることなどできるのだろうか。それを他人が強いるべきなのだろうか。私たちは、暴力に動揺し、悪徳に怒りを覚える。その感情のもとでしか思考することはできない。自分が理性的な態度ですべてのものごとを把握し、考察できると考える者は、はたから見ればもっとも感情的な人間であることはよくある。自分を勘定に入れずに済んでいるという状況に気づけていない。それはあまり理性的ではない。スピリチュアリティを一切排除しようとする理性主義は、結果的にどこかでスピリチュアルな空白を過激な物語で埋められてしまう。この現象は、トランプ主義の背後にも透けて見えている。人間は「聖なるもの」「超越的なもの」を欲しがる存在でもある。

    だとすれば、世界をよくするにあたっては、いろいろな態度を組み合わせて実践していくべきだということになる。スピリチュアルであることの非道徳性は、スピリチュアルであることそのものにはない、と私は考える。むしろ、スピリチュアルではないことの価値を高く見積もる人々こそ、怪しい魔術に飲み込まれる。人間がスピリチュアルなものを求める気持ちは止みがたい。それゆえ、スピリチュアルなものを克服し、そこから離れおおせた、と考えている人こそ、スピリチュアルなものに飲み込まれ、悪しき方向へと引きずり込まれてしまいがちだろう。

    トランプたちは、悪しきスピリチュアリティに飲み込まれている。彼らは、男らしさの復権に惑わされ、悪い夢を見させられている。トランプはしばしば「ディール」という言葉を使う。理性的な損得勘定をできている、と考えている。こんなにバカバカしいことはない。彼らが行っているのは冷静なディールなどではない。トランプこそが、古き善きアメリカ、という悪しきスピリチュアリティの中でもがき苦しんでいるように思われるのだ。

    被害者サディストたちはしばしば、自分たちを「努力の末に(資本主義に)選ばれた者」あるいは「真実に気づいている者」と位置づけることで、自らの怒りや暴力的態度を正当化する。自分たちの加害的行動を「被害者としての正当な抵抗」とみなす言説をつくり上げる。こうした態度は、悪しきスピリチュアリティの典型例と捉えることができるだろう。つまり、自らが被害者であるという物語と、歪んだスピリチュアリティの物語を結びつけることで、弱い立場の人々をさらなる攻撃の対象にしてしまうのである。

    彼らを横目に、私は、クィアなスピリチュアリティでもって生きたいと願う。それは、私にとっては、自由、平等といったフレーズが散りばめられたスピリチュアリティである。スピリチュアルなクィアのありよう、オルタナティブな世界を求める動機というものは、それ自体で価値のあるものであり、無数の可能性を秘めているものだ、と私は考える。

    では、スピリチュアリティに何ができるのか。それは一撃で世界を変える力ではない。だが、世界を変え始めるための力である。私たちは、自分たちが理性だけではなく、スピリチュアルな動機によっても突き動かされていることに素直になっていい。しかし、そのスピリチュアルを呼び覚ました崇高経験の着地先を安易に求めてはならないことも忘れてはいけない。スピリチュアルをクィアし続けること。どこにもない私たちのありたい世界を想像し続けること。

    次回は、スピリチュアリティと対をなす合理性が生活に入り込んでいくことで何が起きているのか、それを丁寧な暮らしの周辺文化を分析することで考えていきたい。丁寧な暮らしはいっけんスピリチュアルな営みにみえる。部分的にはそうだ。しかし、それらが伝統的なスピリチュアリティに着地する危険があること、そして、それを回避するために何ができるのかについては十分に語られてこなかった。そこで、生活を統治することとその問題、という視点から、丁寧な暮らしを考えていきたい。

    参考文献
    Butler, Judith. 2025. “Trump is unleashing sadism upon the world. But we cannot get overwhelmed.” The Gurdian. https://www.theguardian.com/commentisfree/2025/feb/06/trump-sadism-judith-butler
    Chignell, A. and Halteman, M. 2012. ‘Religion and the sublime’, in Costelloe, T. ed, The sublime: from antiquity to the present. Cambridge: Cambridge University Press, 184–202.
    Viswanathan, Gauri. 1998. Outside the Fold: Conversion, Modernity, and Belief. Princeton Univ Pr.
    岡本広毅.2019.「ファンタジーの世界と RPG─ 新中世主義の観点から」『立命館言語文化研究』31(1): 175-181頁.
    工藤万里江.『クィア神学の挑戦——クィア、フェミニズム、キリスト教』新教出版社.

     

倫理的なものの背後にはつねに美的なものが見え隠れしていて、その美的なものを見逃すと、倫理的な議論は他人事になってしまう。人は正しさだけではなく、美しさでも生きている。そして、両者はいつも私達の願うようには重なっておらず、ずれている。そのずれを見逃しがちなのは、わたしたちが美学的な視点を身につけていないからだ。
「批判的日常美学」の視点から、日常生活を検証し、日常の中に潜む倫理と美の不幸なカップリングを切断し、再接続することが、人がよりわがままに生きるきっかけになる。社会が要請する「こうしなければならない」に対して、あなたがあなたの理由で反抗し、受け入れ、譲歩し、交渉するために、批判的日常美学の「道具」を追求する試み。
労働、暮らし、自炊、恋愛、病気、失敗、外出、趣味などにわたるスケール大きな論考。
批判的日常美学について
難波優輝
難波優輝(なんば・ゆうき)

美学者・会社員。専門は、分析美学、人間の美学、SF、ポピュラー文化。newQ所属、立命館大学ゲーム研究センター客員研究員、慶應義塾大学SFセンター訪問研究員。修士(文学、神戸大学)