コンビニエンスストア——コンビニ的想像力と便利リアリズム
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はじめに
コンビニに行くとき、私たちは何を求めているのだろうか。
私たちは何度もコンビニに行く。日本フランチャイズチェーン協会(JFA)正会員七社ベースでは、二〇二五年の全店来店客数は一六三億四一四二万人だという(『食品新聞』二〇二六年二月六日より)。もちろん、訪日外国人、同じ人の複数回来店もカウントしているので、これを日本の人口で割っても正確な数字は出ないけれど、とてつもない回数人々はコンビニに行っている。
深夜にコンビニに行くときの、不思議な高揚感。コンビニに入ったときの、なんとも言えない安心感とよそよそしさ。旅先でちょうどいいタイミングでコンビニに遭遇したときのありがたさ。朝に学校や出勤前に飲み物と甘いものをすこし買うときの、寝ぼけつつも、何かが今日も始まっていく感覚。愛想のない店員の、愛想のなさに安心したりする。やけに元気な店員の元気さにびっくりしたりする。
コンビニは、楽しい。私はコンビニが好きである。
もちろん、コンビニは、環境・労働・社会的に無数の問題がある。フランチャイズ方式によるオーナーへのプレッシャー。食品廃棄の多さ。電力消費の環境問題。これらの問題は重要ではあるが、ここでは行うつもりはない。こうした問題を語るのと並走して、私たちは、別のことを分析することもできる。
私が行いたいのは、実際に私たちがコンビニに行くときに、何を感じているのか、何を思っているのか、その「コンビニ経験」の分析である。こうした経験の分析は「現象学」と言われる。であれば、本稿は、「コンビニの現象学」の試みだ。
非個人的な親密さ
コンビニに行く。馴染みのコンビニがあなたにもきっとあるだろうと思う。家の近所のコンビニ。仕事帰りに立ち寄るコンビニ。旅先で使うコンビニ。
馴染みのコンビニは、しかし、馴染みのカフェや馴染みのスーパーとはちょっと違う馴染み方であるように思える。
私にとってのコンビニの雰囲気のよさというのは、いつまで繰り返して尋ねて行っても、声を掛けられないことだ。そこでは、確かに馴染みの客になることはできる。もしかしたら店員は私のことを覚えているかもしれない。
だが、同時に、店員に覚えられていたとしても、覚えられていることそのものについて店員が言及することはほとんどない。店員の人々の裁量に任されているところももちろんあるだろうが、同時に、コンビニという場が、人々にどのような応対を適切なものとするかを支配している部分も大いにあるようにも思える。コンビニという場は、敵対的な場ではもちろんないけれど、どこか、人々をある意味でよそよそしくするような場所に思える。コンビニの雰囲気としか言いようのないあの雰囲気。一体どこからコンビニ的雰囲気が生まれてくるのだろうか。
そこで私が取り上げたいのは、コンビニ人類学のリーダーとも言える人類学者のギャヴィン・ハミルトン・ホワイトロウの研究だ(世界は広く、コンビニの人類学研究をしている人がいるのである)。ホワイトロウは、二〇〇四年から一年間、日本のコンビニで店員として働きながら、品出しをしたり、レジ打ちをしたり、廃棄食品をこっそりもらったりしながら、デイリーヤマザキでフィールドワーク研究を行った。その経験に基づく一連の研究が出版されており、どれも非常に興味をそそる。
最初の論文は、デイリーヤマザキでの研修から、徐々に一人前の品出しとレジ打ちに習熟していく、二〇〇八年の「ささいな変化から学ぶ:研修と便宜性のための労働」。そこから始まり、二〇一四年には「賞味期限と廃棄の労働:食、生計、そして日本のコンビニエンスストア」、二〇一六年には「ゴミ箱?:日本のコンビニで見かける賞味期限切れ食品」という、食品と廃棄をめぐる二つの研究、二〇一八年には、「コンビニ国家」という日本におけるコンビニ文化の社会歴史学的考察が発表されている(Whitelaw 2008; 2014; 2015a; 2015b; 2015c; 2016; 2018)。
ホワイトロウの文章はなんとも味わいがあり、少し長めに紹介してみよう。
デイリーヤマザキとの関わりは二〇〇四年一〇月、大家がフランチャイズ店を営む家族を紹介してくれたことから始まった。店の狭い奥の部屋で、私は店長(senmu)と面会した。彼はフランチャイズオーナーの弟で、ヘビースモーカーだった。煙草の煙が立ち込める中、私は所属する大学と研究プロジェクトについて説明し、研究の一環として店で働きたいと伝えた。研究フェローシップで生活費は賄えるため、賃金なしで彼らの時間と支援を得たいと明確に伝えた。
店長は、私が働くことよりも、デイリーヤマザキが私の研究対象として適切かどうかを気にかけていた。繁華街の立地やチェーンマニュアルへの無頓着さなど、彼らの運営がどれほど非典型的かを指摘した。コンビニに関して私が「コミュニティ」という言葉を使ったことには嘲笑した。デイリーヤマザキは「地域性のない」ビジネス街の真ん中にあったのだ。「コミュニティ」は他の店にはあるかもしれないが、ここにはないと彼は断言した。当然ながら、彼はまた、なぜアメリカ人がわざわざ日本まで来て、アメリカで生まれ今も繁栄しているタイプの店を研究するのか知りたがった。店長が投げかけた質問は、日本におけるコンビニエンスストアへの矛盾した態度を浮き彫りにした。この会話は、私自身のコンビニに対する思い込みも露呈させた。四本目のタバコを吸い終えた店長は、私が数ヶ月間店にいることを許可した。デイリーヤマザキは人員が充足していたため、私は無給で働くことになった。彼が設定した唯一の条件は、私の研究が客の迷惑にならないことだった。(Whitelaw 2008, 63)
ホワイトロウが発見したのは、コンビニにおける「非個人的な親密性(impersonal familiarity)」の実践だった。いったい何なのか。ホワイトロウは言う。「コンビニの利便性の一部は、店が作り出す非個人的な親密さにある」と。どういうことか。
まず親密性とは、丁寧さや配慮をし合う関係を営むことを意味する。例えば、家族関係は親密性を特徴とすると言える。家族は、いつでもゴミ出しを代わりにしたり、お風呂を掃除したり、体調が悪そうだったら気遣ったりする。友人関係・恋人関係、あるいは仲のよい同僚もそうだろう。こうしたものは、個人的な親密性だ。互いが互いの素性を知っていて、お互いをユニークな人間として、互いが互いを意識して、思いやり合う。
それに対して、非個人的な親密性とは、親密性ではあるけれど、互いが互いを明確に個人としては意識しないような関係のことだ。
たとえば、ホワイトロウはこんな例を挙げる。POSシステムの例だ。コンビニが採用しているPOS(Point of Sales)システムとは、「販売時点情報管理」システムを意味する。これは、顧客が商品を買う時に、店員が顧客の年齢やジェンダーをポチポチと入力するシステムのことだ。こうして入力された情報によって、需要がデータ化され、どのような商品を増やしたり減らしたりするのかの意思決定のために役立てられる。
POSシステムが非個人的な親密性とどう関係しているのか。興味深いのは、ホワイトロウがフィールドワークしていた当時のデイリーヤマザキ、さらには、別のコンビニでも、店員が年齢を入力する際に、商品を買ってくれた顧客の実際に見える年齢よりも若く入力するという実践があったというのだ。
「ある午後、東京郊外に住む三十一歳の女性友人、倉藤美穂からメールが届いた」とホワイトロウは述べ、彼女の語りを次のように引用する。
昨日セブンに行ってさ。朝、パジャマ姿で化粧もせずにふらっと行ったんだけど、びっくりしたことがあって。レジの店員の人が会計する時、「二十九歳未満」のボタンを押してたの。家に帰って夫に自慢したら、夫が「俺も同じだよ。店員がいつも同じボタン押すよ」って言うの。夫は三十六歳で。どういうことって? 年齢入力って大体そんなものだろうけど、もしかするとコンビニのサービスなのかも。店員は見た目の年齢より若いボタンを選ばなきゃいけないっていう(笑)。(Whitelaw 2008, 66)
彼女の語りは、実は彼女の思い過ごしではないらしい。ホワイトロウは、「確かに、データ収集は一見平凡な取引に知らず知らずのうちに感情的なニュアンスを加えることがある」と言う。ここでは、年齢を若く判断してそれを入力するという、ごくさり気ない配慮が行われている——もちろん、若くみることが配慮になるというのは、それはそれでエイジズムの一つの兆候だと思うのだが。
もちろん、これは、POSシステムの本義から言えば不適切で不純である。だから、本当に杓子定規にコンビニ店員として働くべきだとしたら、間違ったことはしている。
しかし、コンビニという場においては、POSシステムで若い年齢を入力するということは、独特な、あまりにもさり気ない丁寧さや配慮なのである。コンビニで「何かお探しですか?」と尋ねられることはありえない。それはアパレル店員のようなサービスだ。あるいは、夜食用のお弁当を眺めていると、横から「これおいしいですよ」と品出ししている店員に話しかけられることもありえない。
その代わりに、「若くみる」というさり気ない気遣いがコンビニという場における、アンビエントな配慮になっているというわけだ。このあまりにもさり気ない配慮が、コンビニの特有の雰囲気を作り出している。これが、「非個人的な親密性」の代表の一つだ。互いを個人としては正面から眼差し、対面し合うことはないけれど、独特の仕方で、親密性が発揮される。
もちろん、この非個人的な親密さというのは、かなりの程度新しい文化なのだろう。それが分かるのは、ホワイトロウが報告するように、高齢の人々が店員にたくさん話しかけるという事象から推測できる。高齢の人々は、コンビニ店員と顧客の微妙な距離感、非個人的な親密性の関係構築に参加しようとはしていないのだ。
カウンターでのやり取りでは店員に挨拶したり、天気の愚痴を言ったり、夕食用に買った一人前白米の電子レンジ加熱方法を尋ねたりした。店員の大半はこの行動を受け入れていたが、店が混むと返答は短くなり、態度は硬直した。(Whitelaw 2008, 67)
店員にふつうの会話をする。喋りかける。人間同士なのだから変な話ではないはずだ。だが、コンビニにおいては、こうしたコミュニケーションが違和感のあるものとなってしまう。それは、裏返しで言えば、間違いなく、コンビニという場が、非個人的な親密さをベースとするような規範を持っていることの証である。
とはいえ、こうした規範というのは、脆く破られやすい。ホワイトロウは「非個人的な親密さの構築には労力と注意が必要だ」と注意を喚起する。例えば、店員に対して客から「一目惚れをした」と電話がかかってしまう。そうすることで、店員は不快感を覚える。あるいは、店員のお釣りの渡し方や挨拶の仕方にわずかに問題があった、というだけで、客から叱責があり、非個人的な親密さが崩壊したりする。
非個人的な親密さは、しかし、私の経験からいえば、かなりの程度「現代東京の文化」から生まれたものでもあるように思われる。例えば、あるとき、東京のコンビニで、暇つぶしに新聞を買おうと思い、どの新聞を買おうか、と手に取っていたら「立ち読みはおやめください〜」と目も合わさずに、棚の整理をしている店員に言われた。そのとき、私はひどく驚いた。それはおそらく私という関西文化圏に親しんでいる者からすると、あまりにも非対人的な声掛けに思えたのだ。もしも京阪神文化圏のコンビニならば、「すいません、立ち読みは遠慮してもらっていいですか」と言われただろう。
つまり、東京文化圏では、立ち読み客は、人間として行動を辞めさせるものなのではなく、何か祈りのようにして、祓うものであるのだ。その祓われ方に、私は京阪神と東京の巨大な文化差を感じた。とはいえ、いずれの文化圏においても、コンビニという場で目指されているのは、非個人的なあり方での親密さではあるだろう。
しかし、現代東京では、伝統的な東京とは異なり、かなり異なる地域から出てきた人々が集まり、一定の協調的行動を取る必要があるがゆえに、街中では、対人的な関わりを一対一でするのではなく、非対人的で、非人間的な関わり合いこそが、摩擦をうまない適切な関わり合い方になっているように思える。
逆に、伝統的な東京のお店に行くと、現代東京との感覚の違いに驚くだろう。私があるとき、東京に長らく住んでいる編集者の人に東京のご飯屋さんを紹介してもらったとき、そこでのアットホームな雰囲気に圧倒された。それは、関西的な個人的な親密性とは、似ているけれど、ずいぶんと違う、ちょっとした距離感を保ちながら、しかし個人的な親密性を生み出し続けるコミュニケーションがあった(「おいしいなあ」と私が言っていると、わずかに微笑んでいる店員の人々がいたりする)。
コンビニという場でホワイトロウが見出した非個人的な親密さは、ホワイトロウはそう指摘してはいないけれど、いまや日本のお店文化においての顧客対応のベースとなっているようにも思う。日本においては、例えばアメリカのように、顧客を下の名前で読んだりは絶対しないし、そもそも顧客に喋りかけるとしたら、特定の店舗や特定のプロトコルに限られるだろう(服屋における声掛け、飲食店における声掛け)。
こうした非個人的な親密さが、その極地としてのコンビニエンスストアの実践から明らかになっていると言えるのだ。最高度の非個人的な親密さが、コンビニエンスストアというお店空間で実践されている。私たちは、コンビニを一つの理念として、日本のお店文化についてのモデルを作っていくピースを手に入れる。非個人的な親密さと、いわば「個人的な親密さ」という二項を対称とする軸が、お店文化にはあるはずだ。ここで試みに述べてみた個人的な親密さは、まだまだ分析を必要とするだろうが、それは、いきつけのバーや個人経営の飲食店などで実践されているはずだ。
私の知人の一人は「上京した時期は、東京が好きだった」と言う。中国地方から東京に行き暮らしていたとき、出身地とは異なり、非個人的な親密性が実践されている東京の文化に驚いたという。しかし同時に、その非個人的なあり方が慣れてくると、好ましく感じたと言う。互いに頓着しないあり方に、非個人的な親密性の味わいを感じていたのかもしれない。
逆に、いま関西に暮らしているその人は、関西の個人的な親密さに少し苦手さを感じるときもあると言う。あまりにも人に近く、人間的な関わり合いがそこかしこで発生してしまう関西。超個人的な親密さで満たされた街、それが関西の街なのかもしれない。それはもちろん、よい悪いではないだろう。
お店の現象学を行っていくためには、そのお店の種類はもちろん、その立地も考えていく必要がありそうだ。
便利リアリズム
こうしたコンビニの非個人的な親密性は、具体的にコンビニのなかで経験することができる雰囲気であった。次に、少しそうした経験を歴史的な視点から見直してみると、コンビニの現象学が広がっていくはずだ。
メディア研究者のマーク・スタインバーグによれば、ドコモのi-modeを構想した松永真理、榎啓一、夏野剛たちは、携帯電話を用いたインターネットサービスを考える際に、コンビニを重要な手がかりにしていたという(Steinberg 2025a)。
iモードは、サービス開始から三年経たずに、三〇〇〇万人の加入者を誇る世界最大のインターネットサービスプロバイダとなった。iPhoneやAndroidスマートフォンに大きな影響を与えたとも言われる、インターネットビジネスモデルである。
当時のドコモ副社長の榎木は、コンテンツのキュレーションとサービス提供というiモード戦略を、デパートではなくコンビニエンスストアに喩えている(Steinberg 2025a, 7)。当時、PCでアクセスするインターネットはデパートのような存在だった。そこには、多種多様なコンテンツが揃っている。だが、営業時間は限られていて、利用頻度はそれほど高くはない。それに対して、携帯電話の画面は小さく、通信速度も遅いし入力もしにくい。その中でリッチなサービスへのアクセスを狙うのではなく、コンビニのように限られたコンテンツをキュレートすることを目指したのだ。
コンビニが限られた棚のなかに需要がありそうなものをセレクトして並べるのと同じく、i-modeもまた、小さな画面のなかに、ニュース、天気、ゲーム、着メロ、メール、チケット予約、銀行といった、日常の欲求にすぐ応じるコンテンツを陳列することを目指した。
興味深いことに、この発想は、スタインバーグによれば、その後のスマートフォンにも受け継がれると見ることができる。AndroidやiPhoneは、直接にはi-modeとは異なる技術的・企業的文脈から生まれている。けれども、小さな画面に、アプリというかたちで選ばれた機能をキュレートし、決済や予約やエンタメや電話やメールを一つの端末でまかなうという「コンビニ的感覚」とでも呼ぶべきスタイルは、i-modeが先取りし、現在のスマートフォンのアプリの形式にも受け継がれていると言えるだろう。
ドコモのi-modeは、コンビニを手本とした。そして、AndroidとiPhoneは、i-modeを手本とした。コンビニは、現在のスマートフォンの先祖なのである。そう、スマートフォンはコンビニである。
こうしたコンビニたちの基底にあるもの、それは、もちろん「便利さ(convenience)」である。スタインバーグは、コンビニを便利さの観点から分析し、「プラットフォーム感覚」の重要性を指摘している。
プラットフォーム感覚は、コンビニがその代表であるが、同時に、コンビニだけではない。世界の様々な仕組みがプラットフォーム感覚によって動かされている。そして、人々は、その感覚に親しみをもち、便利さを感じている。プラットフォーム感の特質はいくつかあるが、私が重視したいのは、完結性だろう。そこに行けば、いったん必要なものが揃うという感覚。これをあちらに買いに行き、あれをそちらに買いに行き、というわずらわしい感覚がない。
いまや世界はコンビニなのである。世界は、当たり前に便利化されることをふつうのこととしている。あらゆるプラットフォームは、コンビニ的想像力を前提としている。あまりにもふつうのこと過ぎるがゆえに、NetflixやAmazonがコンビニ的だと言われてもピンとこないかもしれない。だが、系譜的にはともかく、形式としては、いまやプラットフォームとは、コンビニ的雰囲気で満たされている、と言うべきなのだ。つまり、言い換えれば、コンビニについて考えることは、私たちを取り巻く情報環境のデザインを考えることに他ならないのだ。
私たちのアプリケーション的環境、コンビニ的環境、つまり、「コンヴィヴァイロンメント(convevironment)」について、私たちはじっくりと考える必要がある。「お店で考え中」というタイトルの本連載は、まさしく、コンビニの中でコンビニについて、コンビニ的経験について考えることが、私たちの毎日の生活のあり方、その意味と限界と隠されたものを明らかにするのに役立つことを積極的に提唱したい。
便利リアリズム
いま、私たちは、世界がコンビニ化していること、つまり、便利化していることを確認した。そうすると、私たちの生活においては、「便利さ」「利便性」は疑いようのないポジティブな価値を持つこと、利便性とは、ある意味で生活のデフォルトになっているということに気づくだろう。
だが、利便性とは、便利さとは何なのだろうか。便利さとは、いつでも自分の欲求が満たされるということだろう。確かに、自分の欲求が満たされないとき、私たちは不便である。
スタインバーグは、近年「利便性」「便利さ」の歴史社会学とも言うべき不思議な研究を進めている。その研究にさらに耳を傾けてみよう。
ジョシュア・ベネスとスタインバーグは、利便性の感覚を二種類に分類している(Neves and Steinberg 2024, 22)。それは、「安らぎという主体の感覚としての利便性」と「条件としての利便性」の二つだ。一つ目は分かりやすい。ある道具やシステムによって、「快適さ」や「シームレスさ」が高まった、と感じることである。そして、こうした主体の感覚が広がることで、利便性が当たり前になる。これが二つ目の条件としての利便性である。これだけを聞くと、なるほど、利便性が「感じられる」初期の段階と、もはや「当たり前」になった後期の段階なのだな、と理解できる。
べネスとスタインバーグは、しかし、こうした二つのステップが逆転する現象が起きている、と指摘する。それは「これは、もともと容易や快適とは感じられなかった何かが、後になって初めて利便性を感じさせるように仕向けられるプロセスを指す」。例えば「決済アプリ」だ。
例えば、最初、決済アプリを導入することは、様々な人々にとって明らかに不便である。決済アプリが便利になる、つまり、「快適さ」や「シームレスさ」を感じる「主体的の感覚としての利便性」が成立するのは、実のところ、「それはあくまで事後的に、つまり誘引や誘導によってデフォルトの状態となった後に限られる」のだ。この逆転したプロセスを、彼らは「利便化(conveniencing)」と呼ぶ。つまり、本当は利便性が感じられなかったにもかかわらず、デフォルト化されることで、事後的に「便利である」という歴史を作り出すような運動があるということだ。
彼らがフォーカスしているのは日本におけるPayPayの普及過程での戦略の批判的分析である(Steinberg 2025b)。
これを私は「便利リアリズム(conveniency realism)」と呼びたい。ある状態が無理やりデフォルトにされることで、私たちはその条件の中で生きざるを得なくなり、それを「便利だ」と感じざるを得なくさせられる状態、それを、私は、便利リアリズム的な状態と呼びたい。
こうした状況はまさにコンヴィヴァイロンメントな今の世界に当てはまる。私たちは既成事実化された状況の中で、それをデフォルトとして生きさせられ、その利便性を強制的に感じさせられる。分刻みで動く電車は便利である。どこでも安く買える商品は便利である。すぐに届くAmazonは便利である。それらの利便性を私たちは容易には拒否することはできない。避けようと思ってもデフォルトが便利なのだから。
私たちは便利リアリズムに対して批判的な立場を作ることはできないだろうか。もちろんそれは、夏場でもエアコンを付けずに過ごして不便に生きようといったタイプの提言ではない。そうではなく、まず、私たちの生活に利便性をもたらしているとされるものの、本当のコストをよく見極めることから始まるはずだ。それは便利なコンビニの存在が、労働者をどこでも働かせていい理由になってはいないか、便利な交通網が、私たちに移動を強制させてはいないか、便利なSNSが、私たちに奇妙な中毒的な行動を強制させてはいないか。
利便性の実在を疑うこと。利便性はつねに構築されたものであるということ。便利-反リアリズムを採用してみること。
そのために、例えばプラットフォーム=コンビニから退出してみることができよう。例えば私は、一〇年目でTwitter/Xの投稿をストップした。このSNSを私はずっと使ってきたのでその利便性を手放すことは惜しいかもしれない、と考えた。だがよく考えると、そこまで利便性が必要ないようにも私には思えた。実際プラットフォームから距離を取ると、利便性を失うと同時に、不必要な利便性であったことを確信できもした。
便利リアリズムへの抵抗はそれほど不可能でもハードでもないように私には思えている。もちろん他のプラットフォームサービスや決済サービスなどになると別の戦略が必要そうだ。それについて私たちは知恵を絞らなければならない。
私たちにとって、利便性はもはや神のごとき絶対的なもののようになっている。私たちは、利便性を失うことを、たんに不便だから嫌うのではないように思う。私たちにとって、利便性の喪失は、ほとんど恐れや恐怖をもたらすのではないか。もしYouTubeやAmazonやSNSや電子決済のない世界がやってきたら、私たちの生活はどうなってしまうのだろうか。
だが、しかし、意外と世界は崩壊しない。私たちは、まあなんとかやっていってしまうものでもある。けれど、実際にやってみて、諦めがついたならそんなことも言えるけれど、今まさに利便性の中にいる私たちには、利便性の喪失は、呼吸ができなくなるような出来事に近いだろう。
改めて強調しておくならば、私たちの生存を担保し、ケアを可能にさせるような利便性は、確かになくてはならないもののように思える。それを否定しようというのではない。
だがしかし、私たちが便利だと感じるすべてのものが私たちにとって本当に必要なのか、その利便性は、その利便性を成立させるために払われている犠牲——環境負荷、厳しい労働条件、搾取、特定の企業による囲い込み、私たちの行動のすべてから利益を得ようとすること——と見合うかどうかを、私たちは批判的に分析することができるし、そうすることは、私たちの生活を改善しうる、ということを私は言いたいのだ。
利便性の分析は、いままさに、先ほど挙げたスタインバーグらをはじめとした研究者たちによって取り組まれている。こうした利便性は、本連載でも別の観点から分析されていくだろう。
コンビニで必要なものをさっと買った後、私たちは、もう少し必要性だけではない何かを買いたいと思い始める。もちろん役に立つかもしれないけれど、役に立つだけでもない何か、より「生活」を豊かにしてくれそうな何か。
例えば、かわいい華やかな「雑貨」、あるいは、新しい生活を始めるのにふさわしいような「家具」、もっと生活を便利に、さらに楽しくしてくれる「家電」を買いに行く。
次回は、家具屋と家電屋と雑貨屋に出かけてみよう。そこでは何を考えるだろうか。
参考文献
Neves Joshua., Steinberg Marc. 2024. In convenience. In Neves J., Steinberg M. eds., In/Convenience: Inhabiting the logistical surround. 11–33. Institute of Network Cultures.
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Steinberg, Marc. 2025b. “The incentives of PayPay against the convenience of cash: On the conveniencing of cashless payments in Japan.” Platforms & Society 2.
Whitelaw, Gavin Hamilton. 2008. Learning from small change: Clerkship and the labors of convenience. Anthropology of Work Review 29(3): 62-69.
Whitelaw, Gavin Hamilton. 2014. Shelf Lives and the Labors of Loss: Food, Livelihoods, and Japan’s Convenience Stores. In Satsuki Kawano, Glenda S. Roberts, and Susan Orpett Long (eds), Capturing Contemporary Japan: Differentiation and Uncertainty. https://doi.org/10.21313/hawaii/9780824838683.003.0006.
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『食品新聞』「2025年小売業態別統計、小売 2026年2月6日」https://shokuhin.net/138932/2026/02/06/ryutu/kouri/