ドラッグストア──尊厳と忘却
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はじめに
何かを買う必要があったはずなのに、思い出せない。帰ってから気づく。
ドラッグストアの話である。ドラッグストアというお店の経験は、お店を出てしまった後に気づく何かでもある。
私たちは何を買い忘れるのだろうか。私たちは、生活のための何かを買い忘れる。
それは、ゴミ袋である。洗剤、お掃除グッズ、といった生活をきれいに整えるのに必要な製品である。子育てや介護、ペットと暮らす人にとって必要なものである。そしてもちろん、医薬品も。それだけではなく、スーパーと共通する食品やジュースやビールなども買い忘れるかもしれない。
名エッセイストの武田砂鉄は「買い忘れる」という文章のなかでこう言う。
ドラッグストアで買うものって、「今日買わなくてもいいもの」ばかりだ。洗顔クリーム・地域指定のゴミ袋・歯ブラシ・肩こり解消用の湿布を買おうと店に入るのだが、レジに向かう時には「洗顔クリーム・ゴミ袋・歯ブラシ・目薬」がカゴに入っている。あれ、なんか忘れている気がすると思いながら店を出て、三〇秒くらい歩いた時点で「あっ、湿布買ってないじゃん」と気づく。(武田 2026, 36-37)
適切なゴミ袋は、スーパーには売っていないことが多い。おむつを入れるのに適した二〇リットルのゴミ袋は、そこらのスーパーではなく、ドラッグストアでないと。さらに、あの特定の——マツキヨ、ウエルシア、スギ薬局、ココカラファイン——でないと売っていない。ドラッグストアは、チェーンの中でも、その品揃えの違いが「死活問題」にかかわるような核心的に「生活」に直結するお店なのである。
でも、なぜ忘れるのだろうか。なぜ私たちは、あんなにも生活に必要なアイテムたちを買い忘れるのだろうか。ゴミ袋がなくなりそうなときのことを考える。そのときは、買いに行かねばならない、と気づく。だが、その後すぐ買いに行くわけではない。必要を思い出すときと、買いに行くときがずれる。
ここで一つのことに気づく。私たちがドラッグストアに行くとき、ドラッグストアに行くために行くことは少ないということだ。私たちは、何かのついでにドラッグストアに寄る。隣接する病院の処方箋を持って併設の調剤薬局で薬をもらう。ショッピングモールで遊んだ帰りに寄る。こうしたついでに訪れる場所であるがゆえに、ドラッグストアで何を買うのかを私たちは急に思い出さなければならない。だが、ゴミ袋がなくなりかけていたことについてそこで思い出すことはできなかったりする。武田も「「今日、絶対に、あのドラッグストアであれを買わなければ!」という強い意思で向かうわけではない。スーパーに行く前、「今日は焼肉だから、牛肉とタレを忘れないようにしなきゃ」と考えた場合、さすがに牛肉とタレを忘れはしない。だが、ドラッグストアの場合、いつだって買えるもんね、という意識から、入店前に「あれ買うぞ」と決意していたものを忘れて出てくる日があまりに多い」(武田 2026, 36)。
さらに武田は、こうした、忘れさせる仕組みがドラッグストアの増殖の理由ではないか、というおもしろい推論をしていく。忘れてしまうという「その感じこそが、ありすぎているのにまだまだ増えるドラッグストア業界の特性なのではないか。こちらの責任において、また来させるのだ」(武田 2026, 36)。
ついでに寄るお店としてのドラッグストア。ドラッグストアというお店で私たちは何を考えるのだろうか。あるいは、私たちは何を忘れているのだろうか。
「綺麗さ」を作り出す
ドラッグストアでは、私たちが清潔についてどのように考えているか、すなわち「清潔観」の更新が日々行われている。汚さときれいさの境界が、ドラッグストアの製品たちによって、線引され直そうとしているのだ。
私たちがドラッグストアを歩いていると、少し雑貨店を歩いていると似た気持ちになることがある。それは、生活が便利になりそう、という気持ちだ。
例えば、私が出会ったドラッグストアの製品に、「洗面ボウルクリーナー」がある。これは私にとって、近年もっとも魅力的なお掃除プロダクトだ。洗面ボウルを掃除するために様々なアイテムがある。ブラシがあったりするが、大問題は、乾かす場所はどこなのかである。乾かす場所はないのでカビてしまったりする。そこで、この製品はカビとは無縁になり、さらに手を汚さずに洗浄成分を出すことができる。とても便利である。
だが、それまで、私は洗面ボウルのきれいさについて、じっくりと考えたことがなかった。もっと言い換えれば、洗面ボウルのきれいさを「美的に美しいもの」として感じる感性が働いていなかった。だが、この洗面ボウルクリーナーを使うと、私は、使った後のピカピカ、ツルツルとした「美しく白い」洗面器に満足感を覚え、美しいと美的判断する。そして、その状態を理想として、「あれ、そろそろきれいにしないとな、いま「汚れているな」」と、これまでネガティブな美的判断をするようになる。
つまり、洗面ボウルクリーナーは、ただたんに洗面ボウルをきれいにしてくれる掃除道具であるだけではなく、洗面ボウルの「綺麗さ=美しさ」と「汚さ=醜さ」の美的判断を私の中に生み出した、一つの表現メディアであり、過剰に言えば芸術作品なのである。洗面ボウルクリーナーは、洗面ボウルにまつわる美的判断をなかったところに作り出す。なぜ掃除して気づくのか。なぜなら、終えた瞬間がもっとも美しいのが掃除だからだ。それゆえ、自分自身で掃除をすることで始めて、その美しさに気づくことができるのである。
美学者のトーマス・レディは、有名な論文「日常の表面的な美的性質たち:「整頓」「乱雑」「綺麗」「汚さ」」において、これまで美学の中では美的性質とはみなされていなかったような「整頓」「乱雑」「綺麗」「汚さ」が美的性質であることを示そうとしている(Leddy 1995)。私もレディの指摘に賛成する。
こうした美的性質は、確かに、一見したところは他の美的性質とは異なるようにみえる。他の美的性質は、それを感じる人によってかなり美的判断が変わりうるものだったり、一定の知識(例えば美術史など)が必要になる。それに対して、部屋の「綺麗さ」や「汚さ」は一見したところは誰もが同じ結論に至るのではないか、と思われるかもしれない。しかし、こうした性質もまた、人によってずいぶん異なるものであり、各々の美的判断能力を行使しているのだ。
共同生活を送るどの家庭にも、他の人より散らかしがちな同居人がいるものだ。それでもその人は、自分は整頓されていると主張するかもしれない。他の人たちは、その人に一定の洞察力が欠けている、散らかりやごみに対して鈍感だと言うかもしれない。また、汚れや不潔さ、垢に対する感受性が欠けている人もいるだろう。〔……〕さらに、整頓さと清潔さ、あるいは清潔さ(片付ける傾向)は、しばしば趣味の尺度として用いられる。整頓や清潔さを重視する人は、そうでない人を「趣味がない」と見なすことが多い。皮肉なことに、自宅やオフィス、机、身だしなみにおいてある程度の散らかりを保つことを重視する人々は、他者の整頓や清潔さを、むしろ趣味のなさの表れと見なすことが多い。(Leddy 1995, 263)
まさにレディの言うように、私たちの「綺麗さ」や「汚さ」に関する美的判断は、かなりのバリエーションがあるのだ(このあたりのより体系的な議論は、青田(2024)の『「ふつうの暮らし」を美学する』を参照のこと)。
だが、洗面ボウルをきれいにする必要はない。もちろん、ものすごくカビが生えていたりしたら衛生的には問題はあるだろうが、ちょっと汚いくらいなら衛生的には問題ないだろう。しなくてもよい家事なのだ。私が洗面ボウルクリーナーを使うことは、衛生的にどうこう、ということもなくはないけれど、それよりも綺麗になるという美的判断の気持ちよさに向けて行っているのである。それゆえ、掃除というのは、美的表現の芸術なのだ。
しなくてもよい家事について考える。究極的に言えばしなくてもよいのだが、掃除が趣味になるような瞬間が誕生している。この生活の掃除作業の趣味化は、一方では楽しいことではある。だが、掃除の搾取と言えることももちろん起きうるだろう。さらに楽しく、いままで掃除していないようなところを掃除するような製品を開発することで、人々は楽しく掃除するようになってしまう。例えば、玄関前の掃除は面倒でたまにしかやらないが、これがもっと楽しくなる製品が誕生すると、その製品を使う必要が生まれ、掃除が行われてしまうようになるだろう。
それは、もしかしたら環境に悪いかもしれないし、生活の時間が掃除に取られるかもしれない。それゆえ、掃除のたのしさの押し引きのようなものをドラッグストアを歩いていると感じるのだ。可処分掃除時間の押し引きと言えるだろうか。家がよりきれいになること。衛生的に整うということ。たんに便利さの問題なだけではなく、ここには、美的なものにまつわる駆け引きが生まれているのだ。
ドラッグストアに並べられているお掃除用品が「これが美しい/醜い」美的判断および美的性質そのものを生み出す。このことは、私たちがドラッグストアについでに寄ることにリンクしているだろう。私たちは、「洗面ボウルを綺麗にしたいけれどいいアイテムはないだろうか」と思ってドラッグストアに行くというよりも、ドラッグストアに行く中で、徐々に、洗面ボウルについて何事かを考えるようになるのではないだろうか。
ここから、こうも思うのだ。ドラッグストアで何かを忘れるということは、それが、本質的には不必要なものだからだ。
そんなはずはないと私自身も思う。ゴミ袋がないと困る。歯磨き粉がないと困る。だが、すぐさま死ぬわけではない。どうにかこうにか、家にストックしているビニール袋に生ゴミを押し込んで出すことはできるかもしれない。とりあえず歯磨き粉なしで歯を磨こうとする。もちろん衛生的な問題が生じてくるかもしれない。
しかし、ドラッグストアのお店経験を際立たせている買い忘れの忘却性とは、生活における清潔さというものが、根源的には、趣味の範囲にあるものだからなのかもしれない。何が清潔で、美しいのか、何が汚れていて醜いのかという美的判断を支え、美的性質を作り出すためのアイテムが並んでいるのがドラッグストアだからなのだ。
「尊厳」を生み出す
だが同時に、この清潔さの趣味性というものは、私たちの「尊厳」と結びついている。汚い部屋——それが衛生的な問題になっていないとしても——に住んでいると、気が滅入ってくる。歯磨き粉を買い忘れて一生懸命絞り出していると、わびしさを感じる。私たちの清潔さは、私たちが感じる「尊厳」の感覚とも深くリンクしている(cf. Pols 2013)。
だが、この尊厳というのはいったい何なのだろうか。とても抽象的で雲を掴むようなモノにも思える。尊厳というのはしかし少なくとも、それが損なわれている、と感じられるものだったり、保たれている、と思うものだったりする。
ここで尊厳というのを、何か抽象的な人権や普遍的価値といったものから考えるのではなく、あくまで生活の中で感じる経験から捉え直してみたい。
私たちが家や私たちの身体を綺麗にするとき、私たちはどんな経験をするのだろうか。それは、見た目の綺麗さの美的経験だけではなく、その行為を介して、自分自身を大切にしているという経験をする。自分自身という存在への敬意を自分自身が払っているという感覚があるのではないか。例えば、私は掃除機を使って掃除をするとき、目の端にある髪の毛やホコリの吹き溜まり、料理の後の玉ねぎの皮の破片などが吸い込まれていくのを眺める。そのとき、私は、家を綺麗にしていると同時に、それによって、自己に対して配慮し、自分自身に対する尊敬を払おうとしているという感覚になる。それは掃除機を動かすという作業を自分がしながらも、そうしている当の自分に対して敬意を払うという不思議な二重の行為である。もっとプリミティブに言えば、爪を切るという行為にも、この掃除と敬意の二重の行為を見いだせる。自分の爪をある程度綺麗に切ることは、自分の身体に対する配慮を行っていることでもある(この議論はSaito(2025)ともリンクするが、私は、いったん私の経験にとどまろうと思う)。
もちろん、同時に、家や何らかの身体を綺麗にすることは、他人への、あるいは他者への敬意を払うことでもある。私は、家を綺麗にすることで、共に住んでいる人への敬意を少なからず払うことになるだろう。例えば、お風呂場のカビを自分はそこまで気にしていないとしても、その人が気にしているのなら「かびとりいっぱつ」という素晴らしいカビ取りアイテムを使って綺麗にする。そうするときに私は、自分だけではなく、その人に対する敬意を払い、その尊厳を何らかの意味で保つための力を発揮することになるのだ。子どもがいる人ならば、汗をかきやすく、いろいろなものに手を伸ばし、汚れやすい子どもの身体を綺麗に清拭してやることもある。子どもが大事だから清潔にしてやる。それは日常の言葉遣いからすると変かもしれないが、確かに敬意を払っている行為に他ならない。もちろん、敬意を払う対象は人間でなくともよい。植物の枯れた葉を取ってやったり、葉のホコリを払ったりすることもできるし、猫や犬のトイレが汚れていたら綺麗にしたりすることもあるだろう。
ドラッグストアにある品々は、見渡してみれば、みなすべて、それらを用いることで、絶対に必要であるかどうかはともかく、自他への敬意を払うための、すなわち、尊厳を生み出すためのアイテムになっているのだ。掃除用品、介護用品、赤ちゃん・子ども用品、台所用品、トイレ用品、ペット用品、健康のためのアイテムたち——。ドラッグストアはあまりにも雑多なカテゴリの商品が並んでいるように思える。だが、かなりの程度、それらの商品には一貫した志向性がある。ドラッグストアの商品は、尊厳に向かっていると言ってよい。そうした尊厳へのヴェクトルの中に、風邪薬を始めとする薬や手当のためのテープや包帯や綿棒を位置づけることは容易いだろう。
興味深いのは、ドラッグストアには、ドラコスたち、すなわち「コスメ」が数多く並んでいることである。その周辺には日焼け止めやシャンプーや、身だしなみを整えるためのアイテムが並んでいる。それらのアイテムと薬というのは、一見離れているようにみえるけれども、やはり一貫しているように思うのだ。とりわけ、ドラッグストアにあるコスメたちは、デパコス(デパートに並んでいる化粧品)や韓コス(韓国ブランドのコスメ)のような「ウキウキ」した感じは少ない。それらは、ある種かなりの程度、必要を充たすためのコスメであり、最低限の尊厳を保つためのアイテムであると言えるのではないか。だとするならば、ドラッグストアにあるコスメたちも含めて、私たちの日常生活における尊厳を生み出すための道具たちなのだと言える。
こうした尊厳を生み出すためのアイテムを揃えているドラッグストア。しかし、それにしては、ドラッグストアは何かしら「聖なるもの」の雰囲気を醸し出しているというわけでもないのが興味深い。第2回で論じたように、雑貨店というのは、聖なるものとつながっていた。ドラッグストアは見たところは雑貨店的な要素が「雑多なものが並んでいる」という点では共通してみられる。にもかかわらず、ドラッグストアに聖性を見出すことは、少なくとも私にはとても難しい。聖性のなさだけで言えば、ドラッグストアはスーパーマーケットとそれほど違わないようにも思えるのだ。
私たちが行う尊厳の生成のための掃除・配慮の活動は、より高みを目指すのではなく、マイナスをゼロにすること、フラットにすることを目指しているからではないか。つまり、尊厳というのは、汚れや混沌という明確な「不浄なるもの」を消し去り、否定することであり、その否定の先には、私たちの普通の日常が、俗なる日常がある、ということなのだろう。
俗にハレとケと言う。それで言うならば、雑貨店は「ハレ」を生み出す空間である。それに対して、ドラッグストアは、たんに「ケ」の空間なのではない。というのも「ケ」の下に、死や不浄といった「ケすらも解体された世界」があるはずだ。つまり「ケガレ」である。一説には、「ケが枯れている」のがケガレだとも言う。このより深いケ、ケガレを払うための道具が並んでいるのがドラッグストアなのだ。ケガレを払う空間として、ドラッグストアは雑貨店よりも、病院と同じ空間の匂いがする。そこは決して聖なる空間ではないが、しかし、スーパーマーケットのような、ケそのものの通常営業の空間でもない。ドラッグストアは、日常を解体してくるような瘴気といってよいもの=ケガレを払うための、カオスに抗するための空間なのである。部分的には、ドラッグストアとは、ケガレに抵抗するための拠点であり、ケガレを払うための道具が並んでいる、ケとケガレの境界なのだとも思われる。
同時に、ここから分かるのは、尊厳を生成するということは、カオスとしてのケガレに抵抗することであり、それはすなわち「自己」の輪郭の解体を堰き止めること、自己同一性を維持し続けることである。
しかし、だとすると、武田砂鉄が指摘し、私たちがみな頷くような、「ドラッグストアで買うものって、「今日買わなくてもいいもの」ばかりだ」という感覚は間違っているのだろうか。私たちがケガレに抵抗することは、非常に大切であり、必須の作業であるようにも思うのだ。
ここで、美学者の外山紀久子の分析が鍵になる。外山はこう言う。
掃除とはまさに、日常のさなかに自己解体へのベクトルが内在していることを認知しつつ、それを外部へ廃棄して不可視化・抑圧する営みである〔……〕。(外山 2012, 379)
私たちは、ケガレというものをみたくはない。それをみないためにケガレを払う。その払う道具がドラッグストアに集まっている。だが同時に、ケガレを払うということそれ自体もまた、私たちはみてみぬふりをしたいのではないだろうか。私自身、本稿を書いているときに、どのように掃除をしているのかを書こうとしながら、掃除する対象そのもの——カビ、ホコリ、虫の死体、食べかす——について想像し、言及することをためらわせる何かの力を感じた。それは、私自身が、こうしたケガレの対象そのものを認知したくないと感じているからなのではないか。
こう言うことができる。私たちはケガレを払うことを忘れたいのだ。私たちは、ケガレを払うことで尊厳を生成しようとしながらも、その尊厳生成作業をみないふりしたい。忘れたい。気づかずにいたい。私たちは、ケガレと向き合わずにケガレを払いたいのだ。それゆえ、私たちはドラッグストアを忘れようとするのではないか。私たちは、なるべくなら排水口にへばりついたヘドロのことを忘れて生きていたい。にもかかわらず、ドラッグストアでは、ケガレの対象そのものを思い出さざるを得なくなる。ケガレとの抵抗のさなかに生きていることを、思い出させられてしまう。それは強く不快な経験というわけではない。私たちはドラッグストアを恐れてはいない。だが、ドラッグストアに定期的に行きたいと願うことはない。そんなことをしたら、私たちはケガレについて思い出す機会が増えてしまう。
ドラッグストアは必要だ。そこに行かなければならない。だが、私たちはドラッグストアに行ってなおも、抗すべきケガレについて忘れようとしている。「今日買わなくていいもの」だと認識する。私たちは、ケガレに抵抗するための道具について忘れようとするのだ。
ドラッグストアで私たちが考えることの本質、それは私たちが忘れたいと思っていることに他ならない。ケガレ。それが、私たちがドラッグストアで忘れ続けようとする何かなのだ。次にあなたがドラッグストアを訪れた時、何を買い忘れるのだろうか。
参考文献
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武田砂鉄、二〇二六年『べつに怒ってない』筑摩書房。
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Besson, Anu M. 2025. “Home and beyond: Housework as aesthetic engagement with everyday environment.” European Journal of Cultural Studies 28(6): 1535-1550.
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