赤ずきんには作者がいる
誰もが知る「赤ずきん」「シンデレラ」は、本当に民衆が口伝えで守ってきた物語なのか? ペロー、グリム、そして民俗学の「常識」をたどり直し、おとぎ話の作者と伝承をめぐる長い調査の旅が始まる──。

【編集部より】『青ひげ夫人と秘密の部屋──「見たな」の文学史』(光文社)で第79回日本推理作家協会賞(評論・研究部門)を受賞した千野帽子さんの次のテーマは、おとぎ話! 本連載では、現在準備中の受賞後第一作『赤ずきんには作者がいる』の刊行に先駆けて、そのエッセンスをギュッと凝縮してお届けします。
第8回

エビデンスがないことをエビデンスにする

2026.06.26
赤ずきんには作者がいる
千野帽子
  • 連載第6回でヴェッセルスキが教授資格を剥奪された理由は「人種的理由」ではなく「規程不履行」です。ヴェッセルスキには「人種的」にナチスに迫害される属性はありません。訂正して、お詫び申し上げます。

    写本の土俵に上がらなければよい

     「古い民族の声については、証拠なしに断言してよい」という空気はどこから来たのか?

     前回、マクファーソン(1760)からアイアランド(1794)までの34年を追いながら、こういう問いを立てた。そして最後に、その空気に哲学的根拠を与えた人物がいると書いた。ドイツの思想家ヨハン・ゴットフリート・ヘルダーだ。

     マクファーソンが「写本を出せ」という批判に終生さらされたのを、ヘルダーは見ていた。写本を主張すれば証拠を求められる。では写本という土俵に最初から上がらなければどうか。

     ヘルダーはその解決を、探偵の目から見れば実に鮮やかな形で提示した。「文字化されていないからこそ純粋なのであり、証拠がないこと自体が純粋さの証明になる」。

     エビデンスのなさをエビデンスとして振り回す、という論法だ。これは詭弁ではなく、ヘルダーにとっては本気の哲学だった。だからこそ効いた。

    「訳したら、もうそれはオシアンではない」

     1770年秋、26歳のヘルダーはシュトラスブルク(ストラスブール)で21歳のゲーテと親交を結んだ。当時すでにヘルダーは『オシアン詩集』に熱狂していた。翌年、「オシアンと古代諸民族の歌についての書簡抄」を書いて発表した。

     ヘルダーの議論の標的は具体的だった。『オシアン詩集』はイエズス会士ミヒャエル・デニスが古代ギリシア叙事詩の六歩格でドイツ語訳した。その選択を根本から批判したのだ。

     「オシアンの詩は短く、強く、男性的で、イメージが切れ切れに炸裂する」。そこが新しかったのであって、古典文学の素養で荘重な文体に訳すと、いくら内容が勇ましくてもコレジャナイ感が出てしまう。〈コレジャ歌えナイ!〉と絶叫している。

     気持ちはわかる。殿さまが遠乗りで訪れた目黒で、庶民の味・さんまを生まれて初めて食べて感動した。お屋敷に戻っても、あの直火焼き焦げ焦げ脂ジュージューが忘れられない。とうとう家来に「さんまを食べたい」とご所望。そんなしもじもの食べ物を……と思いながらも家来は魚河岸でさんまを購い、こんなに脂っこくてはお体に障るというので蒸籠で蒸して脂を落とし、喉に刺さるとよろしくないと小骨もすっかり抜けば身はぐずぐず、しかたがないので椀物にして出した。殿さまは蓋を取って、

     「ん? これがさんま? ……激マズじゃん。三太夫、いずこで求めたか?」

     「は、日本橋の魚河岸にございます」

     「なに日本橋、うーんそれはいかんな、さんまは目黒に限る

     ヘルダーが言いたいのは、「なに六歩格、うーんそれはいかんな、オシアンは原書に限る」ということだ。

     ここには致命的なパラドックスがある。ヘルダーが「真のオシアン」「原書」として念頭に置いていたのは、マクファーソンの英文だ。ゲール語の原典ではない(そもそも、それは存在しなかった)。ゲール語の「原文サンプル」が附録として掲載されてはいたが、それ自体がのちの研究で、英語版からの逆翻訳の可能性が高いとされている。ヘルダーは「存在しない原典」を基準に「このホンモノの魂の叫びを聴け!」と言っていたことになる。海から遠い目黒をさんまの名産地としてしまったようなものだ。

     しかもヘルダーが「諸民族のワイルドな歌」として並べる実例は、紀行文、歌謡集、翻訳書など、すべてなんらかの書物から引いたものだ。グリーンランド人の葬送詩はヨーロッパ人宣教師の記録から、ラップランドの恋歌も他者の著作からだ。エジソン以前の時代だから、「書物を読んで口承を讃える」という、構造的に奇妙な営みをせざるをえなかった。

     この矛盾に、ヘルダー自身気づいていた。「ルソーのように四つん這いに戻れと言いたいわけではない」と予防線を張っている。「ワイルドな歌に学んで、現代の芸術詩を刷新せよ」というのが本意だった。

     だが読者が受け取ったメッセージは、もう少しシンプルなものだった。「民衆の口承に、まだ汚染されていない本物の詩がある」。ヘルダーの慎重な留保は、受容の過程で脱落した。

    「内的証言」という論法

     ヘルダーはこの論法に、自分で名前をつけている。「内的証言(inneres Zeugniß)」だ。「こんな詩はいまの世紀には書けない、だから本物」。外部の証拠ではなく、作品の内側から滲み出る「本物らしさ」が証明になる、という議論だ。「内的証言」を現代日本語に訳すと「お気持ち」になる。

     探偵の目から見ると、これは非常に危険な論法だ。反証できないからだ。「本物らしさ」を感じたのは、本物だという前提で読んだからかもしれない。グレイが『オシアン』に感動して「ボンクラには書けない」と断言したのと、まったく同じ構造だ。ヘルダーはその構造を哲学的原理として確立した。

     「長靴をはいた猫」の元ネタは16世紀ヴェネツィアの作家ストラパローラの短篇であるという説が出たときに、ポルトガルの人類学者・民俗学者フランシスコ・ヴァズ・ダ・シルヴァが、「猫」の文学者のヴァージョン(ストラパローラ、バジーレ、ペロー)はすべて、〈より豊かな(口承の)伝統の派生物に過ぎない。起点などでは到底ありえない〉と言った。

     2世紀半経っても変わらないこの確信の正体を、僕は『青ひげ夫人と秘密の部屋』(光文社)刊行後この1年ほど、ずっと追いかけている。

     天動説や燃素論、ルイセンコ学説、今西進化論などはロストセオリー(絶滅学説)だが、おとぎ話口承起源説はブランクスレート説(ジョン・ロックの「人間は生まれたとき白紙であり、知識や性質はすべて経験によって形成される」説)と並んで、どう検討されても死なないゾンビセオリーなのだ。

     ブランクスレート説は進化心理学に論駁されても社会構築主義として生き続け、口承起源説は書物起源の証拠を突きつけられても「その書物の背後に口承がある」と言い返せる。反証可能性がないから死なない。ふたつともゾンビセオリー。

     もうひとつ重要なのは、ヘルダーがこの論法を使ってマクファーソンの真贋問題を巧みに回避していることだ。「ホメロスとオシアン」(1795)を発表したとき、ヘルダーは『オシアン』が本物かどうかの問題を避けている。彼にとってそれは問題ではなかった。「文字化されていないからこそ純粋なのであり、証拠がないこと自体が純粋さの証明になる」。この原理の前では、真贋論争そのものが無意味になる。

     ヘルダーはパーシー『古英詩拾遺』を実質的な準拠枠として、ドイツ各地の民衆歌謡を集めようぜ、と檄を飛ばした。「ドイツ語圏にも英国の『古英詩拾遺』に匹敵する宝が埋もれているはずだ。だれも拾い集めようとしないだけだ」と。この呼びかけが40年後のグリム兄弟の出発点に直結する。

    ビュルガーとスコット

     ヘルダーの檄に最初に応えた詩人のひとりが、『ほら吹き男爵の冒険』の再話(1786)で知られるゴットフリート・アウグスト・ビュルガーだ。26歳のときに発表した「レノーレ」(1773)は、戦死した婚約者を待ちつづける主人公のもとに、ある夜、彼の亡霊が馬で迎えに来て死の国へ連れ去る、というバラッドだった。ヘルダーが「民族の声」として提唱したものを、実作として結晶させた最初の例のひとつだ。

     ただし、ビュルガーはヘルダーの理念をそのまま実践したわけではない。「レノーレ」は民謡の採集ではなく、詩人としての技巧を惜しみなく注ぎこんだ創作だ。同時代の批評家ニコライは、ビュルガーが口では「民衆のため」と言いながら実際には飾り立てた詩を書いていると指摘した。ビュルガー自身もそれを否定しなかった。民間の歌と文学的な詩のあいだに橋をかけた、というのが正確な評価だろう。

     「レノーレ」は爆発的な人気を呼び、英訳・仏訳された。1796年は英国の「レノーレ年」と呼ばれ、6種の英訳が一斉刊行された。その筆頭が、スコットランドの25歳の弁護士ウォルター・スコットの最初の出版物だった。スコットは少年時代にパーシーの『古英詩拾遺』を読んで熱狂し、「はじめて小銭をかき集めたとき、まっさきにこの本を買った」と回想している。

     パーシー(1765)→ヘルダー(1771)→ビュルガー(1773)→スコット(1796)。英国から大陸へ渡ったバラッド趣味が、ひと回りしてまた英国に戻ってきた。

     スコットはその後、スコットランド国境地方へのバラッド蒐集「遠征」を繰り返し、1802年から1803年にかけて『スコットランド国境地方古謡集』を刊行する。「翻訳」(拾得物)と「模作」(細工物)が同じ本にパッケージされているあたり、線引きが曖昧な当時の出版事情が伺えるが、わざわざ「翻訳・模作集」と併記しているのは、マクファーソンやアイアランドのような炎上を避けようとした意識のあらわれとも読める。

    「野ばら」はだれが書いたのか

     ヘルダーの論考には、後世にとって奇妙な爆弾が埋めこまれていた。論考のなかで彼は「古い、子ども向けの寓話小歌」として短い詩を紹介し、「記憶から補った」と書いた。

     その詩の書き出しはこうだ。”Es sah’ ein Knab’ ein Rößlein stehn”(少年が一本の野薔薇を見た)。

     そして1789年、ゲーテはゲーテで、ほぼ同じ詩を「自作」として発表した。「野ばら」(Heidenröslein)だ。シューベルトの歌曲(1815)は、〈童はみたり野なかの薔薇〉で始まる近藤朔風訳で本邦でも広く知られる。

     この詩の「遠い祖先」として研究者が特定しているのは、1602年の印刷物だ。ゲーテがシュトラスブルク図書館で見ていた可能性がゼロではないと指摘されている。ではヘルダーが「記憶から補った」と書いたのは何か。ゲーテから受け取ったのか、同じ印刷物を別々に処理したのか、あるいは土地で歌われていたものを書き写したのか。答えは出ない。

     ヘルダーは後にこの詩を民謡集に「口承から」と明記して収録した。ゲーテは自作として発表した。同じ詩が、口承とされ、自作ともされる。民謡蒐集運動の出発点は、そもそも細工物か拾得物かの境界を曖昧にするメンタリティだった。

     「口承起源の主張には反証可能性がない」というこの連載の論点が、ここでも姿をあらわしている。ヘルダーが「口承から」と書いてしまえば、それを否定する手段がない。たとえ1602年の印刷物があっても、「その印刷物自体が口承を書き留めたものだ」と言い返せる。

    細工物が拾得物に化ける

     「民謡ふう」の創作と「民謡の採集」の境界が曖昧になる現象は、ヘルダーとゲーテだけの話ではない。23歳の詩人クレメンス・ブレンターノが長篇小説『ゴトヴィ』(1801)第2巻に断片として収めたバラッドがある。

     ライン川流域バッハラッハに住む美女ローレ・ライが、男たちを次々と破滅させる魔女として司教の法廷に召喚される。しかし彼女の「魔法」は自分の美貌そのものであり、本人は恋人に裏切られた被害者だ。彼女は護送中に岩の上に登り、ライン川に身を投げて死ぬ。最後の連で「この歌を歌ったのはライン川の船乗りだ」とメタ的にコメントし、「いまも岩から谺が響いている」と結ぶ。

     「この歌を歌ったのはだれか?」という自己言及的な締めは、スコットランドやイングランドのバラッドによく見られる慣用句だという。バラッドの形式を意識的に借りた、22歳の作者による完全な創作だ。岩そのものはライン川に実在するが、「ローレライ伝説」はブレンターノがこの瞬間に、あくまで作中設定として発明した。

     ところがその後、1824年に26歳のハイネが同じ題材で詩を書き、1838年にジルヒャーが曲をつけると、それが「古来の民謡」のように受容された。細工物が拾得物に化ける、その経路がここに見える。ブレンターノが意図的に民謡の「ふり」をしたというより、時代の空気がそう受け取らせた。やがて同地は観光名所となる。聖地巡礼で地域おこしのモデルケース。「民族の古い声を発掘する」という欲望が、新作に贋の箱書きをつけたのだ。

    グリム兄弟の登場

     『ゴトヴィ』刊行の翌年(1802)、ブレンターノはマールブルクに居を構え、法学者サヴィニー(23歳)の紹介で苦学生のヤーコプ・グリム(18歳)と知り合った。ヤーコプの弟ヴィルヘルム(17歳)は、その翌年に兄と同じ大学に合流。兄弟はブレンターノとその盟友アルニム(1803年当時22歳)の俗謡蒐集の仕事(『少年の魔法の角笛』[1806-1808])に協力し、民衆の歌のつぎは民衆の物語(メルヒェン)だ、という機運のなかに入っていく。

     ここで一度、この連載の出発点に戻りたい。僕が追いかけているのは、「ペローのおとぎ話は古来の口承に由来する」という前提がどこから来たのか、という問いだ。ジョアノー(1807年)→グリム序文(1812年)という経路はわかった。では、なぜその前提が疑われずに流通し続けたのか。

     その答えが、この回で見てきたヘルダーの論法にある。「証拠がないこと自体が純粋さの証明になる」という原理が確立されたことで、口承起源の主張は反証不可能になった。グリムは1803年にブレンターノを通じてこの知的環境に入り、ヘルダーの論法を引き継いだ。彼らが「民衆のおとぎ話を採集した」と主張するとき、その背後にはヘルダーが用意した免許状がある。

     グリムは『子どもと家庭のメルヒェン集』初版(1812)序文で、ジョアノーの「「長靴をはいた猫」はペローの創作ではない」という言葉と並べて、スコットの『湖上の美人』(1810)の註から、

    「似たような話が時代から時代へ、国から国へと伝わっていく」

    「ある時代の神話は次の世紀にはロマンスへと移行し、さらにその後の時代には子どもに聴かせるお話へと移行していく」(大意)

    という言葉も引用した。

     マクファーソン→パーシー→ヘルダー→ビュルガー→スコット→グリム。影響の連鎖は半世紀をかけてこう流れた。そしてグリム兄弟が1812年のKHM初版序文でジョアノーを引用したとき、「民族の声を発掘する」という欲望と「証拠なしに断言してよい」という免許と「ペローは採集者にすぎない」という主張が、ひとつに結びついた。

     写本があると主張すれば「出せ」と言われる。マクファーソンがそれで詰んだ。

     捏造して出せば鑑定される。チャタトンとアイアランドはそれで詰んだ。

     ヘルダーはこの構造を根本から迂回した。「写本こそ贋物、口承がホンモノ」。文字化された時点で劣化コピーであり、証拠がないこと自体が純粋さの証明だ、という原理を立てることで、「出せ」という要求を原理的に無効化した。

     グリムはさらに一歩進めた。ストラパローラ、バジーレ、ペローという実在する書物を「口承の文字化にすぎない」と根拠ゼロで主張し、自分たちの採集もその系譜だと位置づけた。証拠を出す必要がないだけでなく、反証も不可能になった。完璧な論法だ。

     次回は、グリム兄弟の看板作品「蛙の王さまあるいは鉄のハインリヒ」の成立を見ることにする。

誰もが知る「赤ずきん」「シンデレラ」は、本当に民衆が口伝えで守ってきた物語なのか? ペロー、グリム、そして民俗学の「常識」をたどり直し、おとぎ話の作者と伝承をめぐる長い調査の旅が始まる──。

【編集部より】『青ひげ夫人と秘密の部屋──「見たな」の文学史』(光文社)で第79回日本推理作家協会賞(評論・研究部門)を受賞した千野帽子さんの次のテーマは、おとぎ話! 本連載では、現在準備中の受賞後第一作『赤ずきんには作者がいる』の刊行に先駆けて、そのエッセンスをギュッと凝縮してお届けします。
赤ずきんには作者がいる
千野帽子
千野帽子(ちの・ぼうし)

兼業文筆家。フランス政府給費留学生としてパリ第4大学に学び、博士課程修了。著書に『人はなぜ物語を求めるのか』『物語は人生を救うのか』(ちくまプリマー新書)、『俳句いきなり入門』(NHK出版新書)、『読まず嫌い。』(角川書店)、『文藝ガーリッシュ』『世界小娘文學全集』(河出書房新社)、『文學少女の友』(青土社)、共著に『東京マッハ 俳句を選んで、推して、語り合う』(晶文社)、編書に『富士山』『夏休み』『オリンピック』(角川文庫)、『ロボッチイヌ 獅子文六短篇集モダンボーイ篇』(ちくま文庫)、訳書にマリー=ロール・ライアン『可能世界・人工知能・物語理論』(水声社)、トマス・パヴェル『小説列伝』(水声社)がある。『青ひげ夫人と秘密の部屋──「見たな」の文学史』(光文社)で第79回日本推理作家協会賞受賞(評論・研究部門)。