赤ずきんには作者がいる
誰もが知る「赤ずきん」「シンデレラ」は、本当に民衆が口伝えで守ってきた物語なのか? ペロー、グリム、そして民俗学の「常識」をたどり直し、おとぎ話の作者と伝承をめぐる長い調査の旅が始まる──。

【編集部より】『青ひげ夫人と秘密の部屋──「見たな」の文学史』(光文社)で第79回日本推理作家協会賞(評論・研究部門)を受賞した千野帽子さんの次のテーマは、おとぎ話! 本連載では、現在準備中の受賞後第一作『赤ずきんには作者がいる』の刊行に先駆けて、そのエッセンスをギュッと凝縮してお届けします。
第4回

ルールブックはだれが書いたか

2026.06.11
赤ずきんには作者がいる
千野帽子
  •  ゾンビセオリーを養う構造の中心に、ひとつの巨大な目録がある。ATUカタログだ。

     ATUとは、この連載の第2回で批判的に取り上げたテヘラーニなどの口承論者が、共通のルールブックとして用いている分類システム。カタログの正式名称は『国際昔話話型カタログ』The Types of International Folktales)という。民話・むかし話を世界規模で分類した目録だ。

     その歴史は20世紀初頭にさかのぼる。1910年、フィンランドの民俗学者アンッティ・アールネが、ヨーロッパのむかし話を話型ごとに番号で分類した目録を発表した。「この話とあの話は同じ骨格を持っている」という観察を体系化したもので、当時としては画期的な試みだった。

     このアールネ目録を英語圏に紹介し、大幅に拡充したのが、米国の民俗学者スティス・トンプソンだ。1928年に改訂版を出し、さらに1961年に決定版ともいえる増補改訂をおこなった。この段階でアールネとトンプソン、ふたりのイニシャルをとってAT目録」と呼ばれるようになる。このAT時代は70年以上続き、伝承研究の本や論文を手に取るとAT番号を使っていることがよくある。

     AT時代に入って77年目の2004年、ドイツの民俗学者ハンス=イェルク・ウターがさらなる改訂をおこない、ウターのUが加わった現在の「ATU目録」が完成する。収録された話型の数は2000を超える。

     この目録のなにが重要かというと、現在のむかし話研究で事実上の標準インフラとして機能しているという点だ。論文を書くにも、話の分布を調べるにも、国際比較をするにも、研究者はまずATU番号を参照する。ATU333といえば「赤ずきん」、ATU123といえば「狼と匹の仔山羊」、ATU510Aといえば「シンデレラ」、という具合に、番号がそのまま話の「学名」として通用する。それほどこの分野に深く根を張った存在だ。

     ドラリュもダンダスもテヘラーニも、この目録を土台にして赤ずきんを分析している。ATU333という番号が、赤ずきんという話の「正式な定義」を与えている。では、その定義はどのように作られているのか。なにを「赤ずきん」と見なし、なにを「赤ずきんではない」と見なすのか。その基準を見てみよう。

    ATU333「赤ずきん」の定義

     目録の記述によれば、赤ずきんの話(ATU333)はつぎのように展開する。

     赤い帽子をかぶった少女が祖母の家へ向かう。途中で狼に出会う。狼は先回りして祖母を飲みこみ、祖母のふりをしてベッドに横たわる。少女は「おばあちゃん、なんて大きなお耳」などと問い、最後に狼に食べられる。そして狩人がやってきて、睡眠中の狼の腹を切り裂き、少女と祖母を生きたまま救い出す。(要約)

     グリム版「赤ずきん」(1812)のメイン部分の正確な要約になっている。

     最初の刊本であるペロー「赤ずきんちゃん」(1695)は、グリムより110年以上古い。こっちは救出されない。狼に食べられて、それで終わりだ。狩人は登場しない。つまりATU333の「標準的な展開」には、救出というペロー版にはない要素が含まれている。ペロー版は、この目録が定める赤ずきんの標準形を「完備していない」というあつかいになっている。

     ATU目録の註釈にはこうある。〈17世紀後期にシャルル・ペロー(Charles Perrault)によって記録されている〉(加藤耕義訳)。〈記録〉、つまりペローは口承で伝わっていた話を書き留めただけだ、という含意だ。ペローが書いたのではなく、民衆から聴いたのだ、と。この一語に、ATUの立場が凝縮されている。

     ついでに気になるのが話型の名称だ。ATU333の旧称は「大食い」だった。現在は「赤頭巾」(日本語訳書の表記)に改められているが、「大食い」とは、だいぶ印象が違う名前だ。この名称を聞いて「赤ずきん」を思い浮かべる人は、旧称を知ってる民俗学者以外に存在しないだろう。

     さらに目録には、〈イタリアの版〉として、「カテリネッラ」という少女の話が同じATU333に分類されている。

     母親に頼まれた少女が飲食物を鬼に届けに行き、途中でそれを食べてしまい、代わりに馬の排泄物を詰めて届ける。怒った鬼に追われる。(要約)

     赤い帽子も、祖母も、狼も出てこない。赤ずきんとの共通点を探せば、少女が飲食物を携えて使いに出され、危険な目に遭う、というあたりだろうか。それで同じ話型とは、どういう基準なのか。

     そしてATU333の類話分布を示すリストは、フランス、ドイツ、イタリアといったヨーロッパ諸国にとどまらず、ヨルダン、イラク、イラン、中央アフリカ、南アフリカまで広がっている。

     この分類は、いったいなにを根拠にしているのか。そして「赤ずきん」の定義をこのように設定したのは、だれの、どのような判断によるものなのか。

    ATU440「鉄のハインリヒ」という問題

     グリム童話の第1話「蛙の王さま、あるいは鉄のハインリヒ」は、王女と蛙の約束の物語だ。王女が井戸に落とした金の毬を蛙が拾いあげてやる。同衾の約束と引き換えに。物語は蛙が王子に戻るところで事実上の決着がつく。『美女と野獣』みたいなパターン。

     ところが話はそこで終わらない。最後に、忠実な従者ハインリヒが登場する。ハインリヒは王子が蛙に変えられた悲しみのあまり、胸に3本の鉄の箍(たが)をはめて心臓を守っていた。王子の解呪を知ったハインリヒが馬車に乗ってやってくる。旅の途中で「ぱきり」という音がする。王女が馬車が壊れたのかと聞くと、ハインリヒは「違います、わたしの心の箍がはずれる音です」と答える。それが3回繰り返されて話が終わる。

     このタイトルの後半、「鉄のハインリヒ」という副題は、いったいだれのためにあるのだろうか。物語の主人公は王女、あるいは蛙に変えられた王子だ。約束と解呪が物語の核心だ。ハインリヒは最後のおまけみたいなワンシーンにだけ登場し、本筋に絡まない。それでもグリムはこの挿話を初版から最終版まで手放さなかった。しかも副題にまでした。でも、なんのために?

     そして『国際昔話話型カタログ』は話型ATU440の名称を、グリムの話とまったく同じ「蛙の王さまあるいは鉄のハインリヒ」とした。副題ごとそのまま踏襲したのだ。でも、なんのために?

     その理由は、別の回に述べる。ATU440の類話として分類された話のなかに、鉄のハインリヒを持つものはほとんどない。

     「青ひげ」も、ATUではATU312というひとつの話型の一例と見なされている。ペローの「青ひげ」は、禁じられた部屋の鍵を妻に渡した夫が、約束を破った妻を殺そうとする話だ。ATU312は、「乙女を殺す男(青ひげ)」という奇妙な名称で呼ばれ、有名な「青ひげ」は括弧に入れて渋々という感じで添えものあつかいされている。ペローの版でも、また19世紀以降フランス各地で採集された口承版でも、殺されるのは乙女ではなく妻だから、プロの民俗学者のコミュニティが「間違った名称」をつけてしまったわけだ。でも、なんのために?

     しかも、ATU312の旧称は「巨人を殺す男と、その犬」だったというのだから言葉を失う。巨人も、巨人殺しの男も、犬も、ペローのどこにも出てこない。フランスの口承ヴァージョンで、青ひげが巨人であるもの、動物の助力者が出てくるものがあるので、わざわざそれを題にしたのだろう。でも、なんのために?

     ATU312には、ヴァリエーションとしてATU312A、312C、312Dがある。312Aは、男が誓約によって娘を虎(あるいは猿、超自然の存在)と結婚させ、虎が娘を食べ、末の妹(弟)が虎を倒す、という話だ。虎や猿が出てくる時点でアジア圏の話であることがわかるが、「青ひげ」との共通点はどこを探しても見当たらない。禁じられた部屋もなければ、財産の問題もない。

     312Dに至っては、竜(悪魔)が少女を連れ去り、兄弟たちが救出に向かうがつぎつぎと殺され、母親が魔法的な受胎によって強い息子を産み、その息子が竜を倒して姉と兄たちを救う、という話だ。ただの竜退治じゃないですか。「青ひげ」との共通点は「女が連れ去られる」という一点だけであって、それを根拠に同じ話型に分類するなら、アニメの『ポパイ』はまるごとATU312に入ってしまう。

    循環の罠

     話型カタログは、ATU440では話の本筋とは無関係なハインリヒを正式名称に受け継ぐいっぽう、有名な作品の題「赤ずきん」「青ひげ」をATU312・333の旧称では排除し、ATU312の新称でも括弧に押しこんでしまった。おまけにATU333では、救出シーンがあるのが「基本形」だと定義してしまった。でも、なんのために?

     その動機のひとつは、ATUカタログが「モティーフの有無」を分類の基準にしているからだ。話の全体的な構造や雰囲気ではなく、特定のモティーフが「ある」か「ない」かで分類する。「女の子がお使いに出る」「食べ物が登場する」「襲われる」というモティーフが揃えば、それだけでATU333に入る資格ができてしまう。話の流れや文脈、語りのトーン、そもそもその話がなにを語ろうとしているのか、といった要素は、モティーフ分類の網の目からこぼれ落ちる。

     もうひとつの理由は、ATUカタログが「どの話も、どこかに口承起源を持つ」という前提のもとで作られているからだ。世界じゅうの「似た話」を集めて共通のモティーフを抽出し、それを「国際型」として定義する。その作業の根底には、「共通のモティーフがあるなら、共通の口承的起源があるはずだ」という世界観がある。

     しかしその推論は逆転しているかもしれない。共通のモティーフがあることと、共通の口承起源を持つことは、べつのことだ。むしろ、「赤ずきんちゃん」が書物を通じて世界じゅうに広まり、それを読んだり聴いたりした各地の語り手が、自分たちの語りの伝統に合わせて変形させた可能性のほうが、はるかに高いのではないか。

     「カテリネッラ」がATU333に分類されているということは、「カテリネッラ」は「赤ずきんちゃん」と共通の口承起源を持つ、という主張を暗黙のうちに含んでいる。でも、それは証明されていない。ATU333に分類することによって、その主張が「証明された」ことになってしまっている——これが循環の罠だ。

     ATUカタログのおかげで、「俺の国にもATU510A(シンデレラ)がある」と言えることが、その民族の口承文化の証明になった。俺の国も「シンデレラ」という競技でオリンピックに国家代表を送ることができる。参加資格の審査基準がグリムを基準に設計されていることは、だれも問題視しなかった。

     競技のルールを決めた国が代表選手も出している。ATU440の「鉄のハインリヒ」は、そのルールブックがいかにグリムの手で書かれているかを、タイトルの次元で示している。グリム兄弟は死してなお、民俗学者の思考を規定しつづけていたのだ。

    口承中心史観は、グリムの国籍より強かった

     ATUのグリム偏重を「ドイツ人研究者によるドイツ国民作家の優遇」と見るなら、話は単純だ。しかし実際には、そう片づけられない例がある。

     連載第1回に出てきたフランスの民俗学者ドラリュは1950年代から60年代にかけて、フランスのむかし話を独自に分類した目録(『フランス民話話型目録』)を作った。ATUとは独立した、フランス語圏の話を対象にした分類体系だ。ドラリュがペローを、フランスが誇る自国の文学者として特別あつかいしたかというと、そうではなかった。ドラリュの分類体系においても、ペローは「むかし話の作者」ではなく「口承の採集者」として位置づけられている。

     自国の偉大な作家を、みずから格下げした。

     これはグリムへの帰依でも、ドイツへの忖度でも、説明できない。ドラリュにはグリムを持ち上げる動機も、ペローを貶める動機も、ナショナリズムの観点からはなかった。それでもペローは採集者でなければならなかった。なぜか。

     口承起源説を守るためだ。

     ペローが「作者」であれば、ATU333は書物から生まれたことになる。口承の痕跡を持つ古い民間伝承がペロー以前に存在した、という前提が崩れる。それは、フランスの民俗学者にとっても、受け入れがたい結論だった。グリム偏重はグリムへの愛着から生まれたのではなく、口承起源説への信仰から自動的に導かれたのだ。

     ATUの編纂者たちが意識的にグリムを優遇しようとしたのか、それとも口承起源説という前提を持って分類作業をすすめた結果としてそうなったのかは、判断が難しい。おそらく後者だろうと僕は思っている。ドラリュの例は、その傾向がドイツ人研究者に限らない、分野横断的な構造的偏りであることを示している。

     口承中心史観は、グリムの国籍より強かった。

    (つづく)

誰もが知る「赤ずきん」「シンデレラ」は、本当に民衆が口伝えで守ってきた物語なのか? ペロー、グリム、そして民俗学の「常識」をたどり直し、おとぎ話の作者と伝承をめぐる長い調査の旅が始まる──。

【編集部より】『青ひげ夫人と秘密の部屋──「見たな」の文学史』(光文社)で第79回日本推理作家協会賞(評論・研究部門)を受賞した千野帽子さんの次のテーマは、おとぎ話! 本連載では、現在準備中の受賞後第一作『赤ずきんには作者がいる』の刊行に先駆けて、そのエッセンスをギュッと凝縮してお届けします。
赤ずきんには作者がいる
千野帽子
千野帽子(ちの・ぼうし)

兼業文筆家。フランス政府給費留学生としてパリ第4大学に学び、博士課程修了。著書に『人はなぜ物語を求めるのか』『物語は人生を救うのか』(ちくまプリマー新書)、『俳句いきなり入門』(NHK出版新書)、『読まず嫌い。』(角川書店)、『文藝ガーリッシュ』『世界小娘文學全集』(河出書房新社)、『文學少女の友』(青土社)、共著に『東京マッハ 俳句を選んで、推して、語り合う』(晶文社)、編書に『富士山』『夏休み』『オリンピック』(角川文庫)、『ロボッチイヌ 獅子文六短篇集モダンボーイ篇』(ちくま文庫)、訳書にマリー=ロール・ライアン『可能世界・人工知能・物語理論』(水声社)、トマス・パヴェル『小説列伝』(水声社)がある。『青ひげ夫人と秘密の部屋──「見たな」の文学史』(光文社)で第79回日本推理作家協会賞受賞(評論・研究部門)。