逃避行ノート
「訳あり」の人生を歩んできた著者。生きるのがつらい世間から逃れ、ひそやかに暮らす日々のなかで、それでもめぐりあう美しい瞬間を切り取るエッセイ。いま静かに注目を集める作家、ウェブ媒体初の連載。
第1回

週一で脱脂綿を捨てる

2026.05.21
逃避行ノート
作田優
  • 週に一度来てくれている訪問看護のHさんに、今作っている本の話をしていた。Hさんは私の血圧をタッチペンでタブレットにメモしながら

    「優さんが小説を書き始めたきっかけってなんですか?」
    と、おそるおそる訊ねてきた。

    Hさんは三ヶ月ほど前から看護に来てくれるようになったため、私のことをまだ深く知らない。

    「十一年前に、父にストーカーされて、母とホテル生活をしているときに暇で、偶然にもそのときのホテルのすぐそばに大きな駅があって、その中に本屋さんがあったので、暇だし、本でも読んで時間をつぶそうかと読んだことのない分厚い本を購入したらおもしろくて、そしたら自分でも書きたくなったんです」

    Hさんは目をぱちくりさせながら、いつもの温和な雰囲気を崩さない。しかし、鼻から下はいつもマスクで隠れているため、もしかしたら私のバケツから水をひっくり返すような口調にイライラして歯を食いしばっていた可能性がある。

    「その本って今も手元にあるんですか?」
    「もちろんです!カバーかけて保存してあって」

    私はリビングからわざわざ自室へと向かい、そのときに購入した分厚い本をHさんの元まで持ってきて見せた。Hさんは興味がないだろうに、へぇー、状態が綺麗なまま残っているのってすごいですねー、とまた、温和な雰囲気を保ったまま答えてくれた。

    Xで創作活動をしている仲間に出会ってから、小説を書くようになったきっかけを訊かれるようになった。私は毎度同じ回答をして、某お笑い芸人の「ちょっと何言ってるかわからない」的な表情で返されることがほとんどだった。

    十一年前、私が二十五歳のころの夏、私と母はストーカーになった父から逃げるために、ホテル暮らしをしていた。

    こうまとめるととてもシンプルなのだが、これだけの情報だと、さまざまな疑問が残るのは当たり前のことだろう。今のところ、いいネタだね!的なテンションで深く話を聞きたがったのはひとりだけだった。私はおもしろいと話を聞いてくれる人がいることがとてもうれしかった。

    私の中で、これはつらかった過去ではなく、お笑いでいう鉄板ネタのようなものだったからである。

    Hさんは喋り続ける私にうんうん相槌を打ちながらなにかをメモしていた。まずい。そう思い、興奮を抑えた。

    訪問看護では毎回、私の体調がメモされ、そのまま主治医に提出される。私の場合は大きく言えば双極性障害とADHDの状態をチェックされているのだが、ここ数年は大きな躁状態やうつ状態にはなっていないし、ADHDに関しては工夫し生活できるようになってきた。(未だに片づけだけはできないが)

    だから、実生活で一番困っているのは三年前に発症したパニック障害の症状だったりする。

    ホテル暮らしが終わり、母と二人暮らしを始めたころに、双極性障害と診断された。

    処方された薬を飲み始めたころは、薬が合わず、頭痛と嘔吐に悩まされた。うつ状態だったのもあってか、これまでにない体調不良になり一日二十時間ほどはトイレ以外では寝たきりだった。それでも、医者の言うことを聞かなければならないと飲み続けた。

    限界が来て、医師に体調不良について話すと、薬が変わりようやく頭痛と下痢が治まった。うつ状態も落ち着き、動けるようになってきた。もちろん今もその薬を飲み続けている。

    やっと合う薬に出会った今、医師に薬を変えられることに対して私は大きな恐怖を抱いていた。Hさんが『お喋りしすぎています』と書けば、医師は問題ありと捉え薬を変える可能性がある。薬が変わるのがこわいと医師には伝えてあるが、今の主治医は、高齢だからか話した内容をすぐに忘れてしまうのだ。

    私は焦って、

    「いっぱい話してすみません」
    と出来る限り落ち着いた話し方でHさんに謝罪した。Hさんは小首を傾げて、いいえ、と答えた。いつ見ても、かわいい人だなと思う。

    Hさんは私の母より十歳ほど年齢が若く、大学生のお子さんがいるらしい。私はそれを聞いたとき、Hさんが男でも女でもないお母さんという性別の、看護師ではない肩書きのお母さんという名前の人間に見えた。お子さんのことを話すHさんからは穏やかな雰囲気からほんの少しの興奮が見えて、私が機関銃のようにペラペラ話すときと似た空気が漂っていた。私はいまだに母親という生き物がどのようなものなのかよくわからない。だから、Hさんにとても興味が湧いた。

    「帰りは気をつけてくださいね」
    「いつもありがとうございます」
     Hさんはいつもなぜか申し訳なさそうな声でうちから出ていく。

    Hさんを見送ったあと、入れ替わりに母の車のエンジン音が聞こえてきた。一年くらい前なら、この音を聞きつけた犬が喜び、キャンキャンと吠えながら玄関のにおいをくんくん嗅ぎ始めるところだが、もう今年の二月に亡くなってしまっているため静かだ。

    犬がいなくなったさみしさを最初に感じたのはおかえりを言ってくれる相手がいなくなったことだった。犬を一番かわいがり子どものように面倒を見ていたのは母だったし、母はこの世で一番大切なのは犬だといつも明言していた。母は私より犬がいなくなったことを実感する瞬間は多いのではないだろうかと思った。

    そのため、私は母に大きな声で

    「おかえりなさい!」
    と、言うことにしている。

    母は、リビングに入り冷蔵庫に買ってきた食材を入れていた。

    「今日Hさんにおとんにストーカーされていたときの話をしたの」
    「いつのストーカー?」

    父は私が中学生になったころにはもう立派なストーカーだった。学校前で待ち伏せされたり、通学路を自転車で走っているときにすぐ後ろをついてきたりしたことがなんどもある。母も仕事場で数えきれないほど待ち伏せされていたため、主語をきちんとしなくては伝わらない。

    「ホテル生活していたときの」

    母は冷蔵庫をパタンと閉めた。

    母は相槌を打たないタイプの人だ。無視していると誤解してなんども話しかけてしまうことがあった。そのたびに「しつこい」と叱られた。

    「明日泊まり。次の日の帰りは遅くなるから。ご飯は二人でなんとかして。Mさん(私の夫)にも伝えておいて」

    母は伝えたいことだけを伝えるとすっきりしたようすで、スマホを持って一直線に玄関へと向かった。やけに大きい相槌と悪ふざけをしている子どものような笑い声が聞こえてくる。同僚と話しているのが丸わかりだ。

    母は電話をする際に、上司用、同僚用、部下用、友だちA用、友だちB用、友だちC用、と笑い声を使い分けていることに気づいていないだろう。気づいているのは生きている人間ならきっとこの世界で私一人だけだ。

    子どものころより母はとてもいい人になった。昔は会話に質問を挟んでくれたことはなかったし、泊まりの仕事だなんて伝えてくれることもご飯のことを気遣ってくれることもなかった。それに電話をするときは自分が移動するのではなく、邪魔だと私に物を投げつけて別の部屋に追い出していた。

    母は、あのホテル生活から人が変わったように私に接するようになった。そこには、複数の要因があり、父が殺害予告をしたのちストーカーになる前に弟が病気で急死したことや、私がホテル生活中に自殺未遂したこと、精神科医に精神病への無理解に対して説教されたこと。などが挙げられる。

    私は二十一歳のころに、職場でのストレスが原因のうつ状態と診断された。

    医師は、しばらく休みなさいと私に言い、診断書を書いてくれた。五千円もした。月に十三万円の給与で働いていた私には、目が飛び出るほどの大きな出費だった。

    一か月の休みのはずだったが、職場は二週間しか休みをくれなかった。復帰したあとも、勝手にアルバイトに降格させられていた。私は会社に失望し退職した。

    二週間の休みの間、私は母と山に行った。

    母の仕事は忙しい時期とそう忙しくない時期があって、その時はちょうど休みの多い時期だった。母は、父のアルコール依存症に対しても、「甘えだ」という人間だったため、精神科に行ったことは言えなかった。低血圧からの体調不良で休んでいると話すと、気分転換になるよ、と山に連れていかれた。山の近くにある公園のベンチに座り、私はぼうっとしていた。その間に母は、たくさんの山菜を採っていた。

    うちのキッチンは冷蔵庫を父が破壊したせいで、食べ物が入っていなかった。壁には、父が塗った調味料の跡が残っていた。

    私は、体調不良で山菜の天ぷらを食べなかったが、食べた弟は、「苦すぎて、漢方かと思った。あの人に料理をさせちゃダメだ」と暗い表情をしていた。

    母は、なかなか治らず家にいる私に対し、次第に「仮病だ」「甘えだ」と言うようになったが、なにかがきっかけで数回目の離婚問題に発展していたらしい。母は私の相手をする余裕はなくなった。

    その間に、私は、知人のつてで独立し、古着やアジアン雑貨を販売したり、喫茶店や雑貨屋に委託販売してもらいながら、自分のペースで仕事をし始めた。

    母に内緒で通院し薬を飲み続けていたのもあってか症状は少しずつよくなっていった。

    私は職安で相談し、精神障害のある人を支援する作業所で訓練をしたのちに、その支援団体が紹介している会社の面接をいくつか受けた。

    それからは、障害者枠のような雇用形態で、正社員として体調が悪い日は母に内緒でときどき休みながらも働いていた。

    ようやく体調が安定してきたころに、弟が急死した。母は、そのときにようやく私が障害者手帳を持っていることを知り、精神が不安定だった父にどんどん似ていく私に対して頭を抱えていた。障害者手帳に写る私は化粧をしていなかったし髪はぼさぼさだった。顔に生気がなく、アルコール依存症で顔色がどんどん悪くなる父とよく似た不健康そうな顔をしていた。

    最初は探り探りだったが、母と少しずつ会話をするようになった。ホテル生活中に立ち寄ったペットショップで犬と出会い一緒に暮らし始めていたため、私たちは犬の育児日記をつけ始めた。飼い犬がどれくらいのご飯を食べられたか、お水をどれくらい飲んだか、うんちを何個したか、おしっこをいつしたか、などを書いていた。

    しかし、二人暮らしが始まってすぐに私はひどい体調不良となり仕事復帰はできない状況となった。母は私と犬を支えるために仕事を増やした。帰ってくる日が減るにつれて、私一人が日記を書き続けることとなった。

    母の仕事が落ち着いたころ育児日記をめくると、『お姉ちゃん、いつもありがとう』と犬の笑ったイラストつきで書かれていた。私は母に初めてお礼を言われたことにびっくりし、母は明日死ぬのではないかとビクビクした。

    隣で眠る母のいびきが止まるたびに、母の口元に手を当てたり、脈を測ったりして生きているか一晩中確認したが、母は気持ちよさそうに眠っていて、目を覚ますことはなかった。ぱちっと六時に起床して、犬の水を替え、ご飯をあげていた。私はやっと安心し、眠りにつくことができた。

    今の夫と同居してからの母はさらに変わった。家にいるときはほぼ毎日料理を作るようになったのだ。母は、仕事が生きがいのワーカーホリック気味の人間で、家事をするくらいなら仕事がしたい!仕事をしているだけで許される男が羨ましい!が口癖だった。幼いころは不器用なりに家事をこなしていた。その仕事はいつしか無職の父がやるようになったが、田舎ではそれが恥とされているのに気づいた父は家事を放棄した。キッチンはどんどん汚染されていった。私がいくら掃除をしても追いつかなかった。

    そのため、母は滅多に料理を作ることはなかったし、作ってもなぜか米はべちゃべちゃで、肉は生焼け、野菜はいつも腐っていて、食べられたもんじゃなかった。

    そんな母を見ていたため、料理本を図書館で借りてきて、るんるんで美味しい料理を作る母に衝撃を受けた。夫に母の変化を伝えようとしたが、私と夫のための変化ではなく、三人暮らしとなった今、母がキッチンという名の自分が作った陣地を夫に侵略されたくないと思っているのはなんとなくわかっていたため言わなかった。

    夫に母の仕事の件をLINEで伝えると、YESのスタンプが返ってきた。私はテーブルの端にある、いつもHさんが忘れていく体温計を拭いたあとの脱脂綿を持ってごみ箱に捨てた。

「訳あり」の人生を歩んできた著者。生きるのがつらい世間から逃れ、ひそやかに暮らす日々のなかで、それでもめぐりあう美しい瞬間を切り取るエッセイ。いま静かに注目を集める作家、ウェブ媒体初の連載。
逃避行ノート
作田優
作田優(さくた・ゆう)

1988年生まれ。
石川県在住のZINEクリエーター。日記文学『逃亡日記』や小説『父が死んだら祝杯を』などの個人誌を発表。
『随風01』にてエッセイを寄稿。
第63回群像新人文学賞、最終候補。
X(旧Twitter):https://x.com/yu_Sakuta

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作田優