笑いものにされた男
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口承論者は口頭パフォーマンスという現象の解像度が低い?
前回、ヴァルター・アンダーソンの「自己修正の法則」を紹介した。口承が安定する理由は、各語り手が複数の人から繰り返し聞くからだ、という議論だ。このようにおとぎ話口承起源論者は、「かつての民俗社会では「集い」でむかし話が披露された」という図を描いてきた。
でも、農業が不安定で平均寿命も短い社会で、複雑な話を何度も複数の話者から耳にするのに十分な時間を生きられるだろうか? たとえ集いの機会を持ったとしても、明日の天気、隣人の不倫、誰が食料を盗んだかといったニュースやゴシップが優先だろう。オチも教訓もない架空のプリンセスや架空の「おじいさんとおばあさん」の話を、しかも複数の話者から語られるのを何度も聴くなんて余裕は、当時の人生にはなさそうだ(可能性があるとしたら、それは歌の形をしていただろう)。
そういうわけで、そういう「おとぎ話を披露し合った」という証言自体が、いずれも近代人であるインフォーマントと調査者との共犯関係で作られてきたのではないだろうか。その可能性を、僕はどうしても排除できない。
18世紀末、ギュムナジウム教師ムゼーウスは『ドイツ人の民衆的メルヒェン集』(1782-1787)という作品を書いた。序文では「自分は口承をもとに手直しした」と主張した。その主張は大いに怪しく、書物をもとに手直ししたり、ゼロからオリジナルに創作したりしたと考えられる。
ムゼーウス歿後の1791年、甥で劇作家のコッツェブーは、ムゼーウス遺稿集を編み、序文でつぎのように伝えている。
〈ムゼーウスが「ドイツ人の民衆メルヒェンを書こう」という考えを抱いたとき、実際に年老いた女たちを糸車ごと自分のまわりにたくさん集め、そのまんなかに腰を下ろし、女たちに社交的なおしゃべりで語らせ、それをのちになってあれほど魅力的に語り直したのだ、ということを知る人は案外少ない。またしばしば通りから子どもたちを呼び寄せ、彼らといっしょに子どもになり、メルヒェンを語らせ、その一話ごとにドライヤー銅貨を支払ったのだ〉
僕がコッツェブー発言を知ったのは、ムゼーウスの翻訳者である鈴木滿・武蔵大学名誉教授の2007年の文章。鈴木先生は、それをはっきり〈事実である〉と言い切っていた。ちなみに、出典を明かさぬまま。そのため、コッツェブーの原文にたどり着くまでちょっと骨が折れたし、人に手伝ってもらった。
老女を何人も糸車ごと自分の周りに集めて、社交的なおしゃべりをさせ、そのなかでフィクションのおとぎ話を語らせる。ミュージックビデオとかならありそうな風景だけど、どう考えてもフェイクだろう。糸車を持ち寄った女たちが集まるのは、本来は労働の場であり、そこでの「おしゃべり」は噂話・世間話が主流のはず。
そこに見知らぬ男(しかもギュムナジウムの教師)が座って「はい、いつもみたいにおしゃべりして」と言って、それで自然に談笑できるか? 想定自体が非現実的だ。人間心理からいって、できるわけがない。しかもフィクションとしての複雑なメルヒェンをだよ?
「一八世紀だからそれができた」と考えるのがおかしい。コッツェブーと鈴木先生が共有している前提は、「適切な条件さえ整えれば、口承の場は人工的に再現できる」という想定だ。「ふだんの社交的会話」は、それを支える生活全体の文脈から切り離せない。採集者が「場を設定する」という行為自体が、すでにその場を変質させている。
このようなノンデリなことを可能と信じることができる人なら、おとぎ話口承起源論も信じることができるのだろう。コッツェブーも鈴木先生も、「庶民」を実験動物かなにかと勘違いしていたのではないか。このように口承起源説支持者は、口承という現象の解像度が低い気がする。「庶民」に失礼な方向でだ。
しかもこれは遺稿集の編者序文だった。つまりコッツェブーはムゼーウスの名声と作品の価値を高める立場で書いている。「おじは書斎で話を作ったのではなく、実際に民衆から直接採集した」という話は、まさに編者が作りたい物語だ。これを一次資料としてあつかうさいに、鈴木先生は発話状況を問う必要があったはずなのだけど。
均質性こそが、印刷源の証拠だ
アンダーソンの自己修正の法則は、日本でも継承された。ドイツ文学者の小澤俊夫が「形式意志」という概念を提唱した。小澤は『昔ばなしとは何か』(1983)で、この概念を説明するために、もみの木の話をしている。
駅前の植木市で苗を買ってきて庭に植えたところ、植木屋さんが「このまま背丈を伸ばしては根の成長が追いつかず倒れてしまう」と言って、幹の芯を途中で切ってしまった。するともみの木はアシンメトリーな形になった。ところが観察を続けると、やがて横枝の一本が上へと向かって伸び始め、少しずつもみの木本来の左右対称な姿を取り戻していった。植物学的には「形式意志」などというものは存在しないはずだが、と小澤は断りつつも、樹は自分がなるべき形をどこかで知っているかのように育っていく。その植物の成長を昔話の自己回復力に重ねた比喩だ。
小澤によれば、昔話にはそれ自身が「そうあろうとする意志」のようなものが備わっており、語り手がうっかり話を変えてしまっても、聴衆が「そこ違う」と指摘したり、語り手自身が次に語るときにもとに戻したりすることで、話は「本来の形」を取り戻す。語り手と聴き手の相互作用のなかで、話の形は保たれていく、というのが「形式意志」の骨子だ。
ただ、『昔ばなしとは何か』での「形式意志」という言葉は、意味がころころ変わる。小澤は〈形式意志〉を、あるときはむかし話というジャンル全体が備える条件維持の力として語り、あるときは固有の話がその元の形を守ろうとする力として語る。この両者は別の主張だが、小澤はその区別を立てないまま議論を進めている。「〈昔話〉という語りのジャンルは、これこれのような形式的特徴を持つ」というジャンル論としての形式意志と、「『桃太郎』という話はこういう話であろうとする意志をもっている」という個別作品論としての形式意志とは、はっきり区別して論じてほしい。小澤はそこを切り分けておらず、結果として議論がぼんやりしている。
小澤は「形式意志」論を、アンダーソンの自己修正の法則を昔話教育の文脈に引き込んだ議論として展開した。アンダーソンが「語り手が複数のヴァリアントを照合してズレを修正する」と言ったのに対し、小澤は「語り手と聴き手の相互作用が話を本来の形に引き戻す」と言っている。メカニズムの説明は違うが、どちらも「口承には自律的な安定化の力がある」という結論に向かっている。
しかしここで考えてみたい。「聴衆が語り手を修正する」という現象は、はたして口承の自律的な安定化メカニズムの証拠なのか。
ゲーテと姪と落語家
ゲーテの小説『若きヴェルテルの悩み』(1774)に、興味深い場面がある。ヴェルテルはロッテの幼い弟妹たちにメルヒェンを語り聞かせるのだが、途中で細部を変えると子供たちが「前回はそうじゃなかった」とすぐに指摘する。ヴェルテルはこの体験からこう学ぶ。「最初の印象は人をとらえて離さない。それを変えようとする者は災いを受ける」と。
ウォルター・ジャクソン・オングも著書『声の文化と文字の文化』(1982、藤原書店)のなかで、姪に「三匹の仔豚」を語り聞かせたときのことを書いている。オングが語りかたを少し変えると、姪は「そこ違う」と口を挟んだ。姪が要求したのは「正しい話」ではなく、「自分が前に聴いた話」だったのだ。
だれか落語家が言っていたことだが、「寿限無」の長い名前には師系によって多少のヴァリエーションがあり、学校で演じると生徒が「知ってるのと違う」と言うのだという。その生徒が知っている「正しい」寿限無は、本やTVで知った活字・映像の版だ。
これら三つの観察は同じことを示している。聴衆が要求する「正しいヴァージョン」の基準は、口承伝統の内部にあるのではなく、聴衆それぞれの記憶の中にある。そしてその記憶は、どこから来たのか。本かもしれない。TVかもしれない。あるいはインターネットかもしれない。「聴衆が安定させている」ように見える口承のメカニズムが、じつは印刷物由来の記憶に依存している可能性を、これらの観察は示唆する。
なおヴェルテルはさらに、これは本の改訂でも同じだと続けていた。作者が詩的にどれほど改善していても、第2版を出せば必ず作品を傷つけることになる、と。
1985年に井伏鱒二が「山椒魚」の結末を変えたときに、野坂昭如が「それじゃいままでの読者の気持ちはどうなるんだ」と怒ったり、2004年にジョージ・ルーカスが『スター・ウォーズ』エピソード6(1983)エンディングのアナキン役の俳優を差し替えたときに、千野帽子が「俺のヴェイダー卿を返せ」と嘆いたりと、こういうことは歴史上よくあることだ。
遠く離れたところによく似た話がある理由
アンダーソンの議論に、さらに根本的な問題があることを、オランダの歴史家ウィレム・ド・ブレクールが指摘している。アンダーソンが「口承の安定性の証拠」として提示したのは「皇帝の犬」という話型の分析だった。19世紀後半から20世紀初頭にかけてスラヴ語圏全域で採集された45のヴァリアントで、印刷物の影響は0パーセントだと豪語した。
しかし、ド・ブレクールによれば、その驚くべき類似性の原因は単純だ。それぞれの話が共通の印刷物に依拠していたからにすぎない。
ド・ブレクールの指摘はさらに鋭い。言葉の違う地域にも同じ話があらわれる。その越境した場所を調べると、二言語話者のいるコミュニティだった。つまり印刷物を読んでべつの言語で語り直せる人がいた場所だった。逆に、言葉が通じる地域でも、その本が届いていない場所にはその話がなかった。
つまりヴァリアントの分布パターンは、口承の波ではなく、本の配本ルートそのものだった。その地域に配本されたかどうか、それだけの話だったわけだ。各地の話がよく似ているというその均質性こそが、同じ印刷物から派生したことの証拠だった。
話の驚くべき安定性と広域的な類似性は、アンダーソンが言うような「自己修正の法則」の証拠ではなく、じつは書物の痕跡だった。口承が安定していたのではなく、印刷物が安定していたのだ。語り手たちが無意識に「原形」とやらを復元していたのではなく、かれらはみな同じ本を、直接あるいは間接に参照していた。
小澤の「形式意志」についても、同じ問いを立てることができる。語り手が話を「あるべき形」に戻そうとする力として観察されるものは、ほんとうに口承の自律的な安定化メカニズムなのか。それとも、語り手が意識していようといまいと、活字化された「正典」を参照しているからこそ、話が一定の形に収束して見えるだけなのか。
民話採集が本格化した19世紀以降、農村にも識字率の上昇と印刷物の普及が進んでいた。このことを思えば、「口で語られてきた」と報告された話のどれだけが、ほんとうに活字を経由していなかったか。それはあらかじめ疑ってかかるべき問いだ。口承起源説を信じる人(2023年3月中旬までの僕を含む)は、TikTokでバズったダンスが流行っているのを見て、「これは民衆の精神を体現した伝統舞踊だ」と言っている可能性がある。
前回、アンダーソンやトンプソンら20世紀民俗学の主流派(つまり口承起源論者)の論敵として紹介したヴェッセルスキという書物起源論者は、こういったことをすべてお見通しだったようだ。口承という現象について、かなり解像度が高い人だったらしい。
では、ヴェッセルスキとはどういう人物だったか。
笑いものにされた男
ヴェッセルスキは、当時のドイツ語圏の民俗学界から学問的に冷遇されただけでなく、1938年には「人種的理由」で教授資格を剥奪された。翌1939年にプラハで没したヴェッセルスキは、学問的に論破されたわけではなく、政治的に沈黙させられたのだ。
[(2026年6月23日追記)教授資格を剥奪された理由は「人種的理由」ではなく「規程不履行」です。ヴェッセルスキには「人種的」にナチスに迫害される属性はありません。訂正して、お詫び申し上げます。]
1920-30年代のドイツでは、民衆の純粋さ・素朴さを理想とするイデオロギーが力を増していた。少し経って政権の座についたナチスは、まさにこのイデオロギーを体現していた。「おとぎ話は民衆ではなく作家(知識人)が書いた」というヴェッセルスキの主張は、ナチスの文化的空気に真っ向から逆らう、政治的に正しくないものだった。彼の理論は笑いものにされ、ナチス敗北後も長いあいだ「ロストセオリー」あつかいされた。
グリム兄弟以来の蓄積を持つドイツは、戦後もゲッティンゲン科学アカデミーを拠点に『メルヒェン百科事典』全14巻(1975-2015)を刊行するなど、フォークロア研究の国際的な中心でありつづけた。その民俗学界は、戦後も「民衆の純粋さ・素朴さを理想とするイデオロギー」を保ちながら、ナチズムとの関係を自己批判する動きを1980年代以降に本格化させている。
しかしその議論の中心は、ナチズムに加担した研究者の問題であって、ヴェッセルスキのように排除された側への言及はあまり見当たらないように思える。『メルヒェン百科事典』はヴェッセルスキの著作も参考文献として引用しているが、「かつて不当に排除した」という反省が公式に表明された形跡はない。ヴェッセルスキの名誉は、回復されないまま今日にいたっている。
ヴェッセルスキの再評価が始まったのは2010年前後だという。90年近く冷遇されていたことになる。しかもその再評価は民俗学者ではなく、比較文学や文化史をベースにおとぎ話に接する研究者たちによるものだった。
残る問い
1946年にトンプソンが「アイルランドからインドにかけて複合的な話が濃密に分布する」と観察してから80年経つ。「なぜそうなのか」という問いは、民俗学ではいまだに宙吊りのままのようだ。
「文字文化を含む社会的余剰がなければ、複合的な話のアーカイヴそのものが成立しない」という補助線は、トンプソンよりもアンダーソンよりも、ずっと口頭パフォーマンスの本質に近かった。そしてド・ブレクールは、アンダーソンが口承の証拠と呼んだものが書承の痕跡だったことを、実証的に示した。
口承起源説(グリム兄弟、アンダーソン、トンプソン、鈴木滿、小澤俊夫)と書物起源説(ヴェッセルスキ、ド・ブレクール、そしていずれ登場する予定のルース・ボッティグハイマー)。口頭パフォーマンスの本質を理解していたのは、どちらだったのか。
(つづく)