お店で考え中
もし私たちが本当に資本主義を批判したいなら、都市に埋め込まれた差別や問題を分析したいなら、そして、現代の日本で生きるということの意味を掴みたいなら、私たちが毎日通っているふつうのお店を考えるのがぴったりだ。そこではふつうに資本主義が営まれており、ふつうに差別や問題が発生していて、ふつうに人が生きている。それゆえ、ふつうのお店を分析することで、私たちは私たち自身について、何か重要なことが分かってくるに違いない。
コンビニエンスストア、家電量販店、ドラッグストア、スーパーマーケット、ファミレス、ベーカリー、カフェ、駅ビル……。ありふれたお店から考える哲学エッセイ。お店で考え中。
第2回

雑貨店——聖なる日用品

2026.06.22
お店で考え中
難波優輝
  • はじめに

    雑貨店は、どんなお店なのだろうか。

    並んである商品から考えてみよう。雑貨店で私たちが買うもののメインは、日用品である。少なくとも何らかのために使えるものだ。だが、雑貨店に並んでいるものは、根本的には日用品でありながら、同時に、+αの何かでもある。その何かによって、雑貨店はコンビニエンスストアでもなく、ドラッグストアでもない、何か別の雰囲気をまとった、別の種類のお店であるように思われる。

    どういうことか。ここで、漂白剤について考えたい。

    私たちが漂白剤としてイメージするのは、花王の「ハイター」シリーズだろう。ここでは、近年使用者も多いだろう「キッチン泡ハイター」をみてみたい。掃除用品グリーンとでも言うべき、ミントグリーンのプラスティックが印象的なボトルだ。

     

    キッチンハイターは頼れる掃除道具だが、しかし、これは純然たる日用品である。ここには、いわば何にも「魔法」はかかっていない。おしゃれでもなければ、ものすごくダサいわけでもない(異論はあるだろうけれど)。この花王のハイターはドラッグストアで買えるものであり、ハレとケで言えば、完全にケである。買って気分がアガるものでもなんでもない。かと言って気分が盛り下がるとも言えない。少なくとも雑貨店でわざわざ買うものではない。これは、日用品そのものだ。+αはない。ニュートラルといっていいだろう。

    この漂白剤に何かを足してみよう。

    雑貨店の代表格の一つ、「無印良品」の漂白剤はこうだ。「キッチン用漂白・除菌泡スプレー」は、細部のフォルムの違いはもとより、ノズルとトリガーと連結部だけに色が着いていて、しかも、藍色の落ち着いたカラーである。さすがに「まぜるな危険/塩素系」あたりの注意書きは重要なので無印良品にはありえないような黄色と赤の原色である。

    だが、それ以外は、ほとんどが空白で占められており、キッチン泡ハイターのような「最強漂白力」のような宣伝文句は書いていない。これは+α、というか「−α」を成し遂げている。ともかくも、日用品に引き算という+αがなされている。それゆえ、これは、無印良品という雑貨店で買うべきアイテムである。無印良品の雑貨を愛する人は、「これが情報としては十分だ」と言うかもしれない。そして、無印良品的な雰囲気を愛する人は、わざわざこの漂白剤を買って、気分を良くするだろう。漂白剤に引き算の魔法がかけられている。

    もっと文字通りに、日用品に何かを+αしてしまうとどうなるだろうか。

    もう一つ、無印良品が雑貨店の中の静けさ担当ならば、雑貨界の祭り担当とも言うべき「ドン・キホーテ」の「わたくし泡キッチンブリーチ」はどうだろう。

    いきなり「わたくし」と名乗られてびっくりする。ノズルは、花王の「キッチン泡ハイター」よりもさらにミントカラーになり、大容量になり丸っこいゴロッとしたフォルムだ。注目すべきは、「99.9%」という数字が踊り、「ジュワっと」という言葉が目に入り、「短期集中でこれ1本!」と太鼓判が押されている点だ。ドン・キホーテの商品には、たんに日用品なだけではなく、何か力強さや勢いというものが付加されている。なんだか力強く、アゲアゲな威力を感じる。漂白剤に足し算の魔法がかかる。

    いま、三つの漂白剤を比較した。花王のハイターをザ・日用品として中央に置くならば、日用品に「何か」が引き算された美として無印良品があり、日用品に「何か」が足された美としてドン・キホーテがあるのだ。

    今回考えたいのは、雑貨店というものは、それがメインとして販売している日用品に「何」を「どうやって」+αするお店なのだろうか、という問いだ。その何かが雑貨店という「お店」でどのように生み出されているのかを、雑貨店をめぐりながら考えたいのだ。そうすることで、雑貨店という、他のお店に比べてもいっそう曖昧で多様な要素を含んでいるお店の本質が見えてくるはずだ。

    〈雑貨〉の誕生

    雑貨店の本質を探るための手がかりとして、その歴史を少しだけ紐解いてみたい。

    そもそも「雑貨」というカテゴリの誕生はかなりの最近のことらしい。いまのような「雑貨」というカテゴリを生み出したのは、長谷川義太郎という人だ。長谷川は、一九七四年に、渋谷で「文化屋雑貨店」という店を始めた(後に原宿に移転し、二〇一五年に閉店する)。

    もちろん、「雑貨」という言葉はその前からあった。以前の意味では、釘や判子やバケツといった、文房具や作業用の道具のことを指していたそうだ。だが、長谷川は、何か魅力的な小物やファッションアイテムたちのことを「雑貨」と呼び始める。

    とりわけ、もともとはファッションアイテムでも「おしゃれ」なアイテムでもなんでもないものを並べることで「雑貨」として売ってしまうことに長谷川の文化屋雑貨店の真髄があった。長谷川はこう語る。

    藍色の田んぼパンツだって何万本って売っちゃったんですよね。それだって結局は、田舎の人は毎日見てるわけじゃない、おばあちゃんがはいてる、畑でやってるのは。これがファッションになるとは思わないわけですよ。だけと、藍のズボンは何回も洗えばいい色になってきて、涼しいし柔らかいし、なおかつ着物を着た上からはけるぐらいだぼだぼ、でかくて、ゴムで。だから、最高のファッションなんだけどね。それが、概念を変えればすごくいい物になるわけですよね。コム・デ・ギャルソンが同じようなズボンを何万円で売ったんですよね。そしたら余計売れるようになっちゃってね、うちが(松井 2019, 117-118)。

    「藍色の田んぼパンツ」は、ふつうの作業着である。ファッションではない。だが、それを文化屋雑貨店に配置することで、「雑貨」になる。長谷川が言う「概念を変える」という行為は、ふつうの作業着を、「最高のファッション」としてみる、という「枠組みの変更の提案」を意味する。

    雑貨店と雑貨の誕生から私たちが学べるのは、あるものを雑貨にすること、すなわち、「雑貨化」することの意味だ。雑貨化とは、日常生活には足りない「何か」をもたらしてくれるものとして、モノを眺める枠組みを提案することである

    長谷川は、ふつうの作業着を雑貨化することで、最高のファッションにしてしまった。無印良品とドン・キホーテは、漂白剤を、それぞれの仕方で雑貨化することで、端正で落ち着いたアイテムにしたり、勢いのある威勢のいいアイテムにしたりする。

    では、この雑貨化というものは、どのようにして行われるのだろうか。シンプルに考えるなら、セレクトショップを代表に、そこの店主の審美眼によって選ばれたという事実をベースにして、その店主に選ばれたことで魅力が増すのだ、という理解ができる。「あの人が選んだんだからすごい」説である。あるいは、どこそこのブランドだからすごいんだ、という「ブランド」説もある。いずれにせよ、どちらも、「あの人のセレクト」だとか「どこどこのブランド」だとか、誰々という人やどこどこのブランドという集団という「ラベル」によってアイテムの魅力が増す、何かが+αされるという「ラベルの魔法主義」とでも呼べるような考え方である。

    ふつうの発想でも、おそらくは多くのマーケティング理論でも、同じようなことは言われているだろう。それこそ、現代は、ブランディングが盛んな時代であるし、インフルエンサー華やかなりし時代でもある。とくに美容系は、最初はおすすめコスメアイテムを紹介しているけれど、あるときに自分のブランドコスメを開発し、売り始め、そのブランドによる収益に移行していく。インフルエンサーというラベルさえあれば、その中身が何であろうが気にされないのだ、と。

    そう考えると、雑貨店というのも、こうした、人や集団による魔法を雑貨にかけるお店、ということで話は終わりそうにも思う。無印良品/ドン・キホーテというブランドで、先ほどの漂白剤がよく見えるんでしょう、と。

    部分的には納得できるかもしれない。だが、もし本当に無印良品やドン・キホーテというブランドのラベルだけが重要だとしたら、おかしなことが一つある。それは、無印良品にせよ、ドン・キホーテにせよ、あるいは、様々なブランドにせよ、その「お店」の雰囲気こそ、私たちが味わっているものであり、雑貨化に力を与えている磁場のように思えるからだ。

    無印良品のお店に入ってみる。オレンジ色の柔らかい光に包まれた広々とした店内では、どこか小洒落た民俗音楽が流れている。どこからかラベンダーの精油のいい香りがする。ポスターにはふわふわした綿花や不思議なコピーが印刷されている。どこかしらの壮大な池や山、風景のイメージがあちらこちらに掲示されている。店内の向こうまでずっと、木でできた商品棚や、床が続いていて、森や林の落ち着いた印象で満たされている。赤色や黄色といったヴィヴィッドな色は少ない。視覚ではなく、綿や麻の素材感に触覚がスムースに刺激されている。優しい感じの服や、なんだか健康に良さそうなバウムクーヘンや化粧品やタオル。茶色いタグが見え隠れする。どれも落ち着いたテイストだ。そこで私たちは、「キッチン用漂白・除菌泡スプレー」に出会う。

    あるいは、ドン・キホーテを夜中に訪れる。ここは、「ボリューム満点 激安ジャングル」、「真夜中過ぎても 楽しいお店」。「♪ドン ドン ドン ド〜ンキ ドン・キホーテ」とテーマソング「Miracle Shopping」が流れる。わっ、と若者のはしゃぎ声が店内から上がっている。そこかしこに垂れ幕や提灯が掛けられて、夜祭りのようだ。ところせましと商品が押し込まれ、倒れては来ないかと心配になりつつ目移りしていく。迷い込んで、使うのか使わないのかよく分からないアイテムをしばし眺める。ワクワクと少しのさみしさがある。もしこの雰囲気がなければ、「わたくし泡キッチンブリーチ」はこれほど勢いづいてみえるのだろうか。

    雑貨店を考えるときに、私たちは、ついつい、ラベル主義に近づいていく。だが、たんにラベルだけではない、お店の雰囲気を私たちが味わっているし、雰囲気づくりもまた、雑貨店がしのぎを削っているところのはずだ。

    ドン・キホーテの代表取締役社長の安田隆夫はこう述べる。

    ドン・キホーテは典型的な「時間消費型」の店ですから、仮に「理論」に忠実に、見やすく、買いやすい、取りやすい店になったら、2、3度行けば終わりで、30坪程度のコンビニエンス・ストアに比べ店舗が大きいので、坪効率も悪くなり事業として成り立ちません。それで、敢えて「常識はずれ」の、見にくく、買いにくく、取りにくい、熱帯雨林のジャングルのような「圧縮陳列」の店をつくりました。都会で「探検」できるわけで、レジャーの延長線上の受け皿としてこれほどおもしろい店はないのです。ホームページに寄せられた御意見では「カラオケは飽きた、居酒屋も疲れる、でもドン・キホーテに行くと同じお金で、同じ時間楽しめて、しかも安い商品が手に入る。今、ドンキにハマッてます」と。(安田 2003)

    「時間消費型」のドン・キホーテは、安田によれば、「お祭りの夜店を歩くような」そこで過ごす時間そのものを楽しむことで、コンビニエンスストアの「緊急性の消費」と対立させられているものだ。まさしく、お店を歩く経験そのものが雑貨店としてのドン・キホーテの価値の源泉であることが強調されている。

    だとすれば、お店の雰囲気が雑貨化に流れ込んでいく仕組みとは何なのかが明らかにされなければならない。そうすることで、雑貨店のコアがみえてくるはずだ。

    お店とリンクするお部屋

    人文地理学者のジュリアン・ホロウェイとシーラ・ホーンズは、まさにお店の雰囲気と雑貨化のリンクを捉えた研究を発表している。「無印良品、物質性、そして日常の地理学」と題された論文において彼らはこう言う。無印良品のアイテムを使っている人は、日常生活の中で日用品としてアイテムを用いながら、しかし、たんに日用品としてのみ使っているわけではない。そのアイテムが魅力的な仕方でお店に置かれていた姿、モデルハウスで展示されていた姿を同時に思い出し、重ね合わせて用いているのだ、という(Holloway & Hones 2007)。

    熟練した消費者は、文字通りの無秩序な「使用空間」という文脈において、表面的にはありふれた無印良品の製品に遭遇する。そのとき、彼らは、その「使用中の製品」が、無印良品のマーケティング空間における「展示された大量の製品」を想起することができる。その獲得された理解を参照することで、それをスタイリッシュで魅力的なものとして認識できるのだ。(Holloway & Hones 2007, 555)

    言い換えれば、無印良品に親しんでいる人は、手元の日用品、先ほどの「キッチン用漂白・除菌泡スプレー」を、たんなる日用品であると同時に、お店に展示されている「キッチン用漂白・除菌泡スプレー」と重ね、二重に知覚する。

    それによって、いま使っている手元のモノはたんなる商品ではなく、無印良品のお店とつながっているモノになる。つまり、無印良品のあのお店の独特の雰囲気を、強弱はあるにせよ「キッチン用漂白・除菌泡スプレー」はまとい続けるのだ。

    無印良品の店内の世界との絆や接触が絶たれずに、独特の「無印良品のお店」の雰囲気が「キッチン用漂白・除菌泡スプレー」から供給され続けている。

    似たモノを例に挙げよう。「山崎実業」という、これまた優れた日用品のアイテムを製造する会社がある。キッチン周辺を中心に愛用しているけれど、山崎実業の製品はなんらの雰囲気をまとっているようにはみえない。それは、便利であり、よいものでもありうる。しかし、それが置かれているお店はどこにも存在しない。それゆえ、お店の雰囲気を引き継ぐことはできない。山崎実業のアイテムはよい日用品だ。もしかしたら、ふつうの日用品よりも+αの魅力はあるかもしれない。しかし、少なくとも、その+αは、ブランドのラベルから来ていて、お店の雰囲気から来るものではない。

    ドン・キホーテももちろん同様だ。無印良品が、静けさやアンビエントな雰囲気を生み出しているのだとしたら、ドン・キホーテは、夜の盛り場のような勢いのある雰囲気を生み出している。そして、ドン・キホーテで購入した雑貨には、お店の雰囲気とのリンクが絶たれてはいないのだ。

    お店という商品が陳列されている空間は雰囲気で満たされている。そして、そのお店のアイテムを購入して家に持って帰っても、私たちは、それらのアイテムが、魅力的な「お店の空間」に「本来は」位置づけられていたことを覚えている。それゆえ、家でそれらの商品を眺めたり使っているとき、私たちはつねに、強弱はあるにせよ、そのお店にそれがあったことを想起しているのである。雰囲気を持って帰ることができるのだ(しかしもちろん、お店で買ったときは輝いて見えたけれど、家に買えるとなんだかがっかりしたりもするかもしれないけれど)。

    無印良品とドン・キホーテに加えて、関連して、雑貨店のもう一つの代表格のヴィレッジ・ヴァンガードを参照することもできる。お店の雰囲気とのリンクは、原理的にはあらゆる商品・モノに付与することはできる。例えば、本はどこで買っても(サインなどがない限りは)同じ一冊の本である。だが、それを独立系書店で買ったり、ヴィレッジ・ヴァンガードで買うならば、その本は、それらの世界に配置されていた痕跡を持つことになる。そこの雰囲気を引き継ぐことができる。物理的なサインがあるわけではない。サインは記憶である。それを覚えている限りは、その人にとってその本は、もともとのお店の雰囲気とのつながりを断ち切られないものとなるのだ。

    ヴィレッジ・ヴァンガードの創業者の菊地敬一は、こうエッセイで語っている。

    お前たちは自分の本棚にある本をどこの本屋で買ったか覚えているか、残念ながら俺も覚えてない。ヴィレッジ・ヴァンガードで本を買ったお客さんが、例えば二〇年経って、その本を手にした時、二〇年前のヴィレッジ・ヴァンガードのことをまざまざと蘇らせて、覚えていてくれる、そんな本屋になろう。(菊池 2005, 68)

    他人からみればどこで買おうが変わらないふつうの本だが、買った人は「ヴィレッジ・ヴァンガードで買った本」であることを覚えている。それは、たんにヴィレッジ・ヴァンガードで買った、というだけではなく、ヴィレッジ・ヴァンガードの、あの店のレイアウトの陳列の中で、あのお店の雰囲気の中で買った、ということを覚えている。その本を買ったヴィレッジ・ヴァンガードの陳列棚の位置まで未だに覚えている。そして、私にとってその本は、ヴィレッジ・ヴァンガードのあの店のあの雰囲気とともにつねに重ね合わせでイメージされているのだ。

    薄暗い店内に大量の特徴的な手書きの黄色いポップがお札のように貼られている。アングラな雰囲気。奥に行くと、アングラな雰囲気のノンフィクションやグロテスクなマンガの表紙に怪しさを感じながら見入ってしまう。店員の誰かの強い趣味を感じるコーナーに感心する。ポップの煽りを読んですこし笑う。「ヴィレッジヴァンガード」。何か新しい趣味の世界に一歩踏み入れてみたいけれど、踏み入れていい趣味なのだろうか、と不安と未知にわくわくする期待がある。

    対照的に、コンビニエンスストアのことを考えてみよう。コンビニの商品には雑貨性はほとんど付与されない。それは、コンビニの商品がそもそも雑貨的ではないからだ、と答えることができるかもしれない。それはペットボトルの水であり、タバコである、と。だが、そういうわけでもないと思う。すべての商品は、雑貨かどうかを客観的に区別されているわけではない。雰囲気づくりを目指す雑貨店に置かれればそれは雑貨になる。雑貨性を付与されるかどうかが重要なのであり、当の商品の品目は実のところなんでも構わないのだ。

    聖域としての雑貨店

    雑貨店で雑貨を買う人は、雑貨店の雰囲気を家に引き込むことを一つの理由として雑貨を購入し、家で用いる。そして雑貨店にはお店ごとに異なる雰囲気があり、人は自分の好みに合わせて引き込む雰囲気を変える。電気・ガス・水道のライフラインを引き込むように、お店の雰囲気をお家に引き込む。

    雑貨店の本質はこれでかなりの程度は明らかになったように思う。けれども「雰囲気」というものはまだ未知のものかもしれない。雑貨店の雰囲気の内実に迫っていきたい。

    無印良品の静けさと落ち着き、ドン・キホーテの夜の祭り、あるいは、ヴィレッジ・ヴァンガードの怪しさ。これらの様々な雰囲気は全然違うけれど、ある一つの共通点があるようにも思える。

    それは、スピリチュアリティ、聖性ではないか。

    唐突に思えるかもしれない。けれども、雑貨店の語りには、つねにスピリチュアルなもの、聖なるものの語彙が見え隠れしてきた。雑貨店の始まりといえる文化屋雑貨店の四〇周年を記念した書籍で、ミュージシャンのカール・ハイドはこういう。

    文化屋雑貨店——ショップ・オブ・ワンダー、私が必要とする、でも存在するとは思っていないかったものたちの神殿。解き放たれた想像力、まどろみ垣間見た厳格、陶酔感があふれ出る輝かしい世界、笑顔、珍品、奇癖、熱狂的な冒険、いたずら好きな実験、変容と素晴らしいフリークたち。〔……〕私は文化屋雑貨店の神社を持っている。東京から戻るたびに持ち帰る、幻想的な、名前を思い出せないものたちで装飾された部屋。マスター・タロウの眼力、手業、そして想像力は、我が家を光で満たしてくれる。(Hyde 2014, 144-145)

    「神殿」としての文化屋雑貨店、そして、それを「我が家」に引き入れて、「神社」を作る。

    無印良品をめぐる語りでは、「引き算」という言葉が多様される。無印良品の雰囲気を批評家のスティーヴン・ベイリーは次のように評している。

    無印良品の店に入ると、商品以外にも何かが提供されていると直感する: 空気中には哲学が漂っている〔……〕〔無印良品〕の支持者たちにとって、それは価値、機能、実用的な素材、控えめな色使い、そして過剰への嫌悪に基づいた信仰の体系(a belief system)なのだ。無印良品とは、ありふれたものを並外れて良く作り上げたものなのだ。(Bayley 2001 ; Muji 2003, 3、Holloway & Hones 2007, 562より引用)

    これは、外国に住む人々が感じる「日本」的な無印良品であるがゆえに、いくらかは差し引いて考えるべきものかもしれない。だが、「無印良品の店に入ると、商品以外にも何かが提供されていると直感する」という指摘は、私たちにも頷けるものだろう。そして、それは、「哲学(philosophy)」である。ここで、学問的な哲学というよりも、「信仰の体系」なのだ。

    そして、ドン・キホーテにおいても、「祭り」がキーワードになる。ライターの谷頭和希はこう述べる。

    かつて知り合いと話していたとき、ドンキの空間は、地元のお祭りに似ている、と言っていた。確かにそうかもしれない。 「地元の祭り」は、その地域以外の人にとっては入りづらい雰囲気を持っている。その、いわば土着的ともいえる雰囲気をドンキは持っている。〔……〕まさにローカルが煮詰めに煮詰められた異空間を全国各地に作っているのがドンキなのではないだろうか。(谷頭 2025, 102)

    ドン・キホーテは、そこがハレの場になるような、日本のお祭りとどこかしら連続性を持つような「祝祭」の場になっている(とはいえ、もはや現代では、ドン・キホーテは若者にとって「カラコンを買いに行く場所」だと聞いたことがあり、何ら祝祭的でもないという感覚もあるようだ。だが、他方で、ドン・キホーテは異様に外国からの観光客に人気でもあるという。これは、日本の夜市に出かけているような感覚を観光客が味わっているのではないだろうか)。

    あるいは、ヴィレッジ・ヴァンガードは薄暗く、隠れるような出で立ちをしている。それゆえ、ここは、メインストリームのスピリチュアルな場ではなく、「カルト」的な、つまり、サブカルチャー的な、隠れる聖域であることが演出されているように思われる。閉じていこうとする。

    雑貨店をめぐる語りでは、神殿、神社、信仰、祭りといった、スピリチュアルなものにまつわる語彙が頻出する。雑貨店の雰囲気の特徴は、ジャンルの違いこそあれ、雑貨店が「聖なるもの」すなわち「聖域」=俗世とは異なる論理をもった場であることに由来すると考えたい。

    魅力的な雑貨店とは、すべて、スピリチュアルな、霊的な意味での聖域なのだ。その雰囲気が重要なのは、それが、日常の生活に対して、一種の逃避場所、聖なるものを供給してくれる場所として機能していることにある。

    でも、なぜ雑貨店なのか。なぜスーパーマーケットやドラッグストアやコンビニエンスストアではいけないのか。思うに、それらのお店には聖なるものを供給するだけの何らかの「異なる論理」が足りない。ここで、エミール・デュルケムによる宗教の特徴づけの一つが参考になる。デュルケムによれば、宗教的なものには、聖なるカテゴリーがある。つまり、世界を聖なるものと俗なるものに分ける、というのだ(Durkheim 1995)。

    ここに注目したい。雑貨店以外のお店は、聖と俗を分けることができない。スーパーには聖も俗もない。ドラッグストアやコンビニエンスストアもそうだ。だが、雑貨店には聖なるもののカテゴリーがある。無印良品も、整っていること、静けさが聖であり、俗世間は騒がしい。ドン・キホーテならば、店内は、夜の祝祭であり、その外が俗である。ヴィレッジ・ヴァンガードも、密教的な隠れた聖性が繁茂していて、その外のメインカルチャーが俗である。雑貨店は、こうした聖と俗の境界を強く作り出せるからこそ雑貨店となる。

    逆に言えば、雑貨店らしさは、聖俗の境界が薄れるほどに、異なる論理の輪郭が溶けていくほどに消えていくのだろう。例えば、ロフトは雑貨店ではある。だが、ロフトには、聖なるものが欠けているように思える。ロフトには、明確な、俗世間とは異なる論理がない。ギフト用にちょっと良い品がないか探しに行くところではあるけれど、そこは、聖域としての強い力を持たない。

    趣味の店は、しかし、異なる論理を持っているのではないか。自分は入ったことはないが、オーディオショップやサイクリング用品店は、あるいは、好日山荘のような登山店や釣具の店は、何らかの聖俗を生み出す力がありそうだ。

    こう考えると、雑貨店に限らず、すべてのお店は、何らかの聖性を供給してくれる場所にも思えてくる。たとえ、コンビニエンスストアであっても、そこが、非個人的な親密さで満ちた何らかの不思議な聖域を形成しているようにも思われる。それは、前回奇しくも、東京で私が新聞を読もうとすると、まるで神を祓うようにして声をかけられたように、東京を中心に、非個人的な親密さを軸とするお店が、「お客という神」を迎えるための聖域になっているということかもしれない。コンビニには、私たちは、信者として訪れるのではなく、神々として訪れるのだ。

    雑貨店は、聖俗を生み出しつつも、しかし同時に、「趣味の品」に限定されず、一般的な日用品や衣服といった、日常的に用いることのできるモノに、聖性を宿し続けるという意味で特殊な聖域と言うべきなのだ。雑貨化とは、モノに対して、聖なるものとのリンクを結びつけることを意味する。部屋を聖なるもので満たしていくことで、聖域とのリンクを担保する。雑貨店は、日常の俗なるものにつねに聖性を供給し続ける不思議な聖域なのである

    私たちは、お店に行く。商品を買うために、あるいはウインドウショッピングのために行く。なぜお店で買うのか。それは、そこが聖域だからである。伝統的な宗教の衰退とともに、私たちは、聖なるものを常に欲している。そして、聖なるものはあった。ドン・キホーテに、無印良品に、ヴィレッジ・ヴァンガードに。何より、雑貨店を生み出した文化屋雑貨店に。私たちは、雑貨店に行くことで、もっとも効率よく聖なるものを調達することができるのだ。そして、聖域から持ち帰った聖なるものを、俗なる日常の中でつねに二重写しで使用し続けることができる。

    なぜ聖なるものが必要なのか

    でも、なぜ、人々は聖なるものを求めるのか。私は、伝統的な宗教を信じる人が少なくなったとしても、人々は宗教的な経験なしでは生きられないと感じる。現代は、科学によって伝統的な宗教の効力が部分的に脱魔術化されてしまったがゆえに「宗教的・魔術的なものを異なる文脈で現出させ、それらを破壊するのではなく、置き換える」必要が生まれるのだ(Muñiz and Schau 2005, 737)。私たちは、おそらく、日常的な論理とは異なる論理を背負ったアイテムを日常の中に取り入れないと、うまく聖と俗のバランスが取れないように思うのだ。それは、例えば、テクノロジーを好きな人にだって当てはまる。

    宗教学者のアニャ・ポガチュニク、アレシュ・チルニチュは、「iReligion:アップル現象における宗教的要素」(二〇一四年)というへんてこで素晴らしい論文を発表している。彼らは、日本語でもよく言われる「アップル信者」という言葉に代表されるように、ブランドへの忠誠心を、宗教的な側面から真面目に受け止める。アップルを愛する者たちにとって、アップルストアは「神殿(temple)」になっているのだ。

    人類学者のダグラス・アトキンによる、神殿としてのアップルストアの記述をみてみよう。

    店に入ると、見事でありながらシンプルなガラスの階段が目の前に現れる。一階には、デジタル写真、MP3、そして洗練されたノートパソコンを崇拝するための小礼拝堂が設けられている。上階には「アップル・バー」という懺悔室があり、そこではソフトウェアの誤用やハードウェアの乱用といった過去の過ちが正され、赦される。信者の疑問に耳を傾け、いくつかの真実や答えもここで与えられる。回廊沿いには、ソフトウェアの教会図書館と、聖典であるマニュアルやユーザーガイドが並んでいる。そして至る所で、黒衣をまとった侍者たちが静かに、敬虔に奉仕している。彼らは常に手近にいて、ソフトウェアのインストールに関する教義を説明したり、音楽のダウンロード方法を指導したりする。階段の最上段に上がると、内陣へと入る。信徒たちは滑らかな長椅子に静かに座り、色と生命が溢れ出す巨大スクリーンの左側にある説教壇に向き合っている。その日の牧師(説教の内容は店を出る際に配られるチラシに載っている)は、OS Xの教義、Adobe Photoshopの使い方、Final Cutによる救いについて説く。入り口の右側には祭壇があり、信徒が祈りを捧げる最後の場所となっている。淡い色の木でできた長く滑らかな台座の上には、レジが設置され、笑顔の執事たちの仲介のもと、献身的な信者たちからの捧げ物を受け入れている。(Atkin 2004, 116-117)

    こう書かれると、アップルストアがだんだんと、ほんとうに神殿に思えてくる。いや、事実そうなのだ。アップルファンという、テクノロジー好きでさえも、だからこそなのか、聖域としてのアップルストアを求め、聖域から持ち帰ったアップル製品を使うことで、聖なるものを日常に取り入れようとしているのだ。人間は、スピリチュアルなものなしでは、どうもうまくいかないようだ。

    アップルの例で言えば、アップル製品の聖性は、それが高級な機材というところからも来ているようにも思い、今回の雑貨と雑貨店の特徴とも違うところに注意したい。雑貨店は、聖なるものを日用品の中で、使いながら摂取できるところに独特さがあるのだ。

    とはいえ、今アップル製品の例を挙げたついでに話すならば、アップルファンの人々は、あらゆるパソコン関連製品をアップルで統一したがる傾向があるだろう。それゆえ、アップルストアは雑貨店というよりは、一つのブランドで道具を統一したいという欲求を生み出す場所であり、雑貨らしくは全然ない。

    しかし、現代は、雑貨店がますます純粋化していくようにも思える。文化屋雑貨店は、ほんとうにいろいろなところから集めた雑貨が並べられているところに驚きがあったのだろうけれど、無印良品はといえば、自社のかなり徹底した同じ一つの「信仰の体系」を共有するプロダクトたちを販売しているし、ドン・キホーテにしても、自社製品を数多く開発している。その意味で、雑貨店の「雑種性」は、現代になるにつれて重視されなくなっているようにも見受けられる。文化屋雑貨店という、雑貨店の始まりが、異種混交的な意味での俗世間とは異なる論理の驚きと遊び心にあったものが、いつしか、一つの体系に近づいていく。雑貨店は、アップルストアのように神殿化していく。文化屋雑貨店が、日用品を完全なる異世界へとつなげた、教祖のいないスピリチュアリティだったのとは違い、雑貨店はそれぞれの宗教体系を整備していくようにも思える。

    これが、私たちの生活にとってどのような意味を持ちうるのか。お店でさらに考えることが必要なようだ。


    参考文献

    Atkin, Douglas. 2004. The culting of brands: When customers become true believers. Penguin Group.

    Durkheim, Émile. 1995. The elementary forms of religious life. Trans. Karen E. Fields. The Free Press.

    Holloway, Julian, and Sheila Hones. 2007. “Muji, materiality, and mundane geographies.” Environment and Planning A: Economy and Space. 39(3): 555-569.

    Muñiz, Albert M., Jr., and Hope Jensen Schau. 2005. “Religiosity in the abandoned Apple Newton Brand Community.” Journal of Consumer Research 31(4): 737–47.

    Pogačnik, Anja, and Aleš Črnič. 2014. “iReligion: Religious elements of the Apple phenomenon.” The Journal of Religion and Popular Culture 26(3): 353-364.

    菊地敬一、二〇〇五年『ヴィレッジ・ヴァンガードで休日を』新風舎。

    谷頭和希、二〇二五年『ニセコ化するニッポン』KADOKAWA。

    松井剛、二〇一九年「「雑貨」 という謎カテゴリーを創った男、長谷川義太郎―文化屋雑貨店―」『マーケティングジャーナル』 第三八巻三号、一一一-一二四頁。

    安田隆夫、二〇〇三年「デフレを笑う「非連続型業態」の成長&革新方程式とは?-ドン・キホーテの「起業家精神」と「知恵」」『ブレイン・ストーミング最前線(2003年7月号)』https://www.rieti.go.jp/jp/papers/journal/0307/bs01.html?utm_source=chatgpt.com.

     

もし私たちが本当に資本主義を批判したいなら、都市に埋め込まれた差別や問題を分析したいなら、そして、現代の日本で生きるということの意味を掴みたいなら、私たちが毎日通っているふつうのお店を考えるのがぴったりだ。そこではふつうに資本主義が営まれており、ふつうに差別や問題が発生していて、ふつうに人が生きている。それゆえ、ふつうのお店を分析することで、私たちは私たち自身について、何か重要なことが分かってくるに違いない。
コンビニエンスストア、家電量販店、ドラッグストア、スーパーマーケット、ファミレス、ベーカリー、カフェ、駅ビル……。ありふれたお店から考える哲学エッセイ。お店で考え中。
お店で考え中
難波優輝
難波優輝(なんば・ゆうき)

1994年生まれ。美学者、会社員。修士(文学、神戸大学)。専門は分析美学とポピュラーカルチャーの哲学。立命館大学衣笠総合研究機構ゲーム研究センター客員研究員 / 慶應義塾大学SFセンター訪問研究員。近刊に、『本とは何か』(新潮社)。著書に『物語化批判の哲学:〈わたしの人生〉を遊びなおすために』(講談社)、『なぜ人は締め切りを守れないのか』(堀之内出版)。『性的であるとはどのようなことか』(光文社)、『批判的日常美学について:来たるべき「ふつうの暮らし」を求めて』(晶文社)。