「拾得物を装った細工物」の時代
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ジョアノーが「古代」を断言できた空気
「「長靴をはいた猫」と「親指小僧」はペローの発明ではなく、古くから人口に膾炙していた」
これは連載第2回で見たジョアノーという人物の思いつき(1807)だった。傍証はなにもなかった。深掘りも論証もしていない。
この思いつきを、グリム兄弟が『子どもと家庭のメルヒェン集』初版(1812)序文で根拠として引用した。そのグリムのペロー観が、出典も経路も切り離されたまま事実として流通している。「ペローは民話を採集した」の最初の根は、ペローの110年後に書かれた彫刻論に書かれた思いつきの余談に行き着き、それ以前には遡れない。
なぜジョアノーはその思いつきを書けたのか。そこには時代の空気があるらしい。「古い民族の声については、証拠なしに断言してよい」という空気だ。この空気がなければ、ジョアノーはこんな思いつきを書かなかった。
その空気はどこから来たのか。調べていくと、徐々に構造が見えてきた。遡ると、18世紀後半に英独両地で連鎖した一群の「発見」に行き着く。捏造が多数あった。「古い民族の声を発掘したい」という欲望が先にあり、捏造の連鎖はその受け皿だった。
なぜ英独で「古い声」がアツくなったのか
ひとつ確認しておきたいことがある。なぜ18世紀後半の英国とドイツで、こういう欲望が燃えたのかという背景だ。
当時のヨーロッパでは、「知」や「芸術」の正統な系譜はラテン語を経由するものだ、という前提がまだ生きていた。古代ローマの遺産を継承し、ルネサンスを生んだイタリア半島がその源泉だ。フランスもルネサンス期からイタリアとの人的・文化的交流がさかんで、ラテン語的教養の圏内にあった。ルイ14世の宮廷文化が「標準」として輝いていたのも、そういう背景があってのことだ。
英独は、地理的にも言語的にも、ラテン語的正統から距離があった。「うちにはラテン語を介さない古い文化があったはずだ」という欲望を、この両地が強く持ったのは当然だ。ルネサンスお膝元に生まれなかった者が「自分たちにも由緒ある起源がある」と主張したい。その欲望が、「古文書発見」というフォーマットを繰り返し呼び出す土壌だ。
偶然だが、同じ18世紀に、地球の反対側でも似た運動が起きていた。国学だ。漢籍の影響を脱して、日本固有の古典を再発見しようとする運動が大躍進した。本居宣長が『古事記伝』の執筆を始めたのが1764年。「外来の権威を介さない、われわれ固有の古い声がある」という欲望は、洋の東西を問わなかった。
古代スコットランド叙事詩の「発見」
『古事記伝』執筆開始の4年前(1760年)、スコットランドのジェイムズ・マクファーソン(23歳)が、古代の盲目詩人オシアンによるゲール語英雄叙事詩を「発見・翻訳した」と称して詩篇を発表し始めた。霧に包まれた荒野、幽霊の戦士、失われた英雄時代のメランコリー。これが爆発的にバズり、フランス語・イタリア語・ドイツ語にも続々と訳された。
詩人で大学教授のトマス・グレイは刊行前に断片のコピーをフライングゲットして熱狂し、マクファーソンに手紙で問い合わせた。返ってきた手紙は、「悪文で論旨不明瞭、満足のいく答えはなく、こいつ詐欺師じゃねえの? とまで見える」代物だった。
グレイはこう断言した——「あんなボンクラに、あんなすごい詩をでっち上げるのは無理だ。ほんものと信じることにした」。これは偽書説への反論ではない。「あの感情は古人にしか書けない」という確信の表明であり、信仰告白だ。「あれほどの作品が捏造であるはずがない」。でも「あれほど」と感じたのは、「実在の古人の真正な感情から生まれた」という箱書きを信じて読んだからだ。
読んで感動した→でも捏造かも?→「訳者」に訊いてみよう
→「訳者」がボンクラ→こんなボンクラには書けない
→やっぱりホンモノだってことにする!循環している。でも循環していることに気づかない、あるいは気づいても手放せない。
グレイは文学者として当代一流だった。だからこそ、感動の強度が批判的判断を上書きしてしまう瞬間を、こんなに精確に自己観察できた。そして自己観察しながら、それでも手放せなかった。「これが好きな自分」って、守りたくなっちゃうよね。
〈悪魔を敵に回そうが教会を敵に回そうが、ほんものと信じることにした〉と書いている。信仰とはそういうものだ、と言えばそれまでだが、問題はこの構造が口承起源説の核心部分とまったく同型だということだ。
哲学者ヒュームは、最初はマクファーソンを擁護していたが、批判派に鞍替えした。文人サミュエル・ジョンソンは「写本を見せろ」と要求し続けた。しかし「写本を出せ」という要求に、マクファーソンは終生応じなかった。
そもそもオシアンの設定には、11世紀末から17世紀にまたがって書かれたアイルランドの写本群に登場する英雄の息子オシーンを流用した、という文化盗用的な問題もあった。現在の定説では、『オシアン詩集』の大半はマクファーソン自身の創作と見なされている。
イタリアの古い物語の「発見」
ここで重要な人物が登場する。亡父が首相だった下院議員ホレス・ウォルポールだ。ウォルポールの邸宅ストロベリーヒルハウスは、既存の中世建築の改築ではなく、非ゴシック様式の建物を歴史上実在する建築例にもとづいたゴシック様式で建て直した最初の建物だった。ウォルポールは19世紀のゴシック・リヴァイヴァルを先取りしたこの館に、自前の印刷所を設置し、自作や友人グレイの作品を刊行するインフルエンサーだった。グレイに頼まれてオシアン詩篇の刊行前入手(リーク)にかかわった当事者のひとりでもあった。
1764年のクリスマスイヴ、ウォルポールは中篇小説『オトラントの城』初版を匿名で出した。序文の書き出しはこうだ。
「以下の作品は、イングランド北部の由緒あるカトリック系の家の書庫で発見されたものである。1529年、ナポリにて印刷された」
中世イタリアを舞台とする、古城と呪いと巨大な甲冑と幽霊の物語。作品はヒットし、ゴシック小説の祖と見なされている。
ウォルポールはマクファーソンの炎上を間近で見ていた。翌年の『オトラントの城』第2版で、早々に種を明かした。
「新しい試みだったし、自信がなかったんで、翻訳者のフリしちゃってゴメン。ほんとは全部俺が創(や)りました」
この白状が早かったことが両者のその後を分けた。マクファーソンは現在、偽書作者として記憶され、ウォルポールはゴシック小説の始祖として文学史に収まっている。偽書とは「拾得物を装った細工物」だ。そしてこの定義が、次に登場する人物を理解する鍵になる。
同じ1765年、聖職者トマス・パーシーが『古英詩拾遺』を出した。そこには「発見・拾得」の物語が、箱書きのようについていた。「友人宅で古写本の束が暖炉の焚きつけとして使われているのを目にして救い出した」、というのだ。なんて魅力的な箱書きだろう。
実際には他の写本や印刷物、知人の提供した資料も組み合わされており、原資料の扱いはかなり自由(雑)なものだった。スコットランドに負けてなるものか、という時代の気分は確かにあった。
偽書師詩稿の連鎖
「古文書の発見・拾得」というこのフォーマットを、さらに大胆に使ったのがトマス・チャタトン少年だ。トマス・ロウリーという15世紀の修道士を丸ごと捏造し、その名義の詩や文書を量産して、「古い羊皮紙から転写した」と称して地元の好古家たちに提供した。郷土史家が鵜呑みにして本を書くくらいの影響力を持った。
チャタトンは、さっきのウォルポールにロウリー詩を売りこんだ。これは偶然ではない。ウォルポール自身が「中世写本の翻訳」と称して小説を出した人物だったからだ。偽書師が別の偽書師の「お墨つき」を求めた。
ウォルポールはチャタトンの手稿をグレイに鑑定させ、グレイは「贋作」と断定。オシアンにカモられたグレイに贋作を見抜かれ、ウォルポールに無視されるという皮肉な顚末だ。自分の感動が先行しない状況では、グレイは冷静だった。
1770年、チャタトンは17歳で死んだ。自殺と思しき死だ。しかし後年、ワーズワース、コウルリッジ、シェリー、キーツがこぞって題材にし、フランスではヴィニーが戯曲にし、イタリアでレオンカヴァッロがオペラにするまでして、不遇の天才として神格化された。偽造そのものが神話の一部になった珍しいケースだ。
偽書師の系譜はさらに続く。ウェールズの石工エドワード・ウィリアムズ(筆名ヨロ・モルガヌグ)は、14世紀中葉のウェールズ詩人ダフィッド・アプ・グィリムの写本を新発見したと主張し、吟遊詩人の団体を立ち上げ、ドルイド儀式を「復元」し、ウェールズ中世文学の選集を編んだ。マクファーソンやチャタトンと違い、ヨロは生前に詐欺師と呼ばれることなく逃げ切った。捏造が発覚したのは20世紀、第1次世界大戦後のことだ。
写本を見せろと言われたら詰む。これがマクファーソン、チャタトン、ヨロといった贋写本系譜の根本的な脆弱性だった。逆に言えば、「写本」という土俵に最初から上がらなければ、批判をかわせる。その解決を哲学的原理のレベルで提示したのがドイツの哲学者ヘルダー。これについては次回に譲る。
偽書が偽書師を育てる
このウォルポール→チャタトンという偽書のバトンを同時代人として意識していた著述家がいた。ハーバート・クロフトだ。1780年、クロフトは前年の殺人事件(聖職者ジェイムズ・ハックマンが愛憎のもつれから歌手マーサ・レイを射殺)を素材に、ハックマンとレイの往復書簡という体裁の小説『愛と狂気』を出版した。『若きヴェルテルの悩み』(1774)の模作でもあるが、実物の手紙と信じた読者が少なくなかったという。
この本の後半に、突然、長大なチャタトン論が埋めこまれている。偽書的な本のなかに偽書論が入っている入れ子構造だ。クロフトは「ウォルポールの前例がチャタトンに偽造のアイデアを示唆した」と書いている。偽書の連鎖を同時代人がすでに可視化していた。しかもそれ自体が偽書的な本に書かれていた。
この本がある少年の手に渡る。ウィリアム・ヘンリー・アイアランドだ。少年の父は版画家で、熱狂的なシェイクスピアコレクターだった。
『愛と狂気』はアイアランド家でよく音読された本だった。この時代、まだまだ本は音読されることが多かった。少年はこの本からなにを学んだか。チャタトンという先達がいること。貧乏な少年でも偽書によって天才と称えられたこと。そしてなにより、偽書はほんものの文献として読まれうる、ということだ。
シェイクスピア37作中、本人の手による写本は1枚も存在しない。この空白が19歳の少年の野心に火をつけた。少年はチャタトン同様、法律事務所で地味な写字(手書きコピー取り)の仕事に従事していた。偽書の手法は書物を通じて伝達される。クロフトの本は、その伝達経路のひとつだった。
1794年、少年は父に「知人の古い箱のなかから発見した。知人は匿名を希望している」と言って、シェイクスピアの署名入り証書を手渡した。そこからアン・ハサウェイへの恋文(髪の毛の束つき)、『ハムレット』と『リア王』の「直筆原稿」まで出てきた。ほんものと太鼓判を押した専門家も複数いた。
アイアランドはシェイクスピアの「未知の戯曲」をまる1本でっち上げ、劇場に上演権を売った。初演2日前、シェイクスピア研究の権威エドマンド・マローンが400ページを超える反証論文を発表して偽書を完膚なきまでに論証した。初日の観客席はマローン支持者で埋まり、劇は野次と嘲笑で幕を閉じた。上演は一夜限りとなった。
詐欺師が詐欺師を告発する
ここからがほんとにおもしろいところだ。アイアランドを糾弾したマローン側のシェイクスピア研究者ジョージ・スティーヴンズ自身が、輝かしい前科のある人物だった。
シェイクスピアと同時代の劇作家にベン・ジョンソン、ジョージ・ピールがいる。スティーヴンズはシェイクスピアとジョンソンがある夕方グローブ座で会談したとするピール名義の手紙を新聞に発表し、日付がピールの死の2年後だったのでバレた。大理石板に硝酸でアングロサクソン文字を自作彫刻し、11世紀のデンマーク・イングランド王ハルディクヌートの墓石として古物協会に持ちこみ、論文は印刷直前に差し止められた。ジャワの毒樹についてのガセ記事を書いて、それに騙された医師エラズマス・ダーウィン(進化論のダーウィンの祖父)が著作に引用した。
これで権威面できるのがシェイクスピア研究なのか。
僕と同じことをアイアランドは思ったことだろう。いわゆる「おまいう」案件だ。
さて、こうして並べてみると、マクファーソン(1760年)からアイアランド(1794年)まで、わずか34年のあいだに、有名なやつだけでも、英国でこれだけの「古文書発見」劇が連鎖している。積み上がったのは贋写本の山だけではない。「古い民族の声については、証拠なしに断言してよい」という文化的免許もだ。
ジョアノーが「ペローの話はドルイドの古伝だ」と書いたのは、マクファーソンから47年後のことだ。その47年で、「古い民族の声」への断言は、批判されるべき主張から、疑うことのできない前提へと昇格していた。
グリムはジョアノーを根拠に、ペローを民話蒐集家とレッテル貼りした。民話蒐集という作業は、この時代の世界観のまま、現在まで続いてきた。
(つづく)
次回予告
でも、写本があると主張すれば「出せ」と言われる。マクファーソンがそれで詰んだ。出せば鑑定される。チャタトンとアイアランドはそれで詰んだ。ではどうすれば断言できるか。その答えを哲学的原理のレベルで提示したのがドイツの哲学者ヘルダーだ。
これが、グリム兄弟の直接の出発点になる。