逃避行ノート
「訳あり」の人生を歩んできた著者。生きるのがつらい世間から逃れ、ひそやかに暮らす日々のなかで、それでもめぐりあう美しい瞬間を切り取るエッセイ。いま静かに注目を集める作家、ウェブ媒体初の連載。
第2回

働かないなら食うな

2026.06.05
逃避行ノート
作田優
  • 中学生二年生のころ、母に「お父さんが働かないせいで貧乏だから高校進学は諦めて」と言われた。

    私はどうしても高校に進学したかった。現状を打破しなくてはならないと、近所に住む先輩たちに相談した。先輩たちが動いてくれた結果、ある先輩の知り合いの実家が経営しているスナックの雑用として働くことになった。

    母には知人が経営している飲食店の手伝いをすることになった。高校進学のお金だけはなんとかするから行かせてくれと頼み込み、OKをもらった。教師には、親戚が経営している飲食店の手伝いをすることになった、とだけ話した。最初はいい顔をされなかったが、きょうだいの多い同級生が新聞配達や牛乳瓶回収などの仕事をしていたのもあり、勉学に支障をきたさない程度ならとOKをもらい、働くこととなった。

    スナックで、社会人としてのいろはを叩きこまれた。最初のころは毎日のように泣いたし正直辞めたくて仕方なかったが、私には将来大学に行って留学したいという目標があった。だから、高校進学のための資金はなんとか貯めなくてはならないと、気合いを入れて、食器を洗い続け、客が嘔吐して吐しゃ物だらけになったトイレを掃除し続けた。

    高校生になってからは、スナックの仕事とともに、時給がいいという理由で、ちょっと風格のある飲食店でのアルバイトを始めた。私はスナックで嫌な客をさんざん相手してきたからか、飲食店で働いていてもストレスを感じることは一切なかった。一度、やくざらしき客が来て、貸し切りだから追い出せない状態になったときも、ほとんど私が対応し、飲食店の奥さんに「あんた、根性あるね」と言われた。

    志望校には金銭的な問題で行けなかったが、いい高校に出会えた。家庭環境が複雑な子が多かったため、お金のない私に対し事情を詮索せずにみんな親切にしてくれたし、働くことに対しての校則が緩かったため、存分に働くことができたのだ。それを知った両親からさんざんお金をむしり取られ、大学進学は諦めざるを得なかったが、とにかく、十八歳までは問題なく仕事をし、お金を稼ぐことができていた。

     

    高校を卒業し、就職したのはとある高級レストランだった。

    あの天皇陛下も愛した、という噂のあるレストランだったため、倒産する心配はないだろうと思っていたし、お客さんとして下見に行ったときに、私がアルバイトで経験してきたものとは比べ物にならない接客を見せつけられ、ホールスタッフのきらきらした表情や佇まいに憧れた。私もそんな人になりたいと心から思い、そのレストランの求人に飛びついたのだった。

    働きながら英語を勉強し、将来的には海外の高級レストランで働くのが目標だった。接客業には慣れていたし、学生時代は仕事と学業の両立ができていたため、就職してからも働きながら、英語をマスターすることは十分可能だと思っていた。当時の私は楽天家で、一度こうと決めたら、周りが見えなくなるというか。猪突猛進という言葉がぴったりの性格だったのである。

    しかし、私が配属されたのは高級レストランではなくその関連会社が運営する中華料理店だった。学生時代に飲食店でアルバイトをしていたと話したのが裏目に出たらしい。慢性的な人手不足状態だった中華料理店は即戦力を欲していた。

    他の新入社員が高級レストランの前に棒立ちして挨拶のやり方のみを覚えさせられていたころ、私は注文取りから配膳にレジ打ちまでやっていた。昼のピークと夜のピークの間は店を閉める。その間は、系列の喫茶店で働くように言われた。急いで着替えて喫茶店に向かい、二時間ほど働いてから、また急いで着替えて中華料理店に戻った。私の休憩時間は十分から十五分ほどだった。

    朝八時半に店に着き、帰りは終電ぎりぎりまで働く。休みはあったものの、店長が店に来いと電話をかけてくるため無給の休日出勤をさせられていた。ホールスタッフの社員は店長と私しかおらず、昼は配膳さんと呼ばれる人たちがヘルプで来ていた。夜は店長と私だけでホールを回していて、土日はあまりの忙しさに本当に目が回って、気絶したことが一度あった。

    キッチンスタッフの社員たちはみな横柄で料理を作りながら厨房でタバコを吸う人までいた。話しかけると無視するくせに、近くのスーパーまで買い出しをするように毎日メモを渡してくる。こわかった。誰にも相談できない日々が続き、慢性的な不眠とともに、腹痛と下痢に悩まされた。

    ある日、喫茶店のほうに高校三年生のころの副担任が名前のわからない教師とともに来た。就職した卒業生のようすを見て回っていたらしく、みなが髪を染めピアスを開けているのに対して黒髪を一つにまとめて薄いメイクをしている私を茶化すように褒めた。

    高校生のころ、この副担任は私を唯一評価していた。素行は悪いが、勉強や仕事に取り組む姿勢は人一倍だと言ってくれて、卒業文集を書いてくれだとか、卒業生のクラス代表スピーチをやってくれだとか言っていた。卒業文集を書く代わりに、単位の足りない友だちをなんとか卒業させてあげて欲しいと頼み、うまく動いてもらったのはここだけの話だ。

    「なあ、六月に三年生に就職した先輩からの言葉をスピーチとして送ることになっているのは知ってるよな?作田、やってくれないか?」

    世話になった副担任にそう言われると断れなかったし、代表に選ばれたことがうれしかった。もっと頑張らなくてはならないとさらに身が引き締まった。

    ある日、私は仕込みをしているときに皿を落とした。その皿は三つしか店にない高価なもので、落としたとバレたらとんでもないことになる。そのとき私以外店には誰もいなかった。慌てて新聞紙で割れた皿を包み、テイクアウト用の袋に入れてから、自分のロッカーにそれを隠した。

    店長が、皿がなくなったことに気づくことはなかったが、私は常にびくびくしていた。

    うちの店は店を閉めてからみんなで酒を飲み、余った食材を食べるのが定番化していた。未成年の私も当たり前のように生ビールを飲まされる。店長は、普段真面目な私の本性が見たいと言い、潰れるまで飲ませようとしたことがしょっちゅうあった。終電の車内で吐き気を堪えながら帰っていた。

    その日も全員分のビールを用意するのは私のはずだった。しかし、身体に力が入らず、ぼーっとして動けなかった。店長に「早くしろ」「のろま」と言われても、言い返すこともできず、どこを見ているのかわからないままだった。

    店長の「もういい!帰れ!」の怒号に弾かれるように店を出て、私はふらふらと駅を目指して歩いた。いつもよりずっと早く駅に着いた私はホームでまたぼうっとして、気づいたら複数の駅員が私を取り囲んでいた。

    「なにしてんの!」

    「ギリギリだったよ!」

    私は線路に飛び込もうとしていたようだ。後ろにいた男性がそれに気づき、電車が来る直前に引っ張って助けてくれたため、ひざを擦りむくくらいの怪我で済んだらしい。

    「なんで助けたんですか?」

    気づいたら、ヒステリックに叫んでいた。

    ここにいる人たちはなにも悪くないのに、言葉にならない言葉を吐き、泣いていた。駅員たちは私の話をウンウン聞いて、警察官は私を叱った。

    その後、私は人事と話し合い、会社を辞めることになった。それからすぐ、私と同じ時期に会社を辞めた高校時代の悪友と毎日遊び歩いていた。

    学校へ行き、副担任に会社を辞めたことを謝罪すると、私の明るくなった髪の毛を見てなぜか笑っていた。

    「お前、友だちとどっか旅行にでも行ってこい。金ないなら貸すから。顔見てたらわかるよ。このままだとお前は死んでしまう」

    副担任は胸を手で叩きながら言った。

    「すみませんでした」

    私はそれ以外の言葉が出なかった。

     

    弟が話の流れでぽろりと私が無職であることを母に話してしまった。母は仕事が忙しくなると常に仕事の勉強をしていて仕事以外のことは忘れてしまう。だから、私の派手な髪色を見ても会社を辞めたことに一切気づかなかった。

    母は私の就職にかなり協力的だった。レストランに下見に行くことを提案したのは母だったし、会計は母が清算してくれた。面接の日は会場まで送ってくれたりもして、面接に受かったことを知ると、これまでにない笑みを見せてくれた。私は、そんな母の想いを踏みにじったのだが、このときは遊び歩くのが楽しすぎてハイになっていたため、副担任に持ったような申し訳ない気持ちが沸き上がらなかった。それでも、心の奥底ではこのままじゃダメだとわかっていたのだろう。私は、ストレスが軽減され、よく眠れるようになると人気のGABAチョコレートを食べて働く気力を高めていた。

    「あんたもお父さんと同じや。遺伝やな。働かないなら、あんたはいらん!飯も食うな!」

    母は激昂し、私の部屋にあるお菓子をすべて捨てた。弟が母の好物を買ってきて母を宥めようとしたが、母の怒りは止まらなかった。

    父は、昔から仕事を見つけてもすぐに辞めてしまう。最初のころ、働かない父に対して甘えだと母は怒っていたが、父は嫌なことがあると家具家電を破壊するし、前触れもなく自殺しようとするため働けと母は言わなくなった。父が死なないようにこっそりお金を渡していたらしい。

    母はなにかを食べている私を見るたびに「働いとらん人間が食うな!」と言った。そのあとは、徹底的に私を無視していた。私はそんな母の威圧的な態度を見ていると、なにも食べてはならない気がしてきた。次第に飲みもの以外を口にすることはなくなった。

    最初は空腹に耐えきれず胃が痛くなることがたびたびあったし、いらいらして弟にも当たった。それでも、働かず家に迷惑をかけている申し訳なさが勝った。父のように無職で遊び歩く最低な人間になってしまったと落ち込んだ。働こうと思っても、身体が重くうまく動けなかった。悪友はちゃっかり新しい仕事を見つけていて、連絡をすることもなくなった。

    そんなある日、知らない番号から電話がかかってきた。

    「お母さんから話は聞いてます。明日の十四時にお店に来てくださいね」

    有無を言わせぬはっきりした言い方だった。電話口のおじいさんの声に聞き覚えがあった。母に問いただすのもめんどうだったが、母が無理やり私を働かせようとして裏で動いたことはわかった。私は気合いを入れるためにGABAチョコレートを弟に買ってきてもらい、たくさん食べ、たくさん嘔吐した。

    小学生のころから廃棄食品をもらうために通っていたコンビニのオーナーは私を温かく迎え入れ、私はすぐにコンビニのアルバイトに馴染んだ。慣れてくると近くの工場に正社員としても働くようになり、空いた時間には学生時代にお世話になったスナックの手伝いもするようになった。中華料理店で働いていたときくらい動いているのに、少しもつらいと思わなかった。

    働いていれば、美味しいご飯を食べることができるし、父のようなダメ人間にならないし、母が喜んでくれる。逆に働いていなかったら、美味しいご飯を食べてはならないし、父のようなダメ人間になるし、母は私に失望する。

    心からそう思っていたし、今もそう思ってしまうことがある。

     

    それから二十年ほどの歳月が流れた。今の母はろくに働かない私にご飯を作る。夫と住み始めてからは優しくなった。

    しかし昔の話を掘り返すと、

    「過去のことを根に持っていると、この先の幸せがいなくなってしまうよ。だから、お母さんはお父さんのことを恨むのは止めたの」

    というズレた回答が返ってきて、自分がどれだけ精神疾患のある人間に理解があるか、悩みを持つ友人を何人救っているのかを延々と自慢される。

    「お姉ちゃんのおかげで、友だちを救えてるの。精神病になるのも悪いことばかりじゃないね」

    私に対してのみ無神経がデフォの母は缶ビール片手にそう言って笑う。

    働けない罪悪感を抱えた私は、その言葉に笑って返すことしかできない。

     

「訳あり」の人生を歩んできた著者。生きるのがつらい世間から逃れ、ひそやかに暮らす日々のなかで、それでもめぐりあう美しい瞬間を切り取るエッセイ。いま静かに注目を集める作家、ウェブ媒体初の連載。
逃避行ノート
作田優
作田優(さくた・ゆう)

1988年生まれ。
石川県在住のZINEクリエーター。日記文学『逃亡日記』や小説『父が死んだら祝杯を』などの個人誌を発表。
『随風01』にてエッセイを寄稿。
第63回群像新人文学賞、最終候補。
X(旧Twitter):https://x.com/yu_Sakuta