美徳という「内面の美しさ」、それが消滅した「外見至上主義」社会——女性を主人公とする感傷小説にみる恋愛とは何か(下)
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内面の美しさこそが人間の価値であるという新しい道徳感情の組織化
では、「外見」がどのように書かれているのかに注目しながら、女性が主人公の感傷小説(センチメンタル・ノベル)において「恋愛」がどのようなものとしてあったのかを明らかにしていこう。
まず、感傷小説の女性主人公は、他の人よりも際立って美しい人物であるという特徴がある。その美しさは、例えば『クラリッサ』では次のように記述されている。顔立ちや体型(shape, proportion)が整っており、目鼻立ちの一つ一つに生気を与える知性の存在を保証するような威厳(dignity)が宿っていて、それは人々に自然な尊敬の念をわき起こさせるようなものだったのだ、と。外見的な美しさと内面的な美しさとそれらがもたらす周囲の人々の反応の3つが、流れるように連続的に捉えられている(以下は原文をなるべく多く引きつつまとめた文章で、親友のアナ・ハウが愛情を込めてクラリッサを記述した箇所である。原文が過去形になっているのは、クラリッサが死んでしまった後の手紙で書かれたことだからである)。
「あの方の体つき(shape)は大変に優美(fine)で、見事に均整が取れ(her proportion so exact)、目鼻立ちは非常に整っておりましたし(her features so regular)、顔色はとても美しく(her complexion so lovely)、そして容姿全体と立ち居振舞いが際立って魅力に富むものでしたから(her whole person and manner so distinguishedly charming)、あの方が動き出しますと、きっと称賛の声が上がりましたし、一人残らず皆さんから目で後を追いかけられることになったのです(she could not move without being admired and followed by the eyes of every one)」。また、「中肉中背というよりは、むしろ背の高い方で、目鼻立ちの一つ一つに生気を与える知性の存在を保証いたしますような威厳が、あの方の表情や態度には備わっておりました(she had a dignity in her aspect and air, that bespoke the mind that animated every feature)」とし、「この生来の威厳(native dignity)と呼んで構わないもの」のために、クラリッサが現れた途端、知らぬうちに人々の心には尊敬の念(reverence)が満たされていくのですが、人々はそれをどう説明したら良いかわからないまま畏怖の念を持ったり(awed)や劣等感(inferiority)を持ったりしてしまうので、そうして公正な心や態度を備えた(rectitude of mind and manners)人間に対して難癖をつけたりしてしまいがちである。そのため「クラリッサの高貴なお顔立ち(noble aspect)に誇りの高さと優越感(pride and superiority)を示すものとして、難癖がつけられる」のを耳にしたこともあるけれども、クラリッサはプライドの高い人とは程遠かったのだ、というのがハウの説明である。クラリッサは常々「他のすべての美質(grace)を好ましいものにしております美質は謙虚さ(humility)なのです」と述べており、おごらない謙虚さが彼女の最大の特徴だったとハウは力説している(第8巻, 「手紙四十九」)。
外見の美しさを丁寧に描きつつ、このような外見によって高慢になることなく、謙虚で繊細で他人に優しいながらも一貫して美徳を追求し続けたクラリッサの生き方こそが、クラリッサの真のすばらしさなのだと強調するのが、この時代の道徳感情(moral sentiments)の組織のされ方である。
『パミラ』の主人公パミラの美しさについての描写も、基本的に同型である(以下は、物語の序盤で示されているパミラの美しさについての記述箇所であり、パミラの主人B氏の姉にあたるデイヴァーズ夫人が、パメラに対して次のように述べたと、パミラが手紙で両親に報告している)。
お前はたいへんきれいで、みんなの評判がいい、実際、誰もがお前のことを好きだ、だから男連中(fellows)は遠ざけておいた方がいい……そうすれば、その男連中からもかえって評判がよくなる(She told me I was a pretty wench, and that everybody gave me a very good character, and loved me ; and bid me take care to keep the fellows at a distance; and said, that I might do, and be more valued for it, even by themselves.)(「手紙その四」, bidはママ)
パミラの「外見が美しい」ことと「みんながパミラに良い性格(キャラクター)を見出していること」と「みんながパメラを愛していること」が、シンプルなandでつなげられて、数珠つなぎに述べられている。
このように、外見の良さと内面の良さとそれが周囲の人々に引き起こす感情は、どこまでが誰の責任なのかも何が原因で結果なのかもよくわからないまま渾然一体としてある。
だからこそ、そのような人間の魅力を、社会的に一体どう扱えばいいのかはいつの時代にも問題になってくるわけだが、この時代のテクストから読み取れる注目すべきは「内面の美しさの方が価値が高い」という道徳感情が働く場面では、内面と外見が対比的に述べられて区別されているということだろう。
例えば、主人B氏の社交仲間との会話の中で、B氏の召使いの一人(=パミラ)がとても美しいと評判だと話題になり、美しいのであれば「B氏がその方に特別のご好意をお示しになっても当然ですわね」とご婦人方に冷やかされた場面で、B氏は皆と一緒に愛想笑いをしつつ「(パミラは)美しい美しいと評判ですが……(中略)……彼女の最も優れたところは、つつましくて(humble)礼儀正しく(courteous)、忠実で(faithful)、召使い仲間がみんな彼女のことを大事にしているということ(she makes all her fellow-servants love her)」なのです、と述べている(「手紙その二十三」)。外見の美しさとは異なる、内面的な良さこそがパミラの優れているところなのだという道徳的正義を示してみせることで、社交仲間からの冷やかしを解除しようとするレトリックが発揮されている。
このように、内面の方が重要という道徳的規範が発動する場面では、内面と外見は区別できるかのように語られる。ここでの「内面(美徳, virtue)」は、ある種の独特な形をしている。
控えめで(humble)、謙虚であり(humility)、正直で(honesty)、信心深く(faithful)、 純真(innocent、性的な潔癖さも意味する)で、他人に対しても優しくて(sensible)、性的純潔(purity)が正義であると信じており、さらに召使いの場合には勤勉(industrious)であるといったことが、評価される要素である。これに対して、美徳に反すると捉えられるのは、虚栄(vanity)やうぬぼれ(conceit)、ナルシシズム、自信満々・高慢(pride)であり、これらは激しい道徳的反感の対象になっている。
現代では、ある程度の「謙虚さ」とある程度の「プライド」を時と場に適応させながらバランスよく持ち続けることが求められていることもあって、250年前の感傷小説で前提されているような美徳(virtue)と自信(pride)は、本当に区別できるようなものなのだろうか? と疑問に思ったりもするのだが、これらが区別される意味空間で成り立っていたのが美徳という「内面の美しさ」である。
この道徳的価値のヒエラルキーである内面の美しさの方が外見よりも重要という原則は、パミラの物語の序盤でも、父からのパメラへの手紙という形で、かなり明瞭に掲げられている。
きれいだ(pretty)などと言われても調子づいてはダメだ。お前がそういうお前を作ったわけではないのだから、賞賛はお前に向けられたものではない(you did not make yourself, and so can have no praise due to you for it)。貞節を守り善良であること、それだけが美しさを作るのだ(It is virtue and goodness only, that make the true beauty)。パミラよ、よく覚えておいてほしい。(「手紙その八」)
美徳を心がけることにこそ「本当の美しさ(true beauty)」があるというのは、この時期の感傷小説ですでに明記されており、その後19世紀のあいだ中、西洋(ヴィクトリアン性道徳の時代)の「人間の美しさ」についての確固たる判断基準となった。
近代とは「内面の発見」であるとはよく言われることだが、感傷小説で発見され構築されているのは、人間の本当の美しさ(true beauty)としての「内面の美しさ」である。
この「内面の美しさ(美徳)」という道徳感情は、250年後の現代では大幅に変化しており、当時のような形では残っていない。感傷小説で語られたような「内面の美しさ(美徳)」という意味の地平が消滅し、「外見の美しさ」だけが人間の美しさとして残った社会が、「外見至上主義(ルッキズム)」と呼ばれるものになるのは、ある意味で当然と言えば当然だろう。
かつてあったという記憶だけが残っている、今はなき「美徳」とは何だったのか。それを考えることは、ルッキズム社会という現代を考えるための重要な碇(思考が漂流してしまわないよう一定の場所に留めておくための手綱のようなもの)になる。
そこで、ルッキズムについて考えるために、美徳という理念を成り立たせていた意味構造はどのようなものだったのかを整理しながら、もう少し美徳について見ていこう。
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「内面重視(美徳)」規範の社会的広がり
内面の美しさこそが人間の美しさであるという内面重視(美徳)規範は、自分自身に向けられると、自己陶冶(とうや)する主体を生み出す。自己陶冶とはより良い自分であることを目指して自己研鑽を積むことである。手紙をたくさん書いて日々自己省察を続けるパミラやクラリッサは、まさにそのような主体である。
同時に、内面重視(美徳)規範が他者に向けられ、それによる相互評価、まなざしや会話のやりとり、愛の対象選択がなされることで、内面規範は社会的に確かなものとして広がり強化されていく。
この時期の「美徳」とは、おもに性的な立ちふるまいによって判断できるようなものとしてあった。女性の美徳は、男性との「ふしだらな」関係を持ったという噂の対象になったことがないという経歴(「身を清く保っていること」)から、女性が男性から褒め言葉を受けた時には赤面して慎ましく応答するといった身体化された反応のあり方にまで及び、それらに基づいて美徳が高いかどうかが判断された。美徳は、抽象的な理念というよりも、かなり具体的な日常の性に関するふるまいに関する具体的態度によって判断されるものであり、その女性の内面の機微などを詳しくは知らない第三者からも大きなブレ幅なしに判断できるようなものとしてあった。
また、この「内面の美しさ(美徳)」という基準は、特に女性の場合には、どこに行っても適用される道徳基準であった。家の中でも友人との社交的な会話の中でも教会でも、彼女たちが行くどのような社会的な場でも、美徳を保っていることが彼女たちの価値を支えた。これは、その道徳基準さえ守っていれば、一定の社会的地位を保って生きていけるが、反対に自分の貞操を守りきれずその評価基準での評判を落としてしまうと、あらゆる社会的場面において、自分の社会的価値が引き下げられてしまうようなものとしてあり、こと「貞操」や「処女」に関しては挽回の余地はない。
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「美しくないから愛せない」
パミラやクラリッサらは、このような内面重視(美徳)基準を内面化し体現する人物である。したがって、彼女たちが求愛者を愛せるかどうかを左右する最終的な要素は、徹底的に、相手の内面の美しさになっている。このことは、求愛者の貴族男性(B氏)を最終的に愛するようになるパミラと、最後までその貴族男性(ラブレース)を愛することができなかったクラリッサという、異なる結末を迎えた二つの物語の双方で確認できる共通点だ。
例えば、B氏がパミラを監禁している屋敷から去っていく姿を、窓から見送るパミラは、次のように述べている(これは、パミラが主人B氏による膨大な財産を贈与するから愛人になれとする「愛人契約」を、バッサリ断った直後の描写である。現代の心理学的感覚からすると、この段階のパミラはストックホルム症候群(すなわち誘拐や監禁などの極限状態により人質が犯人に同調し、好意や信頼を抱く心理現象)の状態にあるよね……ということが気になり、そうするともう読めなくなってくるので、ひとまずここではテクストだけを読んでほしい)。
立派ないでたちでした(he was charmingly dressed)。確かに彼は、すてきな美男子(handsome fine gentleman)だわ!――どうして心が外見のようによくないのかしら!(What pity his heart is not as good as his appearance!)それにしても、私、彼のことを憎めないのはなぜなのかしら。――まあ、こんなことを書いているのを、お父さんお母さんがご覧になっても心配しないでね。彼のことを好きになる、なんてありえないもの。その邪悪な心のせいで、言ってみれば全てオジャンだわ(it is impossible I should love him; for his vices all ugly him over, as I may say)」(第1巻, 「日曜日の朝」)
パミラがB氏を愛することができないのは、彼の「心(heart)」は彼の「外見(appearance)」のように良く(good)はなく、彼の悪徳(vice)が彼を醜くしている(ugly)からである。
この後パミラがB氏を愛するようになるのだが、そのきっかけはB氏がパミラに対して心からの愛情を表現して、結婚を申し込んだからである。これによって、B氏は悪徳を克服し、優しい夫になることができた(という論理になっている)。B氏はもともと「放蕩者(libertine)」ではなく、これまでにレイプなどの性暴力事件で訴えられるといった問題も起こしていないことも何度か強調されており、それらが総合的に作用して、パミラは今までのB氏の攻撃行動を許し、彼を愛するという結果に至ったのだと考えられる。
それに対して、クラリッサは、最後までラブレースを愛することはできなかった。ラブレースは放蕩者であることを自称し、これまでどんな女性も手玉に取ってきたと友人に誇り、今回も「美徳の化身と言われるクラリッサをものにして見せよう、ご覧あれ」と書き送るような「自信たっぷり」の人物であった。クラリッサがラブレースを愛することができなかった理由は、「見た目は天使でも、心は真っ黒」だからである。
内面の美しさこそが、求愛者を愛せるか否かの基準になっており、外見の美しさではない。これが女性を主人公とする感傷小説の論理である。
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美徳規範は外見美享受を禁欲させる
感傷小説の女性たちが美徳規範を主体的に引き受けた理由は、純潔が道徳的に価値の高いことであり純潔が尊敬されるべきことであるという価値規範が、男性の性的な横暴さに対抗する力を女性たちに授けたからである。
しかし、これはそれなりに大きな対価を支払う必要のあるものであった。相手の外見の美しさを楽しんだり、うっとりしたりするという快い経験を恥じ、禁欲し、自己点検の対象にしなければならないという対価である。内面の美しさにこそ人間の価値があるという価値ヒエラルキーを守り強めていこうという努力の過程において、外見の美しさに惹かれることは違反行為だからだ。
感傷小説の女性主人公が感傷的な恋愛感情に浸ったり、誰かの美しさに感動して情熱的な愛情を高めていったりする様子はほとんど描かれていない。クラリッサはラブレースが人々から「ハンサム」だと言われているということは何度か言及しているが、クラリッサ自身の記述は「ご自分のご容姿がお気に入りの様子なので」とか「自信たっぷりで」などのように否定的な表現が多い。このようなクラリッサの態度を見ていると、外見に惹かれるという経験に対しては反射的な警戒心や、もしかしたら罪悪感のようなものさえ伴っていたのではないかと思われるほどである。
このため、感傷小説の女性主人公たちは、男性ほど美的恋愛を享受することができなかった。
彼女たちにとって恋愛とは、誰かの美しさに感動して恋愛感情を持ったり深めていったりするようなものではない。むしろ、恋愛とは、他者のそのような放蕩的な(性的美徳の低い)感情を向けられることで巻き込まれていくものである。そして、そこで次々と降りかかる、性的嫌がらせや精神的嫌がらせ、誘拐、監禁、日々のレイプの恐怖の中でも正気を保って自己の性的純潔を守り通すという、男性による性的暴力との戦い、それが女性主人公の感傷小説で描かれている「恋愛」である。
パミラの父も「貞操は命よりも大事なものだと思え」とパミラに書き送っているし、クラリッサはレイプをされたことで死への道を歩むことになった。このように、自分の性的貞操を守ることは彼女たちにとって、文字通り「命をかけた」戦いであった。
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美的恋愛をめぐるジェンダー不平等とそのどすぐろさ
以上を踏まえると、美的恋愛とは男性の経験に即した恋愛定義であり、美的恋愛はジェンダー不平等に享受されていたと言う必要がありそうである。
男性が主人公の感傷小説では、恋愛とは、どこまでも優しい共感に溢れた感情をセンチメンタルに味わう場として描かれていた。素直になって自分の感情に向き合い、相手への愛を自覚し、相手への優しい温かな気持ちに基づいて、相手の美しさを賛美することが「恋愛」であるとされていた。
今回の女性を主人公とする感傷小説の検討で分かったのは、男性がこのような美的恋愛を享受できたのは、女性は外見だけでなく、内面の美しさも備えていたからである。その彼女たちに恋愛感情を持つ人々は、まず外見の美しさに驚き、その人を目で追うようになり、関心を高め、彼女に会うたびにそのさまざまな内面の美しさも発見することができたので、彼女の美しさへの感動を情熱的に高めていくことができた。
これに対して、男性の内面(美徳)は女性よりも「美しく」なかった。マスターベーションをも性的悪徳だと考えるこの時代の意味空間では、「内面の美しさ」において男性は女性に劣ると考えられていた。その分、女性は男性のような美的恋愛を享受することができなかった。そもそも、女性を主要な語り手とする感傷小説においては、恋愛とは性的闘争の場として捉えられていた。
個人的にグロテスクだとしか言いようがないと感じているのは、女性にとっては、自分の人生を賭けた命懸けの戦いの場としてあった「恋愛」が、男性によっては、限りなく優しく共感的な感情で溢れた美しい感情や相手の美しさを享受する美的な経験の場として描かれてきたということである。
必死に逃げまどう少女の姿を見て、美しいと興奮しながら追いかける男性。それを「恋愛」と呼ぶという恋愛理解は性暴力を組み込んだものであり、性暴力を常態化して正当化しかねないという点で大きな問題がある。だが、このような恋愛理解は、これまでの歴史の中で確実に存在してきた。今回見てきたような女性が誘拐され軟禁されて求愛されるというタイプの小説は「誘惑小説」と呼ばれてジャンル化されてきたし、この感傷小説でも確かに刻印されている。
ラブレースはクラリッサを強姦しようとして失敗した夜の後、翌朝クラリッサの様子を見に部屋まで行ったら、クラリッサがベッドに突っ伏して泣いており、その姿がえもいわれぬ美しさだったとか、監禁中のクラリッサがまたもや家から逃げようとしたので手下の者たちを使って物理的暴力を用いて、部屋に連れ戻したのだが、その時のクラリッサのひどく傷ついている様子がたまらなく美しかったと、友人に書き送っている。
美しさ(美的快楽)を求める情熱は、支配欲や所有欲と絡み合うとき、どすぐろい深淵の口を開くのだということに気づく。
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現代の美的恋愛をどう捉えるか
女性主人公の感傷小説を読んできた結果、見えてきたのは、美的恋愛は男性中心的な恋愛定義であり、女性は男性ほど美的恋愛を享受できなかったということである。
これに対して、現代では、女性たちの間でも男性の外見的魅力を楽しむカルチャーが広がっており、現在も拡大中である。ザッと日本の女性カルチャーの経緯だけを見ても、1970年代の少女マンガブーム以降、美しい男性の外見を美的・性的に楽しむ文化は着実に定着した。近年ではありとあらゆる種類の実写BLが作られて深夜帯地上波でも放映されており、将来有望な若手俳優の新たな登竜門となっている。
このような現代の風景は一見すると、ようやく女性たちもまた美的恋愛を平等に楽しめるようになったのだというふうに見えるかもしれない。性規範(内面の美しさ(美徳)を重視する性規範)の変化と経済力の獲得を基盤とする、性的領域におけるジェンダー平等の達成だと。
ただし、250年前と現在とでは「内面の美しさ」という意味の地平のあり方が決定的に異なっている。かつて社会を覆うようにして存在していた「美徳」という道徳的基準は断片化する形で消失し、外見の美しさだけが、人間の美しさを評価する基準として残り、形を変えてその影響力を強めている。ルッキズムとは、このような意味構造によって成り立っているものである。
ルッキズム批判の高まりの中で、安易に他者の外見に対する評価を口にすべきでないということが新たな社会的ルールとして浮上してきているのも、このような内面的美徳という地平の消失という変化によるものである。
ルッキズムについて考えるとは、このような人間の美しさや人間の価値についての意味構造の変化を考えることである。次回、さらに詳しく論じていこう。
文献
▪️サミュエル・リチャードソン, 2011, 『パミラ、あるいは淑徳の報い』(原田範行訳, 研究社)
▪️サミュエル・リチャードソン, 2015,『クラリッサ』(渡辺洋訳, https://eprints.lib.hokudai.ac.jp/repo/huscap/all/76756/ )
▪️テリー・イーグルトン『クラリッサの陵辱——エクリチュール、セクシュアリティー、階級闘争』岩波書店.
▪️レスリー・A. フィードラー, 1989, 『アメリカ小説における愛と死——アメリカ文学の原型 1 』 (佐伯彰一・行方昭夫・ 井上謙治・入江隆則訳, 新潮社)