「ペロー以前」はいつ発明されたか
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「原話」はほんとうにあったのか
前回、グリム(1812)が民話蒐集者として名指したペロー(1695)→バジーレ(1634)→ストラパローラ(1550)へと遡っても、「これは口承から採集した」という主張の根拠がどこにも見当たらないという話をした。では、口承起源説を唱えてきた研究者たちはどう対応してきたのか。
1951年に発表されたフランスの民俗学者ドラリュの研究を見ると、1885年に南フランスで採集された話が、1697年のペロー版より「古い」特徴を残している、という判断が示されている。
待ってくれ。
1885年に書き留められた話が、なぜ1697年の出版物より「古い」と言えるのか。190年後に採集された語りが、より古い形を残しているとはどういうことなのか。
そう主張するためには、「ペローが実際に知っていた口承の元ネタが存在した」という前提を先に必要とする。その前提をドラリュは証明していない。証明しようとした形跡もない。
米国の歴史家ロバート・ダーントンの『猫の大虐殺』(1984)の第1章は、18世紀フランスの農民文化を民話から読み解いていた。素材として19世紀の採集例を「ペロー以前の農民文化の痕跡」として使っていた。歴史家がそんなことをする? 根拠を確認すると、ドラリュ論文から借りていた。
2013年、英国の人類学者ジャムシド・テヘラーニが「赤ずきんの系統学」と題した論文を発表した。生物種の系統分析の手法をおとぎ話の分類に応用したもので、メディアにも注目された。クレード分析、ベイズ法、ネットワーク系統解析。数値と図表が並ぶ。これなら根拠があるかもしれないと思って読んだ。
ところがテヘラーニは論文のなかで、グリム版の直接の源泉がペロー版という書物であることを自ら明示していた。そのいっぽうで、アフリカのイボ族の話については、西洋の書物からの借用だとして例外扱いにして分析から除外していた。ここに矛盾がある。
書物から書物への伝播(書承)によって生じた類似をそのまま系統分析に乗せると、書承と口承が同じ計算式でごっちゃに処理される。それを避けるためにイボ族の例を除外したなら、同じ理由でグリム版も除外されなければならない。なぜグリム版は除外しないのか。論文のなかに説明がない。
もうひとつ、より根本的な問題がある。テヘラーニは「意味素」(物語の特徴的なパーツ)を72個、物語の形質として抽出し、話型どうしの系統関係を推定した。しかしどの要素を「意味素」として選ぶかは分析者の判断だ。
その意味素の選択は、口承の古い形(原型、ルーツ)を探ることを目的とした比較研究の伝統に引きずられている可能性がある。その伝統が重視してきた要素を、「重要な形質」としてテヘラーニが選んだとすれば、分析結果がその世界観を補強するのは当然のことだ。同じ価値観が循環してるだけだから。
一見客観的に思えるデータサイエンスの技法を、テヘラーニ論文は意味素の選択という主観的な判断(思いこみ、決めつけ)を補強する方向に使ったということだ。
テヘラーニ個人の問題ではない。これはおとぎ話研究全体が持つ傾向だ。書物は証拠として利用する対象であり、能動的な拡散源とは見なされない。ペローやグリムの出版が世界じゅうの語りの構築に与えた影響が、分析の枠組からまるごと抜け落ちている。数値と図表でもって、その抜け落ちを覆い隠している。
ドラリュ、ダンダス、ダーントン、ザイプス、テヘラーニ。専門も方法も違う。時代も1951年から2013年まで60年以上にわたる。全員が同じ前提の上に立っている。「ペロー以前に、口承の赤ずきんが存在した」。この前提を証明した人はひとりもいない。証明しようとした痕跡すら、見当たらない。
1807年のパリで
では、この前提はいったいいつ、だれが作ったのか。
調べていくうちに、グリム兄弟の『子どもと家庭のメルヒェン集』初版(1812)の序文に、ある人物の発言が引用されているのに気がついた。エロワ・ジョアノー。フランスの文献学者で好古家、パリのケルト学会の創設メンバーだ。
グリムの序文の末尾には「子どものメルヒェンのための証言」と題されたセクションがある(日本のグリム全訳はこういう附録を省略したものが多いのは版元の不見識だと思うが、それはおいておく)。そこに、ジョアノーの発言が引かれている。
〈また、長靴をはいた猫や七里靴をはいた親指小僧のおとぎ話も知られている。これらはきわめて古くから人口に膾炙した話であり、ペローの発明ではない。〉
これが、「ペローの作品は口承由来であり、ペローはただの記録者に過ぎない」という主張の、現在確認できる最古の文献だ。僕が調査したかぎり、これ以前にはない。これ以前のペローのおとぎ話への言及は、それらを民間伝承ではなくあくまで「文学作品」としてあつかい、しかも民衆ではなく宮廷に由来するものとして論じている。
ジョアノー発言の出典を当たった。1807年(『メルヒェン集』のほんの5年前)、パリのケルト学会の紀要に掲載された「アレクサンドル・ルノワールの著作についての報告」という論文だ。パリの修道院跡に設けられたフランス記念碑美術館の収蔵品を解説した本の書評で、どこからどう見てもおとぎ話とは無縁の論文である。
ところがそのなかに、ちょっと浮いた一文がある。
ジョアノーはある浮き彫りを論じて、ガリア・ドルイドの神エスス(Esus)の名前の語源を3つ検討している。第3の候補として挙げたのが、ブルトン語の〈Heus〉(長靴・脚絆)という語だった。そこから彼の連想は、ホメロスの叙事詩に出てくる「美しい脚絆をつけた神々」へと滑らかに移っていく。そして次の一文で、長靴をはいた猫と七里靴の親指小僧が突如として登場するのだ。
ここで彼は、こう書いている。これらの話は古くから人口に膾炙しており、ペローの発明ではない。これ、ドルイドの神話の貴重な残存物なんじゃないかと、自分はずっと以前から思っている、と。
しかし直後に、ジョアノー自身こう続けていた。「とはいえ、〔EsusがHeusに由来するという〕この語源説を支持する材料は、目下論じているこの浮き彫りのなかにはなにもない」と。
つまりペローへの言及は、長靴という(自分で勝手に持ち出した)語彙から触発された一瞬の連想ゲームであり、論文の本題とは無関係な、証拠もなにもない思いつきの脱線に過ぎなかった。
与太話が土台になった
1807年という年のケルト研究というものを、少し考えてみる。
この時期、海峡を隔てた英国では、中世ウェールズ写本を「発見」したりドルイド儀式を「復元」したりしていたヨロ・モルガヌグという人物がバリバリ現役で、贋写本だらけの中世ウェールズ文学選集の最終巻を刊行していた。死後100年にわたって世を欺きつづけた大詐欺師だ。ジョアノーが発言した時代は、「古いものを作り出す」動きが各地で活発だった時代でもある。
ある年齢以上の人は、2000年秋の旧石器捏造事件(ゴッドハンド事件)のことを思い出してほしい。18世紀後半から19世紀初頭の西洋諸国では、それに類する贋写本事件が何度も起こった。ヨロ・モルガヌグのように逃げ切って死後100年バレなかった人もいれば、バレて炎上して自殺した人もいた。
グリムはなぜジョアノーのこの発言を序文の末尾に引いたのか。グリムとジョアノーの間にどんなやりとりがあったのかを確認できる資料はない。ただ、グリムは1806年には、民間説話の蒐集のために古文献を調査しはじめている。
グリムの書簡を検索できるサイトがあったので調べると、現在おとぎ話と訳されているMärchen(メルヒェン)という語が初めて登場するのは1808年4月の書簡で、「白雪姫」が言及されている。グリムはこの時点でもう、おとぎ話を民間伝承としてあつかう方針を立てていた。
ジョアノーの発言が1807年。グリム書簡でのMärchen初出が1808年。前後関係としては、ジョアノーがグリムの発想に火をつけた可能性がある。
いずれにせよ確かなのは、ケルト語源論の余談として書き飛ばされた断言が、「ペロー作品の背後には古来の口承がある」という説の権威ある証言として流通し、その説の上に立つことがフォークロア研究の主流になった、ということだ。
今回の題「「ペロー以前」はいつ発明されたか」への答えは、1807年、ということになる。
立証責任はどちらにあるか
ふつう、文学作品のインスピレーション源を論じるときは、先行作品のことを考える。『ロミオとジュリエット』の元ネタはイタリアの短篇小説だとか、「山月記」の元ネタは唐代伝奇だとかいうのはストーリーの水準の話。『吾輩は猫である』(1906)は『トリストラム・シャンディ』(1767未完)を意識してるとか、桜坂洋の『All You Need Is Kill』(2004)がゲームのリセットのシステムから発想された、というのは構成の話。いずれも具体的な先行作品、もしくは実在する先行例が特定できる。
なぜペローやグリムのおとぎ話集は、そういう通例と違って、存在が証明できない「出版以前の口承ネットワーク」というものを前提にしか語られてこなかったのか。
旧ソ連の文学理論家ミハイル・バフチンは、「あらゆる言説は先行する言説へのリアクションであり、同時に未来の言説を予期している。言葉は白紙に書かれるのではなく、すでに他人の言葉で満たされた空間に書きこまれる」と言った。これが「対話性」というものだ。ペローやグリムの書物だって、先行する書物へのリアクションだったのではないか。少なくとも、口承ネットワークなどという、存在が証明されていないものを、措定しないで考えるほうが科学的なはずだ。
こういうことを書くと、むかし話保存会の人に
「じゃあ出版以前に口承がなかったというんですか? その証拠はあるんですか?」
と詰め寄られるかもしれない。
でも、立証責任は「口承ネットワークが存在した」と主張する側にある。先行する書籍は実在するが、出版以前の口承ネットワークの実在は証明されていないからだ。
ペローが口承を採集したという記録は残っていない。グリム兄弟についても、20世紀後半の研究によって「採集」の実態は想像とはだいぶ違うものだということがわかってきた。農民からではなく、教養ある中産階級の知人たちから聴き取ったケースが多く、しかもその「語り手」たちはペローのレパートリーをよく知っていた。
「口承があった」と主張する側が、まず証拠を示す必要がある。その証拠を、僕はずっと待っている。
(つづく)
次回予告
次回は、ジョアノーにいたる18世紀後半の英独両国へと目を移す。その現場では、「民族の記憶の発掘」が熱狂と捏造を生んでいた。