19世紀の『キル・ビルVol.1』
-
コミックマーケット108・探偵小説研究会機関誌《CRITICA》21号に、本書からの先行公開コンテンツ「おとぎ探偵の事件簿」全3話を掲載します。
8/15(土)有明・東京国際展示場(東京ビッグサイト)
南1ホール 南地区“s”ブロック―16a
探偵小説研究会シェイクスピアだけじゃなかった!
前回書いたように、1821年、郷土史家J・B・ブレイクウェイはシェイクスピアがラブコメ劇『から騒ぎ』(1599?)のなかで、「フォックスさん」というホラー話を仄めかした、と主張した。この話にはシェイクスピアが引用した(とされる)〈そんなことはない、そんなことはなかった〉というリフのほかにもうひとつ、〈勇気をもて、勇気をもて〉というリフが含まれていた。
28年後、シェイクスピア学者J・O・ハリウェルが、「フォックスさん」についてこうコメントしている。〈この話の一部に、読者はブリトマートの魔法の部屋を思い起こすだろう〉。
ん? ブリトマート? ……ってのはいったいなに?
キャラ名だ。シェイクスピアと並ぶエリザベス朝の大詩人エドマンド・スペンサーのファンタジー叙事詩『妖精の女王』第1部(1590)に出てくる女騎士。
同作はアーサー王物語のモティーフを援用しつつ、イタリア叙事詩譲りの華麗なワーディングに当時のイングランドの政治状況を反映させた派手な寓意文学(アレゴリー)で、エリザベス1世女王に捧げられた。さすがハリウェルはシェイクスピア学者、そこにも気づいたわけだ。ちなみに『から騒ぎ』は、『妖精の女王』が1596年に第6部で途絶して2、3年後の作品。
女騎士ブリトマートは、囚われの美女アモレットを救うため、悪の魔法使いビュシレインの豪華な館に踏みこむ。そこには、ギリシア・ローマの古典文学に出てくる王妃セメレを描いたタペストリーや、恋の神クピドの黄金像が飾られている。セメレもクピドも「見ちゃいけないものを見る」という話にかかわるキャラクターだから、これから先の危険を煽る演出なわけだ。
で、ブリトマートが振り向くと〈扉の上の方に「勇気をもて〔Be bold〕」と書いてある〉。つぎの間に足を踏み入れると、〈前と同じく「勇気をもて、勇気をもて」と書かれ、/いたるところに「勇気をもて」と記されている〉。〈その部屋の上手(かみて)の端に/もう一つの鉄の扉を見つけたが、その上には/「勇気に走るな〔Be not too bold〕」と記されていた〉。
ブリトマートはレイディ・メアリと同じように、敵城に単身乗りこんできたわけだ。フォックスさんの城に刻まれた警告文のリフレインが、ジェイコブズのおとぎ話選集(1890)よりきっかり300年前に、イングランドの詩人の作品に登場している……ということになると、シェイクスピアだけでなく、スペンサーも「フォックスさん」の話を知ってて引用したってことになるんだが、さて……。
ハリウェルからさらに13年後、スコットランドの著述家ロバート・チェンバーズの『日々の書 民間古俗雑纂』(The Book of Days : A Miscellany of Popular Antiquities)第1巻(1862)には、「フォックスさん」の項が設けられた。ブレイクウェイではなくハリウェルの名前のみが記され、以下のようにつづく。
〈シェイクスピアとスペンサーというふたりの書き手にとってこれが周知の事柄であったと分かるのは興味深いことである。そしてこの物語が、粗野で素朴なものではあれ、およそ3世紀のあいだ、いやそれ以上、存在しつづけてきたということがわかる〉。
でも前回書いたように、「フォックスさん」はグリムのメルヒェン集第2版所収のKHM40「どろぼうのお婿さん」(1819)にあまりにそっくりだ。さまざまな状況証拠が、前者が後者にふたつのリフレインを組みこんだ「細工物」であることを示している。
ブレイクウェイはなんらかの径路でKHM40の内容を知り、その中盤の場面とスペンサー作品の一場面との類似に気づき、シェイクスピアからの引用を挿入して「フォックスさん」という話を作り出した、と僕は考えている。
黙ってスペンサーを埋めこむ
レイディ・メアリを煽りながら警告する〈勇気をもて、勇気をもて、されど勇気に走るな〔Be Bold, Be Bold, But Not Too Bold〕〉というリフレインは、「どろぼうのお婿さん」第2版では、城に向かう主人公に鳥が、「ここは殺人者の城だから引き返せ」と警告する場面に相当する。
ブレイクウェイの本文では、門→階段口→回廊と同じ銘が繰り返し現れ、最後に小部屋の扉で〈さもなくば汝の胸の血も凍りつかん〔Lest That Your Heart’s Blood Should Run Cold〕〉が足される。これ、スペンサーのビュシレインの城で、ブリトマートが部屋から部屋へ進むたびにどの扉の上にも”Be bold”があり、最奥の鉄扉に”Be not too bold”がある、あの一室ずつの建築的進行そのものだ。つまりブレイクウェイが借りたのはフレーズ単体ではなく、スペンサーの空間構造だった。これはグリムにはないものだ。
ちなみに「どろぼうのお婿さん」は初版(1812)では、主人公は粉屋の娘ではなくプリンセスであり、求婚してくる殺人鬼は王子で、主人公が豆をまく記述はなく、「鳥の警告」がなく、樽の裏で見てる彼女の目の前で殺されるのはなんと彼女の祖母(!)だし、強盗団の老婆はいっしょに逃げない。
グリムでも初版と第2版でここまで違う話は珍しい。ブレイクウェイが読んだのが「鳥の警告」のない初版だったら、さすがのブレイクウェイもスペンサーの警告文を物語に挿入する発想は出てこなかったと思うのだ。
ちなみにブレイクウェイがグリム初版ではなく第2版を参照したと僕が考えている理由は、もうひとつある。初版ではなかった〈むかしむかし〉(Es war einmal)の語りだしが第2版に採用されていたのだ。ブレイクウェイの話も〈むかしむかし〉(Once upon a time)で始まっている(ジェイコブズ版は違う)。
さて、ブレイクウェイのなにがすごいかというと、ここで、
「『妖精の女王』にはこの話のべつのリフレインが埋めこまれている、シェイクスピアだけでなくスペンサーもこの話を知っていた。だからこの話はエリザベス朝で人口に膾炙していたのだ」
などとはひとことも書いてないことだ。僕なんかは、言ったほうが説得力が増しそうな気がするのになあ、と思ってしまうのだが、ブレイクウェイはスペンサーについては口を噤(つぐ)んだのだ。
ここからは僕の推測だが、ブレイクウェイは計算していた。シェイクスピア全集の註を読むような人なら、シェイクスピアの時代であるエリザベス朝文学全般の知識があって当然。このリフレインがスペンサーと共通のものであることは、だれか同業者が早晩気づくだろう、と。
読みは当たった。ブレイクウェイの死後、後世のシェイクスピア学者ハリウェルが、1849年にまんまと引っかかった。死せるブレイクウェイ生けるハリウェルを走らせ、これで「フォックスさんの話は16世紀末に流布していた」という知見が完成する。
そうだよね。ブレイクウェイが自分で言うよりも、このほうがより捏造感が少ない。なんなら、
「ブレイクウェイはシェイクスピアのことは知ってたけど、スペンサーは読んでなかったんだな」
くらいに思わせておいたほうが、それだけ「作為」の疑いが減る。
こちらのリフが『妖精の女王』だということに最初に気づいたのがハリウェルであるかどうかはわからない。もっと早くに気づいた人がいたかもしれない。
だれにせよ、気づいた瞬間は気持ちよかったと思うよ。「あの大発見をしたブレイクウェイ」ですら気づかなかった事実を俺も発見した!って気になっちゃうわけだから。
じっさいはエラリー・クィーンの小説みたいに、真犯人ブレイクウェイの計画のコマとして、まんまと操られてるだけなんだけど。
ブレイクウェイの洗練された手口
連載第7回で見たように、ジェイムズ・マクファーソンは存在しない作品をまるごとでっち上げた。古代ケルトの吟遊詩人オシアンの叙事詩という、原典のないものを「発見」と称して世に出したわけ。
いっぽうグリム兄弟が『子どもと家庭のメルヒェン集』初版第1巻の序文でやったのは、ちょうど逆の操作だった。ペローやバジーレやストラパローラという、作者も刊年もはっきりした実在の本を持ってきて、それに「これは民間口承の不完全な写しだ」という贋の出自ラベルを貼りつけた。捏造ではなく、再分類。本が現に存在するぶん、マクファーソンの贋作よりも息の長い嘘になった。いまでも多くの人が信じている。
ブレイクウェイがやったのは、このふたつの合わせ技だった。まず、マクファーソンのように、存在しない民話「フォックスさん」をでっち上げた。ただし全部作るのではなく、グリムからパクって。けれど彼の手口の洗練されているところは、その捏造を宙に浮かせなかった点にある。
ブレイクウェイは「フォックスさん」を、『から騒ぎ』と『妖精の女王』の内部に、楔のように埋めこんだ。正確には逆で、両作から印象的なフレーズを取って「フォックスさん」のなかに埋めこんだのだけど、その結果、両作品のなかにこの「民話」の反映が見いだせる、と読者に、しかもシェイクスピア研究者コミュニティに信じこませた。
グリムが1篇の物語全体、1冊の本全体をまるごと口承の写しへと再分類したのに対して、ブレイクウェイはふたつの古典からリフになるサムネイルを1片ずつ移植した。シェイクスピアとスペンサーというエリザベス朝2大文豪に、民話の存在を偽証させたのだ。
だからこそ彼は、スペンサーの”Be Bold”を実際に借りてこなければならなかった。亡霊に証言させるには、証人の口に本物の台詞を含ませておく必要があったから。グリムの嘘が「本が実在するからサステイナブル」だったとすれば、ブレイクウェイの嘘は「証人が文学史上の巨人だからサステイナブル」だった。
「フォックスさん」は『キル・ビルVol.1』
前回・今回とお読みいただいて、ブレイクウェイの〈大おば〉さんのこと、どう思いました? 僕はこれ、17世紀以降いろんな作家がレトリックとして使ってきた「幼いころ、暖炉のそばで乳母から聴いた」などの、「私の創作ではありません」と韜晦するためのギミックを、ブレイクウェイがちゃっかり悪用していると思う。
ちなみに米国議会図書館アメリカン・フォークライフ・センターの民俗学者スティーヴン・ウィニックは2019年に、この〈大おば〉が1715年生まれだということが複数の学者たちによって明らかにされていると述べたけれど、典拠がいっさい書かれていない。ウィニックはさらに、こんなことを書いている。
〈16世紀にこれらの句の一方だけが現れるなら、その句が話より先行すると考えるべきかもしれない。だが両方が現れることは、シェイクスピアの時代にこの話が「古い話」として語られていたことを強く示唆する〉
この推論の形を、確認しておこう。映画『キル・ビルVol.1』では、黄色いトラックスーツを着たウマ・サーマンと白い着物のルーシー・リューが、雪の日本庭園で決闘する。『死亡遊戯』ではブルース・リーが黄色いトラックスーツで戦う。『修羅雪姫』では梶芽衣子が白い着物を着て雪上で決闘する。
「片方だけなら、その物件が単独で先在していたと考える余地もあろう。しかし両方が別々の作品に現れる以上、1970年代の観客はすでに「黄色い装束の女が白い和服の女と雪の庭で戦う映画」を知っていたのであって、『死亡遊戯』と『修羅雪姫』はそれぞれ独立に『キル・ビルVol.1』を参照したのだ」
——と、ウィニックが大真面目に主張してるのはこういうことだ。民俗学者ってすげえ!
むろん真相は逆。ふたつの物件が一箇所に揃っているのは『キル・ビルVol.1』(2003)だけ。タランティーノは『死亡遊戯』(1978)からも『修羅雪姫』(1973)からも引いたことを隠していない。先行する2本のあいだになにか関係があるように見えるのは、両方を一箇所に集めた後発の作品を、こちらが先に観てしまっているからにすぎない。
ウィニックの「両方が現れる」の「両方」も、16世紀に存在した組み合わせではない。1821年にタランティーノ……じゃなかった、ブレイクウェイが作った組み合わせだ。
〈勇気をもて〉と〈そんなことはない〉をひとつの物語の別々の部分として読ませているのは、「フォックスさん」という物語のほうだ。ウィニックの論証では、証拠が結論を支えているのではなく、結論が証拠同士を結びつけている。
ここで問題にしているのは筋でも主題でもない。復讐譚という型の話なら世界中にいくらでもあるし、それではなにも言えない。問題にしているのは、筋から切り離して持ち運べる表層の物件——特定の色の衣裳、特定の場面の絵柄——の話だ。だからこそ、どこから来たかをブツとして追跡できる。
シェイクスピア学者って……
第3ヴァリオラム版の編者ボズウェルJr.はベネディックの〈あの古い話〉について、〈ここに言及されている古い話は、非常に幸運にもブレイクウェイ氏が発掘した。おそらくこれまでシェイクスピアについてあらわれた最も優れた説明のひとつである〉と絶讃していた。ブレイクウェイの「謎解き」の知見は、ハリウェル以後現在まで、フォークロアの文脈で引き継がれた。
いっぽうシェイクスピア学では、『レ・ミゼラブル』の作者の息子フランソワ=ヴィクトル・ユゴーが『から騒ぎ』仏訳(1868)の註で「この不気味な話、フランス人なら「青ひげ」を想起するよね?」と紹介した。
21世紀の新しいアカデミックなシェイクスピア版本、たとえばクレア・マキーチャーン編のアーデン版『から騒ぎ』(2016)でも、文庫版で読める最新の日本語訳である喜志哲雄訳(岩波文庫)でも、ベネディックが(つまりシェイクスピアが)「フォックスさん」を仄めかしている、としっかり註がつき、文庫版で読める二番目に新しい河合祥一郎訳(角川文庫)では、この註に基づいて、〈あの古い話みたいに〉を〈昔話に出てくる、悪事がばれた男みたいに〉と補って訳しているのだ。
念のため言っておくと、僕はアーデン版の編者や、喜志訳・河合訳を責めているのではない。彼らは校訂と翻訳の作法どおり、伝統的な註を誠実に継承しているだけだ。問題は個々の人ではなく、その伝統的な註そのものにある。
ボズウェルJr.が〈最も優れた説明のひとつ〉と絶讃して以来、2世紀ものあいだ、誰もこのブレイクウェイの「謎解き」を疑わずに刷り続けてきた。ハリウェルが、チェンバーズが、ユゴーの息子が、ジェイコブズが、シドニー・ハートランド(1890)が、そして21世紀のアーデン版が。
どうやらシェイクスピア学者というのが、こういう傾向を持っているらしい。シャーロット・アーティーズ(Arteseはイタリア系っぽく感じるが、どう発音するのかわからないので仮にこうしとく)の『シェイクスピアにおける民話系材源』(2015)に『シンベリン』の章がある。ATU 709「白雪姫」話型とATU 882「妻の貞節を賭ける」話型を典拠としてあつかい、シンベリンを「白雪姫」の「現存最古の文学的ヴァージョン」と位置づけた。
2019年にはプリンストン大学出版局からアンソロジー『シェイクスピアと民話』が出て、この見かたはいま「シェイクスピアと民話」という小分野の標準になっていると聞いた。
この本の書評で「シェイクスピアの典拠探索者たちは口承伝統を無視して、より古い印刷物ばかりを霊感源として探してきた」と、従来の沙翁研究への苦言を書いてあったのが白眉だ。元ネタ探しで印刷物ばかり相手にしてるのが欠陥だというのだ。
書評の芯となる文がふたつある。ひとつは自己紹介。〈最初の鍬入れは、はるかむかし1960年代初頭、インディアナ大学の民俗学博士論文で、ある青二才(私)がやったのだ。シェイクスピア学者たちは、同名の民話(AT901)がこの戯曲〔『じゃじゃ馬ならし』〕の典拠だという私の主張を受け入れた〉。
もうひとつが例の苦情。〈数十年の沈黙の一因は、シェイクスピアの典拠探索者たちが口承伝統をほぼ無視し、より古い印刷物だけを霊感源として探してきたことにある〉。前者が制度的連続性を、後者が価値の顚倒を、本人の声で証言してくれる。
なにが白眉って、この評者が都市伝説研究のパイオニア、ヤン・ハロルド・ブルンヴァンってとこですよ!
この連載にとって、この人選は皮肉として一級品だ。この人は『消えるヒッチハイカー』(東京創元社)で知られる都市伝説研究家。「友だちの友だち」(FOAF)の語りが実際には新聞・映画・メディアを媒介して増殖するさまを、だれよりも精密に検証してみせた当の大家が、1610年の戯曲については「口承伝統こそが霊感源、印刷物探しは視野狭窄」の側に立つ。
口コミ伝播ですらメディア駆動だと示したブルンヴァンの方法意識が、初期近代に向かうと、自分で都市伝説を生んでしまう。ゾンビ理論は敵陣にいるのではなく、最良の民俗学者のなかで局所的に起動する。19世紀から21世紀まで、都市伝説「シェイクスピアはおとぎ話を知っていた」の連鎖は、これで3世紀分の実名が揃ったことになる。
アーティーズの「現存最古の文学的ヴァージョン」という定式には、「話型」概念のオントロジーが剥き出しになっている。グリム(1812)の文面から定義された登録項目が実体で、1610年の戯曲がその「1ヴァージョン」になる。時間が逆向きに流れている。
おまけの怪談
最後にもうひとつ、ブレイクウェイの怖さについて書こう。
ブレイクウェイが物語中のリフにBoldとColdで韻を踏んだヴァース〈さもなくば汝の胸の血も凍りつかん〔Lest That Your Heart’s Blood Should Run Cold〕〉を加えたのは先述のとおり。彼はそのうえで、この話は〈私が子どものころ何度も「若い血を凍りつかせた」〔”froze my young blood”〕話だ〉とコメントしている(下線強調は原文イタリック)。
「若い血を凍りつかせる」。これ絶対、『ハムレット』第1幕第5場の〈お前の魂をかき乱し、若い血を凍りつかせるだろう〉(Would harrow vp thy soule, freeze thy yong blood)を踏まえてるでしょ?
え? 考えすぎだって?
でもさ、この第3ヴァリオラム版第7巻の収録作、『から騒ぎ』と、あともう1作あってね。それがね……
『ハムレット』なんだ。
次回は、この都市伝説「シェイクスピアはおとぎ話を知っていた」が日本でもしっかり輸入されている事例を見ていく。
(つづく)