蛙の歌はだれのものか
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グリム兄弟の『子どもと家庭のメルヒェン集』の顔、第1巻(初版1812)冒頭の第1話(KHM1)「蛙の王さま、あるいは鉄のハインリヒ」。数年前、好意を持っていた相手が好意を返してきた途端に冷める心理を指す「蛙化現象」というネットスラングが流行ったとき、この話が一瞬脚光を浴びた。もっとも元ネタの王女のほうはむしろ逆で、嫌悪していた蛙が王子に変わった途端ほだされるのだから、現象としては逆方向なんだけど。
でもこの話には妙な尻尾がついている。すべてが解決したあと、王子の従者「鉄のハインリヒ」が登場し、主人が蛙だったあいだ胸が張り裂けないよう心臓にはめていた3本の鉄の箍(たが)が、ばきっ、ばきっと音を立てて割れる。蛙の話はもう終わっているのに、最後に別の話が縫いつけられているみたいだ。なぜこんな構成なのか。グリム自身がつけた註を読むと、答えが見えてくる。
「ドイツ最古」の註
註でグリムは、この話を「ドイツ最古にして最も美しいメルヒェンのひとつ」と断言し、16世紀の詩人ロレンハーゲンが擬似英雄詩『フロッシュモイゼラー』(1595)のなかで「鉄のハインリヒ」をドイツの家庭のお話(ハウスメルヒェン)として挙げている、と主張した。口承の証拠というわけだ。
ところが原文を確認すると、事情がまるで違う。ロレンハーゲンの序文は「比喩や寓話で真実を語るのは古来正当な方法だ」と論じる文脈で、聖書やイソップ、中世物語詩『狐ライネケ』と並べて〈鉄のハインリヒの話〉という題目を挙げているにすぎない。蛙も、心臓も、箍も、ひとことも出てこない。内容説明もない。題目が列挙されているだけだ。
それを「蛙の王さま」に結びつけたのはグリムで、根拠は『フロッシュモイゼラー』本体に蛙の王が出てくるという一点のみ。『フロッシュモイゼラー』本体は動物寓話、KHM1は人間が主役の異類婿譚。ジャンルも内容も無関係だ。これはもう読解ではなく創作だ。
スコットランドの蛙──レイドン
では蛙の話そのものはどこから来たのか。グリムは続けて、スコットランドにも同種の話があるとして、ジョン・レイドンの記述を引く。レイドンはウォルター・スコットを中心とするエディンバラの文人グループ、いわゆるスコットサークルの主力メンバーだった。古謡やバラッドを収集し、スコットランドの過去を文学的に掘り起こそうとした、いわば民族的ロマン主義の運動体だ。
レイドンはその一員として、中世スコットランドの散文『スコットランドの嘆き』(1549)の校訂版(1801)を出した人物だ。その本文には〈世界の果の狼の話〉という題目だけが、ほかの題目の列挙のなかに紛れて登場している。レイドンはそこに註をつけ、「これは失われたロマンスが口承で断片化したものだ」として、ある物語を書きこんだ。継母に泉へ水汲みにやられた娘のところへ蛙があらわれ、困難な水汲みを助ける代わりに婚約を迫る。真夜中に蛙が扉を叩き、約束どおり中へ入れろと求める——そして蛙の歌が2番まで引かれる。その2番が、グリムの話で蛙の王さまが姫に歌いかける歌とほぼ同じなのだ。
ここでも構図はロレンハーゲンと同じだ。『嘆き』本文に蛙の王子を想起させる要素はない。題目だけの話に、レイドンが証拠なしで特定のストーリーを接ぎ木している。しかも彼は「耳で聴いたバラッドの要約」という体裁をとった。ほんとうに聴いたのか、それとも創作か。口承という装いは、文言の本当の由来を隠してくれる。便利な煙幕だ。
もうひとつ上流──グレーター
ところが、その歌にはもうひとつ上流があった。レイドンの註より7年前、1794年。ドイツの北欧文学研究者グレーターが、自ら編む学術誌《ブラグール》に〈三人の王女と蛙に変えられた王子が出てくる乳母のお話〔アンメンメルヒェン〕〉から引いたという詩句を載せている。それがグリムの蛙の歌と、表記の違いを除いて一字一句同じだった。
ここで念を押しておきたい。グレーターも、話の題目にしか触れていない。彼が書いたのは詩句と、その出どころとしての〈三人の王女と蛙に変えられた王子の話〉という呼び名だけだ。物語がどんな筋なのか、どこで知ったのか、地域も頻度も分布も、彼はなにも書いていない。つまり『フロッシュモイゼラー』の〈鉄のハインリヒの話〉、『嘆き』の〈世界の果の狼の話〉、《ブラグール》の〈蛙に変えられた王子の話〉——3つとも、題目だけがあって中身が不明、という点でそっくりなのだ。これらがKHM1の存在した証拠になりようがないのは、そのためだ。
フランス妖精譚という水脈
それでも手がかりはある。〈三人の王女〉という枠組も、王子が異類に変えられて解呪されるモティーフも、じつは100年前のフランス妖精譚、とりわけドーノワ男爵夫人マリー=カトリーヌ・ル・ジュメル・ド・バルヌヴィルの作品の定番だった。ドーノワは17世紀末パリのサロンで活躍した作家で、「妖精譚」(conte de fée、おとぎ話とも訳される)という言葉そのものを世に広めた、いわばこのジャンルの女王だ。現役作家時代から英語・ドイツ語に訳され、18世紀をつうじて19世紀初頭まで、ペローよりずっと人気で、広く読まれていた。
ただし正確に言うと、ドーノワに「蛙に変えられた王子」そのものはない。あるのは、呪いで蛇や青い鳥や牡羊や白い猫に変えられた王子や王女たち——「緑の大蛇」「青い鳥」「白い猫」など——であり、解呪されて人間に戻る筋書きだ。そして別系統に、主人公を助ける蛙がじつは妖精の変身した姿だった、という「恵み深い蛙」(1698)がある。
「変えられた王子」と「蛙に変身した助力者」は、ドーノワではべつべつの引き出しに入っていた。それをひとつの蛙に合成したのがレイドンであり、さらに磨いたのがグリムだ。グレーターの記憶した歌も、フランス語原典→ドイツ語訳→印刷→読み語り、という書承の連鎖の末端だった可能性が高い。
ここでエディンバラが鍵になる。レイドンの盟友スコットが学んだ法曹図書館の貸出記録(1788-91)を調べると、いちばん借りられていたのは法律書でも歴史書でもなく、大陸で刊行中だったマイエール版《妖精譚文庫》全41巻だった。18世紀末にフランスで編まれた、ドーノワら先行作家の妖精譚を網羅した全41巻の叢書だ。
スコットランドの弁護士たちが、100年前のフランス妖精譚をヘビロテしていたのだ。スコット自身も1792年にこの図書館に登録し、いちばん最初に借りたのは同じ妖精譚叢書からの4冊だった。4冊一気にだ。レイドンを含むスコットサークルが、この水脈を共有の知的財産にしていたことは想像に難くない。レイドンの蛙王の話も、たどればこの水脈に行き着くのだろう。
唐突な1冊──『少年の魔法の角笛』
さて、ここで唐突に思える1冊を挟まなければならない。レイドンの註とグリムの本のあいだ、1808年に、ブレンターノとアルニムが編んだ詩華集『少年の魔法の角笛』が完結している。その第3巻に「ある子どものお話〔キンダーメルヒェン〕から」と題された詩があり、これがグレーターの蛙の歌と逐字的に一致するのだ。違いは行頭の組み方と大文字の使い方だけ。そして例によって、出どころは書かれていない。どこの? だれの? なし。グレーターの名も《ブラグール》の名も、ここにもない。
整理しよう。歌の出どころはグレーター、話の大筋はレイドン。そしてレイドンも、ブレンターノとアルニムの『角笛』も、グリムも、みなグレーターの《ブラグール》から歌を取りながら、その名を一度も出さなかった。5人がそろって出典を伏せたのだ。
握手の年に
ここからが、ほんとうにかわいそうな話だ。1812年、《ブラグール》最終巻で、グレーターはアルニムとブレンターノに「友情の握手」を差し出す。『角笛』への手放しの賛辞だ。
でもその満たされた盃に、一滴だけ苦いものを落とす。もうひとつだけ功績を加えてくれないか——出典の正確な表示を。口づてに採ったのなら、どこで、誰の口から聞いたのかも添えてほしい、と。
グレーターは「これは僕のだ」とは一言も言わない。ただ「どこから来たのか書いてくれ」とだけ、静かに頼む。頼んだ相手は、よりにもよって、彼のページにすでに刷られていた7行を、出どころを消して刷り直した当人たちだった。
そして同じ1812年のクリスマス、グリムの『子どもと家庭のメルヒェン集』の初版第1巻が出る。その第1話の本文に、グレーターの7行がまた立っていた。おまけに註には、その歌を英語に焼き直したレイドン版まで引かれている。本文と註のダブルパンチ。しかも名前が残るのは英訳者レイドンのほうで、源流のグレーターも《ブラグール》も、どこにもない。
「出どころを書いてくれよ」と書いたその年のうちに、グレーターはもう一度、前より念入りにやられたわけだ。註がひとつ落ちるたびに、活字で旅してきた一節は身もとを失い、「どこのだれのものでもない、むかしから伝わるお話」に化けていく。註の欠落は、うっかりではない。書物が口承に化けるときの、いちばん肝心な仕掛けなのだ。
グリムの接合と改変
グリムはこのふたつの素材を縫い合わせ、そのうえで手を入れた。継子いじめを省いた。レイドンでは「膝に乗せる」だった解呪を「壁に叩きつける」に変えた(グリムお得意の性的要素の検閲だ)。助力者と求愛者を兼ねていたレイドンの蛙を、「呪われた王子=物語の主人公」へと昇格させた。レイドンの蛙が王女に水を分けてやる側だったのに対し、グリムの蛙は王女に解呪してもらわなければならない側になった。物語の重心が蛙へ移る。これはもう『美女と野獣』だ。
そして、レイドンにもドーノワにも存在しない鉄のハインリヒを最後に接ぎ足した。ストーリー上の機能はない。あの盲腸のような挿話は、「わが版はフランス産おとぎ話の二番煎じではない、独自の物語だ」と示すための、差別化の装置だったのだ。
逆算された「末の」
最後に、小さくて決定的な証拠を。グレーターの詩句のなかで、蛙は王女を〈末のお姫さま〉と呼ぶ。ところが初版・第2版(1819)のKHM1では、王女はただ〈ひとりのお姫さま〉として登場する。姉妹はどこにも出てこない。なのに蛙だけが〈末の〉と呼びかける。姉はいない。
これは典型的な「遺存モティーフ」(blind motif)だ。もとのヴァージョンではちゃんと意味を持っていた要素が、派生したヴァージョンに移植されたとき、文脈を失って宙に浮いてしまう。なぜそれが残っているのか、移した本人にも説明できない断片。その存在は、伝えた人が元の話をちゃんと理解していなかったか、一部を忘れたままコピーしたことの、強力な証拠になる。
〈末の〉がそれだ。グレーターの記述では〈三人の王女〉の末娘という、ちゃんと意味のある呼びかけだった。それをレイドンは、ヒロインに姉妹を用意しなかったので〈末の〉の詞ごとカットした。ところがグリムは、話の大筋はレイドンから採りながら、歌だけはレイドンの元ネタであるグレーター版をそのまま貼りつけた。そのとき〈末の〉を削り忘れた。だから姉のいない王女に〈末の〉だけが、トマソンのように貼りついて残った。
グリムはずっとあとの第3版(1837)で、ようやく気づいたのか、冒頭に「娘たちがいて、末娘がとりわけ美しかった」と書き足す。形容が先にあって、設定があとから追いついたのだ。
遺存モティーフは、方向を示す矢印だ。それが指しているのは、ミームの流れてきた方向、川上だ。そして川上には、口承の霧ではなく、1794年の学術誌に刷られた活字が、はっきりと立っている。
(つづく)